姉妹の午前
ロゼリーヌは白磁のまな板の上で、鶏肉、玉ねぎと包丁を滑らせるたびに小気味良い音を弾かせる。刃が肉繊維を断ち切る湿った響きと、玉ねぎの薄皮を裂く乾いた音とが重なり合い、厨房の空気に細やかなリズムを刻んだ。
わたしはその横で、朱いパプリカを掌に抱き、小さなペティナイフを握る。果肉を押し込む最初の感触は柔らかく、しかし薄い皮が刃をすっと跳ね返し、僅かな緊張が指に走る。
刻み終えた野菜を調理台へ戻すと、朝陽が差し込む窓辺から細い光の帯が伸び、まな板の上を鮮やかに照らした。パプリカの赤は夏至の夕焼け、ズッキーニは早朝の芝の匂いを隠したような深い緑、玉ねぎの縁は淡い月光を帯びて、色彩のオーケストラがまだ火を知らない瑞々しさを誇示している。
ロゼリーヌはその光景を指揮するように、大ぶりのシェフナイフを軽々と持ち替え、柄尻を軽く叩いてわたしに構えを示した。
「こう握るの。指を寝かせると力が逃げて、薄く均一に切れるわ」
わたしは頷き、示された通りに指を寝かせてみる。けれど刃先を置いた瞬間に肩へ余計な力が入り、皮の上を滑って切り口が歪んだ。
「わあっ——」
赤い破片が陽だまりに転がり、わずかに転げた種が金の粒のように跳ねる。ロゼリーヌはくすくすと喉で笑い、優しく包丁を置くと、掌でわたしの手をそっと包んだ。
「焦らずに。包丁の重さを野菜に預けるのよ」
細く温かな指がわたしの指の腹に重なり、刃を滑らせる角度を導く。彼女の掌の圧は春先の陽だまりのように柔らかく、“刃の呼吸”が私の手首へ沁みた。軽く引き込むだけで、パプリカは真っ直ぐ静かな断面を晒し、赤と金のコントラストが鮮烈に浮かび上がる。
「できた……!」
我知らず上ずった声に、ロゼリーヌはわざと大げさな拍手を送った。布越しの空気がはじけ、二人の笑い声が湯気の向こうで重なる。刻み終えたパプリカをボウルへ払い落とすと、窓辺の光を浴びて金色の種がひと粒、さらりと跳ねて踊った。
不思議だ。たわいない失敗と成功の往復が、鍋の下で燃える火よりも心地よい熱を胸に灯していく。包丁のリズムとロゼリーヌの笑声とが二重奏を奏で、厨房はまるで家族の食卓前夜のように温度を上げはじめた。
「意外と言ったら失礼ですけれど、メービス様は包丁の扱いになれていらっしゃいますね。料理の経験は?」
ロゼリーヌが感心したように目を細める。問い掛けを受けた途端、わたしの内側に遠い夕陽が差し込んだ——。
夕陽が傾くカテリーナの家の台所。
ぎこちない手つきでラタトゥイユの野菜を刻むわたしの横で、ヴィルが黙々とボウルや鍋を洗い続けていた。彼は一言も発さず、それでも水面に映るわたしの戸惑いを理解しているかのように、完璧なタイミングで道具を差し出す。あの無言の支援が、どれほど心強かったか。
――思えばわたしたちって、あの時から――巫女と騎士だったのかな……?
記憶の残光が胸の奥で静かに収束し、わたしは息を整える。爪先ほどのパプリカ片を摘み上げると、切り口から滲む水分が光を弾き、まるで幼い日のガラス玉のように赤を湛えて揺れた。
その透ける小宇宙を見つめた刹那、茉凛の高く澄んだ声が脳裏で鳴る。
《《ミツル、包丁は力を入れすぎちゃダメだよ。ゆっくり、引くように動かすと、もっときれいに切れる》》
教えは温度を孕んで指先へ降りてきた。いま握る包丁の重みとともに、あの日の陽射しの匂いまで蘇る。わたしはそっと口角を上げ、ロゼリーヌへ微笑みを返した。
「……少し、少しだけ心得があるだけです」
卓の端に寄り添うように置かれた木べらに目を留める。洗いざらしの木肌は艶を剥がれ、長年の湯気と油を吸い込んで飴色を帯びていた。指に取れば驚くほど掌へ馴染み、木目の凹凸が内側の記憶を優しく撫でる。
「その木べら、ずいぶん使い込んでいるみたいですね。新しいものを用意してもらいましょうか?」
ロゼリーヌが穏やかな声音で問いかける。彼女の視線は木肌の擦り減った箇所にそっと寄り添い、道具の歴史ごと労わるようだった。わたしは重心を確かめるように柄をひと回しし、穂先で鍋縁を軽く叩く。乾いた木の音が低く、心地よく響く。
「――これで大丈夫です。それに、これ、なんだか懐かしい感じがして……」
木べらの温もりが脈に合わせて掌へ滲む。胸の奥が甘く締め付けられ、舌の裏にかすかな切なさが滲んだ。
「懐かしい?」
ロゼリーヌが小首を傾ける。薄紫のドレスが光を抱え、布の陰影がやわらかな波を描いた。
「いえ、使い込まれた道具って、なんだかいい感じなんですよ。相棒っていうか」
言葉にすると、胸のきゅんとした痛みが少し和らいだ。
もちろん、これは未来の王都でわたしが使っていた木べらではない。それでも、茉凛と寄り添い、ヴィルやカテリーナと笑いあった台所で、黒ずんだ鍋底をかき混ぜた“相棒”と同じ重心が、同じ匂いごと指によみがえる。
ベシャメル――鍋底で乳白の湖が静かに揺れ、「とく、とく」と呼吸のような泡を孕む。甘い乳脂が湯気に乗り、鼻腔をくすぐった。木べらを回すわたしの手首がふいにリズムを逸らし、刃先で硝子をかいたような微かな音が走る。
ぷつり。
鍋底で薄膜が焦げ、琥珀色の傷が表面に滲んだ。焦げの匂いはまだ弱いが、白さを汚すには十分——。
「メービス様!」
ロゼリーヌの声が銀鈴のように跳ねる。彼女は布を払う早さでミルク壺を傾け、冷えた乳が滝のように流れ込み、じゅわ、と白い奔流が褐色を押し流す。わたしは木べらを立て直し、底を剝がすように円を描く。焦げの粒が真珠色の波に呑まれ、すぐに姿が見えなくなった。
《《落ち着いて、混ぜるのは八分目で止めるんだよ》》
茉凛の優しい注意が、遠い残響のように耳朶を撫でる。深呼吸。胸の奥で弾んでいた心臓がゆるりと沈み、泡の粒まで静まった。数拍ののち、鍋は再び絹の光沢を取り戻す。
隣でロゼリーヌの肩がほっと下がる。が、彼女が別の鍋に視線を移し、湯気がその顔を覆った一瞬、その微笑みが消え、息を呑むような硬い表情がよぎったのを、わたしは見逃さなかった。
まるで遠い物音に怯え、キッチンの灯りを消した夜の記憶でも見たかのように。だが、彼女はすぐに柔らかな笑みを取り戻す。
「わたしたちの初めての共同作業ですもの、黒星にはしたくありませんものね」
彼女の冗談めいた言い回しに安堵が混じり、バターの甘い匂いと一緒に笑いがこぼれた。
「ええ――ありがとうございます」
二人の声が柔らかく重なり、泡のはじける音に溶けていく。隣の鍋の蓋を持ち上げると、ワインと骨髄の溶け合った蒸気がふわりと押し寄せ、頬を撫でて胸の奥まで温めた。
「色も香りも申し分ありませんわね」
ロゼリーヌが木匙で底を掬い、艶めく雫を舌先に載せる。瞳が満足に細まり、わたしにも匙を向ける。
「煮詰め過ぎると重くなるから、ここで火を落としましょう」
助言に頷き、火加減を絞る彼女の横顔は職人の集中を帯びながらも柔らかな光を湛えていた。
ベシャメルを弱火にかけ、濃度が落ち着くまで三分。鍋底から上がる湯気が薄くなるまでの短い静寂が、薪のパチパチという音で彩られる。窓から差し込む光の帯が、気づけば石の床を横切り、壁の銅鍋を照らしていた。もう昼が近いのだと、その光の歩みだけが告げていた。
「待ち時間に、少しだけ味見をしましょう?」
ロゼリーヌは粗熱を抜いたパンの端を切り取り、白いソースを薄く塗る。差し出された欠片は乳脂の艶をまとい、湯気の中で誘うように揺れた。
「どうぞ、あーん」
「……こういうのって慣れないです」
戸惑いを隠せないまま口を開けば、ミルクとバターのふくよかな甘味が舌に沁みる。余熱でパンがほろりとほどけ、喉へすっと滑り落ちた。
「塩……足りないかしら?」
眉を寄せると、彼女は小さく首を振り、目元を和らげる。
「今の優しさでちょうどいい。今日は“彼”にも、一匙の甘さが必要ですもの」
“彼”——一瞬その顔が浮かび、胸がふわりと揺れる。意味を測りかねるわたしをよそに、ロゼリーヌは自分の分にもソースをひと塗りし、可憐に頬張った。
「うん。あなたが優しいと、ホワイトも優しくなるのです」
声音は冗談めいているが、瞳は真面目に光り、わたしの反応を探るようだった。胸の奥が熱を帯び、鼓動を打つ。
「味は心映えってこと?」
「ええ。……だから焦げ目がつかないのよ」
彼女は鍋に覗き込み、乳白の表面を木匙でひと撫で——焦げ付きはもはや跡形もない。
《《焦がさないように――》》
茉凛の囁きを思い出し、わたしは木べらを握る手に力を込め、小さく頷く。
「ソースが落ち着いたら、少し塩を足させてください。わたしの“勇気”も入れたいの」
ぽつりと言った瞬間、ロゼリーヌが瞬きを返す。湯気の幕が二人の間を曖昧に揺らし、薪がぱちりと弾けた。
「勇気……?」
「昨夜、少しだけ足りなかったものを、ちゃんと添えたいの」
わたしが木べらの柄を握り直すと、ロゼリーヌの肩がそっと重なる。上気した頬が触れ合う距離で、ソースの湯気が頬と頬を淡く湿らせる。
脈打つ鼓動が混ざり、薪の火花が淡い星になって跳ねた。ほんの数分の待ち時間さえ、小さな記念日のように胸に灯を点した。
◇◇◇
ロゼリーヌ謹製のトマトベースのチキンピラフが蒸気の膜をまとい、鍋の底で金色の米を跳ねさせた。木べらで縁をなぞる彼女の仕草が止まり、ふいとこちらを振り向く。頬を上気させた瞳が「いよいよね」と告げている。
鍋肌に残る朱色の飛沫が、やがて始まる“仕上げの儀式”を小旗のように煽っていた。
「さぁ、卵ね」
銀盆に並ぶ卵は、冬の曇天を映す白磁のようにかすかに青みを帯び、その殻は朝摘みのイチジクの薄皮のように艶を孕んでいる。わずかな指圧で殻が震え、淡い光を孕む黄身を秘めていることを告げた。
「リュシアンの分も入れて八個。割りましょう」
ロゼリーヌが数を告げる声は、舞台の幕を上げる拍子木のように軽やか。わたしは思わず口にした。
「了解です。“おねえさま”」
舌の上で転がした称呼は、自分でも驚くほど自然だった。
ロゼリーヌはわざとらしく腰を折り、敬礼。ふたりの笑い声が銀盆で跳ね、卵の殻がリズムを刻むたびボウルに金色の渦が増えてゆく。フォークをゆるりと回すと、泡が花びらのようにほぐれ、乳脂が陽光を呑んで淡い金を帯びた。
「フライパンは私が」
彼女が柄を握り、熱した鉄を火口へ滑らせる。油膜の上でバターを四片落とすと、じゅわ、と甘い芳香が立ち上り、空気がわずかに濃くなる。
茉凛の声が、水の輪のように脳裏に広がった。
《《卵液を流すとき、縁が白く固まった瞬間に返すと良いよ》》
わたしは頷き、銀盆を傾ける。溶き卵が尺八の吐息のように静かに流れ出し、鉄肌を覆った瞬間、シンとした静寂が訪れ——ついで気泡がぱちぱちと高鳴った。焦げを恐れる心と勝負の高揚とがせめぎ合い、胸が微かに震える。
「……いま!」
合図とともに柄を返す。躍り上がった黄金色の薄衣が白磁の皿へふわりと滑り、半熟の腹をふるりと震わせる。生き物めいた艶が陽を弾き、二人の顔を柔らかく染めた。
「成功!」
湯気の中で声が重なり、調理場の奥から鍋を洗う音さえ祝福に聞こえる。卵が焼けるたび空気は時間を早回しにし、わたしたちの笑い声が木霊するたび、見習い料理人がひそかに視線を向けては頬を緩めた。
四枚目、半熟の卵の腹が裂け、鮮やかな黄がじわりと滲む。
「きゃっ」
思わず洩れた声に、わたしの心臓が跳ねた。鉄の上で涙のように揺れる黄身に、先ほどの琥珀色の焦げの記憶が重なる。
――また……また、わたしは大事なものを壊して……!
指先が冷え、呼吸が浅くなる。一瞬、厨房の音が消えた。
「待って、繕えるわ」
ロゼリーヌの声が、混乱しかけた思考に冷静な錨を下ろす。彼女は即座に皿へ滑らせ、溶き卵をひと匙——絹糸をしずくに変えて裂け目へ垂らし、木べらの背でやさしく撫でる。弱火の上、十数秒。卵液が接着剤のように固まり、破れた衣は嘘のように塞がる。
「ね、完璧じゃない?」
「……魔法みたい」
胸を圧していた不安が、初夏の雨雲のように消え、ふたり同時に息を吐いた。
「料理は戦場と違って、傷を隠す術があるわ」
冗談めいた囁き。ロゼリーヌの睫毛に小さな汗珠が光る。鍋の奥でバターが弾け、甘い香りが充満した。
残りの卵も無事に焼き上がり、八枚の黄金の布団が皿の上で穏やかな息を潜める。ソースを弱火で保温しながら、ふたりは木椅子に腰を下ろした。湯気が天窓へ溶け、石壁を撫でる冬光がほの白い。
ケトルの水泡が鼓動のように小さく弾ける間、ロゼリーヌが指を絡めて囁いた。
「メービス様……“例の件”ですけど、まだ怖いですか?」
声は柔らかいが、奥底に震えを含む。わたしは木べらの柄を撫で、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「怖くない、と言えば嘘です。けれど、その未来を諦めてしまうほうがもっと怖いです……」
自分でも驚くほど声音が落ち着いていた。バターの甘さに混じる緊張を味わいながら続きを促すと、ロゼリーヌは靴先を揃え、淡い影を足元に落とした。
「私は逆だったわ。あの子を抱くまでは、“その言葉”の響きが途方もなく、大きく、冷え冷えとしていた。
でも、一度抱きしめてしまえば、その小さな呼吸一つで——世界の輪郭が決まるのです。まずは最初のハードルに向けてがんばりましょう」
語尾に宿る決意が、薪の火花となって胸の奥を照らす。わたしは木べらの柄へ指を滑らせ、年輪のような傷を親指で辿った。その凹凸は長い時間を吸い込み、かすかな温もりで脈を打っている。
「ロゼリーヌさん、ありがとう。本当に勇気づけられます。先輩っていったらいいか、お姉さんっていったらいいか……そんなふうに思っています」
想いを押し出すように口にすると、ロゼリーヌは息をひとつ整え、その唇に柔らかな弧を刻んだ。掌で風をすくうような仕草が、温かい空気をわたしの頬へ寄せる。
「あら、私は一応、義理の姉ということになるんじゃないでしょうか?」
言いながら、彼女は冗談めかして眉を上げる。琥珀の瞳がひそかな喜色を帯び、甘い香草の匂いがドレスの襟元からふわりとこぼれた。
「あ、そういえばそうでしたね」
声に照れが滲み、わたしはハンカチで手の粉を払いながら笑う。火口の上、バターの泡がパチパチと弾け、ふたりの間にこぢんまりとした祝砲をあげた。
「なら、今日一日だけでもお姉さんに甘えて。明日からはまた女王で良いですから」
彼女は真面目を装いつつ、睫毛の影に遊び心を忍ばせる。わたしの胸に灯った小さな安堵が、温かい蒸気に溶けた。
「一日と言わず、折に触れて頼っていいですか?」
「もちろん、光栄ですわ」
銀鈴のような笑声が高く転がり、鍋の蓋がカタンと震えた。デミグラスの表面がぽこりと微笑み、すぐ隣でホワイトソースが穏やかに艶を深める。クリーム色に揺れる光沢は、先ほどの躓きさえ甘い思い出へ溶かしてしまいそうだった。
「そろそろ仕上げね」
目と目で合図を交わし、椅子を引く脚音が石床にかすかな余韻を残す。
ふたりは再び“戦場”へ歩を進めた。包丁の刃先と銀匙の重みを携え、湯気の帷の向こうで照明の光が複数の影を交差させる。
盛りつけの最終幕。ロゼリーヌが刻みパセリを指先でつまみ、皿の縁へそっと落とす。緑の粒は軽く跳ね、白と褐色の境を渡ってハートを象った。卵の黄金がその輪郭を映しとり、一段と鮮やかに輝く。
「……何を?」
わたしが小さく首を傾げると、ロゼリーヌは木匙をくるりと回す仕草で笑う。
「だって今日はお祝いでしょう? あなたの勇気と、あの子の成長と」
胸に火が灯り、頬を温かな潮が染める。逃げ場のないくすぐったさ——けれど、銀匙を握り合わせ、ホワイト側へ同じ図形を写し取った。姉妹の悪戯は均等でなければ。
皿の上で、白い幸せと黒い冒険が静かに呼吸を合わせる。卵の布団が脈を打つように揺れ、ソースに光が踊った。それは、過去の疼きをそっと包み込み、新しい記憶のページを穏やかに開く合図のようだった。
◇◇◇
出来上がった熱々のチキンピラフが、白磁の皿の中央で湯気の塔を立てる。粒のひとつひとつがトマトの朱を宿し、香草とバターの匂いを小鳥のさえずりのように弾ませていた。
その上へ、さきほど焼き上げた黄金色のオムレツをそっと滑らせる。半熟の腹がふるりと揺れ、光を呑み込んだ絹が皿面へ柔らかく横たわった。
「盛りつけは、半月を描くようにね」
わたしの声に、ロゼリーヌがこくりと頷く。陶器と銀器が触れ合う僅かな響きが、離宮の静かな厨房へ澄んだ余韻を投げた。
銀のレードルを握り、厨師長秘伝のデミグラスをオムレツの右側にとろりと垂らす。深い森の影色が、絹の裾へしみ込むように広がり、ほのかなワインの香りが甘苦く漂う。
続いてロゼリーヌが、わたしたちのホワイトソースを左側へ。雪解けの小川が柔らかく拡がるように流れ、乳脂の光沢が淡い月光を思わせる。
中央には黄金の卵が王冠のように鎮座し、その頂にロゼリーヌが隠し玉——赤ワインで煮込んだ牛頬肉をそっと載せた。濃紫に照り返すソースが宝石めいて輝く。
「白い幸せと、黒い冒険――ふふ、リュシアンのネーミング通りになりましたわね」
ロゼリーヌは誇らしげに皿を掲げ、鼻をわざと高く鳴らす。デミグラスの深褐とホワイトの象牙色、その二色が卵の鮮烈な黄を挟み込み、見事な三層の海峡を描いていた。
仕上げにくし形のレモンを添えると、朝露のような光が果皮に宿り、刻みパセリの緑が雪のようにふわりと散った。
「……味見、なさいます?」
ロゼリーヌが悪戯っぽく小さな銀匙を差し出す。湯気が匙の輪郭を霞ませ、金色の雫が表面に揺れた。
「……では、ほんの少しだけ」
頬が上気するのを感じながら応じると、まずホワイトソースをひと掬い。ロゼリーヌの指がわたしの唇の前で止まり、優しく促す。
「はい、メービス様。あーん」
「え……っ」
子どものような仕草に戸惑い、頬が熱くなる。それでも彼女の瞳が余りにも温かく、観念して口を開く。
乳の優しい甘さと胡椒の微かな鋭さが舌にほどけ、茉凛の《《焦がさないで》》という囁きが正しかったことを証明する柔らかなまろみが喉へ滑り落ちる。
「次は、こちらを」
艶やかなデミグラスが匙に載り、わたしの唇へ運ばれる。骨髄と赤ワインが融けた深いコクが舌の上をゆっくり満たし、頬肉がほろりと崩れ、温かな余韻を残して消えた。目を閉じ、胸の奥にまで降りていく温度を確かめる。
「……リュシアンが、羨ましいです」
ロゼリーヌが肩に額をこつんと預け、囁く。吐息が頬をかすめ、甘いソースの匂いが混じる。
「あなたが作った白と黒の海で、あの子は今日も、思う存分泳ぐのね」
「……いいえ」
わたしは首を小さく横に振る。胸の奥で何かが灯り、湯気とともに宙へ上がった。
「あなたと一緒に作ったのですもの。だから、これは――わたしたちの、海峡です」
その言葉にロゼリーヌは微笑み、指先でパセリの緑をひとつつまみ、銀匙の縁にそっと載せた。
皿の上で、白い幸せと黒い冒険が静かに寄り添い、色彩の航路を照らしている。湯気がゆるく立ち昇り、煌めく朝の光の中で、わたしたちの新しい記憶がそっとページをめくった。
◇◇◇
昼下がりの陽光がテーブルクロスを乳白に透かし、銀器の輪郭に小さな虹を宿していた。長い稽古で汗を流した二人の剣士──ヴォルフとリュシアン──は、袖口を整える間も惜しんで椅子へ腰を下ろし、湯気の立つ皿を覗き込んでいる。
リュシアンの顔が、寄宿舎の鐘を聞いた雛鳥のようにぱっと輝いた。
「わあ! 本当に、白い幸せと、黒い冒険だ!」
“幸せの卵布団”を前にした少年の詩的な歓声に、ロゼリーヌとわたしは視線を絡ませたかと思うと、堅い格式も忘れて声を立てて笑った。
ヴォルフは苦笑いを隠さず、しかし蒼い瞳の底に宿る光は、澄みきった湖面のように温かい。剣の柄を握る時と同じ手つきでナプキンを整え、わたしたち三人の弾む空気を遠慮がちに見守っていた。
リュシアンが大きく口を開き、卵のきしむ音も立てぬほど柔らかな布団を頬張る。途端にほころんだ頬がリスのように丸く膨らみ、ソースの艶が紅潮の頬をさらに艶やかに染めた。
わたしはその笑顔の向こうに、ふいに幻のような情景を見た気がする。風塵の街道、照り返す陽炎、叶わぬまま置き去りにした約束──それらがひと呼吸で溶け、目の前の一皿に結実している。
この料理は、過去で燃え残った小さな願いを、今この場所でそっと叶えてくれた。
それと同時に、新しい家族の糸を確かに結びつけてくれた。
ロゼリーヌが「メービス様も、どうぞ」とそっと声を落とし、銀のナイフで卵布団を切り分ける。刃先に映る乳白の光が揺れ、切り口からハーブの香りが立つ。
彼女の指先が皿の縁で止まったとき、わたしの指先が無意識にその上へ重なった。冷えた銀と、互いの体温が瞬間に触れ合い、言葉より早く胸の奥が熱を帯びた。
――……こんなお姉さんが、ほしかった。
心の底で零れた呟きは、誰に向けるでもなく湯気の中に溶ける。前世でも現世でも、わたしには“姉”という影を与えられることはなかった。それでも今、ロゼリーヌの静かな微笑みと温かな手の重みが、長い欠落をそっと埋めてくれる。
この一瞬に限って、わたしは女王でも巫女でも、罪を背負った転生者でもなく、ただ優しい姉を持った一人の少女に還れたような気がした。
◇◇◇
食卓の歓声がゆっくり遠のき、扉が閉まると同時に厨房は潮が引くように静まり返った。さっきまで響いていた笑い声やフォークの澄んだ音は跡形もなく、代わりに薪が静かに燠となって崩れる微かな音だけが残る。
山盛りの鍋と皿が流し台に積まれ、湯気が薄い霧となって宙に漂っていた。ロゼリーヌは袖口を肘までたくし上げ、わたしは洗い布巾を握り直す。桶へ鍋の底を沈めると、泡がぱちりとも言わず弾け、銀の表面が淡い鏡となって揺れた。
「食器を洗う音って、雨と似ていますわね」
彼女が呟く。ふわりと舞う湯気が声を包み、石窓の外で揺れる木立の影と重なった。
「雨?」
わたしの問い返しに、ロゼリーヌは口角を上げる。
「屋根を叩く粒の連打。静けさを洗い立てる感じ……って言えばいいのかしら」
比喩を置くようにくすりと笑い、泡をすすいで鍋を差し出す。その水滴が滴る音が、確かに柔らかな雨音にも聞こえた。布巾で銅の底を拭うと、磨かれた面に二人の笑顔が歪みながら映り込み、湯気のヴェールの中で揺れた。
最後の鍋を棚へ戻す頃には、薪はほとんど熾だけを残し、赤い眼を細く光らせている。火の名残と入れ替わるように、卵とバターの甘い残り香が石壁に薄く張り付き、温かい記憶を留めた。
ロゼリーヌが卓上のランプを一つ、また一つ落とし、影が深くなる。残る灯火の橙がハーブ束を照らすと、針葉の影が壁へ細長く伸びた。
「今夜、眠れない時は枕元に置いてください。ローズマリーは悪夢を払うそうです」
手渡された小束は乾いた樹脂の匂いを立ち上らせ、指先に細かな棘の感触が残る。
「ありがとうございます。……今夜はきっと、あの子みたいに熟睡できるかも」
くすりと笑うと、ロゼリーヌの肩の力がふっと抜けた。鍋肌の熱がようやく冷めたように、二人の間を包む空気も柔らかく弛む。
石畳へ出ると、午後の光が白壁を撫で、淡い影を長く落としていた。遠くで鳩が羽ばたき、空は春先の水彩画のように薄藍を滲ませている。
ほんものの姉妹かどうか——それを問う必要はない。掌には洗い立ての鍋の滑らかな感触、胸にはハーブの清しい匂い。目に見えない絆が、言葉よりも確かな温度で鼓動に寄り添っていた。
姉妹の午前は、こうして温かな湯気と幸福な満腹感の中で静かに幕を下ろした。
この柔らかな時間が、わたしがこれから向き合う重い現実を越えるための、小さなお守りになる——そんな確信が、焚き残った薪火のように胸の奥で赤く灯っていた。
窓辺の刺繍を指で辿る最初の一行から、物語は静かに、しかし確かな揺らぎを宿しています。葡萄色のカーテン越しに差し込む金糸の光は、まるでモンゴメリの『赤毛のアン』が描き出す朝の森の光透過のように、視覚を通して読者の内面へそっと入り込みます。その瞬間、「わたし」と読者の心は一呼吸置いて共振し、この作品の繊細なトーンを受け止める準備を整えます。
構造考察
物語は三つの層で編まれています。
一つ目は【外的描写】──城壁と庭、稽古場と食材庫へと続く移動のリズム。これが舞台転換という叙事的軸を形成し、王宮の厳しさから“家”の温かさへとシーンを誘います。
二つ目は【身体感覚】──切る、触れる、湯気を吸う。よしながふみが会話の合間に“間”として置くように、台詞の間に手の震えや香りの刻印を差し込むことで、読者は文字を読むだけで五感をフル稼働させられます。
三つ目は【内的変奏】──“約束”の重み、過去の記憶、未完の痛みが折り重なる心模様。これは萩尾望都のような詩的回顧を思わせ、遠い風景を一気に胸の奥へ引き寄せます。
台詞の裏側に潜む“語られない意味”
「違う、リュシアン! 踏み込みが甘い!」──この厳しさは単なる剣術指南に非ず。かつてヴィルが未熟なミツルを叱咤した鼓動を彷彿とさせ、師弟関係の原初的な絆と、ミツル自身の幼い喪失感を呼び覚ますレイヤーがあります。
「はい、師匠!」──己の弱さを肯定しつつ、真剣に受け止める少年の声には、師に対する絶対的な信頼と、“わたしもまた守られたい”という願いが同居しています。ここには雲田はるこが描く“静かな誇り”が滲んでいます。
「ふふ、まるで、本物の親子のようですわね」──ロゼリーヌの一言は軽やかなユーモアに聞こえながら、実は「家族をつくる」という究極の願望を予告しているのです。“言えない本音”を挟みつつ、台所という小宇宙の母性を照射します。
「焦らずに。包丁の重さを野菜に預けるのよ」──料理のレッスンは、そのまま“人生のレッスン”でもあります。“痛みを抱えながら前へ進む覚悟”が、この一言に凝縮されています。
「今日は“彼”にも、一匙の甘さが必要ですもの」──ここで「彼」が誰かは言及されません。けれど、読者はすぐにそれが“ヴォルフ”であり、“未来”であり、“語られない願い”そのものだと察します。「沈黙の中の呼吸」を感じさせる瞬間です。
「わたしたちの、海峡です」──ここで初めて二人の共同作品として皿が言及され、幾重にも交わった視線と手のぬくもりが、料理という“橋渡し”を果たします。これは“空間を媒介にした心の交錯”そのものです。
影響の残響
各シーンには、「心象風景を光で描く語り口」、「会話の間に滲ませる心理の層」、「詩的比喩」、「痛みと救済の交錯」、「言わずに抱え込む沈黙の濃度」が織り込まれています。語られない部分こそが心の余韻を生む、「語らない物語」です。




