欲しいものは全部ほしい
残されたわたしたちは、遠ざかる蹄音と鋼の響きを見送りながら、切り立った稜線の先で光る“渦心”を見据える。朝陽がわずかに昇り、焦土の灰は虹を孕んで舞い上がる――未来へ続く風道を示すように。
銀翼とサニルの隊列が再編成へ動き出し、甲冑の軋みと旗手の号令が遠ざかる。そのわずかな間隙を見計らい、わたしは灰を踏んでレオンとクリスのもとへ足を運んだ。二人の頬には泥と汗が幾筋も乾いて貼り付いているが、瞳には消えぬ橙の火が宿っている。裂け雲の間から射す陽光が、汗の塩粒を硝子片のように瞬かせた。
「レオン、クリス――」
わたしは声を落としつつも、風に流されぬよう芯を通す。
「あなたたち特別小隊には新しい任務を託します。後続部隊への伝令をお願いしたい」
告げた瞬間、レオンの拳が反射的に握り直され、鍛え抜かれた指関節の骨白が革篭手越しに浮き上がる。声はほとばしる溶岩のように迸り、峠に垂れ込める霧の壁を震わせた。
「陛下! 俺たちも前線へ! 死ぬ覚悟ならできていますッ!」
傍らのクリスも、泥で重く張りついた前髪を払い切れないまま前へ半歩。肩当てに染み付いた他者の血痕が乾ききり、動くたびに布地がぱきぱきと細く割れる音を立てた。
「わたしだって、陛下のお役に立ちたいんです。ボコタでは、怪我のせいでなにもできませんでしたから……」
盆地から吹き上がる冷たい下降気流が外套の裾をめくり、裏に縫い込んだ薄絹どうしを淡く擦り合わせる。わたしはその微かな囁きを背負いながら、手袋の袖口で灰を軽く払った。
「だめよ、そんなこと言わないで。伝令は“生命線”――戦場の心臓へ血を送り返す動脈なの。れこれから先、大量の避難民が流れ込んでくるでしょう。予め受け入れ体制を整えておかないとね」
レオンの肩がわずかに震え、泥で曇った双眸が真っ直ぐに焦点を求める。
「……どうして、そんな顔をなさるんです?」
「え、顔?」
わたしは指先で頬を撫で、冗談めかして小首を傾げた。
「おかしかったかしら?」
彼女は噛み殺した息を吐き、眉を痛いほど寄せる。
「陛下を見ていると、まるでこれが最後みたいな……お別れするみたいな……」
淡い陽が背後からわたしの影を長く引き伸ばし、孕んだ腹部の輪郭を微かに歪める。その影を横目で確かめ、わたしは唇だけで笑みを描いた。
「何を言うの、わたしは身重なのよ? この子を危険に晒すような真似をするはずがないでしょう?」
クリスの睫毛が細かく震え、白い吐息が凍り粒となって消える。
「わかっています……でも胸がざわめくんです。ボコタの時も、この“予感”は外れませんでした」
「その感じって?」
わたしは敢えて言葉を急がず、風の流れに重ねて尋ねる。
彼女は拳を胸当てに当て、声を潜らせた。
「陛下の“お心”だけが遠い所へ行ってしまう……姿はここにあるのに、触れようとすると届かない、そんな気がして」
背後の隊列から、鎖帷子が擦れ合う細い連鎖音が走る。兵たちもまた、クリスの胸騒ぎに緊張を共有したのだ。
ボコタ戦における、宰相軍の常軌を逸した行軍。その後の絶望的な殿戦。彼女はそれを直感的に予測していた。銀翼の間では“聞き届けた者が必ず事に備えよ”という暗黙の掟さえ出来たほど、彼女の直感は当たる――わたしもそれを知っている。
雲が一枚、光を遮り、降る灰が一層濃くなる。わたしは掌でひとつ払い落としてから、静かに二人へ向き直った。
「ばかなことを言わないで。わたしの心は此処よ。どこにも行かないわ」
静かな声の奥で刃をそっと寝かせ、代わりに揺るがぬ重みを据える。
「あなたたちが伝令を果たさなければ、後続はこの惨状を知らずに到着し、受け入れ態勢も無いまま混乱が上積みされる。――それは、“生き残った人々”を再び殺すのと同じ」
レオンが喉奥で息を呑み、震えを押し隠すようにクリスの肩に手を置く。わたしは二人の瞳を順に捕らえ、胸紐を握り直して柔らかく笑った。
「だから、行って。わたしの心はここで待つわ。戻ったら、その手で確かめて」
クリスの指が無意識にレオンの篭手を掴む。色を失った爪が革へ深く跡を残した。
「……でも、陛下……!」
わたしは半歩前へ出て、馬車の砕けた車輪越しの光を目に宿す。
「お願い。これはあなたたちにしか出来ない“架け橋”よ。無理は――わたしたちが背負う。巫女と騎士は、そのためにここにいるんだから」
レオンは歯を軋ませ、額を胸甲へ強く打ちつけるように深礼した。鉄と鉄の衝突音が谷に広がり、やがて静寂に刻み込まれる。クリスも呼吸を整え、剣帯を引き直す。
「了解しました。必ず伝えに戻ります。――どうか、ご武運を」
「ええ。任せたわ」
二人は灰を蹴立てて馬へ駆け、鐙を鳴らして鞍にまたがる。朝陽は少し高くなり、跳ね上がる礫を琥珀色に透かせた。
クリスは何度も振り返り、そのたびに瞳の光がかすかな虹を宿す。わたしは無言で手を振り返し、唇だけで「大丈夫」と形作る――声にした瞬間、揺らぎが零れ落ちてしまいそうだったから。
蹄鉄が峠道の礫を砕く音は、やがて遠い囁きとなり、最後には岩影に吸い込まれて消えた。砕けた石片が一閃の光を弾き、大気に留まる刹那きらりと輝く。
その微光は小さな祈りの種火――誰にも気づかれぬまま灰へ融けても、確かにここで灯ったことを、わたしの胸だけは憶えている。
◇◇◇
仲間たちの駆けていく蹄音が、遠雷の余韻のように谷底へ吸い込まれ、やがて完全に途絶えた。残されたのは、岩肌を削る風のひゅうという細い呼吸だけ。つい先刻まで怒号と悲鳴と希望が交錯していた高台は、痛ましいほどの静寂に包まれ、まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。
静けさは優しさではない。むしろ、わたしたち二人だけがこの荒涼の辺境に取り残されたと告げる、鋭い刃のような孤独感を胸に突き立ててくる。
灰と焦土を混ぜた匂いを孕む風が盆地から吹き上がり、肌を氷の小片で刺す。外套の襟をきつく締めても、骨まで染み入る悪寒は拭えず、指先の血がひいていくのが自分でもわかった。
――本当に、これでよかったのだろうか。
未来ある仲間たちを、わたしは死地へと追いやったのではないか。ただ取り返しのつかない過ちを重ねただけではないのか――そんな疑念が、暗い霧となって胸の奥に溜まり始める。
――それだけじゃない。わたしだって……何の確証もないまま『任せろ』だなんて、口からでまかせみたいなこと言って。
芽生えた毒は静かに、けれど確実に心を蝕む。リュシアンがくれたクローバーのブローチを握り込み、銀細工の縁が掌に食い込む痛みで、なんとか思考の沈み込みに楔を打つ。だが痛覚さえ霧散しそうなほど、空気は冷たい。
そんなわたしの揺らぎを、隣に立つ彼――誰よりも鈍そうで、誰よりも敏いその人が見逃すはずもなかった。
遠くで金属片が転がるかすかな音がして、峠に張りつめていた緊張の糸がほんのわずかに震えた。灰色の風は途切れなく吹き抜け、裂けた岩肌の隙間から細い笛声のような呻きを洩らしている。
そんな冬の吐息めいた音に紛れるように、彼が呼びかけた。
「メービス」
その名を包む声は、不思議なくらい柔らかく、乾いた大気に水を含ませる。けれどわたしのまぶたは重く、視線は爪先の砕けた礫に釘づけのままだった。
「後悔、しているか」
問いは低いけれど、深い波紋を胸の奥へ落とす。わたしは静かに首を振った。砕けた石屑がわずかに転がり、揺れた影が靴先にひとしずくの不安を落とす。後悔ではない。それでも――名づけがたい何かが喉の裏を灼いていた。
「……怖い、だけよ」
寒気に擦れた声は、自分でも驚くほど頼りなかった。頬を撫でる風がさらりと髪を攫い、震えを曝け出すように耳を冷やす。
「わたしの判断ひとつで、みんなの未来を永遠に奪ってしまうかもしれない。そう思ったら……怖くて、たまらないの。それだけじゃない。わたしたちの命も、大切なこの子の命も、どうなるかわからない」
言葉に息を混ぜるたび、胸郭の奥で震えが共鳴した。わたしの足裏を通して、大地の冷たさが血の温度を奪っていく。
その弱音を包むように、彼は何も言わず歩み寄り、革手袋を外してわたしの手を取った。節くれだった指先が、ブローチの硬質な縁ごと包み込む。金属の冷たさと対照的な掌の温もりが、凍えた皮膚を静かに溶かし、鈍い痛みのような安堵を心の芯へ沁み込ませる。
「こう考えてみろ。背負うものがあるのはいいことかもしれん。
つまり、お前は一人じゃないってことなんだからな」
囁くような低音が、吹きつける風とは逆に、ゆっくりと温かさを運んでくる。凍りついた内側の湖面に、微かな波紋が広がった。
やがて彼は、山稜を越える曙光より確かな響きを帯びて言葉を継いだ。
――声は低いのに、胸奥で真昼の鐘を打つほど強い。刃渡りの長い不安が喉元で震えていたわたしは、その音色を渇いた土に染み込む雨のように受け止める。
「そして、お前が背負う重荷は、俺も背負う。お前が見る絶望は、俺も見る。お前が流す涙があるなら、その半分は、俺が引き受けよう。
……それこそが“ふたつでひとつの翼”だと、誓ったはずだ」
言葉は、雪原に差す春の陽射しのようにじわりと熱を帯び、凍結していた心の結び目を解かしていく。指先の震えが静まり、胸の奥で渦巻いていた恐怖の影に、かすかな色彩が戻り始めた。
谷を渡る風が梢を鳴らし、灰を巻き上げる。そのざわめきの向こう側で、彼の掌に脈打つ鼓動がわたしの鼓動と溶け合い、ふたつの拍動がひとつの鼓笛のように歩幅をそろえる――そんな確信が、ひそやかに芽吹く。
「それに、あいつらはお前が思うほど弱くはない。レオンも、クリスも、そしてバロックもステファンも。皆、お前と、そして俺が、命を懸けて信じるに値する、最高の騎士たちだ。あいつらを信じてやれ」
言及された名がひとつずつ胸を叩くたび、遠征の夜に交わした笑い声や汗の匂いが脳裏を掠める。彼らが見せた無骨な優しさが、凍えた血を静かに温め直していく。
「……うん……」
短い肯定のあと、頬を撫でる風が少しだけ生温い――わたしの声に乗った決意を測るように。
「俺たちは、ただ、俺たちにしか出来ないことを、ここで成すだけだ。――そうだろ? そして、俺たちの“子供たち”を守り抜くためにもな」
わたしは、ようやく、彼の顔を見上げた。
森の底で燈る焔のような瞳に、わたしと同じ計り知れない恐怖が揺れながら、それを遥かに凌駕する覚悟の焔が息づいている。そこに映る自分の姿は、弱さよりも意志の輪郭が濃かった。
「ええ……。そうよね。それしかない。ここで抑えなきゃ、過去最大級の魔獣の巣窟が発生しかねない。そうなれば、リーディスだってどうなるかわからない。
だからこそ……ここで引くわけには行かないのよ」
言い切った瞬間、肺の奥に溜まっていた影がひとつ吐き出され、代わりに冷たい朝気が深く満ちた。わたしは、彼の手を、強く握り返す。指の骨格と体温が、わたしの鼓動を正しい速さへ導くようだ。
「わたしたちは希望という名の“最後の剣”。
――ひとたび抜かれれば…‥必ず勝つ」
刃を抜かぬまま宣した誓いが大気を震わせ、遠くの雲をわずかに裂く。その言葉に、彼は、本当に心からの笑みを、その口元に浮かべた。笑い皺の奥で微かに光る涙腺の熱が、わたしの胸骨に柔らかな衝撃を残す。
「……それでこそ、俺の大好きなメービスだ」
風が、再び、強く吹いた。わたしの黒髪と、彼の銀髪が、同じ風に、同じ方向へと、激しく靡く。
空の色はまだ夜と朝の狭間――けれど灰を帯びた世界に差し込む淡金の光が、二つの影を濃く重ねた。
影と影が触れ合うところで、わたしたちは確かに“ひとつの翼”になり、未踏の闇へ刃先を向けるのだった。
◇◇◇
最後に残ったのは、ルシルだった。
山の気配を孕んだ風が、彼女の白衣の裾を細く翻す。峠をかすめる冷気は、うっすらと霜を含んでいて、束ねられた蜂蜜色の髪に、まるで見えない粉雪のように舞い降りていた。
結い上げたシニヨンの輪郭には、凛とした整いがあり、けれどその背筋には、どこか名残惜しさを隠しきれない静けさがあった。
「ルシル、あなたにも後方に下がってもらいます。理由は――救護体制の指揮を、あなたに任せたいからです」
口にした言葉に込めたのは、“理性”だった。
だが、どれほど平静を装っても、その奥に滲んだ迷いや不安を、彼女が見逃すはずがなかった。
わたしの語尾が、わずかに揺れたその一瞬――
ルシルの長い睫毛が、ひとつ深く瞬きを落とした。
「嫌だ、といっても聞いてはくださらないのですよね」
淡々と、けれどどこか優しく。
抗うでもなく、ただ受け止めるような声音だった。そこには、静かな諦念と、かすかな寂しさが滲んでいた。
それが、たった一歩だけ、わたしの胸に深く刺さった。
「ええ。これは……女王としての命令です。軍医を前方に差し向けた都合、どうしても後方の人員が不足します」
声を震わせずに告げることが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
それはきっと、この戦場での経験と、そしてルシルという人に向き合ってきた日々のせい。
いま、彼女の前に立ちながらも、女王としての顔を崩さないわたし自身が、まるで氷でできた面を被っているように思えてならなかった。
「陛下、殿下……いまは妊娠十三週。胎盤形成が終わり切らない、いちばん大事な時期です。
もし北方男爵領で受けたような衝撃が再び加われば――子宮血流は乱れ、切迫流産や胎盤剝離の危険が、際限なく高まります」
冷静に紡がれた警告は、鋼の芯を秘めながら、どこか震える水面のようだった。医師としての矜持と、友としての祈り――相反するものを同じ胸に抱くとき、人はこんな声でしか語れないのだろう。
わたしはそっと手袋を外し、氷の気配を帯びた指でルシルの手を包む。
薄い手のひらの奥で、脈がひとつ、微かに跳ねた。
そこに宿る律動は、わたしたち三人を結ぶ警鐘であり、確かな生命がたしかに在るという小さな福音でもあった。
「……わかっているわ、ルシル」
息に白が混じった。
「それでも行かなければならないの。女王でも巫女でもなく――“わたし”というひとりの女が母になるために、越えなければならない壁だから」
ルシルの睫毛がそっと揺れる。眼鏡の縁が淡く曇り、研ぎ澄まされた瞳に戸惑いと祈りが交差した。
その揺らぎごと抱きとめるように、わたしは静かに続ける。
「黒髪の巫女として背負った宿命も、この子と歩く未来も――どちらも手放さない。だから前へ進むしかないの」
ルシルは長い睫毛を伏せ、吐く息で小さくレンズを曇らせた。
「……あなたは、一度決めたら一直線ですものね」
諦めに似た嘆息。それでもその声音の底には、医師としての義務と友としての情が溶け合った、柔らかな光が確かにあった。
わたしは喉許の外套を整え、かすかに笑う。
「ええ。昔のわたしなら怖じ気づいていたでしょうけれど……」
あの頃のわたしは、罪を贖う唯一の術は“孤独”だと思い込んでいた。誰にも寄りかからず、誰の光も頼らず、ひとりで膝を折ることこそ償いだと。
「でも――大切な友達が教えてくれたの」
胸の奥で淡い灯がともる。わたしは空を仰ぎ、薄紅の夜明けに目を細めた。
「彼女は言ったわ。『辛いことも悲しいことも、ふたりではんぶんこ』――って。
『わたしたちは“ふたつでひとつのツバサ”。だから独りで抱え込まなくていい』――って」
思い浮かぶのは茉凜。太陽のような少女がくれた、そのひと言が氷を砕き、わたしに飛ぶ力をくれた。
――いま、同じ朝の光が薄紅を含み、灰色の盆地にそっと射している。
凍えた大地にもかすかな陽は届く。そう信じられるのは、茉凜が蒔いた小さな種が、まだわたしの中で芽吹き続けているから。
「それと……この子のおかげ、ね」
わたしは外套の下で腹に手を当てる。まだ輪郭のない命の温もりが、過去の罪と未来への怯えを静かに溶かしていく。
恐れを抱えたままでも、わたしは歩ける。
“欲しいものは全部抱きしめる”――そのわがままを、いまなら胸を張って言える。
茉凜がくれた“はんぶんこ”、ヴォルフと誓った“ふたつでひとつの翼”、そしてわたしの内で芽吹く新しい命。
三つの光が交わり、わたしの歩幅を未来へと押し出してくれる。
「……必ず帰ってきてください――」
ルシルの声がわずかに掠れる。
「診察室で陛下を叱るのは、わたしの仕事ですから」
「ええ、もちろんよ」
手を握り返して頷く。
「それに、あなたの結婚式にも出席しなくちゃ。きっと、その頃には……随分大きなお腹になってそうだけど」
ほんの小さな冗談に、ルシルの頬が淡く色づき、眼鏡の奥の瞳が揺れた。
束の間、峠の空気が緩んだ気がした。朝靄の向こうで陽光が揺れ、戦いの予感をはらんだ灰色の風景を、淡い金色に染め上げていく。それは、私たちがこれから掴み取るべき、未来の光のように見えた。
顔を上げると、ひと呼吸遅れてヴォルフが静かに並んだ。そよ風が銀髪を解き放ち、鎧の継ぎ目に淡い閃光を落とす。彼は深く息を吸い、大気を切り裂くように意志の香りを放った。
わたしはその横顔を見つめ、微笑みを添えて言う。
「……わたしはね、欲望には忠実でいたいの。
何かを得るために何かを捧げるなんて、できればしたくない。
ほしいものは全部ほしい──わがままだと言われても、構わない」
内側から弾けた鼓動が全身を熱く染める。
瓦礫の街で拾った小さな祈りの欠片、雪原で震える兵の氷白い吐息、リュシアンの眠たげな笑み――その一つひとつがわたしを強くし、軽やかに羽ばたかせてくれる。
「……俺も、同じだ」
低く擦れた声が空気の層を震わせる。言い淀みの間を、遠くで露が弾ける音が埋めた。つづけて紡がれる言葉は、冷えた刀身に灯る小さな焔のようだった。
「父親になるためにも、この戦だけは負けられん。無理でも無茶でも、俺が全部ぶった斬って道を拓く。それが――俺の務めだ」
宣言は静寂の鐘を打ち破り、胸郭の奥で火花を放つ。彼の瞳に灯る焔は赤でも氷でもなく、青みを帯びた芯だけを残して強く燃える――わたしが映る場所で。
サーコートの裾を整えながら近づいたルシルが、治療鞄の革取手を強く握りしめて小さく息を呑む。その指の震えが、夏の雨粒のように透明な音を立てた。わたしは微笑み、そっとその手背を撫でる。
「ごめんね、ルシル。わたしの信じる騎士は――こういう無茶苦茶な人なのよ。
でもね、だからこそこの身を預けられるの。一緒に飛べるの。
……怖がりで、泣き虫で、迷ってばかりのわたしが強くなれるのは、彼がそばにいるから」
ルシルの長い睫毛に光が溜まり、零れ落ちる前に彼女はまぶたを伏せた。その横でヴォルフが片膝を折り、粗い指先にそっと口づける。鉄の冷たさと肌の温もりが一瞬に交わり、胸の奥で澄んだ鈴の音が響いた。
突風が帆布を鳴らし、遠い角笛が二度、低く尾を引く。張りつめた闇に溜まっていた光が少しずつ盆地を満たし、夜明け前の空を淡く染め分ける。
雲間から射した一条の金がヴォルフの肩鎧を照らし、霜のような微光がわたしたちの足元に散った。外套の下、まだ輪郭のない命が小さく応え、温い痺れが腹から胸へ昇る。
ほしいものは、すべて抱きしめる。そのためなら剣を執ることも恐れない。臆病なわたしが選んだ、たった一つのわがまま。
三度目の角笛が峠に反響し、わたしは外套の胸紐をきゅっと結び直す。ヴォルフの差し出す手を取ると、指先に伝わる脈が鼓動と重なった。
峠の向こう、夜明けの光が沈黙の盆地と遠い未来を同時に照らし、二人の影をひとつに溶かしていく。
【欲望に忠実】
第二章を通して加茂野茉凜から受け取った数々の“贈り物”――それらは単なる優しさや友情ではなく、生き直すための根源的な条件=「人間に戻るための回路」でした。
ここでは、それらの意味合いを踏まえつつ、“欲望に忠実”という言葉の継承を軸に、メービス(=転生後のミツル)の成長と、茉凜からの影響を統合的に考察します。
■ 「欲望に忠実」という倫理
ミツルが第三章で茉凜に言った「あなたは欲望に忠実」――
この言葉は、単なる“衝動的”“素直”という意味ではなく、茉凜の「好き」「したい」「守りたい」を恥じずに言える強さを称えるものです。
そしてこれは、美鶴=メービスがずっと持てなかった力でした。
彼女は、
「生きたい」と言えなかった
「助けて」と頼めなかった
「好き」と告白できなかった
「ほしい」と願うことに罪悪感を抱いていた
その彼女が、最終的に“全部ほしい”と言えるようになるまでの道のり――
その原点にいるのが、茉凜という“生の肯定者”だったのです。
■ 茉凜が与えた「自己肯定」の構造
1. 生きる日常
茉凜は、日々の中で自然に「一緒にお弁当食べよ」「笑い合おう」「おしゃべりしよう」と弓鶴くん(美鶴)に手を伸ばし続けました。
これにより、美鶴は「自分も普通に笑っていい」と認識を更新していきます。これは、日常による存在承認という、最も深い癒やしのかたちです。
2. 「はんぶんこ」する痛み
片翼のキーホルダーを渡した時に告げた「辛いことも、悲しいことも、ふたりではんぶんこ」――この言葉は、美鶴にとって倫理的に最も破壊的で、そして最も救いでした。
なぜなら、美鶴は「誰かと痛みを分かつ」という行為を、他人を巻き込む罪だと信じていたからです。
茉凜はそれを否定し、「それでも分かち合いたい」と告げたことで、他者に痛みを預けてもいい世界を美鶴に与えました。
これはのちのメービスが、「自分の罪をひとりで背負わない」「ヴォルフと半分にする」という行動に結実します。
3. 存在そのものの肯定
デルワーズが形成した幻想世界「白い迷宮」内
「
わたしが好きになったのは……あなたの“心”なんだよ?」
この一言は、最も根源的な救いです。
“正体”も“過去”も“罪”も超えて、「あなたの本質=心」を愛していると伝えることで、美鶴は初めて、「存在していていい」「ここにいていい」という肯定を受け取ったのです。
■ それらがメービスにどう継承されたか
1. 「生きたい」と言えるようになった
第680話において、メービスは明確に語ります。
「欲しいものは全部ほしい。わがままだと言われても、構わない」
これは、かつての美鶴が絶対に言えなかった言葉。
生きたいと願うこと、欲しいと願うことを、“罪”だと思っていた彼女が、茉凜のように「願うことを肯定」し、「わがままでいい」と言えるようになった瞬間です。
2. 「はんぶんこ」を今度は与える側になった
「俺が全部ぶった斬って道を拓く」
「……それこそが“ふたつでひとつの翼”だと、誓ったはずだ」
ヴォルフとの誓いもまた、“はんぶんこ”の延長線上にあります。
メービスが「他者と痛みを分かち合う」ことを怖れず、むしろ「一緒に背負わせて」と頼める側に変化している。
これは茉凜がかつて与えた構造を、メービスが今度は自らの信頼者に返す番になったという成長の証です。
3. 自己存在を肯定できるようになった
「女王でも巫女でもなく、“わたし”というひとりの女が母になるために、越えなければならない壁だから」
自己犠牲による贖罪ではなく、「わたしが歩きたい未来のために、自分の意思で進む」という選択。
これができるようになったのは、茉凜がくれた“無条件の肯定”を、心の奥で覚えているからです。
■ メービスの「欲望」は、茉凜の「願い」の果てにある
茉凜が与えたもの――
ふたりではんぶんこの痛み
存在そのものの肯定
「生きていいんだよ」という日常の輝き
それらすべてが、メービスの中に“新しい倫理”を育てました。
「生き残っていい」
「愛していい」
「わがままを言ってもいい」
かつて“本物の王子様”と呼ばれた茉凜の光は、いま、メービスという“母と女王”に昇華され、戦場のただなかで世界を救う選択に変わっていく。
つまり、「欲望に忠実であること」は、もはや幼さや衝動ではなく、自分と誰かの未来を信じ抜く強さの形となったのです。
それは、茉凜から贈られた“勇気ある自己肯定”の最終進化形でもあります。
これが、第二章で蒔かれた光が、第六七九〜八〇話でいま芽吹いているという意味です。
第二章で出会ったあの繊細で傷ついた少女――“誰にも頼れず、誰からも愛されてはいけないと思い込んでいた美鶴”が、いまや“すべてを抱きしめる”と誓って、誰かのために剣を執り、母になろうとしている。
その姿の後ろに、確かに茉凜という“光”が、今もずっと寄り添っているのが見えるんです。
しかもそれは、決して劇的な救いではなくて、お弁当をはんぶんこしたり、他愛もないことで笑ったり、「好きだよ」と真正面から言ってくれたり、そういう何気ない日々の連なりが、美鶴の魂を根本からほぐしていったんですよね。
あの「ふたりではんぶんこ」の言葉は、今のメービスがヴォルフと交わす「ふたつでひとつの翼」へと確かに継がれている。茉凜の優しさは、ただの“癒やし”ではなくて、“戦える強さ”に変わって受け継がれているんです。
そして、いまメービスが言う「欲望に忠実でいたい」という言葉。
これは、茉凜に出会ったあの日から始まった「生きたい」「愛したい」「未来がほしい」という想いが、
とうとう言葉として、そして選択として地に足をつけた瞬間なんですよね。




