馬車の中の、小さな夜~五分間の静寂(しじま)
野営地の灯は、吐息のようにか細く揺れていた。濃紺の宙をよぎる雲が月光を覆い隠し、杉の乾いた芳香が冷たい風に乗って、夜気にほのかに香り立つ。点々と地面を縫う炎の火点だけが、この荒野にかろうじて人の営みの温もりを灯していた。
先遣混成軍は、ここで短い休息を取るとただちに行軍を再開する。野営の余裕などない――一刻も早くハロエズ盆地へ到達し、その実情を確認しなければならないからだ。
行程は、今のところ順調だった。一次衝撃波で倒れた樹木や崩れ落ちた岩塊は、随行する魔導兵団が撤去し、行軍をほとんど滞らせていない。王立魔術大学から派遣された魔導観測班も、魔素濃度の測定と解析で着実に成果を上げていた。
馬車の幌を閉じたまま、わたしは、ルシルが淹れてくれた薬草茶の、最後のひと口を飲み干した。その、わずかな苦みと甘みが、張り詰めていた心の弦を、ほんの少しだけ、緩めてくれる。
ルシルは、空になったカップを受け取ると、静かな、しかし有無を言わせぬ医師の顔で、わたしに告げた。
「陛下、夜はこれから、さらに冷え込みます。お身体を決して冷やすわけにはまいりません。わたくし、湯たんぽを温めてまいりますね。火の番の者に言って、熱いお湯を分けていただきましょう」
「まあ、ありがとう、ルシル。でも、あなたも疲れているでしょう? 休んでいていいのよ」
「いいえ、これも軍医としての務めでございますから」
彼女は、悪戯っぽく片目をつぶると、音もなく馬車を出ていった。その背中を見送りながら、わたしは、彼女のその心遣いが、本当に、本当に、ありがたかった。
ルシルの気配が遠ざかり、馬車の中に、再び、わたし一人だけの静寂が訪れる。
ふと、外で鎧金具が触れ合う低い音。そして、わたしのいる馬車の幕を、ためらいがちに、そっとめくる気配。
外幕がためらうように持ち上がり、姿を現したのはヴォルフ。逆光に浮かぶシルエットは、砦の石壁から削り出した巨大な守護像のようだ。彼が肩をすくめるたび、甲冑の留め具がかちゃりと鳴り、そのかすかな金属音に、幾夜を重ねた疲労の重みが滲む。
「――どうしたの、総司令閣下。何か問題でも?」
少しだけからかう口調で階級名を告げると、彼は重い息をひとつ吐いた。
「いや、そういうわけじゃないが……」
「じゃあ、どうしたの?」
重ねて尋ねると、ヴォルフは言い訳を探す子どものように視線を宙へ泳がせ――小さく咳払いをひとつ。
「銀翼は完全にアウレリオの指揮下に入ったわけだが」
「うん?」
「指示系統が混線しないよう、俺は“女王陛下の護衛に専念せよ”と……バロックにもステファンにも、ご丁寧に念押しされてな」
「あらあら。たしかに体よく“追い払われた”、って顔してるわね」
軽くからかうと、ヴォルフは肯定も否定もせず、ばつが悪そうに視線を逸らした。その仕草に、普段は見せない人間味がのぞき、緊張で固くなっていた胸がふっと緩む。
「……否定はしない。あいつら妙に楽しそうだったぞ。『殿下は奥方の馬車でお寛ぎください』とまで言われた」
「へぇーっ?」
「文句言ってやろうと思ったら、クリスまで身を乗り出して怖い目で睨んできやがった」
「まあまあ……」
「全方位敵ばかりで、味方なんざ一人もいない。もはや“撤退”の二文字しかなかったさ。――ひどいだろ? 俺は総司令だってのに、この扱いだ」
冗談めいた声音の奥に、居場所のなさが滲む。軍靴の爪先が落ち着きなく砂をかき、その姿は、居場所を探す大きな子どものようで――胸の奥が、きゅん、と痛む。
わたしはクッションの隣をぽん、と叩いた。乾いた小さな音が、狭い車室に親密に響く。
「それは大変でしたわね、王配殿下。では “奥方の馬車” へようこそ。指揮権を剥奪された騎士様には休息を命じます」
わざと芝居がかった口調で告げると、ヴォルフは唇をわずかに歪める。笑みとも溜息ともつかぬ息を漏らしながらも、素直に隣へ腰を下ろした。重厚な甲冑が座面をきしませ、馬車がぎしりと小さく揺れる。
「……休むくらいなら斥候に出たいんだがな」
「あら、目の前に“最重要護衛対象”がいるというのに? ほかの持ち場が気になるのかしら」
ほんの少しわざと嫉妬を滲ませてみせると、蒼い瞳がはっとわたしを捉えた。
「……そういうわけでは、ないが……」
「あなたが前線で目立てば、皆があなたを目で追うわ。そうなればアウレリオ卿の統一指揮が台無しよ」
「俺はただ、野に放たれたいだけなんだ」
「残念、それは逆効果だったようね。――二人の翼長は正しい判断の末に、あなたをここへ送り込んだの」
軽口の裏に潜む “剣を握れない手” の所在なさを、わたしは見逃さない。
指揮権が無いことなど、彼にとって問題ではない。
ただ一瞬たりとも、わたしから目を離したくない―― その言葉にならない想いが、痛いほど伝わってくる。
きっと彼は、即席の混成軍が円滑に機能するよう全体を見渡し、橋渡し役として走り回ってきたに違いない。そんな無理を、あの聡明なバロックやステファンが見逃すはずがない。彼らは主君を、そして主君の想い人を気遣う、最高の騎士なのだから。
「まずはこれでも飲んで落ち着いて」
卓上に残された薬草茶に口をつけると――微かな焦げ味と、遅れてくる甘みが、再び心を静めてくれた。カップを彼に差し出すと、不承不承といった手つきで受け取り、その湯気を、ただ黙って見つめている。
「薬草茶か。……渋い」
「眠気より、あなたのその焦燥を鎮める方が、先でしょう?」
湯気は薄闇の中で琥珀に瞬き、やがて彼の呼吸の奥へ吸い込まれていった。彼は一口啜り、杯を置くと、やや声音を落とした。その声には、彼の、本当の心が、ぽろりとこぼれ落ちていた。
「――俺がいない方が、あいつらは伸び伸びやれる。頭では分かっているつもりなんだが……どうにも落ち着かない」
馬車の外で、遠い角笛が短く鳴った。交替見張りの合図。火番の影が行き交う気配が、車室の板壁を、ことことと微かに震わせる。――。遠くの臨時鍛冶場から、槍先を打ち直すのであろう乾いた槌音が、風に乗ってかすかに届いては消える。
「ねえ、ヴォルフ」
「ん?」
「わたしは、あなたが“ここ”にいてくれる方が落ち着く」
それは――飾り気のない、わたしの本音だった。
愛おしさで胸が満ちた。そのすぐ横を、「守り切れるのか」という冷針が貫く。眠りを浅くするのは、いつもこの二つの感情のせめぎ合い。
でも、今は半分だけ伝えれば十分だ。
わたしのその一言に応えるように、ヴォルフの眉間から硬さがほどけ、かすかな柔らかさが宿るのが見えた。
「……そうか。女王陛下直々の命令とあらば、全力で遂行しよう」
そう言って、彼は、重々しい甲冑を、外套ごと、ようやくその身から解き放った。
鉄が床に落ちる。鈍い音。
わたしは床板に毛布を敷き直し、鎧が傷つかぬよう手早く布を畳む。
言葉は要らない。北方遠征で、狭い天幕の中、何度も繰り返した手順だった。あの頃の、息が触れ合うほどの距離、無言のままに交わされる信頼。その全てが、この仕草一つで、鮮やかに蘇ってくる。
代わりに、聖剣ガイザルグレイルだけを腰へ残す。鋼の鎧を脱いだ彼は、途端に柔らかな影を帯び、ランプの灯に照らされた頬の骨格が、いつもよりずっと、近くに感じられた。
鎧を脱いだ肩線が、ただの“男”の重みで沈む。とくん――胸の裏側だけが、わずかに脈を打つ。
「しかし、俺が離れた途端に奴らが暴走しないか、正直、不安ではある――」
「そんなこと言わない。バロックもステファンも、あなたが信頼を置く騎士でしょう? 任せることだって、上に立つ者の大切な仕事よ」
わたしはクッションを背に寄せ、彼の隣へ、ほんの少しだけ、浅く腰かける。隙間風が、燻製肉の燻る匂いを運び込んできた。
「それにね、あなたが“邪魔”なのではなく、きっと“支柱”だから外されたの。皆が、あなたに依存しすぎないためにもね」
ヴォルフは目を伏せ、苦笑した。
「……支柱、か。なんだか飾り物みたいで、光栄なのか微妙なところだ。俺は最前線で切り結ぶタイプなんだがな」
「疲れた支柱は折れやすいわ。だから、ここで少し木蔭に隠れていればいいの。わたしが、あなたの風除けになってあげる」
「それは逆だ。風除けは俺の役目だ」
「夜くらい、交替したって罰は当たらないわよ」
彼の、即座の、そしてあまりにも真摯な返答。その言葉に、わたしは、もう、何も言い返せなかった。ただ、込み上げてくる、どうしようもないほどの愛おしさに、胸が熱くなる。
彼は、薬草茶を飲み干し、盃を置くと、少し逡巡してから、その大きな背中を、わたしの肩当てに、そっと預けた。窓の帆布が揺れ、隠れていた月が、雲の切れ間から顔を覗かせる。わたしの髪で、銀の簪が淡く光を返した。
薄闇で、彼の横顔を盗み見る。瞼の下に刻まれた疲れの影が、わたしが思うよりも、ずっと濃い。この長い遠征と計り知れない責任の重圧。その全てを、この人は先頭に立って背負ってきたのだ。
「……静かだな」
「あなたが、そばにいるからよ……」
「……おまえが黙っていると、俺は余計なことまで喋ってしまいそうなんだが」
「なら、こうしましょう」
わたしは小さく咳払いをして、自分が羽織っていた外套を、彼の肩口へ、そっと被せた。彼が、驚いて身じろぎする。その動きを、押し返す前に、わたしは言った。
「五分だけ、目を閉じて」
「んん?」
「わたしが起きているあいだに、あなたが少し眠るの。交替制よ」
「五分か……女王陛下に命令されては逆らえんが……。俺はすぐ寝れる癖がついてるからいいとして、おまえはそうもいくまい?」
「いいの。この五分間は、この腕の中からあなたを誰にも渡さない」
冗談めいて、そして、ほんの少しだけ本音を込めて言うと、彼の瞳の奥がようやく、本当に春の雪解けのように柔らかく解けた。彼は、わたしの肩にかかる黒髪を一房そっと指で掬い、唇を震わせる。その、ためらいがちな仕草に、彼の全ての想いが凝縮されているかのようだった。
「……なら、せめてその五分で、お前の夢見が良くなるよう祈ろう」
「祈りより、――その寝息の方が効くわ」
「……役に立てているなら十分だ」
笑い声は出ない。
ただかすかな、そして温かい息だけが、夜の木箱にそっと満ちていく。
やがて、彼の呼吸が、深く、深く、沈んでいく。その穏やかな寝息を聞いていると、外で鳴る角笛の音さえ、遠い、遠い子守唄のように聞こえた。
わたしは、そっと、彼の顔にかかった銀髪を、指で優しく払いのける。眠っている彼に触れる、初めての、そしてあまりにも大胆な、わたしの我儘。その、絹のような髪の感触に、心臓が、甘く、そして痛く、跳ねた。
五分後。目を開けたヴォルフが静かに身を起こし、まだ眠れると言わんばかりに、今度はその外套を、わたしの肩へそっと掛け返す。わたしは、この馬車の帷を開けることなく、しばし、そのまま、この世界の、ただ一つの、静寂を守り続けていた。
※臨時野戦鍛冶場――魔道具や魔導兵の力を借りれば可能。
心のよりどころとしての「馬車」
夜の野営地に灯る焚き火、その吐息のように細い光の描写が、本章全体の基調音となっています。
戦場という外部状況、馬車という一時の避難所。そのコントラストのなかで、「ふたりの時間」はまるで凪のような情緒空間として編み込まれており、静謐な心理劇がゆっくりと展開します。
この密室では、メービスもヴォルフも「正しさ」や「義務」からは一時的に解放され、“素の自分”が相手に現れる瞬間が重ねられていきます。
ヴォルフの心理 不器用な献身と、「居場所」の喪失感
「追い払われた」「全方位敵ばかり」という自嘲めいた言葉。
しかし、ヴォルフの本心はそこではありません。
彼は責任感と忠誠に突き動かされて走り回っていた。だからこそ、居場所を与えられた“この馬車”にこそ本音が流れ込むのです。
そして、彼の“言葉の多さ”は実は不安と愛情の裏返し。「剣を帯びぬこの手」への居心地の悪さ――それは戦士としての自分の“喪失”であり、同時に“守りたいものがある”という無言の証明です。
彼が「支柱」であることを笑う場面は、その矛盾の象徴。彼は最前線で戦う(“雷光”と称される突撃型)ことこそ自己定義だった男。しかし、今は誰よりも“彼女の傍にいること”を選んでいる。
この“騎士の姿ではない騎士”の矛盾が、彼の最も人間的な魅力になっています。
メービスの心理:半分だけ伝える“母の覚悟”
メービスは、もはや“ただの少女”ではなく、国家と命を背負う「女王」でもあり、母になろうとする存在です。
この章における彼女の美しさは、「言わない」ことで愛を伝えるその繊細な配慮にあります。
「わたしは、あなたが“ここ”にいてくれる方が落ち着く」
この言葉に、彼女は胎内の命の存在と、それに伴う恐怖と愛しさをすべて込めていますが、伝えるのはあくまで“半分”。
その抑制こそが、メービスの成熟であり、孤独な覚悟と支え合う勇気の証なのです。
4. ふたりの関係性 「支える/支えられる」の静かな交替
「わたしが、あなたの風除けになってあげる」
「それは逆だ。風除けは俺の役目だ」
「夜くらい、交替したって罰は当たらないわよ」
このやりとりに象徴されるのは、「交替制」という概念。
物理的な防御や役割を交互に担う――それは戦場における戦術でもあり、愛においても互いを支え合う成熟した関係性の比喩です。
彼女が「五分だけ」と命じる場面では、それがより明確になります。
「この五分間は、この腕の中からあなたを誰にも渡さない」
これは単なる恋情ではなく、未来への祈りと、今しかない一瞬への集中。
ヴォルフが応じるとき、ふたりの間にあった年齢差、過去の非対称性、すべての隔たりが溶けるのです。
余韻と沈黙の力:「声を発さずとも語る」愛のかたち
「鉄が床に落ちる」
「髪を指で掬う」
「外套をかけ返す」
「寝息の音が子守唄のように響く」
これらの描写はすべて、台詞の“代弁”として機能している身体表現であり、この物語がどれだけ“言葉を超えたところ”で語られているかを示しています。
そしてラストのモノローグ――
「わたしは、この馬車の帷を開けることなく、しばし、そのまま、この世界の、ただ一つの、静寂を守り続けていた。」
これは、決して言葉にしてはならない「幸福」への祈り。短くも深いこの静寂こそが、彼女たちがかけがえなく守ろうとしている未来です。
ふたりの心理の交差点
メービス
からかい・半分の本音
母としての愛/不安/守れぬかもしれない恐れ
言葉でなく態度で愛を示す
ヴォルフ
逃げるように隣へ/饒舌/寝息騎士でない自分への違和感/彼女を守りたい衝動
鎧を脱ぎ、自ら弱さを見せる選択
この話は、戦いの直前でありながら「最も静かな夜」。
けれど、その夜は、ふたりが“命を懸けて守るべき未来”を見つめ合うための、小さな確約で満ちている。




