未来へ踏み出すための“今
【馬車内】
白い朝靄が石畳を這った。
その下で、王都の息づかいが薄絹の奥へ潜る。
王宮をあとにして間もなく、馬車は南門の並木へ滑り込んだ。梢の葉はすでに錆び色へと移ろい、乾いた風にあおられて――かさり、と薄氷がひび割れるような、乾いた音を立てて地面へ舞い落ちる。昼前とはいえ秋気は鋭く、窓ガラス越しに刺さる冷えが、頬をひやりと撫でた。
わたしは深い座席で膝を抱き、黒いマントの裾に指を埋めている。車体が緩く揺れるたび、ベルベット地がさらさらと衣擦れを奏で、わたしの鼓動と重なるように、規則正しい震えを返してきた。
向かいの席――ヴォルフは背をわずかに丸め、思案するかのように外へ視線を投げている。
夜明けの会議が刻んだ淡い無精髭は、刃を研ぎ終えたあとの鋼に残るかすかな筋――その筋までも、光を呑んで冷たく整えていた。その横顔を見ていると、国の重圧と、わたしたちの未来、そのすべてをその肩に背負っているようで、胸の奥が小さく痛む。
その隣には、わたしの随行軍医であるルシル・メナールが控えている。蜂蜜色の睫毛がふるえ、彼女は掌の上で、冷たい聴診石をそっと回していた。
元々、城塞都市グラン=イスト勤務だった彼女とは、北壁を越える旅路で出会って以来の付き合いだ。王都へ帰還してからもわたしの体調を気遣い、自ら望んで王宮侍医院に転属したという経緯を持つ。わたしにとっては専属医であり、心を許せる数少ない友の一人でもある。
薄氷のような沈黙の中、馬車がそっと身を揺らした。車輪の軋む音と、遠くで響く教会の鐘の音だけが、時折、その静寂を破る。
……どれほど、そうしていただろう。
そこが、離宮へ折れる分岐点だった。金木犀の垣根が続く丘道は、薄靄の奥で、きっと橙色の影を揺らしているはずだ。懐かしい屋根まで、もう一息という距離。ガラスに映る己の瞳が、ふと、リュシアンの灰褐色のそれと重なりかけ、胸の奥で何かが小さく軋んだ。
「……寄っていくか?」
風が一拍、息を潜める。
わたしはそっと首を振る。
「……やめておくわ」
声の尾が靄にほどけ、ルシルの睫毛がふるりと落ちた。
「リュシアンは、とってもかしこい子よ。いまのわたしの顔を見たら、きっと全部悟ってしまうに決まってる。
彼を……泣かせたくない」
そこまで言って、わたしは小さく息をのむ。本当に、そうだろうか。
「違う……泣いてしまうのは、むしろわたしの方かもね。
必ず帰るんだから、そんな永遠のお別れみたいなこと……」
言いながら、胸元の内ポケットへ、そっと指を差し入れた。
取り出したのは、小さなブローチ。あの子が「お守りに」と手渡してくれたものだ。中央には、リュシアンが描いたという、へたくそなクローバーの絵が彫られていた。稚拙な細工でも、中心の〈蒼星〉だけは驚くほど精緻で、どこまでも澄んでいる。冷たい金属の感触が、掌に確かな現実を教えてくれる。
「大丈夫。この“お守り”がある限り、わたしは無敵よ」
冗談めいた言い方でも、その言葉には祈りのような響きが宿っていた。
向かいの席で、ヴォルフがふっと目尻をわずかに緩めるのが見えた。
「……頼もしいな」
「無理矢理でもいい。強がりでもい。そのための誓いなの。このブローチには、彼の願いがたくさんこもっているんだから。
わたしは、それに応えなきゃ。笑顔で彼に会うために」
ブローチを胸に留め、そっと指先で押し当てる。わたしの体温が銀を通して反射し、胸骨の奥で、細く、けれど確かな灯がともった。
ヴォルフは、ようやくわずかに顎を引いた。
「その意気だ」
短い、けれど、絶対的な信頼を込めた言葉だった。
馬車は分かれ道を通過し、北東の街道へ本格的に乗り入れる。窓を少し下げると、刈り終えた麦束の匂い。遠くの野焼きが運ぶ甘い煤、そこへ重なる金木犀――秋を満たす息吹が、次々と流れ込んでくる。
――リュシアン。
離宮の庭は、金色の花粉が砂みたいに降り注いでる?
その香をまとって、あなたが雲の行方を追いながら、わたしたちの影を探しているかもしれない。
胸のブローチを撫でる。銀の輪郭が確かに呼応し、冷えた空気の中でわたしの中にだけ灯る、芽吹きを支える潤んだ紅。未来の熱が、そこに宿る。
昼前の陽光は南中へ向かい、車体の影を長く琥珀色の道に伸ばす。革バンドの軋み、風切り音、そして揺すられる金木犀の香。
季節は秋。
それでも胸の奥には、春を待つ蕾のような熱が、確かに根を張って膨らみ始めていた。
馬車は速度を上げた。
目指すは銀翼騎士団本部――仲間たちが待つ、もう一つの「家」。
わたしたちの旅路は、秋空の下で静かに次の幕を開こうとしていた。
◇◇◇
【車中――王都外郭~丘陵地帯】
分かれ道を背にしてしばらく走ると、靄はみるみる薄れ、車窓いっぱいに澄んだ秋の空色が広がった。
昼前の陽射しは斜めから射し込み、敷き詰められた落葉の錆色をやわらかく照らしている。舗装が石畳から硬い赤土へ変わり、馬車の上下動がわずかに荒くなる。車輪が小石を蹴ってはね上げる乾いた音が、だれからともなく、強張っていた身体の呼吸を、ふ、と深くさせた。
最初に口を開いたのはルシルだった。その声には、彼女なりにこの場の緊張をほどこうとする、優しい響きがあった。
「――この道、春に診療の遠征で通ったときは菜の花で真黄色でしたのに。季節が巡るのは早いものです」
わたしは頷き、窓に映る自分の輪郭へ目を落とした。つい先ほど胸に留めたばかりのブローチが、日差しを受けて小さく瞬き、その〈蒼星〉が水底のような色に透けている。
「秋はいいわ、香りが深いもの。さっきの金木犀もだけど……」
右手で無意識に腹部をなぞると、ルシルが即座に、しかし穏やかな視線を飛ばしてくる。
「妊婦の過度な遠征は“医官泣かせ”ですので、深呼吸だけで我慢してくださいね」
「わかってるわ。息を吸うくらい、医官の許可がなくてもかまわないでしょう? 窒息させる気かしら」
冗談めかして返すと、ヴォルフがくすりと喉を鳴らした。彼の纏う空気が、ほんの少しだけ緩む。その珍しい様子に、わたしもつられて口元をほころばせた。
「心配性の医官殿を困らせているのは、むしろ俺の方かもしれんな。昨夜だけで――三回――」
ヴォルフは指を三本立て、肩をすくめる。
「“殿下、睡眠が足りていません” と詰め寄られた。寝台より診察台の方が長かった気がするが?」
ルシルはメガネを押し上げ、すかさず切り返す。
「事実でございます。殿下に倒れられては一大事。銀翼全体が機能不全に陥ってしまいますので。……それに、わたくしは患者の身分を選びません。容赦もいたしません」
「言うようになった」
ヴォルフが苦笑し、わたしも思わず口元を緩める。
朝の空気が一拍だけ和らぎ、馬車の揺れさえ――ささら波のように穏やかになった気がした。
そこでヴォルフが、ふと話題を変える。彼の笑みがすっと消え、その声は、再び騎士団長のものに戻っていた。
「ところで――レオンたちにも“炸裂槍”の実戦投入を許可した。試射の手ごたえは十分だ。着いたら訓練場で見せてやろう」
ルシルが目を丸くする。
「噂のブラスト・ランス、ですか。王宮でのデモンストレーションでは、窓が震えるほどの音だったとか」
「そいつは半分誇張だ。だが威力は折り紙つきだぞ」
わたしは小さく息を呑んだ。胸の奥で、あの赤い髪の、真っ直ぐな青年の顔が浮かぶ。
「レオンたちに持たせるには、少し危なくない?」
「だから“特別小隊”にした。あいつらは真っすぐだが無謀ではない。しっかり者のクリスが安全弁の役を担ってくれるだろう。いいコンビだ。
いざとなれば俺がフォローするさ」
その言葉には、部下への絶対的な信頼が滲んでいた。不安と、誇りとがないまぜになり、胸が熱くなる。
ふと、馬車の幌の隙間から乾いた風が吹き込み、三人の前髪を一斉に揺らした。街道沿いの畑はすでに収穫を終え、低く刈り込まれた穂が黄金色のカーペットのように続いている。
手を振る農夫の姿が点々と見え、その合間を白い鷺がゆっくりと舞い降りた。
この穏やかな風景、この名もなき人々の営み。これこそが、わたしが守りたいものなのだと、改めて思う。
「豊作ね」
わたしが漏らすと、ヴォルフが景色を追いながら答える。
「今年は雨が適度だったからな。ラズロー公の言うとおり、倉を動かすなら今が好機ってわけだ」
「彼ならきっと抜け目なくやってくれる……」
「言い換えれば“腹を括った”ってことだろう。王都は鈴を付けたヴァルナー、戦場は俺とお前――そして補給はラズロー。盤面は揃った」
その言葉に、わたしはブローチをそっと押さえなおす。あとは、指し手である、わたしたち次第。
ルシルが思い出したようにメモ帳を広げ、人差し指で、診察の時と同じように、とん、とん、と二度、その縁を弾いた。
「そうそう陛下。今後は母体を考慮し、揺れの少ない馬車への乗り換えを検討して――」
「ルシル」
わたしが静かに呼ぶと、彼女は顔を上げる。
「あなたの助言は何より頼りになるわ。けどね、今日は“母としての顔”より“女王としての顔”が前に出る日なの。――そのくらいの無理を通す覚悟はもう決めたわ」
その静かな決意に、ルシルはゆっくり息を吐き、そして眼差しを引き締めた。その瞳には、もう友としての不安はなく、女王の決断を支える、軍医としての強い光が宿っていた。
「……承知しました。ならば医官として、陛下の無茶は、私が前もって全部想定します。陛下はただ、ご自身の戦いに集中を」
ヴォルフが満足げに頷く。
「ルシルがいてくれれば、俺の仕事も減る――ありがたい話だ」
「殿下の業務削減は医官の職掌外です」
ルシルは平然と言い切り、ポケットのペンで手のひらをとんと叩く。
「助かるんだがなぁ……」
「助かった分で、せめて五十呼吸分はお休みくださいませ。でなければ、私の鎮静薬が出番です」
「勘弁してくれ」
短い押し問答に、わたしは思わず肩で笑った。
「ヴォルフ。細切れ睡眠は、あなたの十八番でしょ? ちゃんと休みなさい」
「やれやれ、女王陛下のご命令とあれば、従うしかあるまい」
馬車の天井に揺らぐ光が、三人の笑顔を交互に照らし出す。
秋の陽は高い。
向かう先には、戦支度に沸き立つ銀翼の砦が待っている。
心臓の鼓動が、車輪のリズムと重なって速さを増した。
リュシアンのブローチが胸元で微かに鳴り、銀糸のような決意が再びわたしの中に張り渡る。
「そろそろ見えてくる頃合いだ」
ヴォルフの言葉と同時に、視界の端に石造の監視塔が現れはじめた。
銀翼騎士団本部――わたしたちの第二の家。
わたしは背筋を伸ばし、マントの前留めを確かめる。
再会の約束を胸に、馬車はもう一段、速度を上げた。
◇◇◇
王都の外郭を抜けるや、空の色ががらりと変わった。
薄い朝霧はまだ路傍に尾を引いていたが、陽はすでに高く、丘陵の草は夏の名残を焦がした枯金色を帯びている。遠目には鷹揚な景色――けれど谷あいにその姿を現した砦は、秋晴れの静けさを断ち切るように、鋼の緊張をまとっていた。
銀翼騎士団本部。
それは、一つの小都市と呼んで差し支えないほどの規模を誇っていた。谷間の地形を巧みに利用して築かれた、三重の城壁。その中央には、司令部として機能する無骨な主塔がそびえ、それを取り囲むように、兵舎、厩舎、そして武具を鍛えるための巨大な鍛冶場が、機能的に配置されている。
華美な装飾を一切排し、ただ「戦う」という一点のためだけに築かれた、機能美の結晶。その秩序が、その外壁の隅々にまで行き渡っていた。風除けの壁には、冬を越したばかりのツタが絡み、高く掲げられた“白銀の双翼”の旗印が、吹き抜ける風を受けて、誇らしげにはためいている。
歩哨の足並みも、城壁を撫でる旗の翻りも、研ぎ澄まされた剣のように無駄がない。
鉄の門扉が静かに開き、馬車は中庭の石畳へ滑り込む。
扉が開いた瞬間、胸の奥へ駆け込んできたのは、鍛冶場の焦げた鉄と油の匂い――懐かしい、銀翼の香りだ。
馬車を降りると、正面で整列していた十二騎が一斉に剣を抜き、鋼を掲げるや、朝日に合わせて刃が白く閃いた。
「銀翼騎士団・特別小隊――女王陛下の御前にて、只今より随行任務につき着任!」
号令の主は、列の先頭に立つレオン。
かつては幼さを残していた鮮やかな赤髪が、いまは風に撫でられるたび黄金色を帯び、その瞳はもう少年のものではない。そこには、部下を率いる者の、確かな重みが宿っていた。
わたしが数歩近づくと、レオンは刃を胸の高さで水平に構え、深く膝を折った。
「――女王陛下、こうして再びお迎えできること、これ以上の誇りはございません!」
刃に映った自分の顔が、思いのほか穏やかだったことに、少しだけ驚く。
「……ただいま、レオン。見違えるほど精悍になったわ。もう立派な隊長の風格ね」
一瞬、彼の頬が紅潮する。その若々しい反応に、わたしの心も和んだ。
「身に余るお言葉です! まだまだ未熟ではありますが――銀翼の名を汚さぬよう、鍛錬は欠かしておりません!」
その横から、ふわりと声が跳ねた。
「そうなんです、聞いてくださいよ。夜明け前に素振り五百、消灯後も壁が揺れるくらい体幹トレーニング」
茶目っ気をにじませて笑ったのはクリス。
ショートボボブの茶髪が肩先で揺れ、青磁色の瞳に朝陽がちらと映る。かつての見習い騎士も、今は特別小隊の副官を務める逞しさを纏っていた。彼らの、この変わらないやり取りが、今は何よりも愛おしい。
レオンは鍛錬槍の穂先を布でぬぐう手をとめ、クリスを振り返る。
「ク……クリス! どうしてそれを!」
「あなたの隣室の人がね、“なんだか……その、夜ごと音がして”って、困った顔で相談してきたの。それが――まさか筋トレだったなんて!」
「え――っ!?」
間の抜けた悲鳴が中庭に跳ね、レオンは耳まで真っ赤にして視線を彷徨わせる。
「……っ、あとで謝っておかないと。悪いことした……」
茶化すでもなく、ただ焦る彼の背を、鍛冶場から吹く鉄の匂いを帯びた風がそっと撫でた。
クリスはいたずらっぽくウィンクをひとつ送り、再び隊列へ歩を返す。その後ろ姿を見送るレオンの頬には、赤味と同じだけの誇らしさがうっすらと滲んでいた。
わたしは軽く息を洩らして笑う。
「レオンの真面目さは折り紙付きよ。でも――人は寝ても育つわ、ほどほどにね」
レオンは耳まで真っ赤になり、しかし胸を張った。
「ご忠告、しかと肝に銘じます! ……ところで陛下」
彼のまなざしが、心配そうに、そっとわたしの腹部へ落ちる。
「ご体調はいかがですか? 長旅に備え、厚めの腰掛けをご用意いたしましたが」
わたしが返答を探すより早く、隣にいたルシルが軽く咳払いした。
「陛下は現在、わたしの管理のもとで運動も休息も調整しています。――レオン隊長、くれぐれも余計な心配はおかけしないでくださいね」
レオンはぎょっとして背筋を伸ばす。
「了解です、軍医殿。この私が責任をもってお守りします」
「私たちで、でしょ?」
クリスが笑いを含んで肩を突く。
「必ず陛下をお守りします。お腹のお子様もまとめて」
彼女はそう言って、軽く拳を胸に当てる。その仕草があどけなくも頼もしい。
その言葉に、わたしの胸の奥がきゅっと音を立てた。そうだ、この子たちは、わたしが守るべき未来そのものなのだ。そして今、その未来が、わたしを守ると言ってくれている。
ヴォルフがひとつ咳払いして場を収めた。
「陛下は無敵を自称している。が――無敵の背中にも盾は必要だ。お前たちに任せよう。頼んだぞ」
十二騎の剣先が一斉に空を切って掲げられ、澄んだ金属音が中庭を満たす。
陽光が刃から刃へとわたる光の鎖をつくり、それがひときわ明るく跳ねた瞬間、思い出が胸に火を点した。
かつて、新婚の行商人夫婦を偽装して送り出したふたりが、いまや剣を携えて女王の背を守る盾となった。
胸が詰まり、言葉がひと呼吸遅れる。
「……ありがとう。心強いわ。あなたたちと一緒なら、怖いものなんてない」
クリスが無邪気に笑う。
「でしょう? だってわたしたち、ふたつでひとつの銀翼ですもの!」
レオンも釣られて口元を綻ばせるが、すぐに真顔へ戻り列へ復帰した。
「陛下。右翼・左翼両大隊は既に出立し、指定集合点での合流を待つのみ。我ら特別小隊は第一誘導隊としてこれを追尾し、陛下を無事送り届けます」
わたしは頷き、ヴォルフと視線を交わした。
彼はわずかに顎を引き、背後の槍架へ視線を送る。
「では――装備点検に移れ。炸裂槍の穂先一本でも欠けていれば隊が凍りつく」
「了解!」
レオンの声が晴天に弾け、小隊が一斉に動き出す。
中庭には再び鋼の触れ合う甲高い調べが満ち、そのリズムは、これから始まる戦いの、力強い鼓動のようにわたしの胸を打った。
664話【馬車内】の描写は、メービス(ミツル)の内面と彼女を取り巻く絆の構造、未来への決意と旅立ちの儀式性が、秋という季節の静かな風景と重ねられながら紡がれています。
■情景と心情のシンクロ:秋の透明度と静謐な離別
物語は「白い朝靄」「錆び色の葉」「金木犀」「秋気の鋭さ」といった、季節の象徴を細やかに配することで、メービスの心理の揺れと静かな覚悟を鏡のように反映させています。
「昼前とはいえ秋気は鋭く、窓ガラス越しに刺さる冷えが、頬をひやりと撫でた。」
この“刺すような”感覚は、彼女の中にある未整理の不安、あるいは母としての決断の痛みを、季節の肌触りとして読者に伝えています。
■リュシアンを「見送らない」という選択
メービスが離宮に寄ることを断り、リュシアンに会わずに出発する場面は、非常に象徴的です。
「リュシアンは、とってもかしこい子よ。いまのわたしの顔を見たら、きっと全部悟ってしまうに決まってる。」
これは、泣かせたくないという母心以上に、自分自身の「弱さ」を見せたくない、あるいは“別れ”という現実を対面で告げる勇気が持てないという、未成熟な痛みすら含まれています。しかし同時に、会わないという“選ばれた距離”が、母としての自律性の始まりでもある。
彼女が懐から取り出す「へたくそなクローバーのブローチ」も、リュシアンとの距離を象徴する絆であり、すれ違いの温度差を埋める“代替的な”記憶装置として働いています。
■ルシルとヴォルフ:母性と守護の二重構造
この馬車内には、三者三様の立場が存在します。
ルシル=医官としての“生”の守護者、かつ“友”
ヴォルフ=国家と旅の護衛であり、父性と恋情のあわいに立つ“盾”
彼らの会話は軽妙でありながら、すべて「心身の支え」が主題になっています。
「今日は“母としての顔”より“女王としての顔”が前に出る日なの。」
ここでの宣言は、メービスが国家の“母”として、個人を抑えて立つ覚悟を示す決定打。ルシルの即座の切り替えも、医官のプロフェッショナルさを象徴し、静かに“従う力”の強さを照らしています。
■炸裂槍とレオンたち:未来の武器と青年たちの成長
ヴォルフから炸裂槍の実戦配備の話がなされることで、戦争が近い現実であると同時に、レオンとクリスたち“次世代のツバサ”の成長をメービスが実感する転調点となります。
■銀翼本部到着:家族のような“第二の帰還”
中盤以降、銀翼騎士団本部に着く場面では、重厚な緊張の中に「儀式的な美しさ」がありました。
正式な迎え入れの号令
鋼の剣を掲げる敬意のジェスチャー
「無敵の背中にも盾は必要だ」というヴォルフの台詞
これらはすべて、メービスが“象徴”として君臨することへの暗黙の了承であり、仲間たちの愛と忠誠の発露です。
■テーマの総括:秋の旅立ちは“春”を孕む
「それでも胸の奥には、春を待つ蕾のような熱が、確かに根を張って膨らみ始めていた。」
この最終段落が持つ詩的イメージは、今話の核心です。
秋=別れと決意
蕾=命、希望、再生
胎内に宿る新たな命と、国家の再建
それを“ひとりの女性”として背負う覚悟。
■この話の位置づけ
語らぬ言葉や滲む感情がふくよかに描かれた回です。物語は動いていないようでいて、深いところで確実に“信頼”と“母性”が根付き、「わたしたちの旅路」が明確に再起動される転機となっています。
それは政治的使命ではなく、個人的な祈りが孕まれた出発。
まさに、心と国家を同時に背負う者の旅立ち。
※クリスの突っ込みについては(笑)




