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ささやかな祝祭と、その果てに

「レシュトル、もう一度──正確な座標を」


[IVG-SCAN] 北東へ230.14km/標高1200/重力歪曲 Δ0.016

[IVG-LOG] 事象コード〈VY-0〉“虚無のゆりかご” — 臨界。

[IVG-WARN] 第二相転移の発生予測。過去データに該当なし。


 ゆるりと窓辺へ歩み寄り、厚手のカーテンに指を掛ける。布地の奥で夜風がふわりと膨らみ、金糸の刺繍が灯心のように瞬いた。


 夕空は、まだ息を呑むほど赤い。

 だというのに――北東のへり、雲の薄衣の端を鉄錆めいた葡萄色がじわりと染め上げていた。 風の層が噛み合わず、雲がわずかにちぎれるたび、そこだけが冷えた静寂を零していた。


 胸裏で何かがわずかに軋む。あれは確かに〈虚無〉の匂い──視界の紅を食む、無慈悲な影色。


 ガラス越しに、遠雷に似た振動が指先へ伝わる。思わずカーテンを握り締めた爪の先で、絹が《シャリ》と泣いた。


「……間違いない。再び、来る」


 呟きは糸を震わすように細り、わたし自身の耳にも頼りなく揺れた。

 足音ひとつ立てず、ヴォルフが肩先に影を重ねる。窓硝子へ映ったその横顔は、眉間の皺がひと筋深く刻まれ、微かな皿雲よりも重い気配を孕んでいた。


「……風が、息を潜めた。空の彩りも――どこか、砕けている」


 低く磨かれた声が、研ぎ澄まされた剣の峰のように静かに響く。わたしは言葉を探さず、ただ一度、頷いた。


 北東の果て。夕紅の余薔薇を呑み込みながら、墨汁の雫が水面に滲むように、葡萄色のしみがじわりと脈打っている。 雲ではない。空そのものが蝕まれ、沈黙のまま異形へ書き換えられていく。


 視えない風鳴りが、皮下の動脈をかすめ、柔らかな内肉に氷の爪をそっと滑り込ませる。 それは幾度も修羅場を渡ってきた騎士の肉体に焼きついた、本能の警鐘。その冷たい直感が、わたしの鼓動と静かに重なった。


「……わたし、わかるわ。あの雪原で肺に刺さった圧と同じ。空気の密度も、重みも――微塵の違いもない。虚無のゆりかご……その《目覚め》の直前の脈動」


「レシュトルが、そう告げているのか?」


 ヴォルフの問いに、わたしは静かに頷いた。巫女と騎士のシステムは、閾値を超える精霊子が器に集わねば、リンク回線が開かない。今はまだ、わたし一人の頭骨で跳ね返る、密やかな警鐘に過ぎなかった。


「ええ。ほぼ確定よ」


 彼は静かに頷き、ソファへ視線を落とす。そこでは子どもたちが、波打つような寝息を重ねていた。ただ、わたしの耳に届くその微かな鼓動は、深い湖底でくぐもる水音のように遠く、鈍く、まるで世界そのものが音を剥ぎ取られ始めているかのようだった。


 卓上の蝋燭が、はらりと揺らぐ。橙の光が壁紙を濡らし、影を伸ばすたび、胸の奥で不安が脈を刻む。

 一度、深く息を吸い込み──吐く。視線の先にいたロゼリーヌを捉え、わたしはドレスの裾を指先で摘み、眠る子どもたちの間を縫うように歩み寄った。


「ロゼリーヌさん」


「……はい?」


 振り返った彼女の翠の瞳に、夜灯がひと閃きの光を宿す。柔らかな声音の奥に、異変を読み取った聡明な光が沈んでいた。


 窓の外、北東の空──墨紫はなおじわりと広がり、沈黙のうちに〈虚無〉の胎動を孕んでいる。

 この闇を越え、守るべき命がここに息づく限り、わたしたちは立ち止まれない。


「――申し訳ありません。わたくし、この場をいったん外させていただきます」


 ロゼリーヌの長い睫毛が微かに揺れた。


「……何かが、起きているのですね?」


 わたしは迷いなく頷く。


「先ほど、魔素の流れに強い乱れを感じました。半年前、雪原で遭遇した時と酷似した、不吉な脈動です」


「……“あの時”……」


 一瞬、彼女の淡いヘーゼルの瞳に恐れの翳りが走る。


「《虚無のゆりかご》発生の兆候と見ています。座標は王都から遠く、東境を越えたサニル領内と――」


「まあ……。きょうは、あの子の大切な誕生日だというのに……」


 震えかけた声を、ロゼリーヌは唇を噛んで押し留めた。母としての理性が、瞬時にその身を鎧う。


「ですが、ずいぶん距離がありますわね。わたくしには魔素の奔流は感じ取れませんでしたが……もしかして、それは精霊のお告げでしょうか?」


「黙っていてごめんなさい。予兆に近いものは夢の中であったんです――ただ、まさか現実になるとは思わず……今日、この日にだけは来てほしくなかったのですが……」


「謝らないでください。あなたが警戒を口にしていたなら、この祝いの席は開けなかったでしょう? ――感謝こそすれ、非などございません」


 そう言いながらも、ロゼリーヌの顔に別の色が浮かぶ。

 言うべきか、言わざるべきか――そんな一瞬の逡巡。やがて彼女は小さく、しかし凛とした声で告げた。


「ですが──いちばん気懸かりなのは、あなた様のお身体です」


 ロゼリーヌの声音は絹糸のように柔らかいのに、芯は剣先のごとく揺るがなかった。


「御自ら最前線へ出るようなことだけは、どうかお控えください。いまのあなたは、決して無理をなさってはいけない時期。――そのことは、誰よりご自身がご存じのはずです。わたくしたちのために戦われた、あの夜のようなことは……どうか、なさらないで」


「……はい。姉上であり、先輩でもあるあなたの言葉、とくと胸に刻みます」


「約束ですわ。あなたは女王である前に、わたくしと同じ〝ひとりの女〟。やがて芽吹く命を託された母として、その責任をどうか忘れないで」


 命を繫ぐ重みを知るからこそ、彼女は――目の前に在る〈奇跡のような日常〉が、いかに脆く、守り難いものかを知っている。


「わかりました。では、わたしは直ちに王宮へ戻ります。……子どもたちには、この件は内密に。距離を勘案する限り、王都が直ちに危機に陥ることはないでしょう。どうか安心していてください」


 深く礼をとると、ロゼリーヌも同じだけ腰を折った。


「かしこまりました。――メービス様も、どうかご無事で」


 そのとき――ふと、卓上に置かれた贈り物の箱、その深緋のリボンが、蝋燭の光を吸って静かに揺れた気がした。

 わたしたちの会話を、じっと見守っていた小さな影がある。

 眠っていたはずの気配が揺れ、微かな足音が絨毯に吸い込まれながら、静かにこちらへ歩み寄ってくる。


 リュシアンだった。


「……母上? いま、なにか……」


 気づかれてしまった。

 それでも、この子の、この穏やかな一日を、混乱させたくはない。わたしは、少しだけぎこちなく微笑みながら、リュシアンの前に、そっと膝をついた。


「ごめんなさいね、リュシアン。急なお仕事が入ってしまったの」


「……お仕事……?」


 リュシアンの目が、大きく揺れた。問い詰めることはしない。けれど、その、あまりにも澄んだ瞳の奥には、もう、すべてを理解してしまった、大人のような光があった。

 その小さな肩が、ほんのわずか、震えていた。


「……行かないで、って――言っちゃ、いけないんですよね……?」


 その小さな囁きが、胸のいちばん柔らかな膜を鋭く穿つ。

 ほんとうは、言ってほしかった。しかし、もし今その言葉を受け取れば、わたしは決して立ち上がれなくなる。


「――リュシアン」


 名を呼ぶと同時に腕をひろげ、少年の細い体を抱きしめた。

 頬が胸元へぽすりと沈む。幼い髪の匂い、ミルクと陽だまりを溶かしたような甘さが、胸の奥で静かに弾ける。温もりは刃よりも鋭く、涙の縁をそっと撫でた。


「だいじょうぶ。すぐ帰ってくるわ。わたしは――あなたの、もう一人のお母さんだから」


 耳もとで囁くと、リュシアンの小さな指が背中の外套をぎゅっと掴む。

 震える掌が、けれど確かな意志でわたしを送り出そうとしている。


「……はい。いってらっしゃい、母上」


 最後の音がかすかに揺れた。ただ、そこには幼くも凛とした勇気が宿っていた。

ふたりの吐息が重なり、静かな祈りとなって夜明け前の冷たい空へ舞い上がる――

どうか、この子の朝を、光で満たして、と。


◇◇◇


 馬車の軋みが、ゆるやかな波となって腰骨へ沁みるたび、わたしの掌は無意識に下腹へ滑っていた。しん、と温かな隆起。衣紋の上から撫でればまだ誰の目にも映らぬほどかすかな膨らみだけれど、指先には確かに、新しい命の脈が息づいている。


 薄暮の王都が車窓を後ろへ流れてゆく。しかし――静かすぎた。

 いつもの夕刻なら、軒先に吊るしたランタンへ火を灯しながら、商人たちが威勢良く掛け声を飛ばす頃。猫背の書記が帳簿を抱え、物見高い子どもたちが路上を走り抜け、香草と焚き木の匂いが混じり合って城壁の外濠へまで漂うはず。

 なのに今宵は、誰もが仕舞い支度の手をどこか遅くし、ときおり振り返っては空を伺う。笑い声も、手鞠の弾む音も、まるで箱の蓋に閉じ込められたように姿を潜めている。


 耳を澄ませば、車輪の軋む拍子とは別の、低い震動が遠く地の底から脈打っていた。粘度を帯びた空気が肺を重くし、肌の産毛を逆立てる。


 ――《臨界》、レシュトルはそう告げた。


「場所は……王都から北北東、およそ六十リーグ(約二三〇キロ)ほどの地点。標高一二〇〇。……レシュトルの報告では、サニル共和国の首都、ハロエズ付近とのこと」


 わたしの声は、今にもこぼれそうな焦りを押し殺していた。

 

 ヴォルフは、即座に頷いた。


「ではただちに、銀翼騎士団を派遣させる。女王直下の指令なら、貴族院の承認も不要だ。右翼に索敵を、左翼には対応準備を命じる。」


 その落ち着いた声色に、一瞬だけ心が支えられる。けれど――甘えるわけにはいかなかった。考えを束ねねばならない。


 銀翼騎士団――未来のリーディスで国家直轄の剣盾となるはずの精鋭。その構想を、ヴォルフはこの時代で形にしようとしている。是非を論じるより先に、必要性が剥き出しの刃となって迫る。


 虚無のゆりかご――予測不能の天変地異。

 その裂け目が孕むのは、魔獣の巣窟と底知れぬ瘴気。亀裂がひとたび開けば、獣吼が夜気を切り裂き、黒紫の瘴雲が大地を這い、村を、街道を、生きとし生ける命を呑み込む。

 ならば、わたしが即刻振るえる剣と盾を用意しなければならない。王印が放つただ一度の号令で飛び立つ即応部隊。

 誰より速く現場へ駆け、誰より強く災厄を穿ち、誰より深く民を抱きとめる「右と左の一対の翼」。


「――王宮へ戻り次第、わたし自身の名で“緊急事態”を宣言する。重臣会議をただちに招集して、諜報局経由で魔術大学とも連絡を。噂に聞く新型システム――試験中でも構わない、使わせてもらうわ」


 ヴォルフの片眉がわずかに跳ねる。


「初耳だな。どんな代物だ?」


「ロゼリーヌさんからの情報よ。既存の魔術適正測定器を発展させ、高精度で魔素の濃淡を可視化する《対魔獣警戒システム》だそうよ。魔素拡散の揺らぎを面で捉えれば、魔獣の進行方向を事前に読めるはず」


「ふむ……それなら騎士団の展開を的確に組める。正規軍の布陣にも役立つな」


 馬車が石畳を打つたび、決意が拍動を速めた。

 闇の向こうで胎動する〈虚無〉の鼓動――それを迎え撃つ準備は、いまこの瞬間から始まる。


 わたしは畳み掛けるように指示を続けた。


「それと──王都に駐在しているサニルの大使を、理由は問わないから今夜中に召喚して」


 彼の一対の鷹の目が、鋭く閃く。


「外交カードに使うつもりか?」


「違うわ。……“彼ら”に、現地の民を避難させる時間を稼いでほしいの。それと――」


「それと?」


「続きは、会議が始まってから話すわ」


「了解した。銀翼騎士団も、即時展開できるよう準備させる。右翼に索敵、左翼は防衛線を構築。後詰は俺が直接指揮を執る」


 馬車の中に、一瞬の沈黙が落ちる。決意だけが、拍動を速めた。


 車窓の向こうでは、黄昏の空がまだ金と朱を抱き合うように溶け合っている。だが北東の縁――雲の薄衣の端は、墨を滲ませた葡萄色がそっと絡み取っていた。誰かの見えない指が天空を汚しているみたいに、不自然な重さが垂れている。


「……やっと掴んだ日常なのに、もうほどけ始めてしまった」


 思わずこぼれた呟きに、ヴォルフがそっと腕を伸ばし、わたしの肩を包む。

言葉はない。ただ体温だけが、ぐらり揺れる心を〈ここ〉へ繋ぎとめた。


「お前は、お前のすべきことをするだけでいい。俺が――傍にいる」


 低く、凪いだ声。

 その響きを胸の奥で抱きとめるように、わたしはそっと瞼を伏せる。闇は来ない。ただ、輪郭の内側で思考が研ぎ澄まされ、光のように冴えていく。


――わたしは巫女であり、女王であり……そして、母。

 でも、今のわたしに、ほんとうに護り切れるの? 世界を、民を、この小さな命さえも。


 不安が呼気に滲む刹那、彼の腕の重みが肩根を支える。そこには剣にも勝る確かさがあった。心臓の鼓動と馬車の振動が重なり、二つの拍子がひとつの旋律になる。


 鉄格子門が開き、馬車は夜気を切って滑り込んだ。

 馬車のランタンが風に揺れ、光斑が車体を走る。

 守ると決めたものの在る場所へ。

 折れぬ翼で。

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