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わたしの幸せは、罪になりますか

 白梅の花が落とす影が、長く伸び始める夕刻。離宮の中庭を渡るように架けられた空中回廊には、淡い雲母を織り込んだ美しい赤陶のタイルが敷き詰められていた。

西の空を、雨雲がゆっくりと染め始め、遠くで雷が、くぐもった獣の喉のように低く鳴いている。夕立は、もう間近のようだ。


 そのタイルを小気味よい音で踏み鳴らしながら現れたのは、銀翼騎士団総司令、ヴォルフ・レッテンビヒラー。午後の訓練を終えたばかりなのだろう、上衣は軽鎧のままで、汗に濡れた金茶色の髪を、無造作に後ろで束ねていた。

そして、その対面から静かに歩んでくるのは、レズンブール伯爵。彼もまた、午前の講義を終え、その手には書簡の束と、革製の美しい経典ホルダーが挟まれていた。


「おい、伯爵」


「なんでしょうか、ヴォルフ殿下」


「あんた、またリュシアンに変なことを教え込んだだろう?」


「はて、なんのことでしょうか」


「あの“砲架式姿勢”とやらはなんだ。腰が完全に浮いてしまっている。変なものを教えるな」


 開口一番、ヴォルフは一切の遠慮もなく、本題を突きつける。二人の間に漂う空気が、夕立前の湿気を含んで、ぴんと張り詰めた。

 伯爵はぴたりと足を止め、総司令の額を一瞬だけ見やった。そこには鍛錬で流した汗の塩が白く結晶しており、武人だけが放つ、鉄と汗の匂いが間近に迫る。


「あれはあれで実に効率的な構えですぞ。覚えておいて損はない」


「それは基礎があってこその応用だろうが、そのせいで剣の筋が失われてしまっては、元も子もあるまい」


「殿下は、午前のうちに四時間もの間、騎乗訓練と基礎体術をみっちりと終えておられます。その後の座学で多少なりとも姿勢が崩れるのは、ごく自然な疲労によるものでしょう。『糸の切れた操り人形』をただ叱り飛ばすよりも、まずその“糸”を結び直して差し上げるのが、教える者の務めと存じるが」


 夕暮れの風が、二人の外套の裾をふわりと煽った。雷鳴の低い鼓動が、肌を震わせる。ヴォルフの蒼い双眸に、まるで剣の鍔鳴りのような、鋭い光が宿った。


「解きほぐしてやる前に、まず身体の“芯”に叩き込むものだ。剣士の腰は、弓の弦と同じ。一度緩める癖が付けば、その弦は一生、鋭く跳ね返ることはない」


 その言葉の鋭さに、自分の背筋までがぴんと張り詰めるのを感じた。

 伯爵は、すっと一歩前に寄り、手にしていたホルダーで、とん、と自らの胸を叩く。革が、乾いた低音で鳴った。


「これに、殿下の筋疲労値と骨盤の角度、そして授業時間ごとのその推移を、すべて詳細に記録いたしました。どうぞ、ご覧になった上で、あなたの鍛錬計画を、感情論ではなく“数値”で語っていただきましょうか」


「ちっ、数字で来やがるとは。この卑怯者め」


「そうはおっしゃいますが、数字こそが私めの剣にございますれば」


 紙の厚みだけで武を測ろうとする怜悧な学匠と、血肉の火照りをもってこそ才能は磨かれると信じる無骨な武人。互いに一歩も退かぬその睨み合いは、もはや単なる敵対というよりも、信念と方法論の激しいぶつかり合いに他ならない。


 ぽつり、と最初の雨粒が回廊の瓦を打った。その跳ねる音が、二人の間の熱を冷やすように、静かに響く。

 その沈黙を裂いたのは、回廊の下から聞こえてきた、乾いた、けれどどこか楽しげな笑い声だった。


「お二人とも、そのくらいになさいませ」


 メービスが、ひらりと袖を払って歩み出てきた。

 彼女が纏う淡い紫の外套は、春の薄雨を弾くための、特殊な防水仕立てのものだった。随伴の侍女が差し出そうとした紙傘を、彼女は手で制すると、女王自ら、夕立前の湿った風をその身に受けた。


「リュシアンは、〈文〉も〈武〉も、どちらも、あなた方お二人から学ばねばならないのです。方法の違いを巡って歩幅を争うのも結構ですけれど、そのせいで、肝心の歩みを見失うようなことだけは、なさいませんように」


 ヴォルフは、がしがしと頭を掻くと、やれやれといったように肩で息をつく。


「……了解した」


 伯爵は、胸に抱いたホルダーを抱え直し、女王に深々と一礼した。


「ご忠告、肝に銘じます」


 雨脚が、次第に強まっていく。

 メービスは回廊の中央で足を止めると、二人を静かに振り返った。


「わたしは、リュシアンが将来“王冠”を選ぶのか、それとも“剣”の道、あるいは“探求”の道を選ぶのか、その結論すらまだ決めていません。選ぶのはあくまで彼なのですから。わたしはその選択肢を、誰かが奪うような要因だけは、徹底的に排除するつもりです。ですから……お二人とも、どうかそのことだけは、お忘れなく」


 その唇に浮かんだ弧は、春の風のように柔らかいものだった。けれど、その奥に宿る緑の瞳は、抜き身の剣よりもなお、凄みを帯びて澄み切っていた。

 雷鳴が近づき、空は深い群青色へと沈んでいく。――対話は、ひとまずの幕を下ろしたが、二人の男の胸中で燃え始めた火花は、むしろこれから、いっそう赤く燃え盛っていくのだろう。


◇◇◇


 離宮の奥にひっそりと佇む、ガラス張りの温室。


 夕立は、その硝子の天井を激しく叩き続けていた。滲んだ水彩画のように外の景色は曖昧に溶け、そこに世界の輪郭など最初からなかったかのような、静かな隔絶が生まれている。

 夜にだけ花開くという月白薔薇が、雨音に誘われるようにそっと白い花弁をひらき、立ち上る湯気と共に、むせ返るような甘い蜜の香を漂わせていた。


 その香りに包まれながら、メービスとロゼリーヌは、小さな円卓を挟んで向き合っていた。

 湯気の立つ薄荷茶の香りが、ほんのりと空気に混じっている。


「ふふ、あのね、リュシアンったら……ほんともう……可愛くて」


 女王は頬をわずかに紅潮させ、いつになく早口になっていた。

 それは、まるで心の奥に湧き上がる“ある感情”を、意識の後ろへ押し込めようとするような、必死の言葉の奔流だった。


「伯爵の、あの難しい“対数講義”をね、一度で“すっ”て理解しちゃって。それで、今度はヴォルフとの模擬戦。あの子、“手加減なんていりません”って、何度も挑んでいったのよ。ほんと、将来が楽しみで……」


 言葉はくるくると、まるで雨の中を舞う蝶のように軽やかに跳ねる。

 けれど、その沈黙を恐れるかのような饒舌さが、かえって彼女の心の揺らぎを映していた。


 対面に座るロゼリーヌは、静かに相槌を打ちながらも、その深い紫がかった瞳は、女王の唇ではなく、卓上に置かれたティーカップの持ち手、そしてそれに触れる彼女の指先へと注がれていた。


 薄桃色のマニキュアが施された白い指。

 その指が――何度も、何度も、まるで寒さをしのぐように、無意識に、ティーカップの冷たい陶器を撫でている。

 確かめるように。迷っているように。そこに何かを預けようとするかのように。


 言葉より先に、手が本音を語ることもある。

 ロゼリーヌは、ただ黙ってその仕草を見つめていた。その柔らかい目は、すべてを急かさず、すべてを見逃さず、まるで「そのときを待つ」静かな春の大地のようだった。


「陛下――」


 その声は、春の夜風のように柔らかく、絹のように静かなものだった。


「陛下――いつか、ほんとうの“ご自身のお子”を、その腕に抱きしめたいと……そうお考えになったことは、ございますか?」


 ――ぴたり。


 メービスの指が、カップの把手の上で凍りついた。わずかに震えたその指先から、伝わる湯気の温度が、一瞬で失われる。

 雨音が、耳元から遠ざかったかのように感じられた。


 温室の空気が微かに揺れ、ランタンの光が影の輪郭を曖昧にする。

 胸の奥で、名もない何かが軋み、心臓が、まるで冷たい手でぎゅっと掴まれたような、鈍い圧迫を発した。


「……急に、どうしたのです? なぜ、そんな……そんなことをお聞きになるのですか……?」


 問い返す声は、音にはなっているのに、まるで誰か別人のもののようだった。

ロゼリーヌは、返された問いにすぐには答えず、そっとティーカップを置いた。磁器が皿に触れる小さな音が、静寂の中に落ちる。


「母としては、リュシアンのことを『楽しみだ』と仰っていただけるのは、もちろん……嬉しいことです。ですが――」


 そこで、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳はまるで、夜に咲く花のように静かで、けれど見つめられる者の心の奥底を余さず映し出してしまうほど、透明だった。


「陛下のお言葉は、いつも過不足なく美しい。でも……その瞳の奥にあるものだけは、どうしても隠しきれません。あなたは、リュシアンの姿を見つめながら――その向こう側に、まだ見ぬ面影を、静かに、けれど確かに……重ねていらっしゃる。――そうではありませんか?」


 言葉は柔らかかった。けれど、それはまるで、痛みを持つ者の急所にだけ届くよう研がれた、絹に包まれた刃だった。


 メービスの瞳が、大きく見開かれる。

 その反応は、驚きというよりも、痛みへの反射に近かった。


「そ……そんなことは……決して……」


 否定の言葉を探すたび、喉の奥が、きゅ、と渇いて。舌の奥が、まるで金属のような味を帯びていくのを感じた。

 視線を逸らし、ロゼリーヌから顔を背けたその仕草が、言葉よりもはっきりと「それが真実です」と告げていた。


ロゼリーヌは、追い立てたりはしなかった。ただ、沈黙の中でゆっくりと言葉をつなぐ。


「……無理をなさらないで。わかります。わたくしも、母ですから」


「……違います、それは――ロゼリーヌさん、誤解をなさらないで! わたしは、あなたからリュシアンを取り上げようなどと……そんなこと、微塵も……! 養子縁組だって……あれは、あの子を政争から守るための、ただの……建前で……」


 声が、必死に整えようとする理屈の速度に追いつかず、途切れ途切れになる。その一言一言に込めた誠実さこそが、逆に彼女の心の奥で、何か別の願いがくすぶっていることを、ありありと浮き彫りにしてしまっていた。


 ロゼリーヌは、それ以上責め立てたりはしなかった。

 静かに、まるで枝に降る雨のような柔らかさで、けれど決して逸らさぬまなざしを添えて言った。


「もちろん、すべて存じております。……わたくしが案じておりますのは、リュシアンのことではございません。――陛下、あなたのことなのです」


「……わたしの……こと……?」


メービスの声が、どこか遠くから戻ってきたかのように、細く揺れた。

これは聞いてはいけない問いなのだと、心が警鐘を鳴らす。


「ええ。……わたくしは、あなたご自身の“未来の揺り籠”について、まだ一度も、あなたのお口から……お聞きしたことがございません」


 メービスは微笑んだ。それは、表情筋に命じて“それらしく形を作らせた”笑みだった。

 その長い睫毛が落とす影は、頬の上で深く沈み、まるで光を拒絶するようだった。


「それは……わたしは……まず何よりも、この王国の母であることに、努めなければなりませんから……」


 その囁きは、カップの湯気と共に立ち昇りながら、すぐに湿った空気に溶けていく。

 声が、まるで溶けかけた氷砂糖のように、言葉になる前に崩れそうだった。


 ロゼリーヌは、静かに椅子を半歩だけ引いた。相手の領域を侵さないための、優しい距離。

 彼女はそっと膝の上で手を組み、微笑を浮かべたまま、けれど目の奥には燃えるような誠実さを灯して言った。


「けれど……母になることも、女王であられることも――どちらも等しく、『尊い命を護る』という道の上にあることではないかと、わたくしは思います。……違うでしょうか?」


 メービスは、答えなかった。

 ただ、まぶたの奥で、何かがきゅっと縮こまる。

 遠雷が、腹の底でくぐもった


「あなたは、いつだって、ご自分の幸せを後回しにしてしまわれる。わたくしたち母子を守るために、あれほどまでにご自身を……深く、傷つけて……」


 ロゼリーヌの声は、震えていなかった。けれど、言葉の端々に宿る熱は、まるで長い時間をかけて染みこんだ慈しみそのものだった。


「……そんなあなたが、どうして、ご自身の幸せだけは、我慢なさらねばならないのですか? わたくしは……そのことの方が、ずっと、つらいのです」


 メービスは何かを言おうと唇を震わせたが、その言葉は、ちょうどそのときに重なった雷鳴と、激しい雨音にさらわれてしまった。

 外で閃いた稲光が、温室の壁を這う蔦を白く染め上げる。

 その光のなかで、二人の影が、床の上でそっと重なり合い、ひとつに溶けて長く伸びた。


 硝子を打つ雨粒が、一瞬だけ、その間合いを広げた。

 その静寂の中、メービスは、カップから立ち上る湯気を吸い込むように、そっと胸いっぱいに息を吸い込んだ。

 それは、濡れた羽根を乾かすための、ひとつの呼吸のようだった。


「……ごめんなさい、ロゼリーヌさん。……これが、わたしの性分なのかもしれません」


 声は細く、けれど搾り出すような真摯さを帯びていた。

 卓上の灯りが、彼女の瞳に揺らぐ影を宿す。


「わたくしなんかが、幸せになってもいいのかって……それが、赦されることなのかって、いつも考えてしまうんです。……わたしは、これまで目の前のたくさんの命を取りこぼしてきました。この手で、何度も……取り返しのつかない間違いを犯しました。いくら償っても、償いきれるものではないのに……」


 声が震え、空気に溶けていこうとしたその瞬間――


「もう、おやめください!」


 ロゼリーヌの声が、温室の硝子をわずかに揺らすほど強く響いた。

めったに感情を露わにしない彼女の、その不意の激しさに、メービスの肩が小さく跳ねる。


「あなたは、人の痛みを……まるで自分の傷のように引き受けてしまわれる。それは、比類なき優しさかもしれません。けれど、その優しさが、あなたご自身を縛る鎖となってしまっては……。――それでは、あなたはいつまでも、幸せにはなれません」


 彼女は一拍おいて、静かに言葉を置いた。


「……いいですか。――もっと、我儘におなりなさいませ」


 その響きは、叱責ではなかった。

 それは、愛する者が愛する者にしか投げられない、真剣な願いだった。


「ロゼリーヌさん……」


 メービスが名を呼んだとき、ロゼリーヌはそっと立ち上がり、女王のもとへ歩み寄る。

 そして、震える手を、両の掌で静かに包み込んだ。


「わたくしは……ギルク様と恋に落ち、リュシアンを身ごもったとき……罪の意識に苛まれました。だから、彼の前から逃げ出すことしかできなかった。でも……それでも、わたくしは彼を愛していたし、彼の子どもが欲しかったのです」


 その瞳は潤んでいたが、決して揺れてはいなかった。


「ええ、そうです。それは、周囲のことなど何も考えない、ただの身勝手エゴだったかもしれません。……でも、だから、何だというのです?」


 その一言が、沈黙を断ち切る鋏のように空気を裂いた。


「……あなたが、幸せになれないというのなら。あなたのその、尊い犠牲の上に与えられる“幸せ”なんて、わたくしは要りません」


 それはもはや、慰めではなかった。

 魂の底から届く、激しくも優しい叱咤。

 その強さに、メービスの目から、ひとしずくの涙が、静かに、頬を伝って落ちた。


「……考えては、いるのです。いつだって……。そんなふうになれたら、と。……あなたとリュシアンを見ていると、よけいに、そう思ってしまうのです」


 その告白に、ロゼリーヌはただ静かに頷く。

 メービスは、羨望と、そして抗いがたい畏れをない交ぜにした瞳で、目の前の女性を見つめた。カップを握る指先に、無意識に力がこもる。


「――あなたは、どうしてそこまで強くなれるの?」


 掠れた問いかけに、ロゼリーヌはふっと、本当に微かに、その唇を緩めた。


「強さではありませんわ。ただ……あの子が泣けば、わたくしも呼吸いきをしなければならない。それだけです」


 その、あまりにも単純で、揺るぎのない真理。

 メービスは、息を呑んだ。心臓のあたりを、冷たい指でなぞられたような心地がした。


「……わたしには、その“だけ”が、いちばん怖い」


 絞り出した声は、ほとんど吐息に近かった。

その言葉に、彼女を縛りつける呪いの、本当の名前が示されているのを、ロゼリーヌだけはきっと、理解していた。


 彼女は、そっと身を引かず、膝を折って目線を合わせるようにかがみこんだ。


「わたくしでよろしければ、どんなお話でも伺います。……どうぞ、遠慮なさらず、あなたの想いを、わたくしに預けてくださいませ」


 メービスは、細く息を吸い込みながら、小さく頷いた。

 そして、微かに震える声で、言葉を紡ぐ。


「……ありがとう。では……わたくしの話を、聞いていただけますか」


 それは、細い銀の鈴がそっと鳴ったような声だった。けれど、その芯には、確かな決意の色が宿っていた。


「もちろんですとも」


 温室を満たす薔薇の甘い香りが、重く降り続く雨脚に押し上げられるように、ゆっくりと天窓へ昇っていく。

 メービスの唇が、「ありがとう」と、声にならない形を結んだ。


 雨音だけが、静かに二人の間を満たしていた。

 その穏やかな静寂の中で、ランタンの小さな炎が、ふっと一度だけ揺らめいた。


 けれどその微かな火こそが――

 やがて夜更けに燃え上がることになる、彼女の告白の、ささやかな前触れとなった。


◇◇◇


 夜が更け、雨が上がった離宮の裏庭。

 満月は、濡れた雲を切り裂き、稽古のための白銀の砂場を、まるで舞台のように煌々と照らしていた。

 その舞台の上には、二人きりの影。


 ヴォルフ・レッテンビヒラーは、すでに上衣を脱ぎ捨て、その逞しい肩を濡らす汗を、月の冷たい光に晒している。

 対する少年リュシアンは、手にした木剣を固く握りしめ、その膝は疲労で震えながらも、決して師から目を逸らそうとはしない。


「――もう一度だ」


 ヴォルフの声が、静かな夜の空気を震わせた。


「一騎当千の騎士であれば、その一振りが、時に兵千の運命を決めることもあると思え。ゆえに一撃に、躊躇いを滲まてはならん!」


 最強の騎士と、騎士を目指す幼い王子。

 木剣が打ち合わされるたび、乾いた音が響き、まるで火花のように砂が跳ね上がった。

 リュシアンの掌は、とうに皮が破れ、紅の雫がじわりと柄へと滲んでいた。

けれど、少年は痛みに顔を歪めることもなく、ただそれをぐっと呑み込み、再び構えを解こうとはしなかった。


 ヴォルフの瞳が、すっと細められた。――そこには、弟子への誇りと、そして、哀しみにも似た深い優しさの色が浮かんでいた。


「……よし。そこまでだ」


 木剣を収めると、彼はリュシアンの頭を、大きな手でわしわしと軽く撫でた。


「明日は稽古を休め。おまえの手の皮が、鍛錬に追いついていない。剣も握れぬような身体で強がるのは、本物の“騎士”のすることではない」


「は、はい!」


 少年は、喜びのあまり声を上擦らせながらも、その顔には満面の笑みが隠しきれずに浮かんでいた。

 その愛らしい横顔を、月の光が届かぬ回廊の影から、そっと見つめる者がいた。――メービスだ。


◇◇◇


 彼の稽古は、相変わらず苛烈で――本当に、手加減というものを知らない。

けれど、わたしには、わかってしまうのだ。


 あの凍てつくように厳しい叱咤の奥に、本当は今すぐ、その小さな身体を抱きしめたいという衝動があること。

 そして、何があってもこの子を護り抜くと、誓いのように自らに刻んだ、熱く鍛えられた鉄の意志が、その怒声の芯に、確かに宿っていることを。


 その瞳は、あの頃と同じだった。

 “ヴィル”だった彼が、幼いわたしを鍛え、叱り、支えてくれた日々と――寸分違わぬ眼差し。


《……いるのか》


 回廊の影を見やった彼の、心の声が聞こえたような気がして、わたしは、はっと息を呑む。

 彼は、気づいている。


 親友が遺していった、未熟で危なっかしい娘を、自らの手で守り導くと誓った、守護者のまなざし。

 いまのわたしにとって、それは絶対的な安心感を与えてくれる光であると同時に――どうしても越えてはならない一線を、優しく、けれど容赦なく突きつけてくる、残酷な壁でもあった。


 そして、その稽古場の光景は、いつしかこの胸の奥に芽生えてしまった“ひとつの願い”の、あまりにも美しすぎる、鏡写しだった。

 手が届かないからこそ、美しく映る――そんな哀しみを、わたしは今、確かに知ってしまっている。


 ロゼリーヌさんの、あの優しい問いを受け止めたとき、それまで、ただの憧れとしてごまかし、理性の名で覆い隠していた想いが――

 胸を裂くような痛みをもって、自覚されてしまった。


 わたしは怖い。けれど、惹かれる――そのたび、胸が、ひゅ、と縮む。


 もし――この願いを、この想いを、そのまま彼に伝えたなら。

 親友の遺した少女が、守られるべき存在であったはずのわたしが、いつの間にか「ひとりの女」としての想いを向けてしまったとしたら。


 彼は、どんな顔をするだろう。

 きっと、驚くだろう。

 けれど怒りはしない。軽蔑も、しない。

 彼はきっと、大人だから――優しく、真摯に受け止めてしまうだろう。


 けれど、その優しさこそが、わたしにはいちばん恐ろしい。


 その瞳の奥に、たとえ一瞬でも、わずかでも、

 痛みを堪えるような影が差すのを、見てしまったら。

 それだけで、もう駄目になってしまう。

 その沈黙が、どれほどはっきりと、わたしを拒むかを、わかってしまうから。


 そうなってしまえば最後――

 もう二度と、今のようには、彼に触れてもらえなくなる。


 あの大きな掌が、何のためらいもなくわたしの頭に置かれる、その不器用であたたかな感触も。

 苦しい時、何も言わずにそっと肩を抱き寄せてくれる、その一瞬に訪れる、息が詰まるほどの安堵も。

 馬上で背中を預けたときに感じる、あの広くて静かな、世界の終わりをも包み込むような温もりも――


 たとえ、それが父が娘に注ぐような、慈しみに過ぎないとしても。

 わたしにとっては、それが、世界のすべてだった。

 誰にも代えられない、わたしだけの、ただ一つの宝物だったのに。


 触れたが最後。潰れる。――分かっている。

 わたしたちの間に存在する、このかけがえのない、けれど硝子細工のように危うい   均衡が、その場で音を立てて砕け散ってしまう、そんな未来が、どうしても怖くて、恐ろしい――。


 わたしたちを不可逆に結びつけている、「巫女と騎士」ということわり。 

 「ふたつでひとつのツバサ」。

 本来は、魂の奥底で響き合う祝福の名だったはず。

 けれど、わたしがこの胸に宿した想いを言葉にしてしまった瞬間、それは――

「同じ目的を掲げ、同じ戦場に立ち、ともに剣を振るうだけの、ただの相棒」へと、たったそれだけの言葉によって、意味を塗り替えられてしまうかもしれない。


 祈りと誓いによって紡がれたはずの、不可思議で美しい共鳴は、

 単なる戦術的な相性の良さ――

 都合よく背中を預け合える、ただのシステムだったのだと、彼に、あるいはわたし自身にさえ、思わせてしまうかもしれない。


 そうなってしまえば、わたしたちの「ツバサ」は、もはや飛ぶことのない、折れた装飾品に変わり果ててしまう。

 思いを告げるということが、わたしたちの翼を折り、“ただの協力関係”に貶めてしまう。

 そんな未来の光景が、闇の底で鈍く光る刃のように、ふいに脳裏をよぎる。


 ざらり、と木剣が砂に落ちる音で、わたしは、はっと我に返った。

 その音に振り返れば、稽古を終えたヴォルフが、肩にタオルをかけ、月光を背にして静かに近づいてくるところだった。額には汗が光り、胸元の鎖帷子が、夜の冷気を含んで鈍く鈍くきらめいていた。


「……こんな時間に、冷たい外気は身体に毒だぞ、女王陛下」


 その低く掠れた声には、いつものように皮肉が含まれていたけれど、吐息と共に、すぐ柔らかに溶けていった。


「……ロゼリーヌとの話は、もう終わったのか?」


 どきり、と心臓が強く跳ねる。

 まるで、言葉より先に想いを見透かされてしまったかのようだった。


 わたしは静かに頷きながら、視線をそっと足元の白い砂へと落とす。

 光の届かない砂粒のひとつひとつが、言葉にできなかった本音の残骸のように、足元に散らばっていた。


「ええ。……リュシアンの話を、たくさんしたわ。とても、楽しかった」


 けれど、本当は。

 その子のことを話しながら、わたしはずっと、あなたとの間に「ありえたかもしれない未来」を思っていた。

 未来形ではなく、仮定法という刃。

 けれどそんなこと、どうして言えるだろう?


 本当に話したかったことは、うまく言葉の裏に伏せたまま、唇にだけ、儀礼のような笑みを浮かべてみせる。


 ヴォルフはふぅ、と長く息を吐き、その手から手袋を外した。

 甲冑の金属音が、夜の空気をひとしずく、震わせる。


「本当か? ……おまえは、肝心なときほど見事な盾を構える。それも誰よりも堅く……そして、卑怯なくらいに、な」


「……盾?」


 その言葉が、わたしの胸を、いとも簡単に貫いていく。

 あなたは知らない。この盾はもう、わたし自身を守るためのものではないの。

 この夜、この距離、この沈黙。すべてが、あなたを傷つけないための“構え”なのだと。


「……そうだ。うなずきもせず、かといって逃げもしない。だが、いざ剣を合わせるその寸前で、ふわりと言葉を反らす。――昔からの、おまえの悪い癖だ」


 彼の大きな掌が、わたしの髪に触れそうで、触れない。

 そのもどかしい距離に、息が詰まる。

 指先は風に彷徨い、まるでわたしの想いに気づいてしまうことを恐れているかのように、決して髪を撫でようとはしなかった。


 その時、月が雲に隠れた。

 回廊の影と夜の闇とが、ふたりをそっと包み込む。


「……ヴォルフ。わたし――」


 言いかけた言葉が、ごくり、と喉の奥で重たい鉛に変わる。みぞおちのあたりが、ずしりと冷えていく。


 それはきっと、彼の生涯をも、静かに巻き込んでしまうだろう。

 彼の誇り高い騎士の誓いも、親友への変わらぬ忠義も、大人としての揺るぎない倫理も、

 すべてを壊すかもしれない、あまりにも重い、危うい宣告。


 それでも、伝えなければならない。

 ロゼリーヌさんの前で、わたしは、確かに誓ったのだから。

 たとえそれが、どんなに卑怯な方法であったとしても。

 女王としての責務も、ひとりの女としてのささやかな願いも、そのどちらも、この胸に抱えたまま、わたしは進んでいく。


 そのとき、ヴォルフはすっと一歩、わたしから距離を取った。

 そして迷いなく片膝をつき、夜の砂上に騎士としての姿を結んだ。

 まるで、自らを「騎士と女王」という不変の枠組みへと戻すように。


「……今すぐにとは言わん。だが、いつかその盾の向こう側と、俺を真っ直ぐに向き合わせろ。それが――おまえの言う“片道切符”の運命を、俺がおまえと共に背負うための、唯一の条件だ」


 口調は、冗談めかすように柔らかかった。

 けれど、その瞳は、冗談の領域から最も遠くにある場所で、静かに燃えていた。

 夜の闇を割らぬその光は、炎ではなく、薪が絶えず内側で赤く灯し続ける“熾火”のような熱――。

 それが、わたしの奥底に潜んでいた、秘めた想いを、音もなく包み込んでゆく。


 あなたは、本当にわかっているの?

 運命を共にするということが、どれほどの意味を持つのか。


 わたしは、何も言わず右手を伸ばし、彼の額に、そっと触れた。

 間近に寄せて、ようやく気づく。砂の匂い。汗の塩。そして、月光より冷たい鎖帷子の肌触り――。

 冷たい汗と、鍛錬の後に残る火照りとが、指先の内で交じり合う。

 それはまるで、わたしたちの関係――理性と本能、責務と願いが、一瞬だけ触れあっては、また離れていくような、儚い熱。


「……ええ。必ず……あなたにだけは、この盾を解いてみせるわ」


 言葉は、夜の空に吸い込まれるように、静かに落ちた。


 わたしは、言質を与えてしまった。

 けれど、不思議と、もう怖くはなかった。

 この切ない距離こそが、今のわたしたちに許された、唯一の在り方なのだと――ようやく、心が受け入れていた。


 雲間から、再び月が顔を覗かせる。

 稽古場に柔らかな光が降り注ぎ、

 ヴォルフの影と、わたしの影とが、白い砂の上で、そっと重なった。


 降り止んだ雨が残した空気には、微かに春の土と若葉の匂いが混じっていた。

 遠くで、夜更けを告げる鐘が、三つ、静かに鳴った。


 春の夜は――まだ始まったばかりのようだった。

 メービス(柚羽 美鶴/ミツル)は、すべての不幸の連鎖を自分の内側に回収してしまう性格です。その出発点には、幼い自分では到底抗えなかった“家族の喪失”と“巫女としての使命”がありました。


 自分を消し、巫女という記号になりきり、弟を救うことだけに生きた前世。

 その結果が、肉体の死と、弟へのさらなる呪縛。

 そこから「わたしの命は贖罪のためにある」と思い込むようになったのも、自然な流れです。


 けれど、茉凛との出会いが、その自己犠牲の鎧に、初めてひびを入れた。

命令ではなく、願いとして――血族のために生きることを、自ら選ぶ道に昇華させた。


 そして転生。

 待っていたのは、またしても失われた家族。

 今度は転移ログに、自分たちの魂の痕跡。


「また、わたしのせいで?」

「また、大切な人を巻き込んだ?」


 この繰り返される呪文のような自責が、彼女の中で“幸福”そのものをタブーにしてしまっている。


 でも本当は、欲しいのです。

 たとえひとときでも、幻でもいいから、

 「抱きしめてほしい」「もう大丈夫だよって言ってほしい」

 “巫女”でも、“女王”でもなく、“美鶴”というただのひとりの少女として。


 だから、ロゼリーヌに「幸せになって」と言われたとき、あれほど動揺する。

 だから、ヴォルフの掌が触れそうになるだけで、涙が出そうになる。


 この層構造を持った「幸せへの罪悪感と渇望の両立」が、彼女のもっとも繊細で、人間らしい矛盾です。


――「欲しい。でも、許されない」

――「それでも、ほんの少しでいいから」


 その願いが、どこかで叶う日がくるとしたら。

 それはきっと、彼女が世界の赦しを得たのではなく、

 彼女自身が「自分を赦すこと」に、ようやく成功した日なのだと思います。


 この深層構造を前提にすると、第646話後半の「盾」のやり取りや「この気持ちを口に出せない」葛藤は、単なる恋の抑制ではなく、「この世界でたったひとつの赦しの居場所を失うかもしれない怖れ」に昇華されます。それゆえに、彼女の言葉にならない一言一言は、痛切で切ない。



■構造・演出とその効果 三幕構成の緩急

 本話は、大きく分けて回廊での対話(知のぶつかり合い)/温室での心の対話/夜の稽古場での沈黙の対話の三幕から成り立っており、舞台を変えることで感情のグラデーションと物語の深度を巧みに描いています。


第一幕 知と方法論の衝突(ヴォルフ×レズンブール伯)

 最初の幕では、リュシアンの教育方針を巡って、武人としての“鍛錬”を重んじるヴォルフと、学匠として“数値と知”に信を置くレズンブール伯が火花を散らします。


 この場面は単なる言い争いではなく、


 「教育」ひいては「継承」とは何か


 王太子の成長に関わる者たちの「愛情」と「責任」の在り方

をめぐる理念の衝突を描いたものであり、それぞれの立場の正しさが拮抗する構図になっています。


 このとき、メービスがその間に割って入る構図は、まさに「三者でひとつ」の理想を体現しており、後半の「ふたつでひとつのツバサ」のメタファーと響き合います。



第二幕 母性と孤独、そして告白未満の告白(メービス×ロゼリーヌ)

 中盤、温室という閉ざされた舞台で展開されるこの対話こそ、本話の主題的核心です。


 メービスの心情は、これまでの話数で一貫して「献身と自己否定」に根ざしてきましたが、ロゼリーヌという「子を産み、育て、そしてそれを赦された」女性との対話は、その心の“溜め”を解放していく装置として機能します。


 ロゼリーヌの「問い」は、明確に「あなた自身の幸福」を問うものであり、リュシアンを媒介とした代替的な母性では済まされない“自身の生”に直面せざるを得なくなったメービスの、心の揺らぎを呼び起こします。


 「赦されるのか」という問いかけは、単に罪の贖いではなく、「幸福を望む資格そのもの」への問いであり、これは彼女の内なる「美鶴としての記憶」や「ミツルとしての孤独」をも連れてきます。


 この部分においてロゼリーヌが担うのは、慰める者ではなく、魂の奥を正面から叱る者という役割です。それは“同情”ではなく“共鳴”であり、読者にとっても強く響く場面になっています。



第三幕 沈黙の距離と共鳴(ヴォルフ×メービス)

 本話最終部の白眉は、“想い”が交差するのに、あえて口にされないその絶妙な距離感の演出です。


 メービスの心理独白は、乙女としての切なる願いと、王としての自制がせめぎ合うなかで構成され、「盾」という語を通じて“隠すことの愛”を描き出します。


 ここで「すぐには言わなくていい」と言いながらも「いつか向き合え」と宣言するヴォルフの言葉は、メービスの“不安”を肯定しつつ、同時にその先にある“未来”を暗に支えている。この矛盾と優しさを孕んだ台詞の強度が、メービスの「盾を解く決意」に繋がっていくのです。


■主題と心理的重心 「赦し」と「願い」の二重性

 この話の主題は、明確に 「赦される幸福」と 「告げられない願い」 の二重性にあります。


 「赦されない」と感じていたメービスにとって、誰かに「我儘におなりなさい」と真正面から言われることは、ある意味で禁忌の扉を開けられるような痛みであり同時に救いです。


 そして、想いを“言葉にしてしまえば壊れてしまう”というこの構図は、乙女小説の美学――“言わないこと”によって表現される最も深い感情――の典型として、非常に完成度が高い演出です。


 特に「告げた瞬間に“巫女と騎士の関係性”がただの戦術的なものに変わってしまうのではないか」というメービスの恐れは、恋が個人の感情であると同時に、世界に干渉する力を持っていることを象徴的に表しています。


■語りのリズムと香気的感性:読者を包み込む空気

 「白梅」「雲母」「赤陶」「雨の匂い」「月白薔薇」「氷砂糖」など、色・音・香り・温度の描写が非常に豊かで、五感を通じて読者を“情緒の気圏”に閉じ込めます。


 言葉の選び方にも、一切の無駄がなく、反復(けれど、けれど)や比喩(熾火のような熱、仮定法という刃)が物語の情感的濃度を高めています。


■総括:未だ語られぬ「約束」の、その手前にある章

 この話は、いわば「一歩手前の約束」の話です。


 明確な告白はまだない。

 しかし「盾を解く」と約束し、「共に背負う」と誓われる。


 この未完の、けれど決して虚ろではない交錯の中に、「ふたりの関係性の真の成熟」が見え始めます。

 この「言わない愛」の張り詰めた緊張感こそが、この話をただのロマンスではなく、物語の魂を内包した儀式のような場面に昇華しているのです。


 次なる展開では、この“解かれるまでの盾”がどのように彼女を、そして彼を護りつつも切り裂いていくのか。

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