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言葉は剣より強いのか――国境に立つ巫女と騎士

【氷膜のように薄い黎明の光は、刃の冷たさを帯びていた】


 《暁焔陣地》の柵門が厳かに開かれる直前、見送る兵たちが息を合わせ、音もなく片膝を突く。その厳かな儀礼が、たった五騎の孤立を際立たせた。シュル――コン、とクリスの馬が霜を裂く。その鈍い金属音が、静寂に最初の亀裂を入れた。


 先頭をゆく二頭の軍馬が、静かに外へと歩みを進める。わたしと隣に並ぶヴォルフ。その後ろには、まるで影のように寄り添うレオンとクリスの護衛騎が続く。そして、少しだけ距離を置いて、医師として、そしてこの交渉の証人として同行を許されたルシルが続く。


 陣営に残る兵士たちの視線が、痛いほど背中に突き刺さる。その沈黙は、不安と、祈りと、そしてわずかな疑念が織りなす、重い綾錦あやにしきのようだった。けれど、わたしの胸に輝く白磁の停戦徽章《王家最終勅命》が、朝の冷気を弾いて凛と光を放つ。この小さな円盤だけが、わたしたちを守る、唯一の盾だった。


 馬蹄の音だけが、霜で覆われた街道に虚ろに響く。やがて、人の手が入らなくなった林帯へと差し掛かった。鬱蒼と茂る針葉樹が、昼なお暗い影を落とし、空気をひやりと湿らせる。馬の吐く息が、濃い白煙となって霧に溶けた。鳥の声ひとつ聞こえない。まるで森全体が、わたしたちの無謀な行いを、息を殺して見守っているかのようだった。


 次の刹那。カサリ、と落ち葉を踏む音。梢の向こうで、何かが金属的に光る。


 空気が、ぴんと張り詰めた。ヴォルフの騎馬が、わたしの前に滑り込むように立ち、彼の背中が、わたしを守る壁となる。レオンとクリスが、音もなく馬を寄せ、その手にはすでに小楯ラウンドシールドが握られていた。


「――何者だ!」


 レオンの鋭い声が、静けさを切り裂く。応えるように、木々の陰から五つの人影が躍り出た。サニル共和国の軍服を纏い、顔には警戒と疲労を色濃く滲ませた、前哨斥候たち。三張の弓弦がギリリと森に息を刺す。


 白磁の停戦徽章が陽を弾き、わたしに向けられた矢尻が、わずかに揺れた。


 彼らの指は弦にかかったまま、放つことも、緩めることもできずにいる。恐怖が、彼らをその場に縫い付けていた。


 今だ、と思った。わたしはヴォルフの肩にそっと手を置き、静かに彼を制した。そして、馬を半歩だけ前へ進める。晒された身に、矢尻の殺意がさらに強く突き刺さる。それでも、わたしは顔を上げた。


「恐れることはありません。わたくしはリーディス王国女王、メービス。そして隣にいるのは、わたくしの王配ヴォルフです」


 わたしの声は、自分でも驚くほど穏やかに、朝の森へと響き渡った。


「あなた方の弓が、祖国を守らんとする忠誠心と、そして得体の知れぬ脅威への恐怖に震えていることを、わたくしはよく存じています。ですが、わたくしがここへ来たのは、剣を交えるためではありません。あなた方のその恐怖を、共に分かち合い、そして乗り越えるために参りました」


 とても女王としての威厳ある立派なものではないかもしれない。けれど、お腹の子を想う心が、わたしの声に、確かな温もりと慈しみを乗せてくれていた。


「貴国の首都周辺を呑み込みかねない大禍が、今まさに生まれようとしています。もはや、どちらか一方の国の問題ではありません。この地に生きる、すべての人々の命に関わる問題なのです。あなた方と同じ守るべき民を持つ女王として、お願いしたい。どうか、その弓を収め、わたくしたちの言葉を、あなた方の指揮官へ届けてはくださいませんか」


 わたしは、ただ真っ直ぐに、弓を構える若い斥候の瞳を見つめた。彼の視線が、わたしの胸に輝く白磁の徽章へ、そして、その下にあるまだ見えぬ命の気配へと、まるで軌道を失った矢のように彷徨い、力なく落ちていく。彼の袖口から、古びた手縫いのお守りが、ほんの一瞬だけ覗いた気がした。


 長い、長い沈黙。風が木々を揺らす音だけが、世界のすべてだった。


 やがて、若い斥候の視線が徽章へ沈み、指先がわずかに弦を撫で――その摩擦が切れた瞬間、湿気を吸った弦がパシッと鳴いた。彼はゆっくりと、本当にゆっくりと、弓を下ろした。それに倣うように、他の者たちも次々と武器を収める。


 彼は一度だけ、仲間と顔を見合わせると、わたしに向かって深く頭を下げ、そして身を翻して、検問所のある方向へと駆け出していった。


 言葉は、本当に、剣より強いのかもしれない。その小さな、しかし確かな手応えが、凍える心に、一条の温かい光を差し込んだ。


◇◇◇


 正午の陽光が、ようやく大地に暖かさを取り戻し始めた頃、わたしたちは国境検問所の前に立っていた。そこは、もはや単なる検問所ではなかった。急ごしらえの木柵が幾重にも張り巡らされ、その上には弓兵と魔導兵たちがずらりと並ぶ。


 その殺気にも似た空気に、先ほど得たばかりの希望の灯火が、少しだけ萎んでしまいそうになる。


 やがて、要塞の中央の門が開き、一人の男が静かに姿を現した。歳の頃は四十代半ば。仕立ての良い軍服を隙なく着こなし、その表情は穏やかな笑みさえ浮かべている。けれど、その完璧な軍装の中で、どこか糊が剥がれた軍帽の庇だけが、彼の理性の下に潜む疲労を微かに物語っていた。


 彼こそがサニル共和国西部方面軍を束ね、魔族大戦で無双の戦功を掲げた“国民的英雄”――アウレリオ・ヴォラント枢機卿である。


 互いの距離、わずか十数メートル。わたしたちは馬を降りた。アウレリオが歩みを止めると、まずヴォルフが動いた。彼は自らの腰から、聖剣ガイザルグレイルの佩かれた剣帯を、静かに解き始めたのだ。カチャリ、とバックルが外れる乾いた音が、張り詰めた空気の中では異様なほど大きく響く。


 その瞬間、アウレリオの瞳の奥で、ヴォルフの放つ無言の問いかけと、こちらの覚悟を値踏みするかのような、軍人同士の鋭い視線が一瞬だけ火花を散らした。


 ヴォルフは、その剣帯を背後のクリスへと預ける。それは、武器を手にしながらも一切の敵意がないことを示す、最大級の敬意の表れ。沈黙の抜刀術にも似た、魂の応酬だった。


 アウレリオの眉が、かすかに動く。その瞳に浮かんだのは、純粋な軍人としての興味の色。その隙を、わたしは見逃さない。


「ヴォラント枢機卿でいらっしゃいますね。この度は我らの突然の訪問を受け入れてくださり、心より感謝いたします」


 わたしはまず中央大陸の共通語で形式的な感謝を述べた。だが続く一節から、わざと今ではほとんど誰も口にしない古い母語へ滑り替える――両王家の遠い始祖が交わしたとされる、古代バルファのことば。まだミツルと名乗り魔術大学の大図書館に籠もっていた頃、埃まみれの羊皮紙から貪るように吸い込んだその音韻は、祈りにも似た響きを帯びて舌先に残っていた。


《枢機卿。わたくしたちに残された時間は、あまりに少ないのです。かの“虚無”は、ハロエズの民が眠る、まさにその足元で、産声を上げようとしております》


 アウレリオの表情が、初めて明らかに変わった。柔和な仮面が剥がれ落ち、驚きと、そして隠しようのない動揺がその顔をよぎる。


《……駐在大使からの情報は確認済みです、リーディスの女王よ。しかしながら、その神託が真実であると、どうして信じられましょうか。貴国が我らの混乱に乗じ、覇権を唱えようとしている、と。あるいは恩を押し付けることで、魔獣の巣窟の権益を得るのが目的ではないのか、と。そう考えるのは当然ではありませんか?》


 彼の声もまた、古の言葉で返された。


《信じられぬ、というお気持ちは分かります。ですが、このままでは、貴国が崩壊する明日しかありません。救援をというのではありません。共に災いの芽を摘むための道を、開いていただきたいのです。わたくしにはあなたの危惧するような野心はありません。なぜならば、わたくしは女王である前に、精霊から救世を託された巫女だからです。野心ある者なれば、どうしてわたくし自身がここへやってくる必要があるのでしょうか? 民族も国家も関係ない、一人の人間として民を救いたい。それだけがわたくしの願いです》


 わたしたちは、それぞれの背負うものを突きつけ合う。理と情念。国家と家族。その狭間で、彼の心は激しく揺れ動いていた。陽は中天にありながら、わたしたちの足元には、出口のない深い影が落ちている。


 やがて、アウレリオは一度、固く目を閉じた。そして、再びその瞼が開かれた時、彼の瞳にはもう、先ほどの揺らぎはなかった。ただ、国防の原理に殉じることを決めた、冷たい鋼の色だけがそこにあった。


《女王陛下。いえ、精霊の巫女よ。そのお覚悟、その恩寵の御心は……理解いたします》


 彼の声は、再び静かで、穏やかなものに戻っていた。けれど、それは激情を厚い氷の下に封じ込めたかのような、絶望的な響きを伴っていた。


《しかし、我が祖国にも守るべき秩序と法がございます。このアウレリオ・ヴォラント、一軍を任される指揮官として、中央からの正式な命令なくして、この国境を越えさせるわけにはまいりません》


 背後でレオンの喉仏が無音で跳ねる。けれど、わたしはここで引き下がるわけにはいかない。


《では、せめてこの宣誓状を。――これは、わたくしが記した正式かつ、条約にも等しい効力を発揮するもの。この誓いを違えれば、わが国は国際的な信用を失います》


 わたしが胸元から取り出したのは、薄い象牙色のハードケース。指先で銀の留め具を外すと、中には一枚物の厚手羊皮紙──折痕ひとつない。下辺中央には深緋(こきひ)の王室封蝋。融け残った蝋の面に白銀の双翼と王冠が陰影くっきり刻まれ、縁には微細な銀糸が横一線に織り込まれた“公印防偽線”が走る。女王たるわたしの直筆署名と翡翠色の花押かおうが、封蝋の真上に一行――それだけで十分だった。


 アウレリオは無言で受け取り、その指先が、冬の鉄以上に冷たいその紙の重みに、微かに震える。


《中を確かめさせて頂いても?》


《構いません、ご自由に》


――この一枚に隠し事はない。


 封蝋も花押も私自身の鼓動そのまま。全文を晒す無防備こそが、覚悟を示す唯一の盾だ。ここで開封を許せば、決断の重みは彼の掌へ渡る――盤面を動かす最後の賭けに、もはやためらいはなかった。


 アウレリオはわずかに頷き、腰の軍礼短剣を抜くと、刃の腹だけで封蝋の縁をそっと割った。


 ぱき、と乾いた音――森の鳥さえ息を潜める静寂に染み込む。羊皮紙を開いた瞬間、古インクと微かな竜胆の香料がふわりと立ちのぼり、彼の心を揺さぶる。彼の氷のような瞳が行を追うたび、眉間の皺が刻みを深くし、背後のサニル兵たちは弦を握る手を忘れたかのように固まった。


 やがて卿の喉が小さく鳴り、紙面から視線を外すと、その眼差しには先ほどまでの猜疑ではなく、「重さを受け取った者だけが帯びる静かな苦悩」が宿っていた。初めは氷の板のようだった羊皮紙が、読み終えた彼の掌の汗でぬかるんでいる。


◇◇◇


サニル共和国国家元首

《ラーデナ・ヴァルミール大統領閣下》


 拝啓 黎明の空を同じく仰ぎ、

 民の安寧と大地の平穏を願う者として、本状を謹んで奉呈いたします。


 現在、貴国とわがリーディス王国の国境には、遺憾ながら深い相互不信の溝が横たわっております。しかし、私どものはるか頭上には――そのいずれをも呑み込む、より恐るべき脅威が迫っています。この脅威は「勝者」を生みません。ただ、二国の明日を等しく荒廃へ導くのみです。


 よって、ここに 永続的な共存を見据えた三箇条 を提案いたします。これは一過性の停戦ではなく、次代に誇るべき遺産を共に築くための布石に他なりません。


一、軍展開の真正目的

 リーディス王国軍、ならびに銀翼騎士団は、貴国首都ハロエズ周辺で発生が予測される虚無のゆりかご から貴国民を救うため、【防壁・避難誘導・医療】の三つの支援体制を整えるべく動いております。領土侵犯・政体転覆の意図は微塵もございません。


二、魔石資源の放棄宣言

 《虚無》収束後の魔獣の巣窟、すなわち魔石資源につき、リーディスは一切の権益要求をいたしません。中央大陸国際条約(第四条二項)に則り、資源は全量、貴国管理下に帰属することをここに明記いたします。


三、人道支援の全面開放

 救護班・医師団・補給部隊を即時派遣し、避難民救助・生活再建・疫病防止 に関わる協力を惜しみません。見返りは求めず、これを「未来への投資」と位置づけ、両国の名において誓います。


 閣下。刻は既に刃の薄さ。本提案は外交的駆け引きではなく、我らの子どもたちの明日を守るための唯一の道筋と信じます。まずは貴国におかれまして、ハロエズ近郊の防衛線強化と住民への避難勧告を迅速にご発令賜りたく存じます。


 貴国軍前線司令部へは、私自ら《停戦徽章》を掲げ白旗の下に赴き、直接かつ公開の形で協議を申し出る所存にございます。どうか、一刻も早く貴国の賢明なるご判断を賜れますよう、心よりお願い申し上げます。


 敬具


 リーディス王国女王

 メービス・マティルデ・アデライド・フォン・オベルワルト=リューベンロート


◇◇◇


 宣誓状から顔を上げたアウレリオの瞳には、先ほどまでの冷徹な光とは異なる、深い動揺と、そして測りかねるような強い疑念の色が浮かんでいた。彼は一度、ゆっくりと息を吐くと、その視線をまっすぐにわたしへと戻す。


 彼の背後で、サニルの兵士たちがごくりと喉を鳴らす音が、張り詰めた空気の中を微かに震わせた。


《……にわかには、信じがたい内容ですな。魔石資源の、全権放棄。見返りを求めぬ人道支援。女王陛下、あなたはいったい何を考えておられる? これは、あまりにも出来すぎた提案だ。このような甘言で、我が共和国が動くとでも?》


 彼の声は、再び冷たい鋼の色を取り戻そうとしていた。けれど、その響きの奥底には、隠しきれない動揺が微かに震えている。立ちのぼっていた竜胆の香りが、ふっと彼の覚悟と共に消え失せたように感じられた。


 わたしは、彼のその揺らぎから、決して目を逸らさない。


《駆け引きではございません、枢機卿。申し上げたはずです。これは、我らの子どもたちが生きる明日を守るための、唯一の道筋であると。失われた命は、どれほどの魔石を積んでも戻らない。そして、これから生まれ来る命の価値は、いかなる資源にも代えがたい。――わたくしは、そう信じております》


 わたしの言葉に、隣に立つヴォルフの体温が、すぐそばにあることを感じる。その事実が、わたしに揺るぎない力を与えてくれる。


 アウレリオは、苦しげに唇を噛んだ。


《綺麗事がすぎますぞ。失礼を承知で申し上げますが、そのような感傷で国家の舵取りができるのでしょうか。あなたのその憐れみが、我が国を滅ぼす毒とならぬと、誰が保証できましょうか》


 彼の言葉は、軍人として、そして為政者として正論。わたしはその枷を、壊すのではなく、解きほぐさなければならない。


《では、このまま座して死を待つことが、指揮官としてのあなたの“理”であると申されるのですか?》


 霜が潰れ、わずかな破砕音が会談の中心に矢のように突き刺さる。わたしは、一歩だけ前に進み出た。その、たった一歩の踏み込みに、アウレリオの瞳が大きく揺れる。


《あなたご自身、首都ハロエズに残してこられた、愛するご家族がいらっしゃると伺っております。その方々の瞳を、そのお顔を、思い浮かべていただきたい。滅びの足音が聞こえる中で、ただ秩序と法だけを唱え続けることが、本当に彼らを守ることに繋がるのでございましょうか》


 わたしの声は、もはや女王としてのものではなく、ただ一人の、子を想う母としての叫びに近かったのかもしれない。


 アウレリオが、はっと息を呑む。その表情に、初めて指揮官の仮面では覆い隠せない、一人の父親としての苦悩が色濃く浮かび上がった。


 わたしの手は、無意識にまだ膨らみもしない腹をそっと撫でていた。彼の視線が、一瞬だけそこへ注がれる。その重みを、わたしは真正面から受け止めた。


《……わたくしは、この内側で微かに脈打つ命が、いつの日か見るはずの世界を、壊したくはないのです。ただ、それだけなのです。枢機卿、あなたの信じるものが国家の秩序であるならば、わたくしが信じるものは、これから生まれる──まだ名も持たぬ小さき命の明日です。どちらが真に守るべきものか。どうか、あなたご自身の魂にお問いください》


 わたしは、言い終えると静かに頭を下げた。


 アウレリオは、宣誓状を握りしめたまま、ただ、動かずに立ち尽くしていた。彼の心の中で、国家への忠誠と、家族への愛が、激しい戦いを繰り広げている。


 ヴォルフが、そっとわたしの肩に手を置く。その温もりが、凍てつく心に、確かな希望を灯してくれていた。


 長い、あまりにも長い沈黙が支配した。やがて、アウレリオは一度、固く目を閉じた。その睫が震え、白い吐息が冬空へわずかに滲む。


《……残念ながら、私個人の独断で国境を開くことはいたしかねます。この書状は、責任をもって速やかに首都へ送り届けますので、本日はどうかお引き取りを……》


 その言葉は、彼の唇から紡がれたというよりは、彼の魂そのものが発したかのように、苦渋に満ちたものだった。声は雪面に落ちる鉄片のように硬く、ひびを含んでいた。


《そうですか……わかりました。では、わたくしは陣地に戻り、返答をお待ちいたします》


 声は柔らかいが、母音の端々がわずかに震えているのが、自分でも分かる。


《最後にひとつだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか?》


《どうぞ、なんなりと》


《貴国の国民――首都ハロエズや、その周辺の住民には、何らかの警告は発せられているのですか?》


 アウレリオの瞳が氷面のように微かに揺れ、手にした羊皮紙が僅かに鳴った。


《……いえ、何も。現状、いたずらに民の不安を煽る事は避けるべき、というのが、上層部の判断です》


 わたしは、一度だけ深く吸い込み、胸中で灯をともす。


《災厄は命令を待ちません。刃を収めるより早く、日常を奪います――》


 取りすがるのではない。ただ事実を置く。そして最後に、わずかな祈りを重ねる。


《大統領閣下の賢明かつ速やかなるご決断を、心よりお待ち申し上げております》


 わたしはそれだけ告げ、王家礼式の角度で深く頭を下げた。外套の白裏が風にゆれ、停戦徽章が朝日にひと閃き。


 身を翻す刹那、背後で羊皮紙を握る音が僅かに強まった気がした。もう、言葉は尽くした。あとは、彼の魂がどちらへ傾くか、ただそれだけ。


 わたしの背後で、ヴォルフが静かに馬を寄せる。彼が、わたしの肩を支えるように、そっと手を差し伸べた。その無言の温もりが、張り詰めていた心の糸を、ほんの少しだけ解きほぐしてくれる。


 去り際、わたしはもう一度だけ、アウレリオの姿を振り返った。彼は、わたしたちの背中に向かって敬礼を捧げていた。その指が微かに震えているのを、わたしは見逃さなかった。それは、敵国の女王へ向けた儀礼的なものではない。一人の騎士が、同じく何かを守ろうとする者へ捧げる、魂の敬礼に違いなかった。


――思いは届いた。それでも門は開かなかった……。


 首都からの回答が届くのは、早くとも明日の正午――はたして間に合うのだろうか。


 陽は、いつしかわずかに西へ傾き、国境を分かつ要塞に、長く冷たい影を落とし始めていた。言葉という見えざる剣の応酬は終わった。けれど、本当の戦いは、今まさに、それぞれの胸の内で始まろうとしていた。


 わたしたちの小さな一行が再び森へと消えていくのを、アウレリオは、その場から一歩も動くことなく、ただ見送っていた。その手の中で書状が、まるで未来の重さを宿したかのように、ずっしりと沈んでいた。


 その瞬間だった。張り詰めた空気に、焦げた鉄を思わせる匂いが混ざる。頬をかすめる風が帯電し、肌を針のように刺した。足裏へ細い振動が滲み込み、脊髄を駆け上がって肩を揺らす。大地が息を呑み、どこかで薄い膜がきしむような――圧迫された靴底の下で、大気ごと世界が一拍だけ凹む。直後、空間がふっと緩んだ。嵐の前の静けさにも似たその弛緩は、むしろ不吉を濃くする。


 これは、土の奥で産声を押し殺す“何か”の胎動――大地そのものの呻きだ。いつ破れるとも知れぬ見えない膜が、今まさに内側から裂けようとしている。


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