表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
523/644

剣と法と、胸奥の痛み

 銀翼騎士団総司令ヴォルフ・レッテンビヒラーは、淡い朝光に照らされた鍛錬場の芝生に静かに立ち、腕を組んでいた。草の先に宿る朝露が、まるで小さな宝石のようにきらめき、その冷涼な感触が辺りの空気を一層澄み渡らせる。

 彼の視線は、すっくと背を伸ばす十歳の少年――リュシアンへと注がれていた。


 凛とした瞳の奥には、揺るぎない慈愛と厳しさが同居している。沈黙が満ち、やがて彼の低く、しかし芯のある声が静寂を切り裂いた。


「一の型、十本。自分の呼吸を数えながら振れ」


 その言葉は胸の奥まで染み渡り、リュシアンの心臓はきゅっと強く締めつけられる。まるで小さな指が、その鼓動をそっとつまんで見せたかのようだった。


 きらりと鋭く香る鉄の匂い。すぅ、と吸い込む冷えた空気。


 少年は小さく息を吸い込んで腰を落とし、木剣を両手でしっかりと抱え上げ、上段に構える。刹那、漏れた吐息が白くかすみ、緊張感が肌を這った。


 一歩、前へ。


 斜めに振り下ろされた木剣は、朝露に濡れた芝の絨毯をかすめ、みずみずしい草の香りを巻き上げる。切っ先はわずかに地面を逃れ、再び空を切り返す。まるで静かな湖面に描かれる、一筋の流麗な弧のように――。


 ひい、ふう、みい……。


 白い吐息が早朝の冷気にほどけて消えるたび、木剣の軌跡が薄い霧を斬り裂く。十振り目を終えた頃には、リュシアンの華奢な肩がかすかに引き攣り、柄を握る指先に余計な力が滲んでいた。


 その瞬間を見逃さず、ヴォルフは眉一つ動かさずに踏み込み、静かに手刀を翳す。


「……止め」


 しんと澄んだ空気に、低く響く命が落ちた。


 リュシアンは反射的に呼吸をのみ込み、硬直したまま木剣を胸の高さで止める。頬を伝う汗が薄明の光を集め、宝石のようにきらめいていた。


「深呼吸を三つ。剣を伏せろ」


 厳格でありながら、不思議と温度を帯びた声に促され、少年はひとつ、ふたつと肺を満たしては吐き出し、やっと木剣を地に据えた。


 その小さな掌に目を落とした瞬間、ヴォルフのまなざしに淡い痛みが宿る。懸命な努力の勲章である薄紅色の水泡が、いくつも腫れ上がっていた。

 彼は言葉を挟まず、傍らの手桶に身を屈め、澄んだ水面へ布を沈める。たっぷりと水を含んだ白布をすくいあげれば、早朝の光をはじきながら清冽な滴が零れ落ちた。


 ヴォルフはその布を、壊れ物を包むようにリュシアンの掌に巻きつける。

 少年の指が小さく震えたが、冷水のひんやりとした慰撫が痛みを和らげたのだろう、ほっと細い息が漏れた。

 彼は顔を上げ、師の銀灰色の瞳をそっと見つめる。その瞳は、ただ厳しいだけでなく、少年の未来を案じる騎士の祈りで満ちていた。


「いいか、リュシアン。

 その水泡は、まだ柄を握りしめすぎている証だ。だが、痛みを恐れるな――それは誰もが最初に刻む印だ」


 ヴォルフはひらりと手首を返し、握っていた木剣の柄尻で自分の腰骨をとん、と軽く突く。乾いた音が、凪いだ庭に小さく弾んだ。


「剣は腕で振るものではない。腰と脚で押し出し、肩から先でわずかに進路を修正する――力を注ぐ場所を見違えるな。

 痛みは合図に過ぎない。正しい流れを掴めば、やがてこの掌も静かになる」 


 言葉は冷たい鉄のように簡潔だったが、その奥には少年の成長を願う静かな熱が潜んでいる。

 リュシアンは唇をきゅっと噛み、悔しさの灯る瞳を逸らさぬまま師を見据えた。燃える石英のような意志の煌めき――ヴォルフはそれを確かめるようにひとつ頷く。


 そして無言で背後に回り込むと、小さな肩を包むように手を添えた。背筋を指先でなぞり、軸の傾きを正し、腰をわずかに落とす。リュシアンの頬に師の吐息がかすかに当たり、身体を通して静かな教示が染み入った。


「一の型を十本。二の型も十本。布は外すな。――痛みを抱えた手で、力の流れを感じ取れ。……始め」


 少年は短く息を吸い、こくりと頷く。布越しの掌で柄を締め直し、足裏で湿った芝をがっしりと噛んだ。腰から生まれたうねりが背骨を伝い、肩を抜け、腕へと流れ込む。


 朝露を帯びた木剣が弧を描くたびしなやかに風を切り、切っ先から飛び散った雫が陽光を受けて一瞬の虹となる。虹は淡く瞬いては消え、また生まれる。揺れるその煌めきが、まだ頼りない少年の未来を祝福するかのようだった。


 ヴォルフは黙してその光景を見守る。耳には芝を踏むささやかな音と、木剣が空を裂く澄んだ響く。

 胸には、少年の掌に刻まれた痛みが、やがてこの国の痛みを抱きしめる力へと育つだろうという、深い祈りだけがあった。


◇◇◇


 二階の回廊には、庭の若葉を透かした緑の影が大理石の床に揺れ、その影を切り裂くように朝の光が飛沫のような輝きを撒き散らしていた。


 涼やかな翳の奥で、メービスはそっと手すりに指を添える。細い指先には長時間の執務で生じた淡い疲労が残っていたが、視線の先で交わされる木剣の軌跡を追ううちに、肩から静かに力が抜けてゆくのを感じた。


――今日も、間に合った。


 王都の執務室には未決の公文書が山のように積まれている。にもかかわらず、週にわずか二度だけ許されるこの離宮行きこそが、心を潤す唯一の“休暇”だった。


――懐かしい……。

 それにしても、ずいぶん熱心ね。わたしに教えてた時より、真剣なんじゃないかしら?


 剣風の匂い、若草を踏む音、瑞々しい汗の煌めき――それらすべてが、女王の胸に忘れかけた鼓動を取り戻させる。


 稽古場では、銀灰の騎士が少年に歩幅ひとつ違わぬ厳格さで寄り添い、凍てつくほどの声色で指先の角度を咎めている。

 軍では“鬼の総司令”と恐れられる叱声。だがメービスだけは知っている。リュシアンの木剣が正しい弧を描くたび、ヴォルフの硬質な横顔に、ごく薄く微笑の影が射すことを。

 まるで炎を雪で覆い隠すように慎重に、それでも確かに灯る小さな慈愛。強く在りたいと願う少年を見守る父親のようなまなざし――その温度を、メービスは誰よりも敏感に感じ取っていた。


――そういうことなのかな、やっぱり……。


 やがて木剣が空を切る音が途切れ、少年の胸が上下する静かな息遣いのみが残る。幕の陰、女王の視線はそっと柔らぎ、唇に浮かんだかすかな微笑は誰にも気づかれぬまま揺れた。


――もし、わたしたちのあいだに……なんてね。


 不意に胸をくすぐる甘い幻は、花蜜に忍ばせた微かな毒にも似て、メービスの心の湖面をそっと波立たせる。回廊へ吹き込む風が緑の香を運び、その一瞬、女王の鼓動は春嵐の前触れのように高鳴った。


 刹那の揺らぎ――侍女の澄んだ瞳は見逃さない。


「陛下、ご気分が……?」


 囁きは羽根の先ほどの重さで、女王の肩先に降りた。


 はっと我に返り、メービスは片手で胸元をおさえる。深い翠の瞳に揺れた微熱をそっと鎮め、いつもの穏やかな微笑を咲かせた。


「いいえ、大丈夫よ。朝日が眩しくて、少し目がくらんだだけ」


 そう言いながら、彼女は指先でひと房の黒髪を耳へ掛ける。透けた光が髪に淡い琥珀色を注ぎ、ほほえみの影をいっそう柔らかく縁取った。


 下では、ヴォルフの厳格な声が再び響き、木剣が風を裂く。その音に重なるように、女王の胸奥で小さな鼓動がひたりと落ち着きを取り戻す。まだ語るには早すぎる想い。けれど、微かな温もりを抱いて歩む道も、決して孤独ではない。遠く涼やかな剣の軌跡を見つめながら、メービスはまた一つ、静かな決意をひそやかに胸に刻んだ。


 布越しの掌で振る木剣が、さらに二十本の弧を描き終えた。リュシアンは揺れる肩で呼吸を整え、柄をくるりと返して腰の帯へ――鞘に見立てた位置へ静かに収める。春の朝靄の中、その動きは小さな波紋のように静かで、けれど確かな決意の色を宿していた。


「次は、帯刀の姿勢から“さし込み”の抜刀を十本」


 ヴォルフは冷たい泉のごとく澄んだ声で告げ、休憩を許すそぶりも見せない。


「腰を、刃より先に動かす。柄頭は最小限だけ引き上げろ。……始め」


「はい!」


 張りのある返事が春空に弾ける。芝を踏み締める乾いた音、布で包んだ掌が柄木をつかむわずかな擦過音、そして抜き払われた瞬間の、鋭い風切り。朝の庭を満たすのは、その整ったリズムだけだった。


 一本、二本……五本目で肘がわずかに浮き、七本目で腰の回転が一拍遅れ、八本目には刃筋が頼りなく揺らいだ。ヴォルフはその一瞬の揺らぎを逃さない。


「止め」


 手刀が静かに割って入り、少年の肩・肘・手首を正しい位置へ導く。矯正が終わると、再び静かな命が落ちた。


「続け」


 早鐘のように胸を打つ呼吸。それでも少年は諦めず、湿った芝を足裏で噛み締め、腰から生まれるうねりに身を委ねる。切っ先はさきほどより澄んだ弧を描き、陽光にひらめくたび、露の粒が虹の破片となって舞った。


 十本目。振り終えた瞬間、リュシアンの唇から押し殺した吐息が漏れ、額を伝った汗がぽたりと青い芝に落ちる。たった十本――されど、漫然と振るったものではないがゆえ、十歳の身体には苛酷な重みだろう。それでも少年の瞳には、まだ燃ゆる意志の灯が揺れていた。


 ヴォルフはわずかに顎を引き、その光を肯定するようにまなざしを落とす。厳しさの奥に潜む微かな慈愛は、朝露よりひそやかに、けれど確かに少年の背を支えていた。


「――よし、布を外せ」


 低い合図に従い、リュシアンはそっと包帯の端を解く。白布の下から現れた掌には、小豆色の水泡が静かに息づき、朝の光に透けて淡い紅玉のようだ。潰れずに残った膨らみは、痛みと誇りを同時に抱えた幼い勲章。


 総司令は無言で新しい乾いた布を取り、滴る汗をやさしく拭い取る。その仕草は風に揺れる木の葉よりも静かで、冷たい麻の感触にリュシアンの肩がかすかに震えた。


「……痛むか?」


 囁きは凍る朝露のように短く澄んでいる。


「……だいじょうぶ、です」


 少年は震えそうになる声の端を噛みしめ、どうにか笑みを形づくった。


 ヴォルフは細い指を包み込み、掌を朝陽へ翳す。金の光が薄い皮膚を透かし、血潮の朱がほのかに灯った。


「強がりは、いつか刃を錆びさせるぞ」


 厳しい言葉の奥で、微かな慈しみが芽生える。

 「それでも――」と、声色がひそやかに温度を帯びる。


「よくやった。この痛みを耐え抜くことが、腰で剣を支える手応えを刻むんだ……。

 本日の剣の稽古はここまで。次は、肝心の脚さばきに入る」


 稽古が終わっていないと悟った瞬間、リュシアンの瞳がぱっと輝く。彼は木剣を胸に抱き、濡れた掌で柄をそっと撫でてから、背筋を正し深く礼を取った。

 濃緑の芝に映る影が、春の朝光の中で凛と伸びている。


 その仕草に、ヴォルフはわずかに顎を引き、目許を緩める――ほんの息ほどの時間、雪解けのような暖色が硬い横顔をかすめたが、それはすぐに澄んだ氷へと戻った。


 少年の真っ直ぐな志と、師のひそかな慈愛。柔らかな春の光は、そのふたつの温度を等しく抱きとめ、回廊の翳へ淡く揺らめく鳥影とともに、静かに溶けていった。


 その光景を最後まで見届けると、メービスはそっと胸に手を当てた。

 白梅の甘い香りが春の柔らかな風に乗り、離宮の赤い瓦を優しく撫でていく。花の甘い匂いと、剣の稽古で流した汗の匂いが混じり合い、まるで未来の気配にも似た、切なくも甘い香りを残していた。


「……季節は、着実に進んでいくのね」


 そう小さく漏らした呟きは、誰の耳にも届くことなく春の空へと溶けて消える。けれど、彼女の胸の内に芽生えたその願いは、まだ誰にも知られていない秘密の蕾――朝露よりもずっと脆く、陽射しよりもずっと熱い想いを秘めていた。


◇◇◇


 正午の鐘が遠くで鳴り終えるころ、離宮西棟の吹き抜け回廊には、朝の剣戟の熱を鎮めるように、磨墨すずりを摺るほの甘い香りが漂っていた。高窓から射し込む陽が大理石の床に長い光帯を描き、その上を淡い埃が金の粉のように舞う。


 窓辺に据えられた黒檀の長机は、鏡のように艶を帯び、光をうつしてほの黒く輝く。その向こうの白壁にはイストリア産の精緻な地図、多色で組まれた算盤、そして大陸の歴史を連ねた年表が整然と掛けられ、まるで一本の静脈が国の隅々まで続くさまを示しているかのようだった。


 机の前に立つ男――アドリアン・レズンブール伯爵は、かつて囚衣の影を纏っていた面影をわずかに残しながらも、今は落ち着いた灰紫のローブに身を包む。

 細身の指先が羊皮紙の上を滑り、墨を含んだ筆がさらさらと音を奏でるたび、香の煙がゆらりと揺れ、長い睫毛の影が痩せた頬をかすめた。


 その伯爵の正面、小ぶりな椅子に腰掛けるのは、次期王太子リュシアン。

 まだ幼き少年ながら、背筋を凛と伸ばす姿は磨きかけの宝石のように気高い。両手は膝の上で端然と組まれ、先ほどまで木剣を揮っていたとは思えぬ静けさで、伯爵の指先をじっと追っている。


「――さて、殿下。今日は自治と税制が、王権から――もっと言えば玉座そのものから――どのような距離を保つべきか、共に考えてみましょう」


 伯爵の声は、鐘の余韻のように静かで深い。けれどその静謐は、窓辺に舞う埃の粒さえ息を潜めるほどの力を帯びていた。

 リュシアンは手にした羽根ペンの先を止め、まっすぐ伯爵を見つめる。金色の光が少年の睫毛にかかり、影を落とした瞳は真剣そのものだ。


 伯爵は黒板へ向き直ると、一筆で大きな三角を描く。頂点に〈王権〉、左下に〈自治都市〉、右下に〈領主〉――流麗な文字が白墨の粉を曳いて、黒の深みに鮮やかに浮かんだ。


「王と貴族が力を抱え込みすぎれば、税は重くなり、都市の血脈は吸い上げられて呼吸を失う。逆に、ギルド連盟のような自治都市が肥大すれば、軍備も治水も責任の所在が曖昧となり、やがて国家の背骨が痩せてしまいます」


 白墨の先が頂点を「とん」と叩くたび、伯爵の袖口から覗く細い鎖が微かに揺れ、かすかな鈴音を残した。翳りに溶け合うほどの音なのに、不思議と耳を離れず、場の空気までも引き締めていく。


「――そこで、殿下に問います。〈均衡〉とは、いったい誰の目線で測るべきものか」


 声は大きくない。けれど、その静かな響きは窓辺の埃の粒さえ動きを止める。回廊を渡る風が途切れ、光が張り詰めた絹のように壁を照らした。


 しん――と張りつめた静寂の中、リュシアンの羽根ペンが羊皮紙をかすめる微かな音だけが時を刻む。

 伯爵は答えを急かさない。沈黙は思考が芽吹くための柔らかな土――そう信じているのだ。


 少年は三角形の頂点と底辺を見つめる。紫水晶の瞳が三つの文字を行き来し、迷い、やがて小さく瞬いた。胸の奥に灯った微かな閃きを逃さぬよう、唇がゆっくりと動き出す。


「……ええと……もし測る人が、どちらか片方の味方だったら――それは、本当の〈均衡〉じゃないと思います。だから……」


 まだ幼い声はところどころで言葉を捜しあぐね、震えを帯びる。けれど、その揺らぎの奥に宿る思考は、驚くほど透きとおっていた。


「先生が『誰の目線か』とお尋ねになったのは……その“測り手”、つまり王様自身がどちらにも傾かず、三つの間の真ん中に立って物事を量らなければならない、ということではないでしょうか?」


 言い終えた瞬間、リュシアンは息をひそめた。緊張の糸が細く震える。しかし、伯爵の目尻がほのかに綻びたのを見て、胸の奥に温かな火が灯った。


「――その通りです、殿下。しかし、私が求めたのは“模範解答”ではありません。磨くべきは、答えそのものより“問いの立て方”なのです」


 白墨を持つ指が、黒板の三角形の横へ音もなく走る。〈第三項〉――そして、流麗な筆致で〈法〉と記された。


「王は、王都の陽光だけでなく、最も深い影を知り得ねばなりません。民は、欲得を口にする一方で、国家への義務を引き受けねばならない。その両者を仲立ちし、結びとめるものこそ“法”。――そして、我々が学ぼうとしている〈まつりごと〉の核心です」


 伯爵は教卓を「とん」と軽く叩く。艶やかな黒檀に反響する乾いた響きが、空気の皺を伸ばすように場を引き締めた。


「では――もう一つ、思考の鍛錬を」


 アドリアンは静かに顔を上げる。亜麻色の睫毛の影が淡い頬を横切り、柔らかな光の中で鎖がまた、しゃらりと揺れた。


「殿下。もし、国境を接する二つの伯領が、一つの河をめぐって水利権を争ったとしましょう。

 上流は豊かに実り、下流では干ばつが続き、農民は飢えと渇きに喘いでいる。上流伯は“自領の繁栄”を理由に流量を減らす堰を造り、下流領は“生存権”を叫んで王都に嘆願書を送る――。

 さて、王となる者は、この対立をどのように解き、〈法〉をもって均衡を量るべきでしょうか」


 伯爵の声音は静謐でありながら、その奥で焔のような情熱が揺れている。問いを受けたリュシアンは、脈打つ掌の痛みに気づき、そっと指を握りしめた。ほんのひとしずく残る痛みが、今や剣とは別の“秤”を研ぎ澄ます礎になることを悟りながら。


 長い、長い沈黙。やがて――。


「……わかりません」


 まだ幼い声がかすかに震えた。しかし、そのまま俯かずに顔を上げる。


「僕には、どちらか一方を選ぶ決心は、まだできません」


 正直な言葉はそこで途切れず、少年は小さく息を継いだ。


「けれど……もし僕が王なら、まず両方の領から代表を招きます。そして、僕の前でそれぞれの事情を話してもらいます。どちらの痛みが、今この国にとってより深い傷になるのかを、自分の耳で確かめたいからです。

 そのうえで――小麦を分け合うように、川の流れも分け合います。それでも飢えや渇きが残るなら、残る一方を救う別の方法を、必死に探します。……それが、王様の務めだと思いますから」


 言葉が途切れた瞬間、白墨の粉が陽光にきらめき、宙へ溶けた。

 アドリアン・レズンブール伯爵はしずかな足取りで歩み寄り、痩せた指先をそっと少年の肩に添える。わずかに震えるその肩を、春のそよ風を抑えるように優しく按えた。


「――見事なお答えです、殿下」


 低く落とした声は水面に映る月のように淡く、けれど揺るぎない。


「この問いに“唯一の正解”など存在しません。

 王たる者に求められるのは、判断の速さよりも、痛みに寄り添い続ける覚悟です。

 わからぬことを知ったふりで覆い隠すこと。苦しむ声を聞かず、ただ玉座にもたれること。それこそが最も残酷な暴虐であると、どうか胸に刻んでください」


 リュシアンは胸の奥に灯った一筋の熱を噛みしめ、小さく頷く。


「……はい」


 その返事に合わせるように、窓外の白梅の梢から一片の花びらがふわりと離れた。淡雪のような白が春風に揺られ、開け放たれた窓を抜け、師と弟子のあいだに舞い降りる。花びらは羊皮紙の余白にそっと触れ、やがて静かに落ち着いた。

 若き獅子の胸に芽吹いたばかりの覚悟は、まだ細い根を張り始めたばかり。けれどその上に降り立った真白の祝福は、彼がいつの日か大樹となり、揺るぎない影を人々へ与えることを、ひっそりと告げているかのようだった。


◇◇◇


 午後、離宮の東庭に簡素な造りの掲示板が仮に設けられた。

 淡い紫色の修道服をまとった王宮の吏員が、掲示板を覆っていた布をさっと剥ぐと、その下に現れた晒紙さらしがみに刻まれた真新しい王国印が、春の陽光を受けて誇らしげに光る。


> 王家秘学寮〈暫定称〉

> 第一期学生 王領全土一般公募のお知らせ

> 一、年齢十歳以上、十五歳以下たる者

> 一、男女、及び貴賤の別は問わず

> 一、筆記試験および評定は王都にて執り行う

> 一、合格者には、在学中の衣食住、並びに基礎奨励金を保障する

> 一、卒寮後は、王国の各官署、研究所、または騎士団への登用を視野に入れる


 その布がはらりと風に舞い落ちた瞬間、知らせを聞きつけて集まっていた庭師や侍女、そして平民ながら腕利きと評判の厨房番たちが、どよめきの声を上げた。


「まあ……本当に、我ら平民にも門戸が開かれるというのか?」

「ご学友ですって、あの王太子となられる方の……! なんてことでしょう!」


 王都の大気は、まるで春先にほころぶ薄氷のようにぱりりと音を立て、瞬く間に新しい熱を帯びていった。募集要項が老舗の公文書院から刷り出された途端、街はそれぞれの色を持つ声でざわめき始める。


 中央通りの賑やかな酒場では、花形と謳われるレトリック商会の若い書記がグラスを置き、「これは、ぜひ妹に受けさせねば」と瞳を光らせた。

 王宮前広場の古書屋では、老主人が「こりゃあ一生に二度と巡らぬ縁かもしれんのう……」と呟き、傍らの孫娘は群青の瞳を見開いて帽子が跳ねるのも構わない。

 南門近くの森番の詰め所では、若い森番が「弟は今年十三だ。弓の腕ならあたしより筋がいい」と仲間に囁き、高級布店の二階では、侯爵令嬢が侍女からの告げ口に「まあ! なら私より下の年頃ですのね。けれど王太子殿下が“平民”と……?」と唇をなぞる。

 東の外れの孤児院では、院長代理の修道女が「みんな……王宮から、勉強をしにおいでと招待が来たの」と子供たちに告げ、十歳の少年が「ぼ、僕……字は苦手だけど、陛下のために花壇を作れます!」と土色の頬を染めて手を挙げた。


 街角の石畳は陽に照り返り、パン屋の軒先からは焼き立ての甘い香りが溢れ、どこを歩いても胸を高鳴らせるざわめきに出合う。

 賛嘆、戸惑い、嫉妬、そしてまだ言葉にならない希望――。それらが重なり合いながら、王都という大鍋の底で、静かに、けれど確実に煮詰まっていく。やがて風が変わる。誰かの小さな夢が芽を吹き、誰かの澱んだ野心が色を濃くするのだ。


 その一方で、貴族居住区の奥まった庭園では、金糸の飾緒をしならせた若き侯爵が、葡萄色のワインを置き、苦々しく唇を噛む。


「なりたての女王め……“貴賤融合”など甘言に過ぎん。民の歓心を買い、我らの牙を抜くつもりか」


 吐き捨てるような呟きが、薔薇の香の奥で刺を潜ませた。王都全域が、沈黙と、羨望と、そして警戒心をごたまぜにして、熱い鍋のようにぐつぐつと沸騰し始めていた。


◇◇◇


 離宮の白い回廊に春の光が揺らぎ、硝子窓を透けた遠いざわめきが、かすかな波となって靴先へ届いた。

 その気配を拾い、メービスは足を留める。淡い緑のガウンが裾を揺らし、金糸の房飾りが小さく触れ合って鈴を鳴らした。


 ほどなく、侍従が息を切らせて駆け寄る。額に滲んだ汗は真珠の粒となり、報告の声に震えが潜んでいた。


「陛下……掲示の件で、ただいま市街が、すでに大変なざわめきに……!」


 メービスは一歩だけ窓辺に寄り、その気息を穏やかな微笑で受け止める。


「すべて想定通りですわ。動向の監視を続けなさい。そして――灰月には、民を煽る悪意あるビラの出所を、今のうちにおさえさせて」


 やわらかな声音で指示を終えると、彼女の視線は庭へと滑った。掲示板の前に立つ一人の若い行商の娘――栗色の髪を風に乱し、呆然と貼り紙を見上げている。手から滑り落ちた荷籠が石畳に転がり、乾き豆がぱらぱらと金色の音を立てて散らばった。


 しかし娘は豆を拾い集めようとはしない。白い紙面に震える指先を伸ばし、その言葉に縋るように祈りを捧げている。失った器よりも、そこに灯った希望がはるかに重い――そう告げるように、涙に濡れた瞳がきらりと光った。


 遠く鐘楼の時打ちが重なり、王都の胸を高鳴らせるざわめきは、ますます勢いを増していく。けれど、回廊を渡る一筋の風は静かだった。メービスはそっと瞼を伏せ、胸の奥で芽生える熱を確かめる。


――わたしの開けた扉が、ほんとうに未来へ続くのだとしたら。どうか一つでも多く、光へ導けますように。


 花の香を孕んだ春風が、庭木の若葉をすり抜け、白い布告をやわらかく揺らした。

646話 再考察 『もし、わたしたちのあいだに』

 本章は、物語全体の中で一見静かに流れる日常の一幕のようでありながら、その内側に秘められた感情の深みを描き出しています。


ヴォルフの指導に宿る父性の眼差し

 冒頭、ヴォルフがリュシアンに剣を教える場面では、彼の内にある「慈愛」と「厳しさ」の二面性が強調されます。彼がリュシアンを指導する様子は、「もしヴォルフが父親だったら」という視覚的なメタファーとなっています。ヴォルフの父性的な優しさは、無意識のうちに観察者メービスの内側に「もしも」の未来を呼び起こします。


メービスの視線――密やかな羨望と寂寥

 回廊からその光景を眺めるメービスは、一見穏やかに日常を味わっていますが、その内側は複雑です。女王としての務めから解放されるわずかな時間を味わいながらも、彼女の視線はやがて、自分の心の奥底に眠る痛みへとたどり着いてしまいます。


ここで重要なのが、二段階に分かれたメービスの内的台詞です。


● 一段階目:「――そういうことなのかな、やっぱり……。」

 たったこれだけ、の一言は表面的にはヴォルフの慈愛に対する納得を示しますが、その裏側では――


「ヴォルフにもし息子がいたら、こんな風に慈しみ、育てたのだろうか」


 という彼女自身の静かな諦念と羨望が同時に描かれています。


 これは言い換えれば、自分がヴォルフに本当に望むのは、その先のまだ明確に認めきれない彼女自身の微妙な心理を映しています。


● 二段階目:「――もし、わたしたちのあいだに……なんてね。」

 さらに一歩進んだ台詞です。ここでメービスはより具体的な幻想に踏み込んでしまいます。


「もしヴォルフとわたしの間に子がいたなら、あの子はこんなふうにヴォルフから剣を習っているだろうか……?」


 この瞬間、メービスの中で一瞬だけ「幸福な家族」の幻が現れます。しかし、それはあまりにも甘美で、彼女には許されない夢です。だからこそ即座に「なんてね」と打ち消します。この一言には――


諦め:「女王の立場で、わたしたちの間柄で、それを望むなど許されないはず。彼だだって迷惑する」


笑い飛ばす演技 「自分の気持ちを軽く誤魔化す」

自傷的な優しさ 「自分の心を深く傷つけないための保護」


 という複雑な感情が織り交ぜられています。まさに彼女が背負う「女王としての責任」「罪悪感」と、個人として抱える「夢」の狭間に生まれた微妙な感情の揺らぎがこの言葉に宿っています。


ヴォルフとリュシアン――父性の確かな芽生え

 ヴォルフ自身もまた、自覚的ではないにせよ、リュシアンとの関係に父性的な情愛を注いでいます。彼がリュシアンの傷ついた掌を丁寧に手当てする場面は、父が息子に向ける穏やかな愛情を象徴しています。


 ここで描かれる「少年の真っ直ぐな志」と「師の秘めた慈愛」という二つの要素は、ヴォルフとリュシアンの関係性が深まりつつあることを示唆します。これは将来への重要な布石であり、またメービスがその光景を目撃することで、彼女自身の内面に葛藤を生むという二重構造になっています。


リュシアンの覚悟と教育

 伯爵による講義の場面では、リュシアンが成長するための重要な資質――「正解のない問いに真摯に向き合い、苦しむ人の痛みを自ら引き受ける覚悟」――が示されます。伯爵がリュシアンに与えた問いは、単なる政治的教育を超え、リュシアンが自分自身の内面と深く向き合うための契機となっています。


 またこの場面は、「王になる者の義務」というテーマが前面に押し出され、リュシアンが将来、メービスの重荷を少しでも共有する存在として育っていく可能性を描き出しています。


平民への扉開放――社会改革の序曲

 後半の学友募集の告知は、メービスの新しい政治方針を鮮明に示す象徴的な出来事です。平民にまで門戸が開かれ、王都中に広がる期待や戸惑いは、新しい時代の到来を告げるものです。


 しかし、これは同時に貴族たちとの軋轢を予感させます。「貴賤融合」という改革が、既存の社会秩序に緊張をもたらすことを示し、メービスが政治家として立ち向かわなければならない課題が明確に描き出されています。


章のテーマ 「個人の夢」と「国家の義務」の揺らぎ

 646話の中心的テーマは、メービスの内面に象徴される「個人としての幸福への秘められた願望」と、「女王としての立場と責任」との間の葛藤です。


 彼女の胸を波立たせた幻のような想いは、その後の具体的な社会的・政治的改革(学友制度)へと昇華されています。それは、「自分自身が叶えることが難しい夢」を、「社会改革という形で広く国民に開かれた可能性」へと転換させたことでもあります。


結論 不完全であるがゆえの美しさ

 第646話は、『黒髪のグロンダイル』において「完全に満たされることのない想い」と、それでも「願い続けること」の尊さを伝えています。


 メービスの二段階の不完全過ぎる内的台詞に込められた繊細な感情表現は、抑制された感情描写であり、「願望と諦め」のバランス。



レズンブール伯爵の講義

――「答えではなく、“問い”を授ける授業」

 伯爵が黒板に描いた大きな三角形は、まず頂点に〈王権〉、底辺の左に〈自治都市〉、右に〈領主(貴族)〉を置くことで、国家を支える三本柱を一目で示す舞台装置になっています。この視覚的な図形は、剣術で教えられる「正中線」に通じるものがあり、リュシアンの肉体感覚と政治的理論を無意識に呼応させる狙いがあります。


 図を描き終えたあと、伯爵は黒板の脇に「第三項」と書き加え、そこに〈法〉という語を置きました。これは単に三者の中庸を取るのではなく、王と民、それぞれの熱量を適温に保つためのサーモスタットとして法が機能する、という位置づけです。伯爵の口調は穏やかですが、その奥には「君主自身が温度計になり、乱れた熱を測らねばならない」というメッセージが隠されています。


 授業の進め方は、問いを投げたあとは沈黙で待つというソクラテス式。少年が考えを巡らせる間、教室に響くのは伯爵の袖口から下がる細い鎖が揺れる微かな鈴音だけ。この鎖はかつて囚人だった過去の象徴であり、「法を破れば自由を奪われる」という警句を無言で教える装置にもなっています。リュシアンが答えを言い淀むと、鎖が鳴り、思考の静けさをいっそう際立たせる。答えが出たとき、伯爵が黒檀机を「とん」と叩く所作は、鍛錬場でヴォルフが手刀で区切る動きと呼応し、武の教育と理の教育が同じリズムで進んでいることを印象づけます。


 ケーススタディとして提示されるのが水利権を巡る上流伯と下流伯の対立です。上流は「繁栄」を掲げて堰を築き、下流は「生存権」を叫んで嘆願する。どちらも正当性を主張しつつ衝突している。この難題に対してリュシアンは、「まず双方の代表を招いて痛みの深さを自分の耳で確かめ、川の流れを分かち、それでも足りない分は別の策を死に物狂いで探す」という答えを出します。それは朝の稽古で学んだ「掌の痛みを王として翻訳する」という態度の拡張であり、伯爵が測りたかったのは正解ではなく覚悟だったということが、ここで明らかになります。


 この講義は物語の後半、女王メービスが平民にも開かれた学友制度を布告する流れと呼応します。リュシアンが「分かち合い」「代表を招き」「救済策を探す」と語った思想が、国家レベルの改革として形になるからです。ヴォルフの剣の稽古で身体的な痛みを知り、伯爵の授業で社会全体の痛みを量る術を学び、メービスの布告という制度で痛みを和らげる――この三段構えが章全体の骨格となっています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ