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帰還を願う母の筆

 背後の扉が閉じた。重みだけが耳に残り、音は闇に吸われていった。

 長い廊下に人影はない。薄硝子の心臓が、胸奥で跳ねる。

 磨かれた大理石に伸びる二つの影──先に寄り添うのは影だけだった。


「……よくやり遂げた。見事だ」


 曇りのない剣の刃のような声。隣のヴォルフは前方の闇を見据えたまま、わたしを一瞥もしなかった。

 わたしは答えなかった。唇を開けば、張り詰めていた何かが、音を立てて崩れてしまいそうだったから。


 代わりに、彼の大きな手の上に、そっと自分の手を重ねた。

 白い手袋の革越しに伝わる、確かな熱。たったそれだけで、どうしてこんなにも、胸の奥が締め付けられるように痛むのだろう。


「……ありがとう。ほんとうに」


 声がかすれて、うまく届いたかどうか、わからなかった。


 彼は何も言わないまま、そっとわたしの肩を引き寄せた。

 わずかに前かがみになり、その額が、わたしの髪にふれる――。


 それは、慰めではない。“何も言わなくていい”という、沈黙の抱擁だった。

 わたしたちは、しばらくそのまま、互いの呼吸だけを確かめ合うように佇んでいた。彼の呼吸が、わたしの浅い呼吸を、宥めるように導いてゆく。影が、言葉よりも色濃くわたしたちを包んでいた。


 やがて彼の額がそっと離れ、わたしを見下ろすように目線を落とす。

 目が合った瞬間、胸の奥の硝子瓶がひとつ、音もなく割れた気がした。


「……女王として、打てるだけの手は打ったわ」


 それは、報告でもなく、確認でもない。ただ、そう言わずにはいられなかった。自分自身に言い聞かせるように。


「考えられる最善手だ。申し分ない」


 ヴォルフの声音は、いつも通り落ち着いていた。

 それが、かえって痛い。彼の冷静さが、わたしが今にもこぼしてしまいそうな弱さを、浮き彫りにする。


「けど……」


 そこで、言葉が途切れる。


――わたしは母として、まだ無力だ。


 そう続けようとした唇を、ぐっと噛みしめた。


 ヴォルフはわたしの頬に視線を落としたまま、ゆっくりと言った。


「……わかってる」


 それは、“言えなかった言葉”を、すべて知っている人の口ぶりだった。


「国も守りたい。民も、未来も、約束も……そして、“子供たち”の笑顔も。お前がそのすべてを天秤にかけることすら望んでいないことも、な」


 わたしは、ただ頷いた。


「選べるものなんて、最初からなかった。わたしは欲張りだから、ほしいものはすべて、手に入れたいの。何かを得るために何かを捨てるとか、そんなことできない」


「知っているさ。それでいいんだ」


 彼の言葉は、静かで、優しかった。


「……わたし、戻ってこれるのかしら」


 それは、彼に問いかけた言葉であり、半分は、自分への呟きでもあった。

 彼はわたしの手を、そっと取った。手袋の指先を外さぬまま、ただ軽く包むように握る。その握力は、有無を言わせぬほどに強い。


「帰る場所は決まっている。――お前は、戻るだけだ」


 まるでそれが、世界で最も当然のことだと言わんばかりの声だった。

 わたしはもう一度、彼の胸に額を預けた。

 軍服の硬い生地の下から伝わる、彼の心臓の鼓動。それが、今この世界で、わたしを繋ぎとめる唯一の確かなものだった。


 それ以上、何も言葉はいらなかった。


◇◇◇


 控えの間を離れたのは、夜の二刻も過ぎた頃だった。

 ヴォルフは、銀翼騎士団の本部へと向かった。出陣に向けた陣頭指揮を取るためだ。


 王宮の中庭にある回廊を、コルデオとともに静かに歩く。足元の石は夜露でしっとりと濡れていて、その冷たさが、まだ震える心の奥に静かに沈んでいくようだった。

 磨かれた窓ガラスには、遠い北東の空の、不吉な葡萄色が淡く映り込んでいる。


「お連れしております。……サニル共和国大使、シェリス=リゼット・ハロエズ閣下です」


 扉の内には、すでにひとりの客人が待っていた。

 濃緋の夜装に身を包んだ中年の女官――いや、その目の奥に宿る光は、戦火の風を知る者のもの。長年の外交という名の戦場に鍛えられた気迫が、姿勢ひとつ、その指先のそろえ方にまで滲む。


「深夜に呼び立てて申し訳ありません、閣下。……急を要する話です」


「それは重々、承知の上で参りました。陛下が“夜に呼ぶ”というのは、“夜にしかできぬ話”があるということ。……それも、我が国の地図を広げなければならぬほどの。そうですね?」


 彼女の視線が、卓上の地図へ鋭く注がれる。

 わたしは、一度だけゆっくりと頷き、呼吸を整えた。


「お伝えすべきことは、ひとつです。巫女として、そして女王として、貴国に警告をお伝えしなければなりません」


 シェリス閣下の表情がわずかに強張る。だが、言葉を遮るようなことはしなかった。外交官としての冷静さが、彼女の動揺を覆い隠している。


「――先ほど、精霊からの神託を通じて、虚無のゆりかごの兆しを、明確に感じ取りました」


 蝋燭の芯がひときわ長く揺れ、その淡い炎が彼女の横顔に深い陰を落とす。


「……なんと……。神託、と申されますか。それは、真でございますか?」


「はい。発生予兆の座標は、北北東、王都より六十リーグ――標高一二〇〇。微細な空間振動も検知しています」


 その瞬間、彼女の肩がわずかに揺れ、目が見開かれた。初めて、外交官の仮面の下にある、一個人の動揺が顔をのぞかせた。

強く噛みしめていた唇が、わずかにほどける。


「……本当に、ハロエズ周辺で……? ばかな……あそこには、私の家族も」


「これは精霊との感応を通じて、巫女たるわたしに直接届けられた兆しです。過去にも、虚無の胎動が近づくとき、わたしの中にそれは確かな“波動”として現れました。これは虚報でも、揺さぶりでもありません。どうか、信じていただきたい」


 その時、彼女の唇の色がかすかに褪せていた。まるで血の気が引くように。


「……このままでは首都が……民が…!」


「ご存知のことと思いますが、虚無のゆりかごは単なる爆発現象ではありません。強烈な爆風に加え、広範囲の地殻変動を引き起こし、周辺一帯の地形すら変えてしまう。被害半径は、その等級にもよりますが、十リーグ以上に達する。しかも――」


 わたしは言葉を区切る。


「その後に残るのは、魔素の濃霧と魔獣の巣窟です。“万の狂気を孕んだ灯火”が核となり、魔獣の形を取る。それは生き物の姿を模倣しながら、意思を持たず、ただ破壊だけを指向する存在。被害は年単位にわたり、仮に首都が脅かされれば、都市機能は根こそぎ失われます」


 シェリス閣下はゆっくりと椅子を引き、背後の随行官に、もはや感情を隠しきれない、切迫した小声で告げた。


「……直ちに風耳鳥の支度を。本国中央へ。女王陛下の神託を最優先。一刻の猶予もないと伝えよ!」


 風耳鳥――月の道を飛ぶ、最速の伝書鳥。

 随行官はうなずくと、音もなく部屋を退出した。扉が、彼を吸い込むように閉まった。


「第一報は、夜明け前には中央本局へ届くはずです。……その後の判断は、本国政府と現地評議会に委ねられることになりますが……」


 彼女の手は震えていた。けれど、その目にはすでに、官僚としての迷いはなかった。


「閣下の迅速な判断に感謝いたします。誰か一人でも早く逃げられたなら……そのためだけでも、わたしたちがこうして会った意味はあります」


 シェリス閣下は頷き、少しだけ顔を伏せた。


「……中央大陸に残る古い伝承では――黒髪の巫女は〈確定的な厄災を招く者〉とされておりました。ですが、今宵……女王陛下が、〈命のために警鐘を鳴らす者〉であることを、わたくしはこの目で確かに見ました。まことに感謝に堪えません」


「……ありがとうございます。ですが、もうひとつだけ、お願いがございます」


 わたしは、そっと身を乗り出すように言った。


「我がリーディスには、援軍を送る用意があります。ですが、越境しての軍事行動は、国際的な火種ともなりえます。ですので――その判断は、あくまで貴国に委ねたいのです。あと、もし難民が此方側に避難してきた場合の受け入れ準備は整えておきます。御安心下さい」


 シェリス閣下は、しばし目を伏せ、やがて静かに答えた。


「ご配慮いただき、ありがたく思います。本国には、陛下のご意向をそのままお伝えいたします。……外交文書ではなく、切なる命の願いとして」


 わたしは、最後にもうひとつ口を開く。


「そして――もし可能であれば。わたくしと、王配であるヴォルフ、この二名の入国を、個人として許可していただきたいのです」


「陛下と殿下……お二人で? 正気でいらっしゃいますか。あまりに危険ではございませんか」


「はい。ですが、これは“公的な訪問”ではありません。あくまで個人――“巫女”と“騎士”として、貴国の救援に向かいたいのです」


「それは、つまり……お二方が戦うということですか?」


「必要とあらば」


 わたしの答えに、シェリス閣下は長く息を吐いた。そして、驚きと、畏怖と、そしてわずかな安堵をないまぜにしたような、複雑な笑みを浮かべた。


「……国を統べる方が自ら危険を冒し厄災に立ち向かうなど、常識では考えられないことです。しかしながら、だからこそ、あなた様は信頼に値するのかもしれません。わかりました……伝えておきます。“伝説の巫女と騎士が、再び歩みを共にする”。その言葉には、きっと――人々の心を動かす力があるでしょう」


 彼女は静かに立ち上がり、深く、心からの礼を取った。


「どうか、おふたりとも。……無事でいてください」


 彼女が扉の向こうへ消えると、わたしはしばらくその場から動けなかった。

廊下の方から聞こえる足音と、鳥の飛び立つ羽音が世界に小さく残響する。


 この夜に交わされたのは、戦争の布告ではない。

 それは、誰かの命を守るために必要な“通過儀礼”だったのだ。


 わたしはそっと胸に手を当てる。

 この国の誰かの母として、隣国の誰かの母として、たった一つの願いを託すように、静かに目を閉じた。


◇◇◇


 部屋へ戻ったとき、礼装を解くことも、髪をほどくことも忘れて、わたしはそのまま机の前に座り込んでいた。


 蝋燭の火だけが、弱く燃えている。

 その炎が照らす机の片隅に、小さな箱がひとつ、ぽつりと置かれていた。


 深緋のリボン。金の封蝋。

 リュシアンの拙い筆跡で、わたしの名が書かれている。


「メービス母上へ (あけていいのはおしごとおわってから)」


――そういえば、あの子はずっと、祝宴の間、椅子の陰でこの箱を大事そうに隠していた。「まだですっ」と笑いながら。

 ああ、それが――“あの瞬間”の、直前だったんだ。


 虚無の気配がこの空に満ちはじめたそのとき。

 あの子は、ただ笑っていた。

 何も知らず、けれど、どこかすべてをわかっていたような眼差しで。


 わたしは、そっと指先でリボンに触れた。

 ふと、手のひらがわずかに震える。


 解かれた布が、音もなく机に落ちる。

 中に入っていたのは、細い金属で作られた、小さなブローチ。

 中央には、リュシアンが描いたという、へたくそなクローバーの絵が彫られていた。


“幸せのおまもり”


 そう、小さく書かれた紙が一緒に入っている。

 くしゃくしゃな字。きっと、何度も書き直したのだろう。


 わたしは、声を出さずに笑った。


 そして、泣いた。


 そのブローチを胸元にそっと留め、目を閉じる。

 今、この胸の奥で生きている命もまた、あの子に守られる存在になるのだろうか。

それとも、わたしが、ふたりを守る存在であり続けるのだろうか。


 たぶん、どちらでもない。

 わたしは、ただ、この子たちの明日をつなぐ“通り道”でありたい。

 王でも、巫女でもなく、“母”として。


 それだけで、十分だった。


 灯りの落ちた書斎にひとりきり。

 肩の上には、礼装の重みがまだ残っている。けれどその衣が示す「女王」としての時間は、いま、この静けさの中ではもう、遠いもののように思えた。

 わたしの中に宿る、まだ名もない、声も知らない、でも確かに生きている“あなた”へ。この胸に脈を打つ、もうひとつの命に。


 羊皮紙を引き寄せた瞬間、手が止まる。

 わたしは気づかぬうちに、小さく息を呑んでいた。


 この手紙は、遺書じゃない。

 恐怖や別れの準備でもない。

 わたしが“戻るために”書くもの。


 たとえ、開かれなくても。

 たとえ、これを読むあなたが、ずっと後の誰かだとしても。

 このときのわたしが、確かに“ここにいた”と証すために。


 ペンを取る。インク壺に浸す指が、わずかに震えた。

 そのインクの匂いが、急に遠い記憶を引き寄せてくる。

 前世の山深い柚羽家で過ごしていた頃のわたしが、誰にも見せられなかった手紙。    

 書いては破り、書いては捨てた“許されない願い”たち。

 でも、今はこうして書けている。


 今夜の空は、不安なほど澄んでいる。

 静かすぎて――まるで誰かが息を潜め、わたしの言葉を待っているようだ。



  〈まだ見ぬあなたへ〉

  あなたがこの世界に生まれる日、

  わたしは、ちゃんと、そこにいたいと思っている。

  どんなに泣いてもいい。

  けれど――初めて笑うその顔だけは、わたしの胸で迎えたい。


  あなたの命が、どれほど奇跡で、

  どれほどの時と血を越えてやってきたものか。

  そのことを、わたしは誰よりもよく知っている。


  強さも優しさも、あなたのままに委ねたい。

  そのままのあなたを、この世界に差し出してくれたら――

  わたしは、そのすべてを、抱きしめるから。


  わたしは、あなたに出会うために、この身をここまで運んできた。

  だから――かならず、帰ってくる。


  その時、どうか、そこにいて。

  わたしが呼ぶ名前に、あなたの声で応えて。


  それが、わたしのたったひとつの希望。



 書き終えた羊皮紙を見つめながら、わたしは目を閉じた。

 涙は、落ちなかった。

 ただ、その胸の奥には、言葉では届かない“温度”だけが残っていた。


 蝋燭の炎がふ、と揺れた。

 夜が明けていく――この子の未来の始まりと、わたしの帰還のために。


 わたしは立ち上がる。

 その一歩が、静かに未来を連れてくる。


 わたしは行く。――ここへ帰るために。

◇ 優しさにも「相性」がある

たとえば、「どうしたの?」「大丈夫?」「話してごらん?」……典型的な“優しい人”の言葉ですが、心が塞いでいる時には、それすら「踏み込まれる」「自分のペースを乱される」と感じてしまうことがあります。


特にメービスのような、

・感情をすぐに言葉にできない

・むしろ理屈や責任感で自分を律しようとする

・誰かに“正面から見つめられる”ことに戸惑う

人にとって、「優しさの圧力」は、ときに暴力にも似てしまう。


◇ ヴォルフの“沈黙”は、優しさの成熟形

だからこそヴォルフは、黙って隣にいる。


「言わない優しさ」

「聞かない信頼」

「詮索しない尊重」


それが、彼の最大の思いやり。

しかもそれは彼自身の美学でもある。

「守る」ことは、「問い詰める」ことではない。

自分の役割は“肩を貸す”こと。“答えを迫る”ことではない。


◇ 饒舌さと沈黙のスイッチ

どうでもいい雑談、剣や戦術など“感情を持ち込まない場面”では饒舌になる。

これは現実でもよくあることで、「感情を巻き込むと不器用になる人」ほど、

“中立的な話題”では水を得た魚のようにしゃべるもの。

ヴォルフは、まさにそれ。


でも、大切な人が苦しんでいる時ほど、自分が言葉を発することで“彼女の心に波を立ててしまう”ことを恐れている。


だから、口数が減る。

「寄り添う」ことは、「触れないこと」だと知っているから。


ヴォルフのような男性は、ある種の“寡黙な完成形”なのですが、それは同時に、万人に愛されるタイプではないという、もうひとつの顔を持っています。


◇「足りなさ」の正体とは?

多くの女性にとって、

「好きな人に気持ちを伝えてほしい」

「気づいてほしい」

「言葉にしてほしい」

これは恋愛における喜びの根幹です。


けれど、ヴォルフはそこを明確に避けて通ってしまう。

彼は、メービスに対してすら「好き」「愛してる」と口にしたことがない。

ただ黙って隣に立ち、守り、寄り添い、選択”を委ねるばかりの沈黙の人。


これを、安心できる沈黙と受け取れる人はいいけれど、別の誰かにとっては――


「わたしのこと、ほんとうに大切に思ってるの……?」


という、静かな不安の源になるかもしれません。


◇ 「理想の男」にはならないヴォルフ

たとえば少女漫画的には、

・情熱的に想いを伝える

・独占欲をのぞかせる

・「お前を失いたくない」と抱きしめる

そういう要素こそ、恋愛の確証だったりする。


ヴォルフにはそれが“決定的にない”

彼は言葉の甘さよりも、責任と誓いの人。

「一緒にいる」とは言うけれど、「愛してる」とは言わない。

それは意図的な欠落であり、美学であると同時に不親切でもあるのです。


◇ でも、それでも――

それでもメービスは、そんな彼を選びました。

いや、むしろ――「他の誰かの優しさでは、自分は救われなかった」と知っていたから。


「優しさで抱きしめてくれる人より、抱きしめなくても離れない人の方が、わたしには必要だった」

こういう女性像は、きっと誰にでも当てはまるものではありません。


でも、メービスのように――

・誰かに頼ることに、強い罪悪感がある

・弱音すら「迷惑」だと感じてしまう

・それでも抱きしめてほしい気持ちは、確かにある


そんな女性にとっては、ヴォルフの沈黙は、ただの不足ではなく、最上の肯定になるのです。


◇ 結論として

ヴォルフは、「誰にでも通じる愛し方」はしない

けれど、「彼女にしか通じない愛し方」は徹底している

それが、彼のいちばんの矛盾であり、魅力です。


だから――普通の女性には“物足りない”かもしれない。

でも、“わたしだけにしかわからない”と感じた瞬間に、

その沈黙は、宝物に変わる。

それこそが、ヴォルフという男の、究極の在り方だと思います。



物語の呼吸を読み解く

“影だけが先に寄り添う”――孤独と連帯の美学

 廊下に落ちる二つの影は、まだ身体同士が触れ合えないふたりの〈心の距離〉を映します。

 けれど 「先に寄り添うのは影だけ」 という描写は、物理的な隔たりにも “魂はすでに手を取り合っている” という逆説的な親密さを滲ませる。

 これは 孤独を共有する という、言葉にならない連帯の象徴。恋慕や同志愛より深い次元で、相手の“重さ”を共に担おうとする決意が感じ取れます。


沈黙の抱擁――「語らずに済む関係」の贅沢

「それは、慰めではない。“何も言わなくていい”という、沈黙の抱擁だった。」


「説明」より「察し」

 思考ではなく体温で包む——その行為がメービスの張り詰めた心をいちばん素早く溶かす。

 ここで重要なのは、ヴォルフが“男性的な励まし(理屈・指示)”を排し、「言語から解放された安心」 を差し出しました。

 沈黙が成立するのは、相互理解が十分に育った証。「二人の歴史」を一瞬で想像させる、静かで豊かな叙情です。



“母としてまだ無力”——王冠と母性の二律背反

 メービスが噛みしめる 「欲張り」 という自己規定。

 

 ‐ 国 を捨てたくない

 ‐ 子ども も守りたい


「役割の同時並行」を引き受け、その狭間で自責する

 彼女の自己批判は弱さではなく “母性の覚醒痛”——命を抱えたときにのみ芽生える新しい恐れ。

 ヴォルフの 「帰る場所は決まっている」 は、その痛みに「選択肢ではなく約束」を差し出す台詞。揺れる相手に“決定済みの未来”を提示することで、彼女が背負う選択の重さを一瞬肩代わりしているとも読めます。



交渉の場で際立つ“母たちのまなざし”

 シェリス大使が動揺を露わにするのは 「私の家族も」 と口走る場面。

 外務官という鎧を脱がせたのは、メービスの 母としての語り口 です。

 「被害半径」や「魔素濃度」の説明すら、実は“我が子を想う母が、別の母に危険を知らせる” 手紙のよう。

 “具体的に子どもを想起させるディテール” が、最速で相手の行動を促した点が印象的です。



ブローチと手紙――護り手バトンの受け渡し

 リュシアンの拙いクローバーは 「幸せを願う者→幸せを授かる者」 のバトン。

 メービスはそれを胸に留め、自分もまた まだ見ぬ子 に手紙を託す。

 ここで 「護られる存在」と「護る存在」が、世代をまたいで循環 します。連続性=「母‐子」ラインが国家や戦争という巨大な枠組みを超え、物語のいちばん強い防壁として提示される瞬間です。



“行く――帰るために” 円環構造の決意

 ラストの宣言は 進軍 と 帰巣 を同一線上に置く逆説表現。

 家族の中心から外へ踏み出すとき、その動機はしばしば 戻るため の遠回り。

 この円環的な動機は、直線的な征服を志向しがちな男性ヒーロー像と対照的に、読者へ「帰還が前提の冒険」という安心感を与えます。


まとめ ―― ガラスの脈動、母胎の鼓動

 全篇を貫くのは、「壊れやすさを抱えたまま戦う」 というレジリエンス。

 薄硝子の心臓が脈打つたび、静かな廊下に決意が鳴り響きます。

 王冠よりも重い命の重み。

 けれど彼女はそれを弱点ではなく “帰還の錨” に変えた。

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