ふたつでひとつの翼、静かに畳まれて
砦の最上階に設けられた作戦室は、厚い石壁に囲まれながらも、高い窓から充分な光を採り込み、まるで真昼のように明るかった。朝の斜光が石壁を跨ぎ、金色の埃を静かに泳がせる。
中央の楕円卓には、この地域の広大な地図が広げられ、その上を、磁鉄鉱の駒と色糸が蜘蛛の巣のように這っていた。
ごつごつとした岩肌を刻む国境線、ゆりかごの出現が最も危惧されるハロエズ盆地、そして、わたしたちの集合予定地点である、通称『暁焔陣地』――そこを示す緋色の輪が、東西へと延びる街道を、まるで喉元を締め上げるかのように、強く括っていた。
卓を囲む面々は十人に満たない、この作戦の中核を担う者たちだけだ。
右手奥、濃紺の豪奢な外套を肩に掛けた騎士軍使のギュンターが、鉱石羅針の指針を睨みながら、低い声で呟く。
「右翼・左翼の両大隊は、今朝未明に最終班が街道を通過。予定通り、二五リーグ先で野営の準備に入っているはずです」
その隣で、ルシルが静かに頷き、羊皮紙の余白へ、先の尖ったペンで、赤インクの印を几帳面につける。
「補給列の隊位も維持されています。医務馬車は、殿下のご指示通り、後方から二番目へ付け替えました。炸薬を積んだ馬車とは、充分に距離を取っておりますので、万が一のことがあっても……」
彼女はそこまで言って、縁起でもない、とばかりに口をつぐんだ。
わたしは卓の東端に立ち、両手で、少しだけ端が丸まった台図を押さえた。その、乾いた羊皮紙の感触が、指先に、これから始まる戦いの現実感を伝える。
「本隊が追いつくまでは東街道を駆け抜ける。ただし最終陣地は――国境の手前。観測塔は“魔素反応いまだ平静”と告げている。静穏のあいだにどこまで陣形を畳んで速度を稼ぎ、どの地点から再び隊列を展開し警戒線を張るか……」
わたしの声に呼応し、レオンが一歩進み出る。盤上の駒を二つ、慎重に滑らせ、灰色の指標を〈境界標石五一番〉へ寄せた。
「銀翼の突撃槍列がまともに展開するには、最低でも二百パスの横幅が要ります。――ですが林帯の切れ目は少ない。よって“旧巡礼道”の尾根、その手前の緩斜面こそ最終防衛線といたしましょう。ここなら右翼も左翼も二手に割れずに済みます」
ヴォルフが無精髭をざらりと撫で、斜めから盤面を射抜く。
「尾根筋は視界が利くぶん、匂いも風に乗る。魔獣の嗅覚に晒される危険はあるが――こちらから国境を踏み越えぬ限り、向こうが来るしかない。“迎え撃つ”には好都合だ」
彼の指は、ハロエズ盆地の手前、“霧降りの窪地”を第一接触点と定めた。そこに囮の索敵斥候を配置し、谷底ギリギリまで前進させる。
「――魔獣が窪地を越えてこちらへ足を掛けた瞬間、尾根の上部から炸裂槍隊が突き下ろし、自国領内で迎撃。もし群れが分散した場合は、クリスの小隊が右斜面を滑降し、側面を切り裂く。踏み越えた魔獣のみ――徹底的に潰す」
クリスが拳を胸甲に当てた。
「了解! 我が小隊十三、うち四名が炸裂槍、九名が従来ランス。“国境標石を盾にする”つもりで斜面を掃討します。火薬装填は?」
「威嚇より確殺を優先。“硝魔晶二分”で充分。一歩でも境を越えた魔獣は、森と共に灰に還れ――それでいい」
レオンは駒を爪先で軽く回し、尾根と街道の間に細い色糸を渡した。
「では接触がなければ――」
「日没まで待機、翌暁三刻に陣地後退。共和国から正式要請が下りず、なお魔獣が動かぬなら……
残念だが、こちらの役目は終わる。越境する権限を持たぬ以上、防衛は東部方面軍に任せるしかない。一度王都へ帰還し、備蓄と兵を温存する。そして要請が届いた瞬間、ふたたび此処へ舞い戻る――それが即応軍である銀翼の務めだ」
部屋を満たしていた緊張が、ひと息で凛と研ぎ澄まされた。誰も異を唱えない。国境線は、鋼よりも重い“掟”なのだ。
熱を帯びる会話の合間を縫い、それまで黙って記録を取っていたルシルが、こほん、と、わざとらしく小さく咳払いした。
「……ちなみに陛下も殿下も、あくまで“観測・後詰”の任であると、この医療記録には書かせていただきます。お二人は、あくまで最後の切り札です。最前列に立つことは、断じて容認いたしかねます」
ルシルの静かな宣言は、艶のない鋼よりも強く室内に響き渡った。ヴォルフがわずかに眉を跳ね上げる――けれど、わたしはそれを制するようにやわらかく微笑み、首を縦に振った。
「もちろんよ、ルシル。白銀の翼を呼べるのは最長でも三百秒。投入の刹那こそが勝敗を分けるわ。だからわたしは――暁焔陣地の後方で、風が呼ぶその瞬間まで翼を畳んで待つだけ」
琥珀色の光が地図の羊皮紙をなぞり、指先に落ちる。
レオンが視線をヴォルフへ移す。白銀の駒をつまんだままの手が、ひどく律儀に静止している。
「殿下は、どうされるのですか?」
「当然、俺もメービスと同じ位置で待機だ」
低く落ち着いたヴォルフの声に、レオンの瞳が大きく揺れた。
「えっ……前線で全体指揮を執られるのでは?」
「指揮ならバロックとステファンで足りる。俺の本分は――『巫女』を守る“ただ一振りの剣”だ。いつでも“ふたつでひとつの翼”を起動できる場所にいなければならん」
その言葉に、レオンは目を見開いたまま、しかしその表情は、深い納得と尊敬の色に染まっていた。
わたしはヴォルフへ視線を返す。目と目がかすかに重なっただけで、胸の奥で銀糸がふわりと鳴った。そして、彼の袖を祈るように指先で強くつまんだ。
「わたしたちは二本の聖剣どうしで結ばれた巫女と騎士。――“ふたつでひとつのツバサ”。
……だから、決して離れないって、約束して?」
囁くと、彼は肩を小さくすくめ、普段なら決して見せない、照れたような笑みを浮かべた。
「はいはい、分かったよ。……まったく、勝てる相手に勝てと言われるより難しい命令だ」
そこへ、ルシルがメガネを押し上げながら淡く口角を上げる。
「当然です。それが王配――いえ、夫としての務めです。わたくしがお側で目を光らせますので」
ヴォルフは苦笑いをこぼし、ほんのわずか、わたしへ身を傾けて囁いた。
「……ボコタで、お前を独りにしたことは、俺も十二分に反省している。もう二度とあんな真似はしないと誓う」
胸に沁みる低音。
「うん。どこにも行かないで――ずっと、いっしょにいて」
「ああ」
短い、しかし何よりも強い言葉と共に、彼の手が、わたしの手に重ねられる。
軍議室に立ちこめていた鉄と火薬の匂いが、不思議と、遠い秋の花香へと変わっていく。王国が誇る最強の“盾”と“矛”。――だけど、今だけは、ただ寄り添う夫婦の温度だけが、静かに部屋を満たしていた。
その時だった。石の階段を、誰かが駆け上がる、慌ただしい軍靴の音が響き、作戦室の重い扉が、遠慮がちに叩かれた。
「失礼します! 伝令ッ!」
許可を得て入って来た若い騎士が、汗の滲む額を、革の手甲で乱暴に拭い、ぜえぜえと息を整える。
「前線の左翼第二中隊長――ブルーノ隊より緊急の報せです。巡察の途中、南方の森で、魔鳥種“グラヴィオル”三体を撃退、かつ、その羽根を採取した、とのこと。残骸を確認ののち、すぐに行軍を続行する、と」
その報告を聞いたレオンが、盤上から顔を上げ、ほっと安堵の息を吐く。
「おそらく、予兆の段階で漏れ出した魔素に引かれて、魔鳥が吸い寄せられているのでしょう」
ヴォルフは地図に爪先で一点、そして即断した。
「潮目が、いよいよ動き始めた証拠だ――予定を半刻繰り上げる。本隊への追随を最優先しよう」
わたしは胸に手を当て、ブローチの、硬く、そして冷たい感触を確かめた。その中央に嵌め込まれた青い宝玉が、高い窓から差し込む光を受け、卓上に、小さな、七色の虹を跳ね返した。
その、淡く、そして儚い輝きを覗き込むように、隣にいたルシルが、そっと囁いた。
「……リュシアン殿下も、“ここ”で頑張っておられるんですね」
「ええ。きっと見ていてくれる。だからこそ、あの子に恥ずかしくない背中を見せないと」
作戦卓の周囲で、再び、駒が目まぐるしく動き、色糸が張り替えられていく。
隊列は、整えられ、一本の、鋭い矢のように伸び、ハロエズ盆地の尾根へと、その切っ先を向ける。
わたしは、そっと一歩退き、改めて、この部屋にいる仲間たちの顔を見渡した。
この、小さな砦から、王国の、そしてわたしたちの未来を守るための、銀色の盾が、今、飛び立とうとしている。
窓の外には、まだ薄い雲がかかる、どこまでも蒼い空が広がっていた。
けれど、陽は、確かに、そして力強く昇り続け、騎士たちの銀翼を、希望の色に、淡く、淡く、照らし出していた。
第666話
まず、この回を構成する中心的要素としてあるのは、「境界(国境線)」という存在です。地図上の「国境標石五一番」が示すのは、物理的な境界であると同時に、越えてはならない道義的・政治的な一線の象徴でもあります。
主人公側はこの境界を絶対に侵犯できないという制約を抱え、敵側である魔獣だけが境界を越えることが許されます。この非対称的な条件設定は、物語の緊張をより強調しています。境界線を前にしたこの「待ちの姿勢」が、作戦立案における慎重さと、切迫した緊張感を生み出しているのです。
作戦室の描写は、その緊張感を具体的に象徴しています。石壁に囲まれた閉塞的な空間、しかし高窓から入る光がもたらす明るさは、「希望の予感」と「重い責任」の二重性を巧みに描いています。蜘蛛の巣のように張られた地図上の色糸は、戦略という合理性を表現しつつ、絡み合った運命や因果の象徴とも読めます。
レオン、クリスといったキャラクターたちが、軍略においても自らの役割を明確に認識し、迷いなく的確に判断を下していく様子は、彼らの成長や責任感を改めて明示しています。
ヴォルフのリーダーシップは圧倒的で、彼の発言や判断一つひとつが周囲の空気を明確に支配し、物語における絶対的な指導者としての地位を固めています。
その一方で、この回で特徴的なのが、軍略会議という本来冷たく厳粛な場面においても、ヴォルフとメービスの間に流れる繊細で親密な感情描写が挟まれている点です。
「ふたつでひとつの翼」という言葉が繰り返されるのは、ふたりがただの戦友以上の、運命的かつ情緒的な結びつきを持っていることを改めて強調しています。ヴォルフが自らを「巫女を守る剣」と規定し、メービスがその関係を大切に受け止めることで、この戦いが個人的なものであることを示唆します。
また、ここでのヴォルフとメービスのやり取りは、過去のボコタでの出来事――ヴォルフが「殿役という死に場所」を選び、メービスのそばを離れたこと――を想起させ、そこからのヴォルフの反省と彼の責任感を描いています。この短い会話の中で、二人の感情の歴史が垣間見え、彼らがなぜ今この位置に立っているのかを深く理解させる役割を果たしています。
そしてこの章では、若い騎士たちの存在もまた重要です。レオンやクリスといった若手が主体的に発言し、状況を判断する様子は、これまでの物語で彼らが積み重ねてきた成長の成果であると同時に、未来への希望を体現しています。
ここで描かれる作戦が単なる戦術的成功を目的とするものではなく、彼らが担う未来を守るための戦いであることを鮮やかに表現しているのです。
また、終盤に届けられる伝令の情報(魔鳥種グラヴィオルの撃退)は、物語の外部で進行している情勢を示すとともに、いよいよ本格的な戦いが間近であることを告げる役割を果たしています。この報告によって「潮目が変わった」と即断するヴォルフの判断は、物語のテンポを一気に加速させ、緊張を高めます。
最後にメービスがリュシアンの存在を思い出す描写が添えられていますが、これはメービスが単なる指揮官ではなく母親(もう一人の)でもあるという側面を強調します。リュシアンへの想いは、メービスが戦場に立つ理由の根底にある感情的な動機であり、これから始まる戦いの意味を深く読み取る上で重要な手掛かりとなります。
総じて、この第666話は、作戦立案という論理的な描写の中に、キャラクターたちの心理的、感情的な層を見事に織り交ぜています。物語がいよいよクライマックスに向かう直前の静かな緊迫です。




