心を通わせるということ
石の冷えが足裏に張りつき、白い息だけがゆっくりほどけた。胸の奥に温度が滲み、器の底から精霊子が満ち上がってくる。見えない水が広がるみたいに、静かで、少し哀しい温もりが内側へ浸透していく。
圧縮された記憶と情動が、無音のまま一点に集まり、深い湖の底で波紋を作る。滴の音が遠くでやみ、代わりに微かなさざめきが耳の奥に生まれた。輪郭を持たないざわめきは、やがて名を帯びる。
――精霊器デルワーズ。
名が触れた瞬間、満たされた精霊子が底から引き寄せられ、意志を超えて全身に印を刻む。冷たさと重みが、骨の内側で静かに定着した。
《《……戻ってきて、くれたのね……》》
耳に届いた声は驚くほど柔らかい。女の声、苦い余熱を含んだ響き。刃のように研いでいた怒りが、一瞬だけ鈍る。
《《あなたは恨んでいるのでしょうね。こんなにも無慈悲で残酷な役割を押し付けてしまった私を……》》
胸の底で抑えてきた熱が、いっきに噴き上がる。遺伝子を弄び、血族をこしらえ、弟の魂と記憶を人質にし、茉凜の人生を奪った――すべての起点は、あなた。
喉が灼け、拳に力が集まる。灯りの輪の端で、茉凜が不安そうにこちらを見た。
「弓鶴くん……この声って誰なの? これが、もしかして根源っていうものなの?」
湿った空気が喉へ貼りつき、舌裏が乾く。
「……そうだ。これが根源とされるものの声だ。俺という器に集められた精霊子が、やつを蘇らせた。これで、俺たちの願いは叶う」
袖口で彼女の指がかすかに強張る。期待の温度が伝わってきた。
「ほんと!?」
私は一度だけ頷く。
「ああ」
胸の鼓動を押さえ込み、闇へ向けて声を投げた。灯りが揺れ、鉄の匂いが薄く立つ。
「聞け、ここに導き手がいる。お前が仕組んだ通りに、俺たちは導かれてきた。これで、要求された条件は全て満たされたはずだ。今すぐに解呪の儀式を始めろ!」
返ってくるのは沈黙。温度が一段下がり、耳の奥が痛む。
「どうした、答えろ!」
《《まだ……むりよ》》
短い落胆が、冷水みたいに胸へ落ちた。
「なぜだ!? 器は満たされ、お前は復活し、転移に必要不可欠な導き手だって見つかった。これで何が不足するというんだ? 」
声が滲み、焦りが熱を煽る。
「お前が求めていたものは、目の前にある。なのに、いまさら俺たちを裏切るというのか? 気の遠くなる長い年月、数多の人々が、お前のために尽くし、犠牲になってきたというのに……!」
石に吸われる反響が低く返る。
「……どうして、どうしてできないんだ……」
視線が落ち、拳に白みが宿った。
《《……それはね、この女の子の中にいるマウザーグレイルが、まだ完全には目覚めていないからよ》》
「目覚めていない? どういうことだ?」
彼女の声は悲色を帯びるが、冷えは増す。
《《この世界の霊的概念――すなわち“精霊子構造体“としてのマウザーグレイルも、私と同じようにこの世界では異物なの。だからひとたび覚醒してしまえば、長くはその存在を保てない。だからこそ、この子の中に入り込んでからは“必要な時以外”は休眠を選んでいたのよ……》》
息が詰まり、灯りがわずかに揺れる。茉凜の瞳が大きく開いた。
「必要な時って……それって、“見えるものが変になる時”のこと?」
《《それはマウザーグレイルの限定機能――未来断片重畳観測よ。複数の近似並行世界の時間軸の先を切り出し、重ね合わせて覗き見る機能。
私もよく知っているわ。かつて幾度となく救われたことがあるから。あなたにどんな影響を及ぼしたかは分からないけれど……きっと、あなたを守ろうと必死だったのね》》
推測が裏づけられるほど、胸は重くなる。
《《けれど……今のままではマウザーグレイルは眠ったまま。本来の力は発揮できないの。たとえ“門”を開いたとしても、前回と同じように儀式は失敗に終わってしまう。そうなれば、願いは永遠に潰えてしまうし……私がこの世界で犯した罪も、きっと償えない》》
「罪だと? お前は本当にそれを自覚しているのか。言い訳はいい、さっさと解呪を進めろ」
《《……だから、このままでは無理なのよ》》
言葉は冷たく響き、石の肌へ消える。
「では、どうすればいい? どうすればマウザーグレイルは目覚めるんだ?」
《《あなたたちが――真の意味で心を通わせることよ》》
背筋に氷が走る。最も恐れた言葉が、闇の底からこちらへ伸びてくる。
《《お互いのすべてを曝け出して向き合い、真に理解し合うこと。私が感じるかぎり、その子はあなたにすべてを委ねようとしている。けれど、対となる器であるあなたは、なお心を鎖で縛り、鍵を掛けたまま。だからマウザーグレイルは覚醒せず、繋がることもできない。それが解呪を妨げているのよ》》
顎の内側が冷え、膝の裏がわずかに抜ける。胸の奥で組み上げたシナリオが、静かな音を立てて崩れた。
彼女に知られたくない真実――美鶴という名も、罪の重みも。見透かされた瞬間、私は殻になる。恐怖が喉を凍らせ、耳鳴りが遠のく。
逃げたい。宿願も、誰かの願いも、すべてから。だが、弟のために来た。掌に残るのは、冷たい絶望だけだ。
石の冷えが足裏に貼りつき、闇は湿った気配で満ちる。胸の拍が浅く上がり、指先に硬さが戻る。
「心を通わせるだなんて、そんなこと……できるわけがないだろ……」
衣擦れの微音が大きく響き、灯りの輪が岩肌で細く揺れる。
《《お互いの心の壁を取り払わなければ、マウザーグレイルは目覚めないわ。呪いの運命を押し付けた私を、この世界から消し去ること。それがあなたの願いでしょう?
……それに、この子がこのままマウザーグレイルを宿したままでいたら、もう二度と普通には戻れなくなってしまう……》》
喉が焼け、息が乱れる。
「いまなんと言った? それはどういう意味だ? 茉凜がどうなってしまうというんだ?」
《《私と同様の因子を持たない者が、過分な力を秘めた存在を身に宿す。それはあまりにも重い代償を伴うわ。彼女の心はその力に押しつぶされ、やがては現実を見失うことになるでしょう。
彼女が目にするものは、現実と乖離した異界の幻影へと置き換わり、精神は徐々に崩壊していく。そのとき、彼女はもう、誰とも通じ合うことができなくなってしまう。それはとても恐ろしいことよ》》
灯りが淡く震え、掌に汗が滲む。
「……弓鶴くん、あなたはどうしたいの?」
視線が絡み、冷えた空気が肺へ沈む。
「わたしには、難しいことはよくわからないけれど……あなたが選ぶ道なら、どんな道でも一緒に進みたいな。もし、途中で止めたいっていうなら、それでもいい……。わたしのことは心配しないで。どんな結果になったって、あなたが選んだことなら、わたしはそれを信じたいから」
胸の奥が熱を帯び、逃げ場のない痛みが脈打つ。
「茉凜……俺はずっと臆病だった」
灯りの輪が近づき、吐息が白くほどける。
「わかっていたのに、優しさに甘えて逃げようとしていた。でも……お前の言葉で、ようやく腹をくくれたよ。なんで迷っていたんだろうな。ここまで来たっていうのに」
闇の底へ呼びかける。
「……デルワーズ。繋げてくれ」
《《いいのね? もう、後戻りはきかないわよ》》
「俺は茉凜を守ると誓った。彼女を、闇の牢獄に閉じ込めるわけにはいかない。
……それが俺にできることなら、受け入れよう」
《《……わかったわ。二人とも、もう一度しっかり手を繋いで、お互いを信じて向き合って》》
掌が重なり、脈が同じ拍で打つ。濡れた岩の匂いが近い。
「ほんとうにいいの? どうしても知られたくないことって、誰にだってあるし……わたしはそこまでして……」
「気にするな、茉凜。もういいんだ。お前には、ずっと笑顔でいてほしいから」
灯りの周縁で影が一つに縮む。
「すまなかったな」
「なにを謝るの? 弓鶴くんはなにも悪いことしていないじゃない」
「いや、今までいろいろと大変だったからさ。でも、これだけは覚えておいてほしい。これからどんなことが起ころうとも、どんなに辛いことが待っていようとも、
お前は、お前だけは、絶対に生き続けてくれ……」
「弓鶴くん……なんだか変だよ? それじゃ、まるで――」
洞の奥で滴が一つ落ちる。
「――別れの挨拶みたいじゃない……」
「違うんだ、茉凜」
「そうじゃない。ただ……万が一のことがあっても、お前が諦めないでいてくれれば、それだけで俺は救われるから……」
指先の熱が増し、握りが強くなる。
「弓鶴くんがそう言うなら……わたしは絶対に生きるよ。どんなに辛くても、あなたと一緒にどこまでだって生きていく」
「ありがとう、茉凜。お前がいてくれれば、俺はどこまでも進める気がする」
胸の固さがほどけ、拍が揃う。闇は静まり、呼吸の温度だけが近づいた。
光の気配が揺れ、耳朶に薄い温度が触れた。
《《始めるわよ……》》
世界の縁がほどけ、空気が夜明け前の草原のように浅く静まる。胸の底に懐かしさがふっと立ち、指先だけが覚える温度が戻る。学園祭の舞台『扉を開けて』の白いスポットが、いまの景色へ薄く重なり、虚構と現実の輪郭が和らいだ。
失う覚悟の痛みが棘のように残る。けれど、茉凜を救うために選ぶ道は一つ――痛みも悲しみも受け取る、と胸で固める。根源を再生させれば静かに消えるはずだった脚本は、彼女の真実に触れた瞬間に崩れた。いまはただ、守りたいと願う。
与えられてばかりだった自分に、返せるかもしれない唯一のこと。彼女の笑顔が戻るなら、非難も後悔も背負う、と素直に思える。光が広がり、手の中の温度が確かになる。
白が強まり、境界線が淡く消える。吸い込まれる感覚に喉が乾き、指を絡めて握る。同じ力で握り返され、掌の温もりだけが現実の綱になる。視線は白に溶け、境がやわらぐ――互いの心を曝け出し、渡し合うこと。茉凜が私の奥へ沁み、私も彼女の内へ流れ込む。
痛みも悲しみも遠のき、交わる温もりが境を消す。ここへ来たのは、守るため“だけ”ではない。共に生きるために、この瞬間を選んだのだと分かる。胸の痛みと恐れを超える覚悟が、いま必要だ。
光の粒が揺れ、呼吸がそろう。
「茉凜!」
白の底で名を呼ぶ。指先の力が増し、脈が重なる。
「弓鶴くん!」
遠くて確かな声が引き戻す。握りをさらに強め、白に呑まれる視界の中でただ一つ、彼女と共にこの瞬間を生き抜くことだけを考えた。やがて、すべては白に満ち、意識は静かに薄れていく。




