守る騎士と、盾を捨てる姫
革の匂いは仄かに燻り、金具が かすり と琴線を弾く。
普通の男ならば、きっと、わたしの心の扉を、優しさを盾にしてこじ開けようとしたことだろう。
でも、ヴォルフは違った。
彼の沈黙は、空虚なそれではない。
それは雪の気配にも似て、触れれば溶けてしまいそうに脆いほどに凪いでいた。
非難も、同情も、詮索も、何ひとつ含まない、ただ、ありのままのわたしを映す、静かな井戸の底で瞬く瞳のよう。
いいえ。まるで違う―― 彼は、わたしに“選ばせ”ている?
沈黙のまま、ひとつの選択肢だけを、わたしの足元に、そっと置いて。
あとは、何もせずに、ただ待っている。
「逃げてもいい」とも、「進め」とも告げず、ただその場に、共に在るために。
その、押し付けがましさのない存在感が、不思議なほど、嵐のように荒れ狂うわたしの心を、ゆっくりと凪へと導いていくようだった。
幼き者として扱えば、決してできぬこと。
わたしの意志を、わたしの決断を、真剣に――ひとりの“対等な存在”として、彼は待っているのだ。
……まさか。
そんなはずは、ない。
だって、彼にとってわたしは、実年齢で言えば三十歳以上も年の離れた子供でしかないのだ。
どれほどの叡智と知識で武装しても、どれほどの力をその手にしても。
わたしは結局、彼の親友ユベル・グロンダイルの、守るべき娘……そのはずなのに。
けれど。
あの夜の、離宮の稽古場での言葉が、頭の奥で何度もこだまする。
月光に照らされた、白い砂の上。彼の背後には、深い夜の闇が広がっていた。
「……今すぐにとは言わん。だが、いつかその盾の向こう側と、俺を真っ直ぐに向き合わせろ。それが――おまえの言う“片道切符”の運命を、俺がおまえと共に背負うための、唯一の条件だ」
口調は、からかうように柔らかかった。でも、あのときの瞳だけは違っていた。
夜の闇に沈むことなく、魂の奥底までをも見透かすように、確かに灯っていた“熾火”のように、闇を焦がさず内側だけを赤く孕む光と熱。
それは、わたしが自分自身でさえ、触れることを恐れていた心の深奥に潜む、凍てついた想いすらも、ゆっくりと、けれど確かに温めていた。
胸の奥に薄氷がひびく。
けれど、それでも。
あのとき、わたしは確かに約束したのだ。
あなたと向き合う、と。
「……ええ。必ず……あなたにだけは、この盾を解いてみせるわ」
その約束の言葉が、今、重たい意味を持って、わたしの両肩にのしかかる。
それは、もう“逃げられない”ということ。
そして、心のどこかで、“逃げたくない”と叫んでいるわたしがいることにも、もう、気づいていた。
深く息を吸い、わたしは、ゆっくりと、震える膝に力を込めて立ち上がった。夜着の絹が微かに泣き、その衣擦れの音に、心臓が跳ねた。
震える指先で、そっと、扉の冷たい木肌に触れる。
一歩、踏み出す。
柔らかな絨毯が、わたしの重みを、音もなく受け止める。
冷ややかな真鍮が指紋を吸い、汗を瞬時に蒸発させる。その感触に、思わず手を引っこめそうになった。
この扉を開けて、彼の顔を、まっすぐに見ることができるだろうか。
ごくり、と乾いた喉が、痛々しい音を立てた。
そして、わたしは扉を――開けた。
◇◇◇
冷たい蝶番が、きい、と微かな悲鳴を上げた。
廊下の淡いランプの光が、わたしの足元に長い影を落とし、部屋の奥へと押し出す。開いた隙間から、ひやりとした夜の空気が、涙で火照った頬を撫でていった。その空気には、磨かれた床の蝋の匂いと、夜の清廉な香りが混じっている。
そこに、彼はいた。
わたしが応えないものと諦め、ちょうど踵を返そうとしていたところだったのだろうか。扉の音に気づいた彼は、ふと、その逞しい身体をこちらに向けた。
黒い詰襟の軍服姿。その肩には、銀翼騎士団総司令の階級を示す、白銀の飾緒が月光のように輝いている。
目が、合った。
何かを言いかけた唇が、けれど言葉を紡ぐことなく、わたしはただ、彼の顔を見つめることしかできない。
そして彼もまた、しばらくわたしを見つめたまま、言葉を選ぶように、わずかに唇を結んでいた。
その瞳には焦燥の影を湛え、その上に薄い驚きを重ね、最後に安堵の微光が揺れていた。
長い、永遠にも感じられる沈黙の後。
ようやく彼の口から紡がれたのは、わたしが予想していた、どんな言葉とも違っていた。
「……正直に言ってくれ。お前にとって、俺は……怖い存在か?」
その言葉は、責めでも、問い詰めでもない。
ただ、静かに、わたしの心のありかだけを問うていた。
その、あまりにも誠実な問いに、わたしの中で、何か固く張り詰めていたものが、ぷつりと音を立てて切れた。
「……違う」
言葉が、ようやく出たのは、たぶん、彼のその瞳に、正面から向き合ってしまったからだ。
彼の瞳が、すこしだけ揺れた。その眉間に、戸惑いの色が深く刻まれる。
「何が違うんだ?」
「こわいのは……わたしの心。わたしが……わたしのこの気持ちが、これから、何を壊してしまうのかを思うと……怖いの」
言葉は、途切れ途切れだった。それでも、わたしは必死で紡いだ。これが、今のわたしに言える、ぎりぎりの真実だったから。
それを聞いた彼の表情から、すっと険が消えた。そして、ただ、深く、静かに頷く。
「……そうか。わかった」
その、あまりにもあっさりとした肯定に、わたしは戸惑った。もっと、問い詰められると思っていたから。理由を聞かれると思っていたのに。
わたしの心臓は、先ほどまでの激しい動悸が嘘のように、ゆっくりと、けれど重たいリズムを刻み始めていた。耳の奥で、その鼓動だけが響いている。
「それをどうするかは、お前自身が決めることだ。俺がどうこう言う問題じゃない」
「……」
「腹に抱えているものを、吐き出したければ吐き出せばいい。吐かないという選択も、否定はしない。……今日の馬車でのことも、それが原因なんだろう?」
「それは……」
言葉に詰まるわたしに、彼は静かに続けた。
「悩みを抱えて混乱しているときは、頭の中がぐちゃぐちゃになって、どれが本音かもわからなくなる。誰だってそうだ。……整理がついたなら、話してくれ。俺からは、それだけだ」
そう言って、彼は今度こそ、本当に背を向けた。その広い背中が、遠ざかっていく。
駄目、このまま、行かせてはいけない。
今、この流れを断ち切ってしまったら、わたしはきっと、また、固く扉を閉ざしてしまう。
「待って……!」
指先が、ドレスの深緑を爪でひっかき、白い月痕を残す。
ひそかな衣擦れが胸元で波を立て、そして震えが呼吸へ昇り、唇に熱い霧を吐き出させた。
彼の足が、ぴたりと止まる。
「ん?」
「……いまは、無理。ごめんなさい。
頭の中が、まだ靄でいっぱいで……
でも、明日、明日になったら――離宮に行くでしょう?
そのとき……ちゃんと話すわ。わたしの、全部」
最後の言葉は、自分でも驚くほど、はっきりとした響きを持っていた。
彼は、ゆっくりとこちらを振り返ると、その口元に、ほんのわずかに、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「了解だ。……まあ、あまり思い詰めるな。悩み抜いたことも、いざ言葉にしてみれば、案外、“なんだそんなことか”と思えるかもしれん。これは、俺の経験だ」
「……ヴォルフ」
「俺は、どんなことからでも逃げるつもりはない」
その言葉は、どんな慰めよりも、わたしの心に深く、温かく沁みた。
「……ええ」
「じゃあな。おやすみ。ちゃんと、寝ろよ。女王にふらふらされては、支える俺も大変だ」
「……ええ、おやすみなさい、ヴォルフ」
扉が、そっと閉じられた。
わたしは、その扉に、もう一度、今度は安堵と共に、そっと額を預けた。
もう、あの重たかった境界は――
ほんのわずかでも、音を立てて、揺れ始めていた。
開かれなかった扉の、その先に、確かに、新しい朝の光が差し込んでいるのを、わたしは感じていた。
◇◇◇
わたしは、ゆっくりと立ち上がり、冷たい扉から背を離した。
まだ、指の節が微かに震えている。先ほどまで彼が立っていたであろう扉の向こうの空間は、もう、ただの静まり返った廊下に戻っているはずなのに、その気配だけが、残り香のように、この場にまだ満ちている気がした。
彼の纏う、微かな革と、清廉な夜の空気の匂いが、まだこの部屋の空気に溶け残っているかのよう。
彼の最後の言葉が、耳の奥で何度も反響する。
『俺は、どんなことからでも逃げるつもりはない』
その、静かで、揺るぎない響き。
わたしは、ふらつく足で紫の絨毯の上を歩き、だだっ広いベッドへと戻った。その柔らかな毛足が、わたしの不安な心とは裏腹に、優しく足裏を受け止める。シーツの温もりはどこにも残ってはいなかった。
ベッドの縁に腰掛け、ただ、呆然と自分の手のひらを見つめた。
彼を突き飛ばしてしまった、この手。
彼にすがりつきたいと願っている、この手。
その矛盾に、胸が張り裂けそうだった。指をぎゅっと握りしめても、彼を拒絶した瞬間の、硬い甲冑の感触と、布地が裂ける微かな音が、消えてはくれなかった。
――わたしは、何を話せばいいの……?
明日、離宮で、彼に。
「わたしの、すべてを」
そう、確かに、わたしは約束した。
勢いだけの、無謀な約束。けれど、もう後戻りはできない。あの、どこまでも誠実な瞳に、わたしは、確かに誓ってしまったのだから。
頭の中で、何度も言葉を組み立てては、崩す。その繰り返しが、まるで終わりのない拷問のようだった。
ロゼリーヌに打ち明けた、あの「身勝手で卑怯な手」を、彼に告げるべきなのだろうか。
それは、女王としての責務。国を思うがゆえの、苦渋の決断。
愛しているから、などという私的な感情ではない。ただ、国のために。
そんな、完璧な理屈を、わたしは懐刀のように、用意していたはずだった。
けれど、扉の向こうで静かにわたしの決断を待ち続けた、彼のあの姿を思い出してしまう。
彼の、あまりにも誠実な瞳を。
「俺は……怖い存在か?」と、自らを省みた、その真摯な問いかけを。
そんな彼を前にして、わたしは、本当に、そんな嘘がつけるのだろうか。
もっともらしい大義名分を盾に、彼の心を、彼の優しさを、試すような真似が。彼の信頼を裏切るようなことが。
――……できない
心の奥底で、か細い、けれどはっきりとした声がした。
彼に対してだけは、そんな卑怯なことは、したくない。
彼のあの静かな敬意に、わたしもまた、誠意で応えなければならないのだ。
たとえ、その先に待っているのが、絶望的な結末だとしても。たとえ、嫌われても。軽蔑されても。
彼にだけは、本当のわたしで、向き合わなければ。
それが、彼の示してくれた「対等な存在」としての敬意に、わたしが応える、唯一の方法なのだから。
では、何を話す?
わたしの、この「呪われた渇き」を?
ただ、あなたのそばに、ずっといたいのだと。
その、あまりにも単純で、そして、あまりにも身勝手な願いを?
わたしがそれを口にした瞬間、わたしたちを繋いでいた、あらゆるものが、音を立てて崩れ落ちていく光景が、まぶたの裏をよぎる。
“守護者”と“被後見者”。
“騎士”と“巫女”。
“王配”と“女王”。
そして、何よりも重い、“親友の娘”と、“その父の友人”。
その、幾重にも張り巡らされた、危うい均衡のすべてが。
たった一言の告白で、粉々に砕け散ってしまう。
彼がわたしに向けてくれる、あの温かく、そしてどこか父性に似た優しさが、困惑と、あるいは憐憫の色に変わってしまうかもしれない。
みぞおちが、氷片を呑んだように固まった。身体の芯が、また冷えていく。
結局、眠ることなど、できはしなかった。
ベッドの上で何度も寝返りを打ち、意味もなく天蓋の刺繍の数を数え、そうして、ただ、夜が明けるのを待った。窓の外では、月が静かに空を渡り、その光が床の絨毯の上に、ゆっくりと動く光の四角形を描いては、消えていく。遠くで、城壁の警邏兵が交代を告げる、微かな革靴の音が聞こえた。
世界は、いつも通りに時を刻んでいるのに、わたしだけが、このベッドという名の孤島に取り残されているようだった。
◇◇◇
やがて、東の空が、暁の光で、まるで薄氷のように白み始めた。窓枠が、一本の銀の線となって、闇の中から浮かび上がってくる。その熾火の余炎をほのかに孕む薄桃の黎明が、昨夜の彼の瞳に灯っていた光に、少しだけ似ているような気がした。
わたしは、もう一度、緩慢な動作で身を起こした。
夜着のまま、寝室に併設された簡素な化粧台の前に座る。鏡に映った自分の顔は、ひどい有様だった。泣きはらした目元、青白い頬、そして、眠れぬ夜を過ごした者の、生気のない瞳。
こんな顔で、彼の前に立つわけにはいかない。
冷たい水で何度も顔を洗い、侍女が用意してくれた外出着に着替えた。深緑の、飾り気のない、けれど上質な生地のドレス。それは、公務の時のような威圧感もなく、かといって、離宮でくつろぐには、少しだけ、堅苦しい装いだった。
今のわたしの、中途半半端な覚悟を、そのまま映しているかのよう。
支度を終え、わたしは約束の場所へと向かうため、静かに部屋を出た。
早朝の王宮は、まだ眠りの中にあるように、しんと静まり返っている。わたしの足音だけが、長い廊下に、やけに大きく響いた。磨き上げられた大理石の床に、自分の不安げな顔が映っているような気がして、思わず俯いてしまう。
向かう先は、離宮。
そこは、リュシアンとロゼリーヌが暮らす、穏やかな場所。
そして、わたしが、彼にすべてを話すと、約束した場所。
馬車に揺られながら、わたしは、固く、固く、目を閉じていた。
車輪が石畳を叩く、規則正しいリズム。それが、まるで、わたしの処刑台へのカウントダウンのように聞こえて、心臓が嫌な音を立てる。
これから起こるであろう、すべてのことから、逃げ出してしまいたい。
けれど、もう、逃げないと決めたのだ。
離宮の門をくぐり、見慣れた庭園の小道を歩く。
砂利を踏む靴音が二つ、東屋の静けさに溶けた。
彼は背筋を伸ばしたまま池の翡翠色を眺め、朝日を斑に受けている。
わたしの気配を認めると、ただ首だけをこちらに向け――
「……おはよう、メービス」
低く柔らぐ声が、露の匂いを微かに震わせた。
「おはようございます、ヴォルフ」
胸の裏で小鳥が跳ね、けれど外の声は濁らない。
彼は何も言わず、石椅子の隣を指先で“とん”と叩いた。
誘いはそれだけ。
わたしは裾を摘まみ、ひやりとした大理石に腰を下ろす。
石の冷たさが背骨を伸ばし、そこから先の言葉を――待った。
彼の纏う革の匂いと、剣環が衣に触れる微かな音が、始まりの扉の向こうの沈黙を、ここに連れてきたかのようだった。
やがて、彼が、静かに口を開く。
「……よく、眠れたか?」
その、あまりにも穏やかで、優しい問いかけに、わたしは、はっと息を呑んだ。
昨夜、あれほどの出来事があった後で、彼が最初に問うたのは、事件の真相でも、わたしの心の真意でもない。ただ、わたしの身体を気遣う、その一言だったのだ。
「お前の心の準備ができるまで、俺は何も問わない。まずはお前の安否が、俺にとっての一番だ」
その言葉が、声にはならずとも、彼の瞳から、痛いほどに伝わってくる。
その優しさが、あまりにも鋭く、わたしが必死で構えていた心の盾を、いとも容易く貫いていくのだ。
涙が、また、込み上げてきそうになるのを、必死でこらえた。喉の奥が熱くなり、視界が滲む。
言葉が出ない。ただ、小さく、か細く、頷くことしかできなかった。
そんなわたしの様子を見て、彼は、ふ、と柔らかく息を吐く。
そして、もう何も言わずに、また、池の水面に視線を戻した。
その横顔は、朝の柔らかな光を浴びて、まるで彫像のように、静かで、美しかった。
さあ、話さなければ。
わたしの、すべてを。
この、盾の向こう側を、あなたに。
脈拍が、胸ではなく喉で跳ねた。
わたしの、呪われた渇きの、そのすべてを。
白い息の底に、ひと欠片の春が脈を打った。
この一連の描写は、
●「沈黙を破るか破らないか」という究極の選択の瞬間、
●「逃げられないが逃げたくない」という心情の葛藤、
●「対等な存在として互いを認め合う契約の前段階」、
を紡ぎ出しています。
沈黙の詩学──相手を“選ばせる”静寂
通常の“心配/詮索”を排し、彼は<沈黙>という優しさで待つ。
革の匂い、硬質な金具音、雪のように脆い凪ぎの比喩……これらが沈黙に質感を与え、単なる間ではなく「選択の舞台」として空間を設定。
読者は「言葉を求められる」かわりに、「自分で言葉を紡ぐ緊張」を体感する。
「盾としての約束」と「鍵を手放す覚悟」
彼が提示したのは「いつか本当のわたしを見せる」という“盾の向こう側”という抽象的条件。
メービスは最初、その盾を離せずにいたが、「逃げられない/逃げたくない」と踏み止まることで、初めて鍵を握る主体性を示す。
このやり取りは「依存」ではなく「自立的選択」の物語的転換点。
五感の水鏡──感情の分層
革の匂い→真鍮の冷たさ→夜着の絹の泣き→氷片のような胸の痛み……と、各段落で一種の“フォーカス五感”を配置。
身体反応(脈拍、呼吸、衣擦れ)が心理へ直結し、ミツルの心象風景が読者の身体を通じてリアルに立ち上がる。
モチーフの循環──雪・氷・熾火・薄桃黎明
「雪の凪」「胸に響く薄氷」「内側を焦がす熾火」「黎明の薄桃」と、寒暖の対比が章全体を貫く詩的ライン。
クライマックスの告白前夜にふさわしい“再生と覚醒”を暗示。
対等性と禁忌──年齢・立場・前世の葛藤
親友ユベル・グロンダイルの娘という“守るべき立場”と、成熟した魂としての“対等なパートナー”という相反するアイデンティティ。
二人の関係は常にこの“越えられない壁”を前提にして揺れ、だからこそ、最後の一言を放つ覚悟は極限のドラマとなる。
この場面は、単なる「告白前夜」のシーンを超え、二人の相互依存と自立が同時に描き出された決断の詩です。言葉にしなくても通じ合えるのではなく、言葉によって初めて扉は開き、互いを対等な存在として迎え入れる。その核心を体現しています。
次話では――その「言葉」がどのように形を成し、二人の関係に新たな光と熱をもたらすのか。黎明の朝に差す光とともに読者の胸を満たしてくれることでしょう。
「若い男性キャラ」的台詞と、ヴィルの言葉が宿す “異質な品格” の対比
一般的な若い男性キャラクターが示す言葉遣いと、ヴィル・レッテンビヒラー(ヴィル・ブルフォード)の台詞が醸す“異質な品格”とを並べてみると、まず初動で歴然とした差がある。
若者像は感情が先に立ちやすく、
「何やってんだよ!」
「大丈夫か⁉」
と相手を問い詰める勢いで迫る。
対してヴィルは、まず沈黙で状況を受け止め、二呼吸ほど遅らせてから低く落ち着いた声を置く。これだけで〈守られる者〉ではなく〈対等な意志主体〉としてミツルを扱う姿勢が透けて見える。
語気も異なる。若い男なら
「マジ?」
「だろ?」
のような軽いタメ口と感嘆詞を連発するところ、ヴィルの語尾は「……そうか」「わかった」と句読点で“間”をつくり、言外に思考の余白を示す。主語の扱いも対照的だ。若者が「オレ」「お前」で押し引きを明快にする一方、ヴィルは敢えて主語を省き「決めるのは、お前だ」と行為者を曖昧にして相手の自由を確保する。
説得の仕方にも品格の差が出る。情熱や理屈で相手を動かそうとするのが若者の常套手段だが、ヴィルは提案ではなく委任を選ぶ。
「吐き出すなら聞く。吐かなくても否定はしない」
と選択肢だけを置き、強制はしない。だからこそ彼の優しさは“助ける”というより“信じて待つ”形をとる。相手を救済対象に置くのではなく、あくまで独立した意志を持つ存在として尊重している。
感情の開示方法もまるで違う。若い男は高揚・怒り・照れがすぐ表情に現れるが、ヴィルの感情は熾火のように内側に孕まれ、微かな呼気や視線の揺れでしか示されない。力関係の演出もしかり。声量や肉体的優位で牽引する若者像に対し、ヴィルは背中を向けて歩き出すことで主導権を相手へ渡し、ミツルが呼び止めて初めて振り返る。沈黙までもが言葉を持つ瞬間だ。
こうした差異を凝縮すれば、ヴィルの言葉を支える層は四つに整理できる。
第一に「抑制」──感情を爆発させず微温で保つ。
第二に「委任」──判断を必ず相手に戻す。
第三に「猶予」──“今すぐ”を要求せず期限を定めない。
第四に「背中からの誠実」──沈黙と立ち去り方で意思を示し、相手が扉を開けるまで待つ。
その結果、ミツル=メービスは“子ども扱い”から解放されつつも、自らの言葉で扉を開かねば一歩も進めない構造へ導かれる。静かに差し出される選択肢ゆえに、彼女は逃げる自由を持ちながらも“逃げたくない”と自ら決断するしかないの。
この静謐な導きこそ、典型的な若者キャラとの最大の違いであり、『黒髪のグロンダイル』におけるヴィルという男性像の魅力の核心と言える。




