蒼穹の学び舎と、二人の母の朝
【十月、王都】
丸く縁取られた蔵造りの白いアーチの向こう、朝の光が秋明菊の花形を透かしていた。露をまとった乳白色の花弁は、ひそやかな風にも応えて揺れ、さわ、と衣擦れのような音をひとつ落とす。その音は、まるで遠い記憶の底から響いてくるようだった。
秋。けれど、かつて経験した、すべてが凍てつくような寂しい季節ではない。
わたしは薄い外套の前を合わせ、離宮の庭へ、ひとり歩みを進めた。石畳から続く柔らかな芝生を踏む。
滑るように頬を撫でる風は、ひやりとしながらも肌に心地よく、季節が確かに、静かに、一枚めくれたことを告げていた。まだ夏の青さを名残惜しげに残した楓の葉に寄り添うように、いくつかは、もう燃えるような深紅を帯びている。
胸の下に手を重ねると、まだ平らな腹部の奥で――かすかな、本当に微かな温かみが、指の腹に伝わってくるような気がした。
「……わかってはいるんだけどね。でも……」
ひとりごちて、苦笑する。侍医司の回復術師の見立てでは、お腹の子はまだ小さな果実ほどの大きさ。胎動を感じるには当然早すぎる。
けれど――。精霊子による交感なのか、それとも単なる思い込みなのか。目を閉じると、体の中心、その一番深い水底で、小さな魚がぴちりと跳ねたような、愛おしい“気配”が確かにそこにある気がした。
それは肉体の感覚というよりは、魂がそっと触れ合うような、静かな共鳴。わたしはその不確かな温もりを逃さぬよう、ショールの上から、もう一度そっとお腹を抱きしめた。
離宮の一角。きょうから、この庭に、また新しい風が吹き込むことになる。
王家秘学寮――正式名称を、リーディス王立叡智学院。まだ小規模ながら、この国で初めての公募制の学び舎だ。身分を問わず、貴族の子も、平民の子も、共に学ぶ場所。その設立が発表されたとき、大人たちの多くは、渋い顔で眉をひそめた。「身分の壁を取り払えば、国の統治が乱れる」と。
でも、わたしたちは、この目で何度も見てきたはずだ。貴い血筋を持つ者だけが、必ずしも“王の器”であるわけではないことを。むしろ、その逆すらあるという、痛ましい真実を。
その証こそが、あの少年だった。リュシファルド。王家の名において、わたしが未来を託すと決めた、ただ一人の子。
その名を心で呼べば、まるで聞こえたかのように、彼は振り返った。
「おはようございます、母上!」
まぶしい朝陽のなか、真新しい制服に身を包んだリュシアンが、少し緊張した面持ちで、それでも誇らしげに胸を張って立っていた。
その、思いがけない呼び方に、わたしは思わず目を瞬かせる。
「……“母上”って……? リュシアン、その呼び方は、ちょっとおかしくはないかしら?」
戸惑うわたしに、彼はまっすぐな瞳で応えた。その眼差しには、一片の曇りもない。
「だって、ぼくはメービスさまの養子になったんですよね?」
「それは、まあ……そうだけれど……」
戸籍上はこうだ。養子縁組によってリュシアンは「王家の継嗣候補リスト」に載るが、姓はモンヴェールを維持。王宮文書では「王家保護下モンヴェール家嫡子」という欄が付記され、相続権はモンヴェール・王家双方に枝分かれする特殊条項(伯爵レズンブールが草案)となっている。
そうしたわけで、わたしが“母上”などと呼ばれる理由は、ないはずだった。
「いいえ」
わたしの言葉を、彼はきっぱりと遮った。けれど、その声は気高いものではなく、むしろどこまでも優しく、あたたかかった。
「ぼくには、“二人のお母さん”がいるんだって、そう思っています」
「……え?」
思わず、声が漏れた。彼は恥ずかしそうに頰をほんのり赤らめながら、それでも言葉を続ける。
「メービスさまは、ぼくにとって、そういう人です」
その瞬間、かわいさが横隔膜を震わせ、嬉しさが気道を塞ぎ、息継ぎさえ忘れるほど、いとおしい、という感情が込み上げた。
「それでは、いってきます」
そう言い残して、彼は仲間たちの待つ方へ、誇らしげに走り去っていった。
――ああ、リュシアン。あなたは、もう……わたしの、誇りそのものよ。
不意に、背後にやわらかな気配が立った。ふわりと鼻先をかすめるのは、ラベンダーの落ち着いた香り。
「……ふふ、うちの子、言いましたでしょう?」
振り返ると、そこにはロゼリーヌが微笑んで立っていた。柔らかな栗色の髪を軽く結い上げ、淡い藤色のドレスが朝の光を優しく透かす。 彼女の声に、わたしは苦笑しながら、そっと頬をぬぐった。指先に、涙の熱い名残がかすかに触れた。
「ええ……もう、あんなの反則です」
「でしょう?」
ロゼリーヌは一歩だけ近づくと、わたしと並んで、走り去るリュシアンの小さな背中をそっと見守った。
「わたくし、思うのです。あの子はね……この庭で咲く鈴蘭のような子だと」
「鈴蘭……?」
「はい。華やかさでは、けっして薔薇には敵いません。丈も低くて、どこか儚げに見える。けれど……あの香りは、風のなかでも、ちゃんと道を教えてくれるでしょう? どんなに小さくても、気づいてくれる人には、必ず届く……そんな香りですわ」
わたしはふと、前世世界の鈴蘭の花言葉を思い浮かべる。『幸福の再来』、『純粋』、『謙虚』……。まったく、その通りだと感じた。
ロゼリーヌは、そう言いながらわたしの手をそっと取った。
「リュシアンが、『メービス様はお母さんだ』と言えたのは、わたくしにとっても救いです。あの子はあなたを心の拠り所として、自分の意志で選んだのですよ」
ロゼリーヌの瞳が、まっすぐにわたしを見つめていた。ふいに視線を逸らしたくなる。けれど……わたしは、逃げなかった。
「……ほんとうに、わたしなんかで……いいんでしょうか」
「“なんか”なんて、おっしゃらないでくださいまし」
その、凛とした一言に、また胸が波立ちそうになる。でも、もう泣かなかった。わたしは、彼女の手をそっと握り返す。
「母であることに、血筋も、戸籍も、名も、きっと必要ないのです。そこにあるのは、ただ“その子の未来を、幸せを、心から想う気持ち”だけ。そして、あなただって、もうすぐ……」
「はい……」
わたしとロゼリーヌ――この世界で最も対照的で、そして、もっとも近しい“ふたりの母”の視線が、走り去っていく小さな背中に、静かに、優しく注がれていた。
◇◇◇
【王立叡智学院・朝――碧空に響く、始まりの鐘】
その音は、世界を新しく塗り替える合図のようだった。
ゴォン、ゴォン――。
学院の鐘楼から放たれた鐘の音が、高く、低く、七度鳴り響く。重厚な青銅の響きは、朝の冷たく澄んだ大気を震わせ、吸い込まれそうな秋の蒼穹へと溶けていく。その余韻は、目に見えない波紋となって王都の空へ広がり、新しい時代の幕開けを告げていた。
離宮の回廊を抜けた先に広がるのは、純白の石灰岩で組まれたアーチが連なる中庭だ。その中央にある円形の広場には、未だかつてこの国が見たことのない、不思議で鮮烈な“モザイク模様”が描かれていた。
豪奢な馬車から降り立った、上質な絹織物やビロードを纏う貴族の子息たち。彼らの袖口からは、ほのかに異国の香油や薔薇の香りが漂う。その一方で、徒歩や乗り合い馬車で辿り着いた平民の子らは、麻やウールといった素朴な素材の制服に身を包んでいる。真新しい革鞄の匂いと、染みついた生活の匂い。
身分という強固な壁によって隔てられていた二つの色が、今、この広場で初めて混ざり合おうとしていた。ちぐはぐで、けれど誇らしげなその列は、静かな波のように揺れている。誰もが、緊張と興奮の熱を帯び、これから始まる未知の日々に胸を高鳴らせ、あるいは不安に押しつぶされそうになっていた。
好奇の視線が交錯するその中心で、リュシアン・ド・モンヴェールは、自身の足元をじっと見つめていた。
陽の光を吸って蜂蜜色に輝く髪は、今朝、侍女の手によって丁寧に撫でつけられたばかりだ。胸元のリボンタイも、左右対称の完璧な形に結ばれている。けれど、彼を悩ませていたのは、足元だった。卸したての革靴。上質な仔牛の革で仕立てられたそれは、美しい光沢を放っているものの、まだ主人の足に馴染んでいない。どこか窮屈で、硬い革が容赦なく踵や小指を締め付ける。
靴の中で、リュシアンは足指を固く縮こまらせた。それは今の彼の心境そのものだった。
――……緊張、するなあ。
ふう、と小さく息を吐く。白い吐息が、視界の隅で揺れて消えた。周囲からは、ひそひそとしたささやき声が、小さな波紋のように寄せては返す。
「ねえ、ご覧になって……あの方。噂の、メービス様が引き取られたという……」
「亡きギルク殿下の『忘れ形見』だって話だろう? ……信じられないな。だって、着ているものは僕らと同じだぞ」
「いいえ、透き通るようなあの横顔……あんなに綺麗な男の子、王族以外にありえる?」
遠慮のない好奇心の視線が、肌にじりじりと触れるようだった。悪意があるわけではないことはわかっている。けれど、その「特別視」こそが、リュシアンにとっては薄いガラスの壁のように感じられた。
――僕は、みんなと同じ生徒としてここにいるのに。
じっとりと冷ややかな汗が掌ににじむ。彼はその汗をズボンの生地で拭うこともできず、ただ拳を握りしめた。いたたまれなさに背中を押されるように、リュシアンは逃げるように列の最後尾へと向かった。目立たない場所へ。誰の視線も届かない、建物の影へ。そうして俯き加減に歩いていた、その時だった。
不意に、視線が絡んだ。
「――おはよう」
飾らない、けれど大地の底から響くような、芯の通った声だった。顔を上げると、そこには一人の少年が立っていた。
リュシアンと同じ年頃だろうか。日に焼けた健康的な頬には、いくつかのそばかすが星座のように散っている。少し伸びた茶色がかった髪は、整髪料で固められることなく、秋の風に無造作に遊ばれていた。なによりリュシアンの目を引いたのは、その足元だった。
彼が履いている革靴は、リュシアンのものほど上等ではないかもしれない。けれど、それは丁寧に磨き込まれ、使い込まれた飴色の艶を帯びていた。少し磨り減った踵。つま先に刻まれた皺。それは、彼がこの日のために――この憧れの学び舎に立つために、どれほど長い道を歩き、どれほど大切に手入れを重ねてきたかを、どんな言葉よりも雄弁に物語っていた。
その靴の持ち主は、リュシアンの顔を見ても、「王子様」を見るような特別な色は浮かべなかった。ただの「同級生」を見る、真っ直ぐで屈託のない眼差し。その視線に射抜かれた瞬間、リュシアンの胸の内で、朝からずっと固く結ばれていた冷たい結び目が、ふわりと解ける音がした。
「……おはよう。ぼくは、リュシアン・ド・モンヴェールです」
自然と、名乗っていた。王家の威光も、複雑な出自も関係ない。ただのリュシアンとして。
「ぼくは、ブレン・ホリス。南の丘陵村から来たんだ」
少年――ブレンは、人懐っこく白い歯を見せて笑った。
「兄ちゃんが森番をしててさ、ぼくも小さい頃から森を駆け回ってたから、弓には自信があるんだ。でも……筆記は散々でね。合格通知が届くまで、生きた心地がしなかったよ」
あっけらかんとした告白に、リュシアンは思わず目を丸くし、それから小さく吹き出した。
「ふふ……。ぼくもだよ。今日はずっと、心臓が早鐘を打ってるみたいにうるさくて」
「ははっ、お互い様だね。実はぼくも、足が震えてるんだ」
ブレンが苦笑いしながら、自分の膝をパンと叩く。二人はどちらからともなく微笑み合い、自然な動作で列の後ろにそっと肩を並べた。
ブレンからは、ほのかに干し草や土の匂い――太陽の匂いがした。その隣にいると、窮屈だった靴の痛みが、少しだけ和らぐような気がした。交わす言葉は少ない。けれど、その間に落ちる沈黙は、先ほどまでの孤独な静寂とは違っていた。決して気まずいものではなく、むしろ互いの呼吸を確かめ合い、体温を分かち合うような、心地よい響きを持っていた。
その穏やかな空気が、不意に変わった。広場全体に、ぴんと張り詰めた緊張の糸が走る。
「来たぞ……」
誰かのささやきと共に、秋明菊の絡まる白いアーチをくぐり、一人の男が現れた。
深い海の色――濃紺のベルベットの礼服に身を包んだ四十半ばの男。レズンブール伯爵。かつて貴族院の重鎮として主に地方行政で辣腕を振るい、その冷徹なまでの知性と厳格さで知られた人物である。金髪を後ろに撫でつけ、その背筋は定規で引いたように微塵の歪みもなく真っ直ぐだ。
彼は白い手袋をはめた右手を胸に軽く添え、生徒一人ひとりの顔を検分するように、鋭い視線を滑らせていく。その眼差しは、宝石の鑑定士のように冷徹で、子供たちの心の奥底まで見透かすようだった。
カツ、カツ、カツ。
石畳を叩く足音だけが、静まり返った広場に響く。朝の風が吹き抜け、彼の胸に輝く金の勲章が揺れる。チリ、と微かな金属音が鳴った。その小さな音が、雷鳴のように大きく聞こえるほどの静寂。
子供たちは息を呑み、ただ圧倒されていた。これが、「叡智」を束ねる者の威圧感。誰もが言葉を失い、萎縮してしまう空気の中。
だが、リュシアンだけは違った。彼の中に湧き上がったのは、恐怖ではなく、親愛と尊敬、そして抑えきれない喜びだった。この学び舎を作ってくれた人。未来を真剣に考えてくれた人。
「おはようございます、伯爵先生!」
張り詰めた静寂を破り、硝子を弾いたような、澄んだ声が響き渡った。
リュシアンだった。彼は、背筋を伸ばし、満面の笑みでその人を呼んだ。その、あまりにあどけなく、場違いなほど親しげな呼び名に、周囲の子供たちが一瞬あっけにとられ、ざわめきが波紋のように広がる。
「な、なに今の……『伯爵先生』って……」
「わかんないけど、ヤバくないか? 伯爵っていうからには、すごく偉い人なんだろ?」
「でも……あの子、あんな怖そうな人と知り合いなの?」
当のレズンブールは、歩みを止めた。片眉をわずかに上げ、まるで珍しい生き物でも見るかのように、困ったように目を細める。その表情の変化はごく僅かだったが、氷のような威厳が、ふっと緩んだ瞬間だった。
彼は咳払いを一つ。コホン、と喉を鳴らし、リュシアンに向かって静かに口を開いた。
「……リュシアン君。できれば、“先生”とだけ呼んでくれるとありがたいのですがね」
その声は低く、よく通る落ち着いた声だった。
「付け加えるのであれば、私は既に家督を息子に譲った身であり、正確には“元”伯爵です。今の私にあるのは、爵位ではなく、君たちを導く教職の責務のみです」
厳格な言葉遣い。仮面のような無表情。けれど、その瞳の奥――あたたかな琥珀色の光が宿る場所には、ほんの一瞬だけ、呆れたような、けれど決して嫌ではない慈愛の色が滲んだのを、リュシアンは見逃さなかった。
それは、厳格な祖父が、無邪気な孫に向けるような、隠しきれない情愛。リュシアンは嬉しくなって、もう一度深くお辞儀をした。
「はい、わかりました。レズンブール先生!」
そのやり取りを見て、周囲の空気がふっと和らいだ。ああ、この人は恐ろしいだけの像ではないのだと、誰もが感じ取った瞬間だった。
こうして、この国で最も格式高い学院の歴史に、奇妙で愛すべき呼び名が刻まれることとなった。彼が、生徒たちから敬愛を込めて「伯爵先生」と呼ばれるようになる運命は、この朝の光の中で決定づけられたのだった。
◇◇◇
【琥珀の教室と、解なき問い】
午後の教室は、蜂蜜の中にとろりと浸したような、琥珀色の光に満ちていた。
壁の高い位置に設けられたアーチ窓から、傾きかけた西日が太い光の帯となって射し込んでいる。それは教室を斜めに横切り、古びた木の机や、生徒たちのまだ柔らかい髪を黄金色に染め上げていた。
光の帯の中では、空気中を漂う無数の塵が、きらきらと舞い踊っている。それはまるで、時間そのものが可視化された粒子のようで、教室全体が永遠の静止画の中に封じ込められたかのような錯覚を覚えた。
昼食後の満腹感と、窓から忍び込む秋の午後の温かさが、生徒たちの瞼を心地よく重くしていく。誰もがうつらうつらと、まどろみの淵にいた。
その静謐な空気を、乾いた音が鋭く断ち切った。
とん。
講壇に立つレズンブールが、インクの染みた細い指先で、手元の羊皮紙を軽く叩いた音だった。決して大きくはないその音が、午後の眠気を霧散させ、生徒たちの意識を現実へ引き戻す。伯爵先生は、いつものように感情の読めない静かな瞳で教室を見渡し、淡々とした口調で言った。
「では、次の課題です」
それが合図だった。教室の空気が、ぴんと張り詰めた弦のように緊張を帯びる。
伯爵先生の授業は、単に書物を書き写したり、歴史の年号を暗記したりするだけのものではない。常に「思考すること」を強いる、子どもたちにとっては少しばかり過酷な時間だった。
先生は、少し間を置き、ゆっくりと、一語一語を噛み含めるように問いを紡いだ。
「――君たちが治める村に、未知の疫病が広がったと仮定します。手元にある特効薬は、あと三人分しか残っていない。しかし、今すぐ薬を必要とする重篤な患者は十人います。さて、君たちはどうしますか?」
問いが投げられた瞬間、教室の入り口からひやりとした風が吹き込んだような気がした。
正解のない問い。
沈黙が、雪のように重く、深く降り積もっていく。誰かが緊張のあまり唾を飲み込む音が、やけに大きく響いた。椅子の軋む音さえもが、ここでは罪悪感の表明のように聞こえる。
子どもたちは固唾を飲み、答えを探して視線をさまよわせた。ある者は天井を仰ぎ、ある者は机の木目を睨みつけ、そっと隣の友人の横顔を盗み見る。誰もが、最初に口火を切ることを恐れていた。
やがて、耐えきれなくなったように、教室の前方に座る商家の子息が、おずおずと手を挙げた。
「……年寄りよりも、若い者を……選びます」
その声は震えていた。自らの言葉の残酷さを理解しているからだろう。彼は自分に言い聞かせるように、早口で言葉を継いだ。
「村の働き手がいなくなっては、畑も耕せず、結局は皆が飢えて死んでしまいますから。未来のために、若い命を優先すべきです」
合理的な判断だった。一つの「正しさ」ではある。けれど、教室の空気はさらに重くなる。
すると、窓際の席から、それに反論する鋭い声が上がった。
「命に順番をつけるなんて、そんなのあんまりです!」
発言したのは、正義感の強そうな平民の少女だった。彼女は顔を真っ赤にして立ち上がり、訴えた。
「誰だって生きたいはずです。順番に配るべきです! 先に倒れた者から、公平に……あるいは、くじ引きで神の意志に委ねるとか……!」
それぞれの声は拙く、自信なさげに揺れていた。けれど、その言葉の奥底には、彼らがまだ短い人生の中で必死に培ってきた“倫理”の萌芽があった。損得で命の重さを測ろうとする考えと、誰一人切り捨てたくないと願う考えが、静かにぶつかり合っている。
リュシアンは、黙ってそのやり取りを聴いていた。
視線は、机の上に置かれた自分の手へと落ちている。固く握りしめられた拳は、血の気が引いて白くなっていた。爪が掌に食い込む痛みが、彼を辛うじて現実に繋ぎ止めている。
――どれが正しい? 誰を助ける? そんな神様の真似事みたいな選択、僕にできるわけがない……。
思考が渦を巻く。もし自分の大切な人たちがその十人の中にいたら? ヴォルフならどうする? メービス様なら? 問いの重圧が、彼の小さな胸を押し潰そうとしていた。
生徒たちの議論が行き詰まったのを見計らい、伯爵先生は静かに口を開いた。
「――正しさとは、時に暴力と紙一重です」
その静かな低い声が、琥珀色の光に満ちた教室の隅々まで染み渡る。
「君たちが示したのは、どちらも一つの正義だ。だが、どちらを選んでも救われない命がある。……だからこそ、君たちは考え続けなければならない。問いから目を背け、思考を停止することこそが、最大の罪なのです。教わった知識だけに安住せず、常に疑い、悩み、思考すること。それこそが、やがて未来を変える力となる」
先生の言葉の重みに打たれ、誰かが小さく息を呑んだ。
再び訪れた沈黙の中、リュシアンの心の中で、何かがカチリと音を立てて繋がった。
――そうだ。選ぶことだけが、答えじゃないはずだ。
彼はゆっくりと顔を上げた。
まぶしい西日が目を射る。その光の向こうに立つ伯爵先生の、全てを見透かすような穏やかな瞳と視線がぶつかった。
「……先生」
自分の口から出た声は、ひどく遠く、小さく聞こえた。心臓が早鐘を打っている。それでも、リュシアンの瞳は、揺らぎながらも真っ直ぐに伯爵を見つめていた。
「薬が三人分しか、ないのなら……」
一度言葉を切り、息を吸い込む。
「……薬だけに頼らない方法も、探すべきだと思います」
教室中の視線が、一斉にリュシアンへ集まるのを感じた。彼はごくりと喉を鳴らし、言葉を継いだ。
「誰を選ぶか悩む時間があるなら、たとえば村を封鎖して、病がこれ以上広がらないようにするとか。森に入って、薬草になりそうなものを皆で探して、煎じてみるとか……。三人だけを助けるんじゃなくて、十人全員が助かる可能性を、最後まで探したいです」
それは、問いの前提を覆すような、子供じみた理想論かもしれなかった。けれど、それが今のリュシアンが辿り着いた精一杯の答えだった。
伯爵先生は、しばらく無言でリュシアンを見つめていた。
やがて、その厳格な口元が、ふっと、本当に微かに綻んだ。それは、氷が解けるように、厳しさの中に確かな温かさを宿した笑みだった。
「……根本から“問い”をずらしたな」
先生の声に、微かな愉悦の色が混じる。
「だが、それでいい。解法がひとつとは限らない。与えられた選択肢の中で絶望するのではなく、新たな選択肢を作り出そうとする意志。――何を優先し、どこに希望を見出すか。おそらくそれが、君という人間の“輪郭”となるだろう」
リュシアンは、その言葉の深い意味を、まだ完全には咀嚼できなかった。けれど、伯爵の深い眼差しが、自分の答えを肯定してくれたことだけは分かった。彼はただ一度、深く頷き返した。
窓から射し込む西日が、安堵に肩の力を抜いた彼の小さな背中を、祝福するように黄金色に照らしていた。




