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鈴蘭が鳴らす勝利宣言

 まぶたの裏が、じんわり金色ににじむ。

 温かな水底から光の射す水面へ、意識だけがゆっくり浮かび上がる。

 窓の外で鳥が鳴いた。もう、世界はとっくに朝だ。


――……あさ……


 シーツの擦れる微かな音。隣から聞こえる、穏やかで、規則正しい寝息。

 その事実に思い至った瞬間、胸の奥で、ぽっと小さな火が灯った。

 そうだ、わたしはもう、独りではないのだ。

 この広い寝台で、独りで目覚める朝は、もう来ない。


 しばらく忘れてしまっていた、人のいる温もり。

 彼の体温が移ったシーツのぬくもり。リネンの匂いに混じる、日に焼けた石鹸と、その下に潜む、彼自身の落ち着いた匂い。

 そのひとつひとつが、あまりにも満ち足りた幸福として全身に沁みわたっていく。

 幸せすぎて、込み上げてくる微笑みを隠すように、思わず枕に顔をうずめて、小さく身悶えした。


――……だめ、静かにしないと


 そっと顔を上げ、隣で眠る彼に視線を移す。

 夜更かしをしていた彼は、まだ深い眠りのなかにいるようだった。仰向けだった昨夜の寝姿とは違い、今はわたしに背を向けて、丸くなるようにして眠っている。


 鍛え上げられた、広い背中。

 眠っているときでさえ、その筋肉のしなやかな起伏は、彼がどれほどの戦場を駆け抜けてきた騎士であるかを物語っている。けれど、今は静かな呼吸に合わせて、穏やかに上下するだけ。その無防備な姿が、どうしようもなく愛おしかった。


――触れたい


 指先が、むずむずと疼く。

 この背中に、そっと指を滑らせてみたい。彼がここにいるという、夢ではない確かな感触を、この肌で確かめたい。


 けれど、伸ばしかけた手は、空中でぴたりと止まった。

 この温かさを、この安らぎを、まだ自分のものだと信じきれていないのかもしれない。

 この幸福は、あまりにも繊細で、壊れやすい硝子細工のようだ。不用意に触れてしまえば、ぱりんと音を立てて砕け散ってしまいそうで、怖かった。

 わたしは、その愛おしい衝動をぐっとこらえ、彼を起こさないように、できる限り静かにベッドを抜け出した。


 ひんやりとした床が、火照った足の裏に心地よい。

 肩にローブをからげ、鏡台へ向かった。ブラシを手に取り、肩のあたりで切り揃えられた、まだどこか見慣れない自分の黒髪を、そっと梳かす。長い髪を失った寂しさよりも、今は心が解き放たれたような、不思議な軽やかさがあった。


 そのとき、背後の寝台で、シーツが大きく擦れる音がした。


「……んん……」


 振り返ると、ヴォルフがゆっくりと身を起こすところだった。まだ夢の縁を彷徨っているような、重たい瞼。わたしがいることに気づくと、彼は大きなあくびをひとつして、ぶっきらぼうに言った。


「……早いんだな」


「おはよう、ヴォルフ。昨夜は遅かったんでしょう? 少し顔色が悪いわよ」


「問題ない。……それより、おまえは?」


「問題なし。あなたのお陰で、久しぶりにぐっすり。夢すら見なかったわ」


「魔除けのお守りになれたなら、俺も役に立ったということだな」


「それ以上よ」


 寝台から降りた彼は、ゆったりとした足取りでこちらへ近づいてくる。そして、わたしの隣に立つと、鏡に映る自分の姿を見て、眉をひそめた。見事な銀色の髪が、あちこちにはねている。


「鏡、半分こしましょうか。あなたの寝癖、なかなかすごいことになっているわよ」


「……ふん、これは戦場仕様だ。騎士たるもの、いつだって臨戦体制であらねば」


「何言ってるんだか。せっかくの容姿端麗なヴォルフ殿下なのに、中身はやっぱり昔のままね」


「……否定はできん」


「これからは、毎朝わたしがチェックしてあげるから。安心して」


「仕方がない。我が女王陛下の思し召しのままにだ」


 観念したように肩をすくめると、彼はわたしの手からブラシを自然に受け取り、自分の髪を無造作に梳かし始めた。その、あまりにも自然な仕草に、心臓が小さく跳ねる。

 そして、おもむろに引き出しをごそごそと漁り始めた。


「何を探して――って、その小さな包みは何?」


 彼の手には、白い薄紙に包まれた、指の先ほどの大きさのものがあった。


「あー……まぁ、これは礼だ。受け取れ」


「礼って?」


「北に向かう前、髪を切っただろ」


「それが何か?」


 彼は小さく咳払いして答える。


「俺はその、なんだ……あの緑髪より黒髪のお前が、それに短い方が好きだ……」


 彼の不器用で意外すぎる言葉に、どきりとする。

 この無惨な有り様の頭を見た時、彼は「なんてことをした!」なんて怒っていたのに、まさかそんなふうに思っていたなんて。

 油断しているときに限ってこう来るから、防壁を張る間もない。まったく困ったもの。


「ただ、少し寂しくもあってな。それでだ」


 わたしが戸惑いながら「開けていい?」と尋ねると、彼はぶっきらぼうに「早くしろ」とだけ応えた。


 薄紙を丁寧に開くと、中から現れたのは、月光を溶かし込んだような、小さな銀のかんざしだった。鈴蘭の花をかたどった繊細な細工が、朝の光を受けて静かにきらめいている。


「――わぁ、鈴蘭の簪……! すごく、繊細で綺麗」


「試してみろ。……いや、待て。俺が挿す」


 彼がそっと簪を手に取る。その大きな指先が、わたしの髪に触れるか触れないかの位置で、微かに震えているのに気づいた。


「手が震えているわよ、ヴォルフ」


「……うるさい。少し黙ってろ」


 照れ隠しの悪態をつきながら、彼は慎重に、わたしの短い黒髪に銀の鈴蘭をそっと挿した。冷たい金属の感触が、肌に心地よい。


「どう、かしら?」


 鏡の中の彼に問いかけると、ヴォルフは息を呑んだまま、固まっていた。


「――いま、息呑んだわよね」


「……あ、ああ」


「それ、感想なの?」


 からかうように言うと、彼はようやく我に返り、わたしの耳元で、囁くように言った。


「……すまん、言葉が追いつかん」


 その熱のこもった声に、今度はわたしが息を呑む番だった。


「ふふ、……なら合格ね」


 吐息だけでそう返すと、彼は少しだけ安堵したように、ふっと肩の力を抜いた。


「なら、俺は及第点はもらえたか」


「とうぜん満点よ。……ありがとう、ヴォルフ」


 わたしの小声での感謝に、彼は満足げに頷いた。簪が陽光を受け、黒髪の上で、まるで祝福の音色のように、りん、と小さく鳴った。

 鏡に映る二人の間には、もう何の隔たりもなかった。


 ヴォルフは満足げに一つ頷くと、ごく自然にわたしの手を取り、部屋の外へとエスコートする。彼の大きな掌に包まれたわたしの手は、まるでそこに収まるのが当たり前だったかのように、しっくりと馴染んでいた。


 陽光が満ちる回廊を、二人並んで歩く。

 交わす言葉はない。けれど、彼の隣を歩く一歩一歩が、これまでにない確かな安らぎで満たされている。床に落ちる二人の影が、時折重なり、そしてまた離れる。そのたびに、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 中庭に面したテラスには、すでに簡素な朝食の準備が整えられていた。

 テーブルの上には焼きたてのパンと、数種類のチーズ、それに温かいミルクティーのポットから、ふわりと湯気が立ち上っている。


「ここでいいか?」


「ええ。すっかり春めいてきて、とっても気持ちがいいわ」


 ヴォルフが引いてくれた椅子に腰を下ろすと、彼はわたしの向かい側に座った。

静かに満ちていく朝露のように、言葉ではなく時間が心を潤していく。ただ、同じテーブルで同じ朝の光を浴びている。それだけのことが、こんなにも満ち足りたものだなんて。


「……食欲がないのか?」


 パンにほとんど手を付けていないわたしを見て、ヴォルフが眉をひそめる。


「違うわ。……ただ、少し、胸がいっぱいで」


「そうか」


 彼は短く頷くと、自分の皿から一番柔らかそうなパンを一つ、わたしの皿に乗せた。


「残すなよ。祝言後の、初めての朝メシみたいなもんだからな」


 ぶっきらぼうな口調で呟かれた言葉に、わたしは目を丸くする。


「……祝言って?」


「違ったか?」


「ええ、まあ……そう、なのかしら」


「そうだ」


 彼の断言がおかしくて、ふふ、と笑いが漏れた。


「でも、わたしを太らせる気? いまのわたしは育ち盛りでもないし、魔獣狩りをしていた頃みたいに、身体を動かしているわけではないんだけど?」


 からかうように言うと、彼はミルクティーを一口飲んでから、真顔で答えた。


「……柔らかい方が、俺は……落ち着く」


 その不器用な本音に、今度はわたしが言葉を失う番だった。


「……あきれた。あなたって、デリカシーってものがないの……?」


「事実だ。何が悪い」


「そういうところよ、あなたの悪い癖は」


 わたしの頬が、きっと熟れた果実のように赤くなっているのを、彼は楽しげな目で見ている。

 わたしは八つ当たりのように、パンを一口ちぎって蜂蜜をたっぷりつけた。


「じゃあ一口。――甘い」


 そう言うなり、わたしは自分の口へパンを放り込んだ。


「ああ、こっちにもついてる」


 そう言ったかと思うと、ヴォルフが身を乗り出し、わたしの口元についた蜂蜜を、自分の指でそっと拭った。


「っ……そういうの、卑怯よ」


「これも戦術だ。油断してるとどうなってもしらんぞ?」


 悪びれもせずに言い放つ彼の顔が、すぐ間近にある。心臓が大きく音を立てた。

 その時、噴水のしぶきと一緒に、早春の土の匂いがふっと鼻先をかすめた。


「きゃっ、冷たい!」


「朝の祝砲らしいな」


「まさか、あなたが仕組んだの?」


「自然の援軍だろう。神は俺に味方しているようだ」


「……もう、なんていうか、あなたには負けたわ」


「そんなことはない。引き分けだろ」


 小さな笑い声が水面に重なり、テラスをどこまでも柔らかな空気で満たしていく。この時間が、ずっと続けばいいのに、と心から願った。


「なあ?」


 パンをちぎりながら、彼がぽつりと言った。


「これから、俺たちは“あたりまえの未来”を育てていくんだな……」


 その言葉に、わたしは静かに頷いた。


「そうよ。わたし、“こういうの”が……ほしかったの」


 “あたりまえ”。それが、今のわたしたちにとって、どれほど尊く、輝かしい響きを持つ言葉であるか。


 カップをテーブルに戻すたび、耳元の銀の鈴蘭がかすかに触れ合い、りん…と細い音を零した。それが、この朝をそっと祝福している気がした。


 朝食を終えると、ヴォルフは騎士団の総司令官の顔に戻っていた。

 侍従が運んできた軍服に寸分の隙もなく身を包んだ彼は、朝の柔らかな光の中で見た気の抜けた姿とは別人のように、凛とした空気を纏っている。

 玄関ホールまで、二人並んで歩く。彼の腰で揺れる長剣の鞘が、床の大理石に規則正しいリズムを刻んだ。


「剣、曲がってないか?」


 ホールの中央で、彼は真面目な顔でわたしに尋ねた。


「ガイザルグレイルが曲がるようだったら、今頃この国は大変なことになっているわよ」


「冗談だ。……それより、約束を忘れてないか」


 悪戯っぽく笑う彼に、わたしは待ってましたとばかり両腕を広げた。


「ぎゅっ――ほら、どうぞ」


 ヴォルフは満足げにわたしを抱きしめる。硬い肩章の感触と、彼の確かな体温。胸元からは、わたしがプレゼントした香水の匂い。


 ふと思う。


 どうして、あんなに怖がっていたんだろう。いざ勇気を出して踏み越えてしまえば、「ああ、なんだこんなにも簡単なことだったんだ」って思えてしまう。

 もちろん、わたしたちは、まだ一言も「好き」とも、「愛している」とも、交わし合ったことがない。

 言葉にしなければだめ。それが大切なんだということもわかっている。でもその重みがわたしたちにとって、まだ大きすぎるのもまた事実。


――でも、いいんだ。すこしずつで、あせらなくても。


「……よし、これで無敵だ」


「わたしも、少しだけ頑丈になった気分」


「夕刻までには帰る。土産は要るか?」


「無事に帰ってきてくれれば、それで十分よ」


「……照れること言うな」


「言わせたのは、あなたでしょうが」


 名残を惜しむように腕を解くと、彼は「……では、行ってくる」と短く告げた。その背中は、いつものように力強く、頼もしい。


「いってらっしゃい、わたしのヴォルフ」


「いってこい、メービス」


 扉が閉まるまでその背中を見送り、わたしもまた、自分の戦場へと向かう。

一人になると、わたしもまた、女王としての務めに戻る。

 執務室へ向かう廊下を歩く。こつ、こつ、と響く自分の靴音。

けれど、不思議と足取りは軽やかだった。昨日まで背負っていた見えない鎧が、一枚、剥がされたかのように。

 

 窓から差し込む光が、廊下の床の模様をくっきりと照らし出している。今まで気づかなかった、美しい模様だった。すれ違う侍女たちの「おはようございます」という声も、心なしか明るく聞こえる。

 違うのは、彼女たちではない。世界を見る、わたしの心なのだ。


 執務室に入ると、すでに待機していた事務官たちが一礼する。その彼らの表情さえ、どこか昨日までとは違って見える。


「報告を」


 玉座に腰を下ろし、わたしは静かに告げた。背筋が自然と伸びる。

 山積みの書類、各部署からの報告、そして貴族院へ提出する法案の準備。女王としての責務は重い。けれど、もう独りで抱え込んでいるわけではない。そう思うだけで、どんな難題にも立ち向かえる気がした。


 声は、自分でも驚くほど落ち着いて、澄んでいた。

 この国を守る。彼とともに生きていく、この国を。

 新しい決意が、胸の奥で静かに、けれど確かに根を下ろしていた。


◇◇◇


 数日後、穏やかに晴れた午後のことだった。

 わたしは一人で離宮の庭を訪れていた。以前のように、何かに追われるようにして駆け込むのではなく、約束もなしにふらりと立ち寄る。そんなことができるようになった自分に、少しだけ驚いていた。


 庭のテーブルで、ロゼリーヌは一冊の本を傍らに置き、穏やかな笑みでわたしを迎えてくれる。まるで、わたしが来ることを知っていたかのように。


「ロゼリーヌさん、突然押しかけてごめんなさい」


「いいえ。歓迎の薔薇は、いつでもあなたのために咲いていますわ、陛下」


 彼女が淹れてくれた紅茶の、甘い香りがふわりと立ち上る。


「……あの日、あなたが背中を押してくださったから――」


 わたしは、カップを手に取ったまま、そっと頭を下げた。


「わたしは前に進むことができました。あなたには、本当に感謝しています」


 わたしが微笑むと、彼女もまた、深く優しい笑みを返してくれた。その瞳は、すべてを見通しているかのように澄み切っている。


 わたしの胸を、昔日の雨がひんやりと撫でる。

 数日前、離宮の奥で交わした “あの対話” が、ふいに蘇った。


 離宮の奥にひっそりと佇む、ガラス張りの温室。

 夕立は、その硝子の天井を激しく叩き続けていた。滲んだ水彩画のように外の景色は曖昧に溶けていた。世界の輪郭など最初からなかったかのようで、静かな隔絶が生まれている。

 夜にだけ花開くという月白薔薇が、雨音に誘われるようにそっと白い花弁をひらき、立ち上る湯気と共に、むせ返るような甘い蜜の香を漂わせていた。


◇◇◇


【回想】


「……いいですか。――もっと、我儘におなりなさいませ」


 その響きは、叱責ではなかった。

 それは、愛する者が愛する者にしか投げられない、真剣な願いだった。


「ロゼリーヌさん……」


 名を呼んだとき、ロゼリーヌはそっと立ち上がり、わたしのもとへ歩み寄る。

そして、震える手を、両の掌で静かに包み込んだ。


「わたくしは……ギルク様と恋に落ち、リュシアンを身ごもったとき……罪悪感に押し潰されそうで、彼の元を去るほかありませんでした。でも……それでも、わたくしは彼を愛していたし、彼の子どもが欲しかったのです」


 その瞳は潤んでいたが、決して揺れてはいなかった。


「ええ、そうです。それは周囲を顧みない、ただの身勝手だったかもしれません──けれど……でも、だから、何だというのです?」


 その一言が、沈黙を断ち切る鋏のように空気を裂いた。


「……あなたが、幸せになれないというのなら。あなたのその、尊い犠牲の上に与えられる“幸せ”なんて、わたくしは要りません」


 それはもはや、慰めではなかった。

 魂の底から届く、激しくも優しい叱咤。

 その強さに、目からひとしずくの涙が、静かに頬を伝って落ちた。


「……考えては、いるのです。いつだって……。そんなふうになれたら、と。……あなたとリュシアンを見ていると、よけいに、そう思ってしまうのです」


 ロゼリーヌはただ静かに頷く。

 わたしは羨望と、そして抗いがたい畏れをない交ぜにした瞳で、目の前の彼女を見つめた。


「――あなたは、どうしてそこまで強くなれるのですか?」


 掠れた問いかけに、ロゼリーヌはふっと、本当に微かにその唇を緩めた。


「強さではありませんわ。ただ……あの子が泣けば、わたくしも呼吸いきをしなければならない。それだけです」


 その、あまりにも単純で、揺るぎのない真理。

 わたしは息を呑んだ。心臓のあたりを冷たい指でなぞられたような心地がした。


「……わたしには、その“だけ”が、いちばん怖い」


絞り出した声は、ほとんど吐息に近かった。

わたしの心を縛りつける呪いの、本当の名前が示されているのを、ロゼリーヌだけはきっと理解していた。


「わたくしでよろしければ、どんなお話でも伺います。……どうぞ、遠慮なさらず、あなたの想いを、わたくしに預けてくださいませ」


 わたしは微かに震える声で、言葉を紡ぐ。


「……ありがとう。では……わたしの話を、聞いていただけますか」


 それは、細い銀の鈴がそっと鳴ったような声だった。けれど、その芯には、確かな決意の色が宿っていた。

 温室を満たす薔薇の甘い香りが、重く降り続く雨脚に押し上げられるように、ゆっくりと天窓へ昇っていく。

 雨音だけが、静かに二人の間を満たしていた。

 その穏やかな静寂の中で、ランタンの小さな炎が、ふっと一度だけ揺らめいた。


 けれどその微かな火こそが――

 やがて燃え上がることになる告白の、ささやかな前触れとなった。

 

 ロゼリーヌはひと呼吸だけ雨音に耳を澄ませ、そっと視線を上げた。その声は雫の落ちる間を埋めるように静かで、けれど揺るぎない。


 わたしたちの素性や来歴については伏せて、それ以外のすべてを明かした。

 互いに――どうしても、その一線を飛び越える勇気がないということを。


 黙って最後まで耳を傾けていたロゼリーヌは、カップを静かに置き、ゆるやかに背筋を伸ばした。

 その瞳にはためらいがなく、声には凛とした響きがあった。


「――それは臆病ではありません。あなたは背負うものが多すぎたのです。即位のその日から、朝も夜もなく政と戦に追われ、立ち止まる暇など一刻もなかった。

 ただ……いまのままでは、あなたが望む未来は、永遠に手のひらから零れ落ちてしまいます」


 きっぱりと諭すように、彼女は言葉を継いだ。


「あなたは“忌み子”と蔑まれながらも世界を救い、ついには王座に立たれた――

その長い道程で、どれほどご自分を削ってこられたことでしょう。

 もう、犠牲の上に立つのはおやめくださいませ。

 幸せを願うことは、けっして罪ではありません。

 もし『好き』と告げるのが怖いのなら、どうぞわたくしたち母子を、王統を――好きなだけ“盾”にお使いください。

 卑怯だと嘲る者には、わたくしが“先例”となってみせましょう。

 殿下はきっと、その盾の奥に隠したあなたの本当の願い――

 『愛している』という一言を、ありのまま受け取ってくださるはずですわ」


 言葉の最後、ランタンの炎が静かに揺れた。

 雨の温室に芽吹いたその灯りは、やがて夜を越え、朝の約束へとつながってゆく――そんな予感だけを残して。


 その声は叱責ではなく、鎖を断ち切った者だけが持つ熱だった。


――わたしが願ったのは、腕に抱く命の重みよりも先に、「“わたし”を愛してほしい。そして、愛したい」と自分に許せる、その一瞬のぬくもりだった。


【回想終わり】


◇◇◇


 ふと、ロゼリーヌの優しい声が、わたしを雨の記憶から現在へと引き戻した。


「陛下……?」


 目の前には、硝子を叩く激しい雨ではなく、穏やかな陽光にきらめく庭がある。

ロゼリーヌが、心配そうにこちらを覗き込んでいた。


「ああ、ごめんなさい。少し、あの日のあなたに言われたことを思い出して……」


「わたくしは、小さく息を吹きかけただけですわ。力強く歩き始めたのは、あなたご自身。秘めたる願いとそれを駆動する強い意志です。

 しあわせになる権利があるのに、それを諦めなきゃいけないなんて、もったいないです」


「わたし、贅沢は言いません。けど……ささやかでいいから、しあわせになりたい。

 それが、わたしのほしいものです」


 わたしの言葉に、ロゼリーヌは慈愛に満ちた笑みを浮かべた。


「では、一緒に歩きましょう。この王国の未来まで」


 紅茶の香りの奥に、春の若葉のような新しい記憶の匂いがした。

この温かさも、この安らぎも、すべてはあの日の決断から繋がっている。孤独な覚悟だと思っていたそれは、いつの間にか、二人で育む希望に変わっていた。


「はい、お姉さま。これから先、いろいろと教わることも多いと思いますが、よろしくお願いします」


 わたしが微笑むと、彼女もまた、深く優しい笑みを返してくれた。


「わたくしで良ければ、なんなりと。どんな相談にも乗ります」


 わたしたち姉妹の間に、柔らかな笑いがこぼれる。

 会話が途切れた、静かなひととき。わたしは無意識に、髪に挿した鈴蘭の簪に触れていた。

 薔薇の木陰で、銀の小さな花が、春の光を受けて、幸せそうに、ちいさく、揺れていた。それはまるで、遠い場所にいる彼からの、静かな便りのようだった。


 庭を後にする時、ロゼリーヌが指先でそっと唇を押さえる仕草をした──“秘密は守るわ”という、あの時と同じ合図。

 わたしは黙って目を伏せ、鈴蘭の音を一度だけ鳴らして応えた。


655話 考察メモ(長めに語ります)


「朝」という舞台装置

 夜明けは“再生”や“新しいフェーズの始動”を象徴する。冒頭3行だけで「水底から光へ」「金色のにじみ」「鳥の声」を畳みかけ、雰囲気を一気に“安全圏”へ引き上げる。ここまで命懸けの駆け引きを読んでいた身に深呼吸を促す導入。


 ベッドを “湖底に沈んでいた主体” から “水面へ浮上する舟” に見立てる比喩は、メービスの心の浮上と重ね写し。


 日常描写の厚み――“あたりまえ”の奪還

 香り・温度・触覚・音を一つずつ配置し、人のいる温もりを立体化。わずか十数行で「彼と寝起きを共にするのは初めて」という情報まで補完する。

 恋愛の高揚より“戦後のリハビリ”感覚で朝を描く。ハイライトを敢えて“蜂蜜を拭う指”のユルさ。


ヴォルフの“かわいさ”動線

 寝癖を「戦場仕様」と強弁する姿は、体裁より実務を優先するキャラ――強がりと硬い語彙のギャップでかわいさが出る。

 簪を挿す指が震えるのは、圧倒的な剣技との落差ゆえに “巨大感情を隠し切れない隙” が透けて見える。

 「柔らかいほうが落ち着く」など本音が雑に漏れる場面は、童心と包容欲が同居。


 「これで無敵だ」とハグを決めるときは理性と照れのせめぎ合いが前面に出て、“戦士の呪文が家庭に転用された”尊さが光る。

 “強者が出力ミスを起こす瞬間” を狙い撃ちしていて、ギャップ萌え。


回想シーン再掲の是非

 再掲そのものは効果的。章頭でメービスの“今”の幸福を可視化し、章末で「なぜ今の心境に至ったか」を鏡像配置しているので、“幸福と恐れ”の往復運動が章の骨格を支える。

 気になるのは分量。既読者は詳細を覚えているため、月白薔薇の香りとロゼリーヌの「もっと我儘に」だけでも充分に“雨の夜の密談”を想起できる。脳内エコー程度に要点を摘出しても機能は落ちない。


「本当の女同士の秘密会議」を描かない選択

 告白シーンでメービスは「我儘=弱さ=卑怯」の自覚に触れた。さらにロゼリーヌに解体してもらう場面まで書くとカタルシスが二段ジャンプになり、かえって朝パートの柔らかさを食い荒らすリスクがある。

 今回は「二人だけの秘密会議がもう済んだ」という静かな手触りを残し、余白を渡す意図。ラストの〈唇に指→鈴蘭で応答〉だけで「彼には明かせない秘密がある」と提示済み。次章の火種にも永遠の伏線にも転用できる。


リアルな台詞感

 メービスの「……あきれた。あなたって、デリカシーってものがないの……?」の“間”や、ヴォルフのぶっきらぼうさは、舞台台詞に寄り過ぎない“どもり”と語彙の欠落リアリティ。

 一方で地の文は叙情たっぷり。「詩的モノローグ」×「素朴な会話」 の落差がキャラの体温を上げる。


まとめ として

 “戦場仕様の寝癖”から“あたりまえの未来”へ。武器を持たない朝こそ、二人にとって最大の勝利宣言。

 再掲フラッシュバックは短縮してもよかったが、“琴線リプレイ”として機能。

 女同士の続きは「語らない強さ」で十分。むしろ水面下の絆が読後の余韻を長くするタイプ。


 ストレートに“良い朝”。ヴォルフの可愛さは保証付き。

 次は、二人が“あたりまえ”を守る側へ回ったとき、再び戦場仕様の顔がどう変わるかを覗いてみたいところ。


 そう、なにかが来る。

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