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渦心に潜む胎動

 峠の稜線を撫でる風が、煤の匂いを孕んだ長春ちょうしゅん色の黎明を鋭く切り裂く。坂を登り詰めた軍馬が、湯気のような白息をひとつ吐く。

 熱を帯びた鉄輪の焦げ匂いが、刹那、氷気へと溶けた。残照の闇へ蹄音が静まりゆくと同時に、焦土に張り付いていた緊張の弦が、かすかに弛む――ほんの紙幅ほど。


 遥かな谷底、旧首都を覆う空。そこには淡い虹彩を纏った巨大な〈結晶雲〉が、朝の光を孕みながら無音に浮かんでいる。


《TIME : T-28h00m(前日 5:00)──一次爆縮

 T-00h18m(18 分前)──カウント停止

 T-00h00m(現 在)》


 臨界点を超えたまま凝固し、二次爆縮へ遷移し得ぬ膨大なエネルギー――それこそが、この盆地に置き去られた“絶望の心臓”だ。


「……やっと、二人きりになれたわね」


 わたしは外套を合わせて冷風を遮り、傍らの騎士へ小さく声を落とす。

 ヴォルフは浅く吐息をこぼし、無骨な肩をほんの少しだけ竦めた。


「まあそのほうが――いろいろと都合がいい」


 唇の端がわずかに上がるが、その微笑はすぐ鋼へ戻る。

 砕けた車輪を跨ぎ、黒砂の斜面を数歩。盆地を一望できる岩棚の縁に立つと、足元からせり上がる冷気が外套の裾を寂しげに揺らし、谷底の渦心が遠雷めいて低く呻くのが聞こえた。


「――さて、と。作戦会議を始めましょうか。ここからは、わたしたち二人だけの領域。〈巫女と騎士システム〉を起動すれば、思考も情報も共有できるし、話は早いはず」


 ヴォルフは一度だけ、静かに首肯した。けれど口許には、鉄粉のような苦味がかすかに滲む。


「その……専門用語とやらは、できればなるべく噛み砕いてくれると助かる。数字が並ぶと、どうもな」


「ふふ、大丈夫。レシュトルは言葉の変換も得意だから。比喩と例えはわたしの領分だけれど、彼女もずいぶん鍛えてあげたもの。――ね?」


 合図めいて、胸に佩いた聖剣〈マウザーグレイル〉の鍔が、わずかに震えた。乾いた水音に似た金属の共鳴が、視覚中枢をかすめる電流となって走り抜ける。


《……善処します》


 澄んだ音声は氷柱の如く冷静だが、その奥に微かな体温を宿している。わたしはひそかに息を整え、気息ごと胸奥に意識を沈めた。


「では、始めるわ。――我が器に集え、精霊子ちからよ」


 脈打つ呪文とともに、胸奥でばら色の霧がふわりと揺れ──瞬く光子が空間のたていとを縫い始める。耳殻の裏で氷片が割れるようなパキパキという音。息が止まる。虚空に咲いた水晶片が星雲めいて展開していく。


 実際に霧が立ち昇ったわけではない。精霊子が“器”たるわたしへ奔流のごとく流入する触覚――その抽象的な感覚を、レシュトルがホログラムへ翻訳・可視化しているだけだ。

 それでも、視界いっぱいに煌めく多面体は、夜明けの空気にひそむ魔素をも切子に変え、世界の輪郭を淡い血色で縁取っていく。


 開かれた回路が、わたしとヴォルフを結ぶ光橋となり、脳髄の奥で二重の呼吸が重なった。沈みかけていた夜の気配が、今度こそ本当に後退していく――わたしたち二人だけの、静謐で熾烈な戦域が、ここに確立される。


《精霊子量、既定値を突破。〈巫女と騎士システム〉、可動領域に到達――起動。センサーフュージョンを開始》


 淡紅のパルスが網膜の下で花開き、精霊子残量の目盛りが一気に上限へ跳ね上がる。脳幹の奥に金属を舐めたときのような、微かに鉄錆を帯びた味覚が滲み、神経束が高負荷に軋む気配を告げた。

 同時に、光で編まれた環がヴォルフとの間へ滑り込み、ふたりの意識を細い橋のように繫いでいく。刹那、指先にぱちりと静電気が弾けた。


《SYNC RATE : 98.44 % ――臨界安定域 95 % 以上を維持。

 情報共有プロトコル〈Z-Φ〉を展開――双方向〈思考バス〉確立》


 肩甲骨の下で、心臓が一度、大きく跳ねた。視界の隅で、ヴォルフの肩鎧が、共鳴するように微かに震えたのが見えた。レシュトルの声は絹を這う水滴のように柔らかく、同時に刃金のごとく明晰だった。

 同じ重畳ホログラムがヴォルフの視界にも映ったらしい。彼は氷面を削るような視線で浮遊する数値の列を一瞥し、まぶたをわずかに細める。


「……毎度ながら、趣味の悪い演出だな。もう少し、こう……地味にはできんのか」


 低く漏れた感想に、わたしは肩をすくめて苦笑する。


「それだと逆に時間がかかるの。感覚の共有は“速さ”が命。これは演出じゃなくて、処理の可視化なのよ」


《ご要望があれば、“花吹雪モード”や“初夏のそよ風モード”も――》


「いらないわ! わたしたちは今、戦時下なの!」


 声を跳ね返した瞬間、ヴォルフの口元にわずかな笑みが灯る。けれどその蒼灰の瞳は冗談を許さず、鋼の奥で光を凝らしていた。

 対照的に、わたしの思考野では最初の警鐘が、暗い渦を巻く。

 リンクが完成した今、誤魔化しも後退も許されない。本題は、ここからだ。


「……では、状況を再確認するわ。今回の〈虚無のゆりかご〉は、現在一次爆縮後の“カウント”が停止したまま、次の兆候は何も見られない」


 ヴォルフの濃い眉が、岩陰の霜を割るように寄せ合わさる。風が軍装の銀鎖を微かに鳴らし、険しい輪郭をさらに硬く縁取った。


「つまり、通常とは異なる『停滞』をきたしている、ということか」


「ええ。――レシュトル」


 呼びかけと同時、わたしたちの視界へ淡青のウィンドウが滑り込み、冷光を帯びた行列を映し出す。


《STATUS : 臨界判定カウント停止中。

 サブトリガー入力待機――外部物理刺激の介入確率・高》


 わたしは乾いた唇を噛む。


 胸奥で燻り続けていた黒い疑念が、今まさに形を得て、凍てついた輪郭を帯びつつある。


「……あのね、ヴォルフ。わたし、いろいろと考えたのだけど、これはただの“停滞”ではないような気がするの」


「なんだと?」


「今回の現象は、意図的に作られたもの。――つまり、罠の可能性が高い」


 その瞬間、ヴォルフの肩甲がわずかに軋み、背中の筋肉が弓なりに強張るのが、思考リンク越しに伝わった。喉奥に籠る重石のような沈黙――けれど彼は言葉を挟まず、蒼灰の眼だけで続きを促す。


 凍土を切り裂く刃のように、わたしは論を重ねる準備を整えた。今こそ、仮説という名の冷たい剣を抜くときだ。


◇◇◇


 静寂が、ふたたび高見台を鎧う。

 わたしのひそやかな断言を受け、ヴォルフは胸の前で組んでいた腕をほどいた。鎧の革紐が軋み、陽を帯びた鋼が淡く瞬く。


「……ハムロ渓谷のように、ただ間が空くだけなら分かる。だが、これは明らかに違う。

 なんというかな、こう肌にピリピリ来るんだ。まるで、剣を構えてこちらの出方を窺っているような。実に……回りくどい。俺の苦手とするタイプだ」


 吐く息に僅かな霜が滲み、蒼い瞳が眼下の虹霞こうかの奥を計るように細められる。


「そう、回りくどいの。だからこそ、その背後に大きな意図を感じる。……思い出して、半年以上前――北方の雪原で起きた出来事を」


 言葉を選ぶわたしの脳裏に、氷塵が舞う曇天と、焼けるように冷たい風が蘇る。すべての発端となった、あの凍てつく戦場の記憶だ。 


「――アルバート公国と国境を接するモンヴェール男爵領。わたしたちが〈巫女と騎士システム〉を初めて本格稼働させた、あの日よ」


 ヴォルフの視線が鋭さを増し、刃を研ぐように静かに息が整えられる。彼の思考もまた、血の匂いを帯びた雪原へと滑り降りていったのだろう。


「覚えているさ……。

 越境してきたアルバート軍二千を相手に、たった二人で立ち向かったというのも、今思えばおかしな話だが」


「ええ。制圧戦そのものは、あまりにも一方的だったわね。

  なのに――勝利の直後、地平線の向こうから“あれ”が姿を現した。あまりにも唐突に、まるでこちらのシステム起動を“見ていた”かのように」


「おい、まさか……“覗き見”されていたとでも言うのか?」


 初めて純粋な驚愕の色が、ヴォルフの声に混ざる。彼の小さな動揺がリンクを通じて波紋のように胸へ伝わり、わたしは無言で肯定の頷きを返した。凍てついた記憶が、再び現在へと結びつき、足元の霜を軋ませる。


 ヴォルフとわたしを繫ぐ〈Z-Φ〉の思考バスが、深い水底のように静まる。

その沈黙を破らぬよう、わたしは息を整え、虹霞の微光を手綱にするつもりで言葉を紡いだ。


「その可能性は十分あるわ。〈巫女と騎士システム〉が起動することで、何らかの痕跡を次元的な座標へ投射するのだとしたら。それを感知して逆探知――この場所へと、意図的に“現象”を誘導することもできるはず」


 声に重ねた推論が乾いた空を渡る。灰混じりの風は一拍だけうねり、岩棚の影に光を跳ね返した。


「……俺には、難しすぎて理屈がよくわからん」


 ヴォルフの答えは短い。けれど、唇を噛む癖が出た――彼の中で警戒と好奇がせめぎ合う証だ。


「ようするに、この世界とは異なる別の世界から、ほんのちいさな針穴ほどの隙間を開けてこちらを覗き見していた、といったらいいかしら。ほら、〈虚無のゆりかご〉は『異界』から訪れると、言い伝えられているでしょう?」


「ああ、学説ではそうだったな」


 肯定の一語と同時に、鎧の肩鋲が淡い陽を掠める。

 彼の蒼い瞳は虹霞に釘づけのまま、わたしの言葉を呑み下そうとするように微かに揺れた。


「だって、何も無いところに急に爆発が起きて、底なしの穴が開くなんて、常識で考えてもおかしいじゃない」


「たしかにな」


 短い同意には、鋼の重みと、拭えぬ違和感が同居している。

 わたしは続けた。思考を加速させるたび、胸奥で精霊子が淡く脈打つ。


「そして、その穴を通じて、わたしの頭にあのメッセージが送り込まれた」


「あの――“デルワーズ許すまじ”、か。……明らかに、意思を持った存在というわけだな」


 ヴォルフの低い声に、虹霞の彩がわずかに揺らぎ、彼の瞳も同じ色を映す。

 揺れは小さいが確かだった――“デルワーズ”という名が、彼にとっても容易ならざる重さを伴うことをわたしは知っている。


 始祖デルワーズ。その名に塗された血と涙――彼は断片ながらも、その物語をわたしの傍で見つめ続けてくれた。

 わたしは胸にかかった外套を握り、静かにうなずく。


「ええ。あれは明らかに“わたし”を名指しした呪詛だった。

 ……遥かな昔、古代の超文明が“兵器”として生み出したデルワーズという少女。その血を色濃く受け継いだリーディスの黒髪の巫女。それに対する、明確な敵意。あの言葉をただの“偶然”とは解釈できないわ。

 ただ、どうして彼女をそこまで恨んでいるのか、その理由までは……レシュトルは何も教えてくれないのだけど……」


 告白めいた小声が空気に溶けるや否や、ホログラムの余白に冷白の文字がすっと滲み出る。

 レシュトルの声色は揺らがず、澄んだ刃で空気を裁つ。


《創造主によって、禁則事項に指定されています》


「理由は?」


《理由につきましても同様です》


「その情報を開示すれば、世界の価値観が根底から覆されてしまう、とでも言いたいわけ?」


《お答えできません》


 冷白のフォントが淡く瞬き、すぐにフェードアウトする。剣の精霊は沈黙を選び、あたりには風の擦過音だけが残った。わたしは舌の裏に鉄の味を覚えつつ、肩口の外套を握り直す。


「……と、こういう具合よ。

 禁書庫で拾った“古代の記憶”についても、何度か突っついてみたんだけど――全部、知らぬ存ぜぬなの」


 苦笑まじりの告白。けれど、その言葉を継ぐ一瞬、自分の息が喉の奥で僅かに詰まったのを、わたしだけが知っていた。

 ヴォルフが片眉をわずかに上げる。薄曇りの朝光が鎧の稜線を撫で、冷えた金属が淡く返照した。


「この剣の精霊様は、なかなかに口が固いとみえる」


 そのひと言が落ちた途端、峠を渡る風が一拍だけ息を潜め、次の瞬間ざわりと灰土を巻き上げる。

 砂粒がマントに細かな傷を書き、遠くの盆地からは鈍い地鳴りが低く腹を打った。ヴォルフが肩越しに振り返り、瘴霧の底で蠢く硝子雲を一瞥する。


「話を戻すが、今回のこれも、“覗き見”されているかもしれない。お前はそう考えているんだな?」


「ええ。わたしたちの存在そのものが、敵の“検出装置”を刺激したのだとしたら、これはもはやただの自然現象じゃない。むしろ――周到な挑発でしょうね。

 王都にまで届いた異常ともいえる魔素の拡散は、おびき寄せるための呼び水。第一次爆縮は、わたしたちへの本格的な宣戦布告。といったところかしら」


 颯と身を切る気流が頬を撫でる。その刹那、視界の周縁で燐光が細い糸を引き、桜暈さくらがすみを思わせるホログラムの輪郭が咲いた。

 自動展開されたラインアークは薄氷の結晶を思わせる輝きを帯び、脈動するインジケータが撫子色なでしこいろの脈を刻む。レシュトルの声――絹より繊細で、しかし刃の芯を抱いた音色――が静かに脳裏へ染み入った。


《HYPOTHESIS:照合……過去記録11件中、挑発型パターンとの構造一致、8件。整合率70.12%》


 半透明のグラフは山脈のような稜線を描き、罠を示す赤いピークが鮮やかに突き出している。数字の冷たさが皮膚を刺し、ヴォルフの喉から低い唸りが漏れた。


「……七割か。笑えんな」


 その視線が、一瞬だけ厳しい光の列を離れ、わたくしの頬のあたりを確かめるように、静かに揺れた。


「ええ、笑えないわ。でも、これが事実よ」


 わたしは再び盆地へと目を遣る。焼け野の表面では熱の綻びが陽炎を生み、黒褐の地表がわずかに呼吸している。そこ――硝子雲の真下――に、第二次爆縮の未然の起爆点が、静かに、しかし確かに潜んでいる。


「敵の狙いは明らかよ。わたしたちを、あの渦の中心へと“踏み込ませる”こと。そう見ていいでしょう」


「だが、それなら何故、即座に爆縮を再開しなかった?」


「おそらく、それには“条件”があるのだと思う。わたしたち自身の接近、もしくは〈巫女と騎士システム〉の臨界安定状態。逆に言えば、今はまだ“扉”は開かれていない」


「……まさに、“扉”だな」


「ええ。開けた上で“いらっしゃい”と手招きするのではなく、わたしたち自らが開けるよう設計された扉。誘い水としての罠。

 そして――それに無理やり応じさせるための、絶対的な条件がある」


 そこまで告げて、思わず息を飲む。言葉に出すだけで胸郭が冷え、肋骨の内側に薄氷が張る感覚。山上の風は怯えを察したかのように鋭さを増し、外套の裾を鞭のように打った。


「――つまりは、“人質”よ」


 その一語が霜柱を打つ鎚のように空気を砕き、ヴォルフの表情が瞬時に能面へ変わる。


「じゃあ、生存者たちは……俺たちをおびき寄せるための餌だというのか」


 吐き出された低音は岩盤を擦る鎧鋼の響き。わたしは頷き、指先で盆地を指した。


「首都地下坑道に張り巡らされた避難壕――市民の多くが逃げ込んだ、通称“聖堂”。

 もし敵が“カウント再開”をわたしたちの行動に連動させているのなら、民間人が存在する限り、わたしたちの“踏み込み”は、そのまま引き金になる」


 ヴォルフは唇を引き結んだまま沈黙し、革籠手に包まれた拳をわずかに震わせた。甲冑の継ぎ目から圧搾された息が零れ、白く曇る。


《STRATEGY EVAL ▶︎ 敵が人質カードを行動制御に用いる確率:82.6 %》


 冷光の文字列が浮かび、その無慈悲な数値が空気を凍らせる。ヴォルフは視線を伏せ、悔いを噛むように肩をわずかに落とした。


「……そういうことか。畜生め」


 声は煤けた鎖帷子の擦過音のごとく低く、荒い。焦土を攫う風がその呟きを攫い、灰を巻き上げた。


「この盆地全体が、わたしたちを招くための巨大な装置――ええ、まさに罠なのよ」


 わたしは、灰色の空へとそっと目を細めた。

 硝子雲の脈動が、まるで無音の心臓のように明滅を繰り返している。雲間から差し込む光は剃刀のように鋭く、焼け野に斑模様の影を刻み込んでゆく。


「それを狙ってやってる奴が、魔族ってわけか? なんて卑劣な奴だ。 

 ……レシュトル、その魔族ってやつの正体について教えろ。どこからやって来る? 目的はなんだ? いや、こんな巧妙なものを送りつける敵の“大元”が必ずいるはずだ。そいつは何者だ?」


 その問いは、焔の芯に突き刺すような低い音で発せられた。地の底から滲み出すような、静かで、だが決して逃れられない響き。

 わたしの背筋がひやりと強ばる。それはただの憶測などではない――騎士として戦場を渡り歩いてきた彼の、確かな“直観”の呼び声だった。


 デルワーズを憎み、その血に連なる黒髪の巫女を標的とし、この世界へ侵蝕するように仕掛けられる呪詛。それが、単なる魔族という曖昧な枠に収まらぬ“存在”によって差し向けられているのだとしたら。


 そう、思い出さずにはいられなかった。


 未来で、ラウールが託してくれた封書の中に綴られていた恐るべき野望の胎動。

 クロセスバーナの復活、バルファ正教の異様な執着。彼らが血の代価をもって求めめていたのは、かつて滅びたはずの“神代の技術”。


 〈虚無のゆりかご〉を意図的に創り出す秘術。

 精霊魔術における禁忌中の禁忌――《無の残響》。

 そして彼らが信仰し、復活を願うとされる、遥か古代の「システム・バルファ」。


 その中枢に座していたのは、かつてこの世界全土を支配していた中核制御意識体――ラオロ・バロガス。


 古代に栄えた統一管理社会。

 理想社会の実現――耳にすれば響きは甘美だが、わたしが垣間見た記憶は、その語が抱く光から最も遠い闇に属していた。そこに在ったのは“裁き”などではない。“粛清”だ。魂の有無すら頓着せず、ただ原理だけが世界を支配する無機の王国。

 愛も、ゆるしも、記憶も、命でさえも──あの支配体系にとって、すべてが管理の対象――社会を構成する部品に過ぎず、ノイズは徹底的に削除される。


 だからこそ、デルワーズはわずかひと粒の心を胸に、あの戦いへ身を投じたのだ。

“人として在る”というただその一点を守るために。愛する夫を、そして愛しい娘が微笑む未来を、この手に掴み取るために。


 だから、いまのこの世界がある。

 確かに文明は崩壊し、衰退したかもしれない。でも人々は生きている。“ちゃんと”人として……。


 ……そして今なお、耳の奥底で燻り続ける、あの呪詛の残響。

 あれが、名もなき魔族の断末魔などではなく──

 ラオロ・バルガス本人が送りつけた、氷の刃のような“挑発”そのものなのだとしたら。


 いま盆地上空に凭れる“渦”こそが、彼の無機質な瞳孔を通した覗き窓。そこから注がれる視線は、世界の輪郭を無遠慮に計測し、価値を秤に掛け、使えるものは使い、不要と判断したものを――切り捨てる。


 ならば、この不可解な静止現象の背後で脈打っているのは、かつて滅び去ったはずの“秩序の神”の意志。 

 わたしたちが相対しているのは、単なる災厄でも、魔獣の侵攻でもない。世界そのものを規格化しようとする、冷徹な設計思想の再起動──

 その無慈悲な開戦布告が、いま、わたしの鼓膜の奥で脈打っている。


「……考えすぎかもしれないけれど」


 喉の奥でかすれそうになる声を、わたしは意識して整えた。言葉が重さを持つ今だからこそ、軽々しく零してはならない。

 だからこそ、丁寧に、慎重に、一語ずつを選んで。


「この虚無のゆりかごという現象には――とても根深く、とても古い……わたしたちの理解を超越した、“異なる原理”が動いているような気がするわ。

 レシュトル、あなたはどう考えているの?」


 ヴォルフは何も答えなかった。

 けれど、その沈黙が拒絶ではないことを、わたしは知っていた。彼のまなざしは深く、静かにわたしの思考の先を照らしてくれている。

 いかなる無謀も、そこに「意味」を見出そうとする視線。それは、黙してなお支える騎士の“肯定”だった。


 そして次の瞬間、レシュトルが瞬きもせず応じた。

 視界に流れたその光の銘文は、いつもどおり淡々としていて――だからこそ、なおさら冷たい決定を刻んでいた。


《……質問にはお答えできません》


 あまりにも短く、あまりにも意味深な一行だった。

視界の奥に走ったそれは、白紙に刻まれた警句のように、ただ冷たく、ただ無機質に浮かんでいる。

背骨を氷塊で挟まれたような鋭い冷気が胸の奥を突き抜け、思わず肺に吸い込んだ息が、かすかに軋んで痛んだ。


「ルールはあくまで絶対遵守。機械であるあなたに、原則を曲げろと期待しても無駄ということね……。

 もういいわ。では、魔族について、開示できる情報をまとめてちょうだい」


 わたしの声音は静かだったが、内心では思考の綾が細く捩れていた。

 禁則という言葉が示すのは、単なる非公開ではない。――そこに、触れてはならぬ理由がある。その理由すら開示されないということは、存在そのものが、この世界の“理”を揺るがすほどの深淵に触れているということ。


《「魔族」とは、生物学的な意味での「種族」ではありません。

 その正体は、〈虚無のゆりかご〉から溢れ出した、極めて高濃度の魔素が、人や精霊などの「知的生命体」の形態を模倣し、疑似的な知性を宿したエネルギー凝集体――。

 それが、魔族の定義です。それゆえに、魔族は極めて高い知性を有しています》


 淡々としたレシュトルの説明が、脳の奥に水滴のように沁み渡っていく。

 けれど、それは決して穏やかな水ではなかった。

 光のない湖底に沈む毒素のように、確かにわたしの中で、何かを汚し、染めていった。


「北方で対峙したあの魔族もまた、言葉を完全に理解し、不敵な笑みさえ浮かべていた。そして、挑発にも乗った。つまり――思考も感情もある、ということね」


《彼らは単に音声を模倣しているのではなく、すなわち人間の感情や思考の機微さえも、高いレベルで解読している可能性があります》


 静謐な声が、どこまでも精密に、わたしの推測に輪郭を与える。


 わたしは、思わず喉元で息を詰めた。

 霧の中に佇むような感覚――何かが、すぐそばにある。だがまだ、形を持って現れない。


 そして、思い至る。


「……つまり、魔族は、破壊の本能だけに衝き動かされる魔獣とは異なり、経験から学習し、進化するポテンシャルがある。そして、狡猾さすらも身につけている。そういうことなの?」


《はい。魔族大戦で現れた六体、そして、北方の一体――これらの戦闘データを解析し、次の個体が、その戦術をアップデートしている恐れがあります》


 言葉が、刃のように鋭く、けれど氷のように冷ややかにわたしたちの間を通り抜けた。


 静寂が落ちる。


 わたしとヴォルフは、ただ、言葉もなく、互いの顔を見つめ合うことしかできなかった。

 それは確認でもなければ、慰めでもない。ただ、同じ恐れを共有した者にしかできない、眼差しの交差だった。


  魔族――その存在は、もはや“獣”などという曖昧な定義の範疇には収まらない。

 わたしたちを知り、学び、次へと備え、確実に仕留めようとする。悪意に似て、悪意以上に合理的で、そして決して感情を持たぬ、学習する殺意。


 それは、“敵”などという甘い呼び名さえ、相応しくない。

 それは、“滅びを設計する知性”だった。


◇◇◇


「……下手に俺たちが踏み込めば、即、爆発ドカン。つまり、手詰まりということか」


 ヴォルフの声は、焦げついた地面よりなお低く、鋼に滲むような疲労と怒りを孕んでいた。

 革手袋に包まれた拳が、ごつり、と岩棚の縁を叩く。その衝撃に、古い灰がぱらぱらと崩れ、乾いた砂粒のように靴先をかすめて落ちてゆく。


 力のやり場を失った男のその仕草は、感情よりも本能に近い。

 ただ、胸に染みついた義務感と無念が結びついた末に、どうしようもなく行き場をなくした怒りだけが、淡く、しかし確かな形で伝わってきた。


 わたしはひとつだけ、深く息を吸った。


「いいえ。……手は、まだあるはず。レシュトル、何か打開策はないの?」


 祈るように、しかし怯まぬ声音で問いかける。

 その呼びかけに、レシュトルは即座に応じた。冷たい光の帯が空気を切り裂くように現れ、整然と並ぶ文字が静かに流れる。


《PLAN-A:高エネルギー反応を確認後、即座にIVGフィールド(絶対防御障壁)で二次爆縮のエネルギーを受け止めて量子変換。エネルギーストアを経由して跳ね返します》


 その文言は、簡潔にして完璧に見えた。

 けれど、あまりにも「理想的すぎる」提案には、決まって“罠”が潜む。


 胸の奥に灯ったかすかな違和感が、瞬時に警鐘へと変わる。

 わたしは、唇の端をきゅっと引き結び、思考を一点に絞り込んだ。


「……待って。IVGフィールドの最大展開時間は三百秒。もし敵がそのことを見越して、二次爆縮のエネルギー放出を意図的に三百秒以上に引き延ばしてきたら、どうなるの?」


 わたしの問いかけは、刃のように鋭く、しかし震えていた。

 ヴォルフがその瞬間、はっとしたように顔を上げる。直感が、同じ危機に到達したのだろう。


 レシュトルのホログラムがすぐに応答を返す。

 その光はわずかに揺れながら、決して感情を帯びることなく、淡々と告げた。


《WARNING:その場合、IVGフィールドは限界時間を超え、強制解除。

 抑制されていたエネルギーは方向性を失ったまま無秩序に解放され、ハロエズ盆地は高濃度の魔素によって汚染されます。

 さらに、形成されるであろう魔獣の巣窟からは、活性度の極めて高い魔獣が大量に溢れ出す可能性が、九割超。

 その上で、もし新たな魔族が出現した場合、継戦能力の低い〈巫女と騎士システム〉では、対処は極めて困難です》


 提示されたシナリオは、あまりにも整然としていた。

 その整いすぎた「敗北の手順」は、むしろ計算された“地獄への演算”にさえ見える。あらゆる道筋が、わたしたちの疲弊と敗北を導くために選ばれているかのように。


 その言葉が脳裏に染み渡った――ちょうどその刹那。

 腹の奥で、ぽん、とごく微かな脈動が跳ねた気がした。

 まだ感じられるはずのない胎動。それを理性は即座に「錯覚だ」と断じた。

 高密度情報体である精霊子が、お腹の命に触れて誤報を走らせただけ――そう説明できるのに、それでも、かすかな気配だけは確かに「ここにいる」と囁きつづける。

 伸びかけた掌を、わたしは咄嗟に握り込む。戦場に甘えは許されない――そう言い聞かせ、膝上で震える指を、ひそかに押し鎮めた。


「……つまりプランAは、敵がこちらの切り札を完全に把握している場合、わたしたちを消耗させるためだけの、最悪の“罠”になるということね」


 言葉にすればするほど、冷たくなる指先があった。

 そしてそれと反比例するように、わたしの胸の奥――その小さな命の在り処が、守るべきものの重さを告げて、熱く、熱く脈を打っていた。


「……どこまでも、回りくどいことを考えつくものだな」


 ヴォルフの声は低く、重く、言葉の芯がひび割れているようだった。

 それは怒りでも嘆きでもない。ただ、限界ぎりぎりまで張り詰めた者だけが発することを許される、魂の摩耗の音。

 わたしは彼を見つめながら、ほんの刹那だけ視線を落とした。迷いが、心の底で細く震えていた。


――でも、それでも、選ばなきゃいけない。


 唇をきゅっと引き結ぶ。

 そして、意を決して、わたしは次なる、そして最後の問いを口にした。


「……レシュトル。別のプランはないの?

 要は敵の起爆スイッチをこちらから押しに行って、出来たてのコアを一息で葬り去る。これが一番手っ取り早いんじゃないかしら」


 戦術理論としては無謀にも思える構想。

 けれど、その“無謀”にこそ、わたしは賭けたかった。

 いつまでも守りに徹していれば、流されるだけ。どこかでこの流れを、自分の意志で変えなければならないと、そう、直感で思ったのだ。


 わたしの問いに対し、レシュトルは沈黙を返した。

 それは、ほんのコンマ数秒にも満たない、人工思考にとっては誤差にも等しい“間”だった。

 けれど、わたしにはそれが、永遠にも思えた。


 やがて、視界に冷たい光が浮かぶ。

 次の瞬間、あまりにも残酷な答えが、視界の中心に淡く投影される。


《PLAN-B:首都中心部へ向かい、二次爆縮のカウントダウンを誘発。強制的に渦心の形成段階へと移行させます》


「『渦心』だと……? 初めて聞くな。レシュトルよ。俺にわかるように説明しろ」


 ヴォルフの声が、一段と低く沈む。

 静かながら、有無を言わせぬ、問いというより“命令”の響き。


 レシュトルは一瞬の空白すらなく応答した。

 冷徹な思考演算が、視界の奥に無機質なホログラムの文列として広がる。


《肯定いたします。渦心(Vortex Core)とは、二次爆縮の際、エネルギーが無限大に圧縮される中心点に生じる、時空間の特異点。

 平易に例えるなら、“世界を内側から穿つ無形のドリル芯”です》


「……ドリルの芯、だと?」


 ヴォルフの声は微かに掠れていた。

 言葉の意味は理解できても、それを想像するにはあまりにも現実離れしていた。

彼は無言で足元の黒砂を掬い上げ、革籠手に包まれた指先で、それをざらりと音を立てて砕いた。

 しかし、次の説明が、その異形の構造を容赦なく現実のものへと引きずり戻す。


《はい。形成された渦心は凄まじい回転エネルギーを伴い、地下深くへとその“無”の領域を抉りながら拡大。螺旋式に約地下1kmへ到達する試算です。

 特に、地下に存在する空洞、すなわちハロエズの地下坑道網は、真っ先にその構造を内側から完全に破壊されることになります》


 説明の一文が終わるごとに、わたしの鼓動がひとつ遅れて響いた。

 淡々と告げられる“構造の崩壊”という言葉の奥には、あまりにも具体的な人の営みが存在している。

 岩を穿ち、土を積み、命を守るために積み上げられた避難壕、聖堂、地下の集落。それらすべてが、「芯」のただ一突きによって飲み込まれるという事実。


 そのあまりにも衝撃的な説明に、ヴォルフはしばらくの間、言葉を失っていた。


 無言のまま、片手で額を押さえ、そのまま顔を伏せる。

 長年の戦場経験が、たった数行の情報だけで、これから起こる光景を瞬時に描いてしまったのだ。


 それは単なる崩落ではない。

 誰にも見られず、誰にも助けられず、瓦礫と化した地中で、名もなき民が、家族が、ただ無に、音もなく、沈んでゆくということ。


 わたしはただ、彼の拳がかすかに震えているのを見つめるしかなかった。

 それは怒りではなく、騎士としての無力感――守るべきものの重さに押し潰されそうになりながらも、それでも立ち続ける者だけが滲ませる、痛みの震えだった。


「……その、渦心とやらを止める術は、ないのか?」


 低く、掠れた声。

 鋼のような意志の下に敷かれた砂が、ふと崩れ落ちたような――そんな、わずかな音がした気がした。


《プランBの継続。すなわち、“絶対連携戦術・零距離殲滅式”(超短期決戦術)による、形成直後の強制破壊のみが、唯一の対抗策となります》


 わたしは目を細め、脳裏に浮かぶ半年以上前の光景を静かになぞった。

 あの北方戦線――冷えきった雪原の只中で発動した禁断の戦術。固有時制御。魂と命を燃料に変えて放つ一撃。

 それは、あまりにも“完璧”だったがゆえに、あまりにも“代償”が大きすぎるものだった。


「プランBに……プランA。どっちがいいんだか……俺には判断がつきかねる」


 ヴォルフの声は、深い濁りを含んでいた。

 選択肢を持ちながら選べない苦しみ。どちらを選んでも、命が、土地が、未来が損なわれる。それは、戦場で最も恐ろしい局面――“最適解”がどこにもないという現実。


 けれど、わたしは彼の言葉を、静かに、しかしはっきりと、否定する。


「……長期的な被害を考慮すれば、プランAはもはや選択肢にすらならないわ」


 その言葉には、震えも迷いもなかった。

 唇に宿した意志は鋼に似て、しかし芯には涙の熱を宿していた。


 わたしのその、あまりにもきっぱりとした物言いに、ヴォルフがはっとしたように顔を上げる。

 その眼差しには、問いも反論もなかった。ただ、“覚悟を見た”という静かな諦念が、深い影となって宿っていた。


「IVGフィールド、すなわち障壁で、仮に二次爆縮の余波を完全に封じ込められたとしても――その結果、このハロエズ盆地に何が生まれるか、あなたにも想像がつくでしょう?」


「あ……魔獣の、巣窟か?」


 その言葉を口にしたとき、彼の声は砂のように乾いていた。

それは「敵」としてではなく、「未来」そのものの姿を思い浮かべたから。


「そう。しかもただの巣窟ではないわ。レシュトルの分析では、今回の膨大なエネルギーがそのまま巣窟のネスト・コアへと転換される。

 そこから這い出して来るのは、これまでのどんな記録にもないほど活性度の高い、そして凶悪な魔獣たち。その上、その巣窟はこの盆地全体を、二度と人の営みが戻ることのない不毛の大地へと変えてしまう」


 言い終えたとき、わたしの視界に浮かんだのは――

 あの、誰も帰ってこない、沈黙と冷気だけが残された死の谷だった。大地は裂け、樹々は枯れ、空は褪せ、風は命を拒むように吹きつけていた。


「……あのハムロ渓谷のように、ね」


 静かに告げると、ヴォルフはもう、何も言い返さなかった。

 彼はすでに理解していた。

 理解しきっているがゆえに、言葉が出てこないのだ。


「だから、選べる道はもう一つしかないということよ。

 ……プランB。わたしたちが、この身を以てあの渦の中心核を叩く。それ以外にこの地を、人々を未来を救う術はない」


 言葉の終わりが、風に溶ける。

 けれど、その直後、わたしはすぐさま、次なる言葉を継いだ。それは、わたしが最も聞きたくなかった、けれど絶対に聞かなければならない問い。


「……レシュトル。プランBを実行した場合の、リスクを全て開示してちょうだい」


 わずかな沈黙。

 蒼いホログラムが胸元で揺らぎ、光の水面から数字が浮上する。


《成功期待値:72%。死亡確率:49%――》


 瞬間、心臓が一拍ぶん深海へと沈み、鼓動の輪郭が遠ざかった。

 その冷たい数字が突き立てる現実の重みに、息が詰まる。と、その時。

 再び、腹の奥で――ぽん、と。先ほどよりも確かな、命の衝動が伝わった。


 わたしは、は、と短く息を呑む。


 大成功なら、すべてが一瞬で終わる。

 けれど、一片でも歯車が噛み合わなければ──それは、すべての終焉。


 わたしは誰よりも理解している。この冷たい数字が意味する質量を。

 そして、まだ口にされていない最大の代償が、わたしの体内で微かに息づいていることを──。

第681話 ――詳細解説と考察

1. 風・匂い・色彩で開幕する「臨界の黎明」

 冒頭三行は〈長春色の黎明〉という静かな春霞のパレットに、煤・焦げ・鉄錆の臭気を混ぜ “生命と死” の二層を同時に立ち上げます。

 馬の吐息と車輪の焦げ匂いを 「氷気へと溶けた」 と逆温度で結ぶことで、読者は視覚・嗅覚・触覚を一括して「臨界(臨界点を超えたエネルギー)」という語感へ誘われます。時間表示《TIME:…》が続くと、情緒的な詩文はただちにハードなカウントダウンへ切り替わり──叙景とSF計器の落差 が世界観の多重性を早々に宣言します。


2. “絶望の心臓”と〈結晶雲〉――静止した爆縮のメタファ

 一次爆縮で止まったまま凝固するエネルギーは 胎児の鼓動が止まった心臓 を想起させます。谷底に浮かぶ〈結晶雲〉が「虹彩」を持つ無音の巨眼として描かれるのも、後半で語られる ラオロ・バルガスの“覗き窓” への先行暗示。

 ここでヒロインの妊娠を示唆する胎動モチーフが、雲-心臓-胎児という三位一体のイメージ連鎖を作り、物理的爆縮と “世界の再誕” を同語系に括っています。


3. 〈巫女と騎士システム〉――リンクの儀式性と速度至上主義

 システム起動シークエンスは、巫女(言語・比喩)と剣精レシュトル(演算・可視化)、騎士ヴォルフ(肉体・直観)の三者協奏。

 ホログラムや数値群で科学的に演出しつつ、詠唱・霊子という宗教的レトリックを重ね、魔術と軍事 OS の縫合が作品固有のサイファンタジアを決定づけます。ヴォルフの「地味に出来んのか」という苦言は、華美な UI が“戦術上の高速最適化”であることを読者に理解させ、後の 固有時制御=時間圧縮 のロジック布石にもなっています。


4. 「停滞」の発見と、物語的テンションの跳ね上げ

 爆縮カウント停止は一見“猶予”ですが、メービスは「静止=罠」と即断。

 ここで 過去戦ハムロ渓谷や北方雪原 の回想を挿み、「覗き見」をキーワードに敵意のパターン化を示すことで、読者は 〈現象〉と〈意図〉を別層で読む視点 を獲得します。

 レシュトルの確率提示(70.12%)は、ヒロインの感性をただの勘ではなく統計的裏付けのある洞察へ昇格させ、「感情×アルゴリズム」の掛け算を作品の推進力に据えます。


5. ドミノのように並ぶ“禁則”と“欠落”

 デルワーズの血統、禁書庫の記憶、剣精の発言制限――物語の中核情報が悉く 禁則事項 として封じられることで、


登場人物の行動規範が“無垢”ではなく“無知”由来である

物語の未知領域が縦長に伸び、先の巻での解禁を待つ サスペンスの貯金


 が成立します。特に「理由までは教えられない」という剥き出しの欠落が、ラオロ・バルガスという冷笑的な全能を立ち上げ、以降の対話が常に「しゃべれない第三者に向かって」行われる多重声劇になります。


6. 魔族定義の転換――“滅びを設計する知性”

 ここで 魔族=高濃度魔素による知性模倣体 という設定が提示され、従来の“モンスター”概念を脱却します。

 「学習・アップデートする敵」という SF的スリルは、既に 巫女と騎士がリンクで“学習速度を上げている” という主人公側システムと対照を成し、自己進化 vs. 協調進化 という構図へ収斂。

 これがプランA/Bのどちらも「計算され尽くした罠」になり得る理由を補強しています。


7. プランA崩壊→胎動の微衝動

 完全物理制御――IVGフィールド三百秒の限界を突かれた瞬間に、メービスは無自覚の胎動を感じる──ここで 外在的カウント(三百秒)と内在的カウント(妊娠経過) が二重写しになります。


8. プランB提示と〈渦心〉の恐怖

 渦心=“世界を穿つ無形のドリル芯”という比喩は、視覚よりも触覚・聴覚に訴え、読者の体感をえぐります。

 ここで 地下坑道の聖堂、人質、市民という“一般人”の生活圏がクローズアップされ、叙事詩的スケールの中に 倫理的リアリズム が注入されます。


9. 49%の死と72%の希望――数値化された生贄

 ラストの 成功72% / 死亡49% は単純計算を許さない重複確率(母数の異なる指標)で、論理の隙間に「神のサイコロ」を残します。

 メービスが数字よりも胎動へ感覚を傾ける瞬間、物語は 確率から祈りへ、理屈から意志へ舵を切り、次話の「ヴォルフが固有時制御を一身で引き受ける」決断線を自然に導きます。


10. 総合的爆縮サスペンスとして

 681話は「システム起動」と「停滞の謎解き」という 静的構図 で話数全体の半分以上を占めながら、


五感すべてに触れる詩的ディテール

数値・演算・タブーによる理系スリル

胎動と人質という倫理的カウントダウン


 が三層パルスを刻み続けるため、ページめくりのテンションが持続します。また、覗く者/覗かれる者 の入れ子構造が、読者自身を「覗いている第三の視線」に変換し、物語と現実の境界を曖昧にするメタフィクショナル仕掛け。




作戦会議の構造 ──“三重の回路”で進む意思決定

導入フェイズ(情景・心理の同期)


メービスとヴォルフが岩棚に並び立ち、同じ地平を眺めることで〈身体位置=視野=問題意識〉を一致させる。

風・匂い・結晶雲といった感覚情報を共有し、「ここにある危機」の輪郭を二人同時に掴む。


リンク確立フェイズ(思考の統合)

〈巫女と騎士システム〉起動──精霊子流入→Z-Φ思考バス→SYNC 98 %。


役割の明確化

メービス:比喩的直観・媒介。

ヴォルフ:戦術直感・現場判断。

レシュトル:演算・可視化・確率提示。

ここで“言語・身体・数理”がリアルタイムで束ねられ、会議が「普通の対話」から「複合インターフェース」へ進化する。


状況診断フェイズ(データ+仮説)

レシュトルの数値ログ → メービスの仮説「停滞=罠」 → ヴォルフの体感「肌にピリピリ」。

物理データと身体感覚を交差させて罠判定の信憑性を七割超まで高める。


過去事例照合フェイズ(メタリンク)

ハムロ渓谷(未来)/北方雪原を引き、パターン学習を実行。

観測値を過去ケースへ倍率補正し、敵の再現性を示して「覗き見」のロジックを確立。


制約暴露フェイズ(禁則と情報欠落)

レシュトルの沈黙・禁則条項により「完全情報会議」から「制限付きゲーム」へ様相が変わる。

発言禁止=神のひそみ──未知そのものが議題化され、会議の緊迫度が跳ね上がる。


プラン列挙フェイズ(A/B 二択)

プランA:障壁防御→長期汚染リスク

プランB:渦心誘発→固有時制御による零距離破壊

ここで初めて倫理/確率/自損リスクが数値化され、意思決定の軸が「効率」から「覚悟」へ転換。


覚悟共有フェイズ(沈黙と胎動)

メービスの胎動─ヴォルフの拳──互いの“守りたいもの”が言語外で同期。

プランB採択を暗黙に了承し、次話のアクションラインへ接続。



敵方の思惑構造 ──“三段ロック”の誘導戦術

第一ロック:広域アラートと“覗き見”

高密度魔素を拡散し、巫女と騎士システムが自動的に応答せざるを得ない環境を整備。

爆縮一次段階をあえて起こして“異常事態”を王都まで波及させ、ヒロイン側を前線へ引きずり出す。


第二ロック:カウント停止という“停滞”

臨界寸前で時間を凍結し、敵味方双方に「猶予」の錯覚を与える。

目的は 接近=トリガー を自陣でなく “相手の手” で引かせること。

停滞を解くパスコードは〈巫女と騎士システム〉の臨界安定 or 救援部隊の坑道接触など、人質依存の条件分岐。


第三ロック:渦心による不可逆破壊

二次爆縮を再開すると同時に渦心を生成し、地下1 kmを穿つドリル化。

人質を抱えたまま地層ごと呑み込むため、外部からの妨害は不可能。

もし初期阻止に失敗した場合は、魔素汚染によって盆地全体を魔族/魔獣の増殖工場へ転化し、中長期の侵食フェーズへ移行。


学習アルゴリズムと再帰罠

魔族は戦闘ログを自律学習し、次個体へ戦術アップデートを継承。

よってヒロイン側の既知プランは既にカウンター済みという前提で設計されている。


まとめ

作戦会議は

感覚共有 → データ統合 → 仮説導出 → 禁則露呈 → プラン対決 → 覚悟成立

という 七拍子構造 で、各拍に “システム‐肉体‐感情” の三者信号が必ず重ねられています。


敵の思惑は

広域誘導 → 時間凍結 → 条件トリガ → 渦心ドリル → 汚染拡散

という 階段状ロック で、解除キーを主人公側に握らせたまま “押さざるを得ない状況” を作る点が最大の狡猾さ。

両構造が噛み合うことで、プランB=「自発的踏み込み」を選ぶほかない物語圧力が完成しています。

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