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震える指先と王の名~臨戦の円卓

 熱を帯びた刃がひゅっと抜かれるように、王宮じゅうがざわめいていた。


 夜を告げる鐘が、通常より一刻も早く、性急に鳴らされたせいだろう。政務棟の大理石の回廊では、インクで黒ずんだ指が羊皮紙を乱暴に丸め、壁際の燭台の火が神経質に揺れる。

 侍女たちは巻物と蝋の塊、そして王家の印章をそれぞれ両手に抱え、迷子の小鳥のように、視線だけがくうを泳いでいた。


「――円卓の間の準備を急げ」


「財務長官はすでにご到着です!」


 飛び交う早口の声。階下からは、整然と、しかしどこか焦りを帯びた軍靴の響きが硬質に反響する。

 高官たちが詰める居室の窓という窓には、次々と明かりが灯され、まるで王宮全体が、眠りから無理やり引き剥がされたかのように、神経質な光を瞬かせていた。召集の鐘が一度、二度、三度――その乾いた音が、不安を煽るように夜のとばりを叩く。


 しかし、その喧騒のただ中、政務棟の最上階、〈円卓の間〉へと通じる中廊下には、まるで嵐の目のような静けさが、不可侵の領域のように漂っていた。


 そこに、老侍従長コルデオがいた。

 ただ一人、まるで庭園の古い石像のように佇み、蝋燭の影の中、静かに控えていたのだ。その顔には、一切の動揺も焦燥も見えない。


「……お戻りを、お待ちしておりました、陛下」


 老侍従長コルデオの深く、穏やかな声に、わたしは小さく頷くことしかできなかった。

 彼の言葉の裏には、問いも、驚きもない。彼が先王の代からこの“玉座”の秩序を守り続けてきた時間は、どの重臣たちよりも永く、そして重いのだ。


「陛下にはこちらのお部屋を。ヴォルフ様は、向かいの控えの間にてご準備を」


 コルデオが恭しく扉を開き、わたし達はそこで初めて、無言のまま左右に分かれた。一瞬だけ、ヴォルフと視線が交じる。瞳の奥に、同じ覚悟の色が宿っているのを見て、わたしは静かに控えの間へと足を踏み入れた。


 控えの間へ通されると、侍女たちが衣擦れの音もなく一斉にひざまずき、わたしを囲む。


 冷えた指先が、葡萄色のショールを外し、誕生祝のために選んだシャンパーニュ色のドレスの背紐をほどいていく。絹とレースが静かに床へ滑り落ち、甘い花香をわずかに残したまま沈黙する。


 代わりに差し出されたのは、夜の闇よりも深い“純白”――月光を閉じ込めた礼装だった。

 その布が空気に触れた刹那、室温がすうっと下がった気がした。肌をなぞる絹の冷たさ。襟元に施された緻密な金糸の蔓模様が、細い針のように背筋を貫く。


 そして――。


 ビロードの盆に乗せられ、儀礼用の冠が運ばれてきた。

 銀の台座に鎮座する、深瑠璃の石冠。夜の湖の底を思わせるその深い蒼は、かつて父が戴き、魔族大戦終結後、わたしが否応なく継いだ王権の象徴。

その鉛色の重みは、すでに頭蓋の奥に刻み込まれている。


 しかし今夜のそれは――いつになく重く、そして氷のように、冷たく感じられた。


 侍女のひとりが、震える指で冠を恭しく掲げる。ごくり、と彼女自身の喉が鳴る音が、静寂の中に落ちた。そして、わたしの頭上へ、そっと置く。

 その冷たい円環が、こめかみに触れた瞬間、控えの間にいた全員が、糸の切れた人形のように、深く、深く膝を折った。


 音のない静寂の中、“私”という名の輪郭が、すう、と薄れてゆく。

 そして、空になったその場所に、“女王”という名の、冷たくも絶対的な存在が、そこに現れるのだ。


――わたしはリーディス王国女王――メービス・マティルデ・アデライド・フォン・オベルワルト=リューベンロート。


 役柄を演じるだけでなく、あるべき姿になりきること。それは、魂に刻まれた癖のようなもの。前世で、わたしは何度もそれを繰り返してきた。

 始まりの回廊で舞いを奉納する深淵の巫女、氷の王子様の仮面をつけた柚羽 弓鶴、舞台で演じた精霊の泉の巫女メイヴィス、そして……この世界の黒髪の巫女メービス。


 だが、もう今は違う。この胸の内には、守るべき小さな命が宿っている。わたしは、ただの器ではない。


 決意を胸に、わたしは再び、廊下へと踏み出した。

 長い廊下の向こうから、人影がひとつ、こちらへ向かってくる。

漆黒の軍服に白銀の肩章を戴き、その長身は先ほどまでの旅装とは別人のように、冷徹な騎士の威厳を放っていた。


 わたしの夫、ヴォルフだった。


 足を止め、彼が近づくのを待つ。やがて、数歩の距離で彼もまた足を止めた。

言葉はない。ただ、彼の瞳が、冠を戴いたわたしを真っ直ぐに見つめる。その視線に、わたしもまた、静かに応えた。

 それだけで、全てを理解した。共に戦うという、揺るぎない覚悟。互いの魂が、無言のまま、確かな誓いを交わす。


 わたしが再び歩き出すと、彼もまた音もなく隣に並んだ。

 彼の重い軍靴の踵が石畳を打つ音と、わたしの履く底の薄い革靴の先が床を擦る音だけが、長い廊下に、交互に、静かに落ちてゆく。


 その、一歩を踏み出した瞬間。

 わたしの指先が、彼の白い手袋の甲にそっと触れた。一瞬の、ほんのかすかな接触。だが、それだけで十分だった。彼の確かな体温と、共に立つという無言の誓いが、そこから流れ込んでくるようだった。


 誰も、声を発しない。

 宦官も、警衛も、廊下の隅に控える女官も――皆が、息を潜めるようにして、ただ    静かに頭を垂れ、わたしたちを見送る。


 早馬がもたらしたのは、簡潔にして、静かにして、そして何より致命的な情報だった。


 虚無のゆりかご――。

 六年前、中央大陸全域を埋め尽くすように発生し、大地を裂き、焼き尽くそうとしたその黒い災厄の名が、再び囁かれている。

 大戦終結後の半年前にも、それは現れた。あの時は魔族こそ出現したものの、幸いにも魔獣の巣窟は形成されなかった。


――わたしは、それで見誤っていた。あれはイレギュラーであり、過ぎ去った嵐の残滓のようなものだと。そう、侮っていた。


 わたしは歩く。

 ただ、歩く。

 視線を上げることなく、かといって逸らすこともなく、ただ一歩ずつ、定められた“その場”へと、近づいてゆく。


 その静かな行進に、言葉はない。

 誰への命令もない。

 

 女王が歩いている、と廊下の隅に控える警衛の誰もが息を呑んだ。

 冠を戴く者が、自ら歩むとき。国はもう、決して後へは戻れない。


 やがて辿り着いた、巨大な銀細工の大扉の前で、わたしは最後に、す、と足を止めた。


 この奥には、円卓がある。

 わたしを待つ者たちがいる。

 わたしの声を、命令を、祈りを、そして――下されるべき、判断を。


 深く、静かに、夜の冷たい空気を肺腑の底まで吸い込む。


 扉が、開く。


◇◇◇


 王宮・政務棟の最奥、銀扉の奥に広がる〈円卓の間〉には、すでに重たい衣擦れの音と、押し殺した咳払い、そして蝋が燃える微かな匂いが充満していた。


 女王の入室を告げるラッパも、格式ばった口上もない。ただ、純白の正装を纏ったわたしが、薄氷の上を渡るような静かな足取りで玉座へと進むと、それまで微かにざわめいていた空気は自然と水を打ったように静まり、居並ぶ重臣たちは皆、その視線を正面へと揃えた。


 その背後に控えるのは、王配ヴォルフ。漆黒の軍服に白銀の肩章を戴き、ただそこに立つだけで、軍務席に座る武官たちの緊張は一段階、その階調を深める。

そして、わたしたちの斜め後ろには、ご意見番として名高い侍従長コルデオが控える。

 手帳を抱え、書記官も兼ねて、その老練なまなざしは卓上の一枚一枚の羊皮紙に、鋭く注がれていた。


 左手の最前列、灰月の長・ダビドが、静かに一礼をして着席している。影の諜報機関である灰月がこうして表の会議に顔を見せるというだけで、この場に漂う緊急性と不穏の空気は、さらに濃く染め上げられていた。


 そこへ、ドアの外から足音が一つ、そしてカツン、という杖の打音。


「失礼いたします――魔術大学より急使として参上いたしました」


 現れたのは、年若き女性魔術士。肩からかけた紋章入りのローブが風に揺れ、その手には古びた巻物と、青白い光を放つ発光石の装置が握られている。


「入室を許可します」


 わたしがそう告げると、彼女は深々と頭を下げ、壁際へと控えた。


 その奥。末席のさらに影のような位置に、ひときわ重たげなローブを纏った人物がひとり、まるで石のように気配を押し殺して腰掛けていた。

 顔は見えない。フードを深く垂らしているその男は、かつてレズンブール伯爵と呼ばれた人物だ。

 既に息子フィリップに家督を譲り、今は勅許により謹慎の身。正式な列席権はない。だが女王であるわたしの特例によって、秘密のオブザーバーとして、密かにこの場に招かれていたのだ。


 彼が口を挟むことはないだろう。ただ、女王が必要としたときのみ、影の助言者として動く。彼自身もまた、己の立場を痛いほどにわきまえていた。


 周囲の誰も、今の彼に目を向けない。むしろ、“意識的に無視されている”という空気が、氷のように張りつめていた。その無言の警戒こそが、まさに彼が過去に何を成したか、そして何を恐れられているかを、雄弁に物語っている。


 だが彼は、意に介した様子もない。この身が罵られようと、すでに背負うものは背負いきった。それよりも、今ここに集う者たちの中に、自らのかつての過ちを繰り返す者が現れないことを――。

 彼は、ただ、それだけを祈るように、深く俯いていた。


 対面に並ぶのは、王国の重鎮たち。

 軍務席の最前、銀の肩章が凍りつくように光るのは、軍務長官・ゴレストス将軍。かつての戦役を指揮した老練の武官。白い顎髭を撫でる指先はぴたりと静まり、今はただ沈黙を貫いている。


 その隣に座るのは、聖職代表・大司祭セルヴィア。白金の聖衣をまとい、その清らかな眼差しは静かに、ただ女王であるわたしを見つめていた。


 民政からは、財務畑のラズロー公爵。金縁の帳簿を広げたまま、顔も上げずに、何かを羽ペンで素早く書き留めている。


 若手急進派の代表として参席したのは、イェーガー伯。端整な容貌に鮮紅の軍服をまとい、若干二十代にして軍政と法制改革の旗手と噂される人物。彼の射抜くような視線は、まっすぐにわたしへと向けられていた。


 対照的に、穏健派のヴァロワ侯は、長椅子に深く腰掛け、組んだ指先を静かに顎の前で揃えている。


 さらに、ツェルム商務長官が堅苦しい燕尾服を直しながら、目元の眼鏡を押し上げる。彼の関心は、この事態がもたらすであろう経済的影響にあるのだろうが、沈黙の中にも内心の計算は絶え間なく行われているに違いない。


 後列には、外務省と魔術省の代表。ともに黙して席に着いているが、魔術省側には一種の焦りのような緊張が走っていた――何故なら、魔術大学の新型〈対魔獣観測システム〉が、今夜の争点の一つにされるのは、火を見るより明らかだったからだ。


 そして最後に、銀翼騎士団――。


 左翼翼長バロック。

 戦場の泥と煙が、肩幅だけで歩いてきたような男。紺地に赤のラインが走る騎士団制服に、戦でくすんだ騎士章と、まだ研磨の光を残した銀の〈片翼〉の胸章を並べて留めている。

 肩を怒らせたまま、椅子の軋む音すら気にせずどかりと腰を下ろすその所作には、言葉ではなく実戦で語る者の気迫が滲む。それは、叩き上げの指揮官にしか纏えぬ、汗と血で刻まれた風格だった。


 対する右翼翼長ステファンは、年若くして卓越した技量と冷静な統率力を備えた男。まだ二〇代――だがその名は、かつてヴォルフと剣を競った“正統派の継承者”として知られている。

 黒衣の裾を乱さぬよう静かに着席し、理知的な瞳を細めたまま、一度たりともわたしから視線を逸らすことはなかった。

 彼にとって“指揮”とは、力ではなく、思考と意志で紡がれる、冷徹な構造物なのだろう。


 全ての席が、埋まった。


 扉が音もなく閉まり、蝋燭の炎だけが揺れる中、空気は極限まで張り詰める。

わたしはゆっくりと、円卓にそっと手を置いた。

 冷たい大理石の感触。冠の瑠璃に、蝋燭の灯がわずかに反射して、小さな星のように瞬いた。


 この瞬間より、リーディス王国は〈臨戦状態〉へと移行する。


 蝋燭の灯が、ふ、とわずかに揺れた。

 誰もが、呼吸を抑えるようにして、視線を中央に注いでいる。


 わたしは、ゆっくりと立ち上がった。

 その動きひとつで、円卓の空気が、ぴたり、と音を立てて凍りつく。


「――このような時刻に、急な召集にもかかわらず、皆が速やかに集まってくれたこと、心より感謝します。各位の責務の重さと、王国の行く末に対する真摯な姿勢に、女王として、そしてひとりの臣民として、深く敬意を表します」


 礼を述べるその声音は、決して朗々と響くものではなく、それでも厳かで、冬の泉のように清冽な響きを持っていた。

 そして、わずかに呼吸を整えたのち――。


「本日、皆をこの場に招いたのは、言葉通りの“火急”の事態が発生したためです」


 わたしの指先が、円卓の冷たい大理石の上で、かすかに震えた。その一瞬を、背後に立つヴォルフは見逃さなかった。彼の白い手袋に包まれた手が、わたしの手にそっと、重なる。咎めるでもなく、ただ支えるための、確かな重み。そのぬくもりに支えられ、わたしは次なる言葉を紡ぐ。


「……今宵、北北東へおよそ六十リーグ。サニル共和国・ハロエズ付近において――〈虚無のゆりかご〉と一致する兆候を、わたくしは感知しました」


 一瞬、部屋の温度が数度、下がったかのような錯覚。


 複数の視線が音もなく交錯し、硬い、氷が軋むようなざわめきが、会議卓の上を走った。


「おそれながら陛下。感知とは……具体的に、どのような……?」


 口を開いたのは、慎重派として知られる商務長官・ツェルムだった。だがその声音には、いつもの理知的な響きよりも、隠しきれない不安の色が濃く滲む。


「まさか……機器による観測ではないと?」


 わたしは、その問いに、まっすぐに頷いた。


「その通りです。これは……“わたし自身”が、感じ取ったものです」


 ざわめきが再び高まる前に、わたしは言葉を続ける。

 もっとも、それは方便に過ぎない。


「巫女としてのわたしが、精霊を通して受け取った脈動です。かつて――虚無が開き、魔族が姿を現す直前に、確かに感じた“あの波動”と寸分違わぬものでした」


 その言葉に、空気が変わった。

 女王が“神託”を口にするということは、すなわち、人智を超えた領域に、この国家を導く資格があることを、自ら宣言するに等しい。


 その言葉の重みに、最初に敬意をもって応じたのは、軍務長官ゴレストスだった。


「……女王陛下のおっしゃる通りでございます」


 その声は低く、しかし確かな信頼を込めて、続いた。


「魔族大戦の折、当時精霊の巫女であられた陛下は、我々がいかなる魔導観測機を以ってしても掴めなかった“虚無”の予兆を、的確に感知してくださいました。そのお力によって、どれだけの部隊が危機を逃れ、どれだけの将兵の命が救われたことか……」


 ゴレストスはそう言うと、ゆっくりと、深く頭を垂れた。


 続いて、わたしの背後に控えていたヴォルフが一歩前に出る。


「その通りだ。……女王陛下は、精霊の神託を受け、救世をもたらす聖なる巫女。その神秘の力を、俺はかつて幾度も――傍で見てきた」


 その言葉に、会議室の空気が、ひとつ、静かに落ち着いた。


 “見えないもの”に導かれることに対する、根源的な畏れと疑念。それを鎮めたのは、遠い神話ではなく――この戦場で、その力を認め、共に戦ってきた者たちの、揺るぎない証言だったのだ。


 静寂ののち、老侯ジュルトが、低く唸るように呟いた。


「……神託とあらば、異を唱えるものではない。されど、この事態が……魔族大戦の再来とならぬよう、打てる手は打たねばなるまいな」


 このひとことを境に、ここにいる全員が理解した。

 この会議は、「科学的確証」を得てから動く場ではない。

 天与の力に導かれながら、それでもなお、人としての責任を引き受けるための場なのだ、と。


 静寂が、深く、深く、円卓に降りた。

 その只中で、わたしはゆっくりと、次なる言葉を紡ぐ。


「――それゆえ、ここに布告します。リーディス王国は、これより“緊急事態”に入ります」


 その声は、もはや祈祷のようだった。


「まず、わたくしの命において銀翼騎士団に即応体制を。北東ルートを優先。右翼翼長ステファン、左翼翼長バロック、それぞれ部隊を三単位に分け、国境境界線の監視にあたっていただきたい」


 名指しされた二人は、ほぼ同時に席を立ち、硬質な音を立てて拳を胸に当て、深くこうべを垂れた。


「魔術省へは、対魔獣観測網の可及的速やかな展開を求める。魔術大学との協調体制は、灰月を通じて構築。必要とあらば、未試験の原型機でも投入を許可します」


 魔術省の代表が、苦い顔で眉を顰めながらも、しかし力なく頷いた。


「灰月には、国境周辺の情報、及び異常現象の捕捉を命じます。公的機関からの通報だけでなく、村落単位での風評や噂まで、すべて拾い上げ報告を。人々の声こそが、もっとも早い警報装置となりうるはずです。」


 ダビドが無言のまま、手にした細筆を、羊皮紙の上で素早く動かしている。


「外務省は、今宵のうちにサニル共和国大使を密かに王宮へ招致するよう。儀礼は不要です。民の避難判断を一刻も早く得たい。必要とあらば、王国の名で避難支援を提供する覚悟です」


 商務長官ツェルムが、驚いたように眉を上げたが、即座に口を噤んだ。

 この場において、慈悲は贅沢品ではない。冷徹な戦術なのだ。


「財務庁には――国家予備費の一部を、非公式に動かせるよう備えを。水・保存食・油・布・薬品。今からでも遅くはない。市街各地の倉庫に移送を開始。名目は、例年より早い冬支度で構いません」


 ラズロー公爵が、音もなく帳簿を閉じ、静かに頷いた。


「念の為、王都内の警備部隊は今夜より夜間巡回を強化。市民には過度な不安を与えず、しかし空気の緊張を読み取らせることが肝要です。備えの空気が、人を動かすのです」


 その声は、まるで冷たい夜風の中で、迷わぬ者の背を照らす、静かな灯火のようだった。確かな熱を帯びていた。


「そして、皆々方――」

 

 その時、わたしの声が、ほんのわずか、かすかに震えた。


「もし、これが本格的な〈目覚め〉であったなら……」


 言葉を選び、一度、息を吐く。


「やっとの思いで勝ち得た平穏な日常。しかし、王国は再び“災厄”という名の風にさらされようとしているのかもしれません」


 円卓を囲む全員の顔を、わたしは一人ずつ、その目を見て確かめるように、ゆっくりと見渡した。


「だからこそ――いま、この国の中で、“まだ何も知らぬ者”たちの安寧を、守りたいのです」


 その言葉は、もう祈りそのものだった。


「日常を、崩さぬままに。

 逃げる自由を、奪うことなく。

 そして、“逃げない”ことを選ぶ者には、相応の剣と盾を」


 その言葉の余韻が消え失せた時、会議の場には、まるで〈一つの国〉が、静かに、しかし確かに、立ち上がったかのような感覚が満ちていた。


 誰もが席を立ち、沈黙のまま、深く一礼した。


 この女王の言葉に、もはや疑念の影はない。

 この人が言うならば――

 たとえ再び、あの黒紫の空が裂けたとしても。

 我々は、その下に生き延びられるかもしれない。


 そんな、かすかな、しかし確かな希望の光が、そこに灯っていた。

 第六百六十話の構造的・情緒的・政治的考察を多層的にまとめます。


【1】章タイトル「静寂の戴冠」に込められた意味

 「静寂」とは、王宮の異常な沈黙、個人の感情の抑制、国家的な恐怖の“嵐の目”である。


 「戴冠」は儀式の一環ではなく、“人格の変容”を表す象徴行為であり、ここではメービス=ミツルが「私」から「王」として再起動することを意味する。



【2】感情構造とメービスの三重性

 この話では、メービスという人物の三重の人格層が精緻に入れ子構造として描かれています。


1. 私的領域妻・母・ミツルとしての「私」恐怖、愛、責任、ためらい

2. 公的領域女王メービス威厳、論理、秩序、使命感

3. 精霊的領域 黒髪の巫女/神託を受ける者畏怖、啓示、超越性


→ この三層が、戴冠・行進・布告という段階を経るごとに、“融合”しながら“分離”するという逆説的な演出になっています。



【3】政治・軍事構造の張力と静謐

① 円卓の構図と“空気の対話”

 発言よりも「沈黙・姿勢・視線」で重臣たちの心象が伝えられる。行間の政治性(誰があえて黙っているか)の演出。


例:

 ・レズンブール→「無言の贖罪と監視」

 ・ツェルム→「恐れと経済官僚としてのリアリズム」

 ・ゴレストス→「過去を知る者としての誓い」


→ “国家の意思”が言葉より先に空気で決定していくプロセスが、緊張感を生んでいる。


② 銀翼騎士団の“両翼”

バロック 現場叩き上げ。戦場の現実/命と泥の象徴

ステファン 正統派騎士。理念・構造・統率の象徴


→ 対比的に描くことで、「メービスの王権とは、この両翼を同時に信じる力」であると示される。



【4】宗教性と神託構造の再定義

 「神託を口にする」=王の政治的自殺になりかねない危険な行為だが、ここではあえて“科学的観測”より先に“感知”が置かれた。


なぜそれが許されるか?

 → 過去の実績(魔族大戦を戦った本来のメービスとヴォルフ)と、「騎士ヴォルフ将軍ゴレストスの証言」によって神託は制度として承認されているという、非常に綿密な構成。



【5】詩性の役割──「祈りとしての政治」

終盤、メービスが口にした三行詩


 > 「日常を、崩さぬままに。

 > 逃げる自由を、奪うことなく。

 > そして、“逃げない”ことを選ぶ者には、相応の剣と盾を」


→ これは演説ではなく、「祈りの形式を借りた政策指針」であり、法でも軍令でもない、“魂の呼びかけ”として受け入れられる。



【6】読者の感情曲線と揺らぎの構成

章内ポイント 感情作用

冠を戴く瞬間 息を詰めるような緊張と自己抹消

ヴォルフとの接触 安堵と共感、支え合いの提示

円卓の入室 公の重さ、役割の変容

神託の告知 背筋を這う不安と希望の交錯

最終布告と詩文“誓い”の形式による浄化作用


→ クライマックスを、典型的「激しい議論対立」ではなく、「静かな共有と誓い」で収束させるのが本作の構造。


【総評】

 これはただの“政治回”ではない。

 これはメービスという人物が「母として」「王として」「巫女として」、三重の存在を自ら選び抜き、「国家とわたし」を結び直した回。


 リュシアンの誕生祝の温もりを胸に秘めたまま、

 誰にも気づかれず震える指先に、ヴォルフの手が重なる──

 その瞬間、この物語は“政と愛”を一つの文脈にまとまる。


 この回を境に、リーディス王国の運命と、女王メービスの“人間としての未来”は確実に変わります。

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