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檻の中の師、玉座の生徒

【再会と採点】


 アストリッド侯妃の使節団が、見せかけの友好をその仮面の裏に隠したまま、王都を去ってから一週間が過ぎた。

 草木はまだ硬い芽を抱えるばかりの早春――けれど白梅だけは、城壁沿いにほのかな雲を連ね、風が撫でるたび静かに匂いをこぼしていた。

 その甘やかな香を背に置き、わたし――メービス・マティルデ・アデライド・フォン・オベルワルト=リューベンロートは、王宮で最も深く、陽光を拒む回廊へと足を踏み入れる。


 磨かれた大理石の床は途中で終わり、そこから先は灰色の石畳へと質素に姿を変えていた。壁面には年代物の燭台が等間隔に掛けられているが、吹き込む地下風に炎は呻くように、縮みながら揺れ、淡い橙光は、冷たい湿気と苔の匂いにすぐ呑まれてしまう。

 鉄格子が並ぶたび、鍛鉄の黒い影が床へ伸び、影と影が重なるその狭間で、囚人たちの小さな囁きと溜息が微かにこだました。


 目的はただひとり。


 《アドリアン・レズンブール伯爵》──かつて“剣も策”も共にした男が幽閉される独房だ。


 彼がわたしに与えた「宿題」の、答え合わせをするために、わたしは、今日、ここへ来たのだ。


◇◇◇


■ 再会


「人払いを――」


 囁きに近い指示でも、背後に控えた衛兵たちには十分だったらしい。

 鎧の重みを殺す熟練の足取りで、彼らは一礼し、影のように視界から消えていく。残ったのは壮年の看守ひとり。深く刻まれた皺が煤煙色の皮膚を吊り、その手が錆び付いた鍵を回すと、蝶番が低い悲鳴を上げた。


 扉の向こうにあったのは、簡素を極めた独房。粗末な寝台と、独房には不釣り合いな小机――あれはわたしが特別に運ばせたものだ――そして机上には書き損じを含めた羊皮紙の山が積み上がり、頂で一本の羽根ペンが揺れている。

 ペン先から垂れたインクの黒い涙が乾き切らず、ほの甘い匂いが穴蔵の空気に静かに滲んでいた。


 机に向かっていた男が、動きを止める。

 背筋はひどく痩せ、長く無造作に伸びた金色の髪と髭には白いものが交じる。四十代後半という年齢以上に、その頬は削げ落ちていた。

 

 それでも、あの瞳だけは少しも鈍色を宿していない。

 炎ではない。氷でもない。すべてを呑み込んだ湖底のような静寂と深さが、そこにはあった。


 彼は立ち上がり、鎖の軋みのごとく、重い礼を取る。

 背筋の線は細くとも、その所作には寸分の乱れもない。貴族としての誇りを、衣服が褪せてもなお手放していない証。


「これは――これは、女王陛下。かくも陰鬱な隠棲の地へ、直々にお越し下さるとは。望外の光栄にございます」


 声は掠れていたが、あの艶やかな響きは失われていなかった。

 わたしは微笑を返す。女王として罪人を慈しむものではなく、かつて剣を並べた友へ向ける、偽りのない笑みを。


「お久しぶりですわね、伯爵。お元気そうで――何よりです」


「ええ。陛下のおかげをもちまして、この通り、誰にも邪魔されず思索に耽る……という、実に贅沢な時を過ごさせていただいております」


言外に潜む棘。その棘を、わたしはあえて受け止め、囚われの王に似つかわしくない椅子を机の向かいへ引き、そのまま腰を下ろした。


 伯爵がわたしの背後を探るように視線を泳がせた。わたしは小首を傾ける。


「……して、本日は、あの寡黙な番犬殿はご同行では?」


「あら、ヴォルフのこと?」


 問いに含まれる鋭さと寂しさ。その両方を和らげるように、わたしは肩をすくめる。


「軍の再編で手一杯らしく、本日は参れませんでしたわ。ただ、言伝がございます。

 『俺から会いに行く気はない。文句があるなら自分から這い出して来やがれ』――だそうです」


 ヴォルフの名を口にした瞬間、独房の沈黙がわずかに震えた。

 伯爵の眉がわずかに跳ね上がる。石壁に釘打った粗末な燭台が、乾いた火花をこぼし、ふっと影を揺らす。その一瞬、ゆらめく炎が伯爵の頬の窪みをなぞり、年輪のような皺をくっきりと浮かび上がらせた。


「……まったく、あの方らしい。相も変わらず不器用で、そしてどこまでも真っ直ぐなお方でございますな」


 伯爵は渇いた喉を慣らすように低く笑った。声はそがれていても、響きには懐かしい鉄の芯が残る。ヴォルフという名が、ふたりのあいだにだけ通じる頑固な信頼を呼び覚ましている。


「でしょう? 彼ったら、本当に素直じゃないのだから。困ったものです」


 わたしは肩をすくめ、薄い息を吐く。その白い息が、燭火の上で揺れながら溶け、冷えた牢の匂いに紛れる。


 牢壁がそのまま響板になったかのように、小さな笑い声が二つ重なり、鉄格子の向こうに張りついていた重苦しい静寂が、わずかに――ほんのわずかにほぐれていく。


◇◇◇


■ 宿題の採点


 笑いが静まると、伯爵は机に置かれた椅子へゆっくり腰を下ろし、薄い息を吐きながら手を組んだ。

 わたしも姿勢を正す。彼の目が問うのを待ちきれずに、先手を打った。


「ところで、あなたがわたしに下さった宿題――点数はいかほどかしら?」


 彼は視線を天井の石組みに向け、長いまばたきをひとつ落とす。考える時間はわずか。


「そうですな……敢えて厳しく申し上げるなら、六十五点、といったところでしょうか」


 伯爵は薄く笑みを刻みながらも、その声には濁りのない真剣さが宿っていた。片眉をわずかに上げる仕草は、かつて地下牢で矛盾を指摘する折に見せた、あの遠慮のない批評家の面影を思わせる。独房の陰鬱な空気さえ、その言葉を境にきりりと締まる。


「あら……ずいぶん厳しいのね……」


 わたしは肩越しに揺れる髪を払いながら微苦笑した。囚人服に埋もれた伯爵の抑えきれない矜持が、こちらの胸中にじんと熱を灯す――まるで鋭い刃の冷たさがかえって血流を促すように。


「わたくしからすれば、まだまだ甘い部分もございます。つい先日、コルデオ殿が見えられましたが――ずいぶんと陛下のこと、この国の行く末を案じておられましたぞ」


 伯爵は灰緑の瞳を細め、灯台のように静かに光らせる。

 わたしの侍従長コルデオ。かつての父の側近であった重臣の名が、牢の石壁にこつんと反響した。途端、湿った隙間風の中に、あの人の葉巻の匂いが幻のように滲む。


「まあ、コルデオったら……。あなたや彼からすれば、わたしはまだまだ子ども、ということかしら」


 軽く肩をすくめたものの、声はわずかに弾んでしまう。自嘲と照れ――そしてどこか、甘え――が、舌の奥で絡み合うのを感じた。


「恐れながら。しかし、そのご信念とご覚悟は誰にも劣りませぬ。それは断言できます。コルデオ殿も『先王に勝るとも劣らない』と評しておられました」


「そうですか……よかった」


 息とともにこぼれた言葉は、自覚以上にかすれていた。胸の奥に、炉の火種のような温もりがふわりと灯り、その光が肋骨の檻を跳びこえて全身を巡る。わたしは無意識に両掌を重ね、その熱を逃すまいと指先を絡めた。


 伯爵の灰緑の瞳が、少しだけ和らいだ。長い睫毛の影が頬に落ち、さながら冬の灰雲がわずかに割れて、古城の窓へ薄日が射すようだった。だが、次の瞬間――


 彼は机の上に積まれた羊皮紙の山へ、細く痩せた腕を伸ばす。古い鎖が触れ合う軽い音が、鳥の羽ばたきのように独房の静寂を切り裂き、インクの匂いが濃く立ちのぼった。呻くような紙の擦過音とともに、わたしの胸の熱は、新たな試練の予感へ姿を変える。


「さて、わたしがここで何をしていたかですが……」


 卓上の陰がゆらりと揺らいだ。わたしは身を乗り出し、その束を受け取る。

 想像以上の質量が手首に食い込む。羊皮紙の重さではない――積み重ねられた策謀と陰謀、血と涙の比重だ。


 伯爵は背凭れに寄りかかり、骨ばった指先を軽く組むと、静かな声音で宣言した。


「これは、わたしからあなたへ差し上げられる最後の贈り物。そして、追加の宿題でもあります。

 私が知る限りの国内外の裏の裏、“影の手”にもわかりかねる、各貴族の性格や腹の内まで、あますことなく暴露しております。

 グラン=イストに残してきた資料だけでは、今後に向けていささか心もとないですからな」


 わたしの唇から、抑えきれない息が零れる。

 貴族院が極秘指定する《深紅等級》文書――それと同等の裏帳簿が、いま掌の中に脈打っている。


「伯爵、あなたって人は……そこまで」


 息をのみながら呟くと、紙束の端がわずかに震えた。わたしの指先が震えているのだ。

 王冠の重みよりもずっと冷たく重い現実を、この男は独房の静寂の中で書き起こし、わたしの歩む未来へ差し出している。


 伯爵は苦笑とも微笑ともつかぬ表情を浮かべた。細い口角が僅かに上がり、伸びた髭が揺れる。


「……もはや、これで思い残すことはこざいません。どうか女王陛下、厳しいご処断をお願い申し上げます」


 その声音には諦念も恐怖もない。ただ、長い旅路の終点に辿り着いた者の静かな満足があった。


――この人は、ここでの死を望んでいる。

 

 だが、わたしにはその望みを叶える気など欠片もなかった。

 紙束を胸に抱き直し、わたしは伯爵の正面に立つ。靴底が石を擦る音が、小さく独房へこだました。


「……そうはいきません。あなたには、まだ死なれては困るのです」


 足枷の鎖がわずかに鳴り、伯爵は眉を僅かに動かした。

 わたしの視線と彼の視線が、静かな張り詰めの中で絡み合う。


「何をおっしゃいますか、陛下。私は国家反逆の罪を犯し、王家を混乱させ貶めようとした大罪人です。極刑をもって罪を償う。それが正しい筋道というものです」


 掠れ声は不思議なほど穏やかで、死こそが最良の贖いだと語る質量を帯びている。

 薄暗い牢の天井から落ちる水滴が、不意に冷たい音を立てた。


 わたしは紙束を机へそっと戻し、指先で羊皮紙の角を整える。その所作が終わるまで言葉を飲み込み、深い息をひとつ落としてから――悪戯の種火を宿した笑みを浮かべた。


「あなたは罪と申されましたが、はたしてそうでしょうか? わたしが知っているのは、あなたがリュシアンの擁立に加担していたということだけです。

 そして、男爵家に私兵を送ったのは、アルバートの影から守るためだった――ダビドからはそう報告を受けていますが?」


 硝子が軋むほど、伯爵の瞳が細く震えた。


「はぁっ? なんですと。それは事実とは全く異なりますぞ……」


 獄中の策士が初めて見せる、動揺。

 わたしは人差し指を唇に当て、小さく囁く。


「しーっ……そういうことになっているのです。

 あと、モンヴェール男爵もロゼリーヌさんも、この件は既に了承ずみです。わたしが握っている証拠については、他の貴族たちには一切他言しておりませんので」


「そ、それは……あまりにも……。陛下、物事には筋目というものがあります。他の貴族たちに示しがつきません!」


 彼の肩が大きく落ちる。自分の罪が書き換えられ、別の物語へ組み込まれていく。その事実が、誇り高い伯爵の精神を揺らしていた。


 わたしは微笑みを崩さず、紙束を再び抱え取る。黒いインクが陽光の届かぬ牢で鈍く光り、まるで未来への血判のように見えた。


「仰る通り、何の措置も講じぬとなれば、あなたへの風当たりがいっそう厳しくなるのは避けられません」


 わたしは胸元の紙束を軽く叩き、ひと息置いてから告げる。


「ですから――あなたのたっての希望であった蟄居という処分、嫡子フィリップ殿への家督相続。これは申請どおり許可いたしましょう」


 伯爵の喉がわずかに上下する。深く沈む瞳に、安堵と不信が交錯した影が宿った。

 独房の隅で燻る松脂の匂いが、静かな呼吸のたびに鋭く鼻腔を刺す。


「そ、それは……ありがたき幸せにございます……」


 かすれ声が石壁に吸い込まれた。

 だが彼が胸を撫で下ろすより早く、わたしは言葉の刃を逆手に取り、さらに踏み込む。


「それでですね――」


 独房の空気が、一拍、止まった。


「あなたの蟄居先ですが……イストリアには戻れません」


 一瞬で凍り付く空気。


「なんですと?」


 伯爵の声音が震えを帯びる。


「あなたの蟄居先は――離宮です」


 低い石天井がその言葉を反響し、重みを増幅させて降り注ぐ。

 伯爵の顔から、血の気が引いた。その灰緑の瞳が、信じられないものを見るように、これ以上ないほど大きく見開かれる。彼は、言葉を失い、ただ、わたしの顔を凝視している。

 椅子が、がたり、と軋む。立ち上がりかけた膝が、がくり、と折れた。


「ええっ!? 今なんと申されまたか? そこはたしか……」


「はい。ロゼリーヌさんとリュシアンが暮らしております」


彼の肩が、大きく揺れた。まるで、見えない力に突き飛ばされたかのようだ。


「お、お待ち下さい。私はこれまであのお二人にどれだけの迷惑と苦痛をもたらしたことか。そんな私がどうして離宮などへ――」


 わたしは片手を軽く上げ、遮る。

 灯火の赤が掌を薄く透かし、血潮の色をにじませる。


「回りくどい言い方はよしますね。簡潔に言います。

 アドリアン・レズンブール伯爵――あなたにはリュシアンの《教育監督》、その全面的な責任者として離宮に着任していただきます」


「わ、わたくしが、リュシアン殿の教育を!?」


 声は半ば悲鳴だった。


「はい。あなたは屈指の名門であると同時に、政略の才にも秀でておられる。

 領地経営のみならず、国際交渉にも卓抜した手腕を示してこられました。

 そして何より、光も影も、清濁すらも呑み込みうる覚悟を備えていらっしゃる。

 ――ただ清らかなだけ、ただ優しいだけでは真の指導者にはなれません。

 ゆえにこそ、相応しいのはあなたなのです」


 伯爵は俯き、伸びた髪越しに石床へ落ちる涙をかみ殺すように唇を噛んだ。


「陛下、しかし……ロゼリーヌ殿がどう思われるか」


「ご安心ください。ロゼリーヌ殿ご自身が快くお受けくださっています。

 ――“同じ痛みを知る者こそ、真の師になり得る”。彼女はそう申して、あなたを強く望まれたのです。」


 伯爵の肩が震え、こぼれた涙が石に滲む。


「……ロゼリーヌ殿が、そこまで私を──。ああ……」


 わたしは静かに微笑む。


「それに――ギルクの幼い日の逸話をどうしても聞きたいと。

 “あの頃の秘密の学友”であったあなたにしか語れない思い出を、ぜひ、と。」


 嗚咽が漏れる。


「陛下も、ロゼリーヌ殿も──これほどまでに寛大なお心を……。かような私に、まことにもったいなきことにございます……」


「ロゼリーヌさんは 『赦すも赦さぬもございません』 と仰いました。――どうか、ご安心なさいませ」


 わたしは囁き、袖口のレースを整える。


 伯爵は深く、深く頭を垂れた。長い沈黙を裂くように、低い決意の声。


「……しかと承りました。この穢れ多き身なれど、誠心誠意、その大任、務め抜いてご覧にいれましょう。」


 我が胸の奥に小さな炎が灯るのを感じる。


「はい。よろしくお願いいたしますわね、伯爵」


 彼は顔を上げ、涙の跡を拭うと、痩せた頬に微笑を浮かべる。


「まったく、あなたという方は、いつも私の想像の範疇を軽々と飛び越えていかれる。

 もはや生きる望みなどございませんでしたが――これでは死ぬわけには参りませんな。あなたが切り開く治世、この目で見届けねばなりますまい」


 わたしは軽く肩をすくめ、冗談めかして応じる。


「ええ、あなたにはしっかりと目を光らせていただきたいのです。わたしに苦言を呈することができるのは、あなたぐらいでしょうから」


 伯爵の胸で、野戦太鼓のような鼓動が一つ打たれた――。彼は唇を引き結び、深々と礼を取る。

 独房の空気がわずかに揺らぎ、松脂の炎が跳ねた。


◇◇◇


 独房の鉄扉がきしみを上げ、ゆっくりと閉ざされる。

 油の切れた蝶番が鳴らした甲高い音は、まるで猛禽が壁を引き裂くように長く尾を引き、そのまま深い静寂へと溶け込んだ。


 背後で錠前が二度、三度と確かめられる音。

 わたしは振り返らず、そのまま歩を進めながら一言だけ残した。


「それでは、一週間後――離宮でお待ちしております」


 石畳に靴音が吸い込まれ、わたしの声だけが澄んで響く。

 すると厚い扉の向こうから、抑えきれぬ熱を帯びた返答が届いた。


「承知いたしました。女王陛下――いいえ、“メービス殿”」


 伯爵が選び取ったその呼び名に、口元がわずかに綻ぶ。

 鋼鉄の壁一枚を隔てても、彼の深い息遣いが伝わってきた。

 その温度は、吹きさらしの回廊よりもずっと穏やかで、人間の意志の鼓動そのものだった。


 看守が血色の悪い頬を揺らし、わたしの一歩後ろを控えめに付いてくる。

 長く湿った廊下を進むにつれ、壁際の燭台は一本、また一本と数を増し、炎は次第に高く、力強くなった。

 なめらかな大理石へ戻る境界を越えたとき、足元に広がる光の水脈が、まるで地下河川の源流へ合流するかのように煌めく。


 遠のいていく牢獄の気配――錆の臭気が薄れ、代わって薔薇油を混ぜた暖炉の残り香が鼻孔をくすぐった。

 王宮の空調孔を抜ける微風が、薄羽織の裾を柔らかく揺らし、春の粒子を抱いた金の埃が宙に舞う。


 階段の踊り場へ差し込む昼光は、午下がり特有の乳白色。

 それは石壁の水分を透かして虹色の膜を作り、まるで監獄棟そのものが透き通る水晶宮殿に変貌したかのよう。

 けれど今しがた交わした密約の重さが、この幻想的な光景を黙示録めいた緞帳に変える。


 重ね持った紙束の端が、繰り返す脈拍のたびに指先へ鈍痛を伝えた。

 羊皮紙の角は刃物より鋭く、最奥には《影の手》でさえ把握し得なかった闇を封じている。

 書類を抱くわたしの腕は震えない。その代わり心臓が高鳴り、胸郭の内側を打つ鼓動が、内なる太鼓の音となる。


 監獄棟と王宮本翼とを隔てる鉄扉の前、わたしは一度立ち止まった。

 

 衛兵が二人、槍を交差させ敬礼する。

 甲冑の合わせ目を走る白梅の紋章が、揺らぐ灯りに合わせて小さくきらめいた。


「彼を離宮へ護送する手配を。猶予は七日。

 侍医と薬師、それに書類を搬出する従者――必要な人員を揃えなさい」


 命じ終えると、視線を少しだけ鋭くする。


「ですが騎士団総司令の同意が――」


 衛兵の言葉を遮るように細指を立てた。


「ヴォルフには、わたくしから直接話します。あなた方の心配には及びません」


 隙のない声色に、彼らは頷き、靴底を鳴らして下がる。

 わたしは再び歩き出した。


――ヴォルフ。


 耳に残るあの人の低い声を胸の奥で反芻し、ひそかな笑みが唇をかすめる。


“文句があるなら自分から這い出して来やがれ”――。


 彼らしい不器用さ、その強情さが、誰よりもわたしを支える柱であることを、本人だけが知らない。


 石の螺旋階段を登ると、暖気が一気に満ちてきた。

 扉を押し開けた先は王宮中央の中庭。

 氷を割った泉が陽光を跳ね返し、薄紅の花びらが水面に一筋の渦を描く。

 白梅に遅れて、早咲きの薄桃が枝を灯し、蜜の甘い匂いが空を低く流れていた。


 書類束を抱えたまま立ち止まり、わたしは一度深呼吸する。

 肺の中に監獄の冷気と春の芳香が混じり合い、相反する二つの季節が交差した。

 大きく見上げた空は、淡いとき色の雲を敷き、まるで王国全土を包む天蓋のように広がっている。

 その向こうには、まだ見ぬ未来の蒼穹が隠れているのだろう。


紙束の端で切った指先に、泉からの風がひやりと触れた。

 血の珠がにじむ――けれど、この痛みこそが生の徴。

 伯爵の新たな使命、ロゼリーヌの赦し、リュシアンの未来。

 そのどれもが、わたしの掌の中で脈打つ小さな赤い雫のように脆く、そして愛おしい。


 第二回廊へ向かう途中、離宮から届いた定期報告の写しを受け取る。

 ロゼリーヌの筆跡は以前よりのびのびとして、余白にはリュシアンが描いた拙い線画が添えられていた。


 灰色の猫と見覚えのある白い大剣。


――あの子は、わたしが見上げる大人たちの背中を、どんな眼差しで追っているのだろう。


 紙面を閉じると、深い廊の向こうで衛士詰所の喇叭が短く鳴る。

 叙任式の準備合図。

 それは同時に、城内の微細な権力バランスを再編成する合図でもあった。

 紙束――伯爵の“最後の贈り物”に記された暗渠の地図が、早くも役目を帯びはじめる。


◇◇◇


 ふと脳裏に、未来の時代のミツルとしての幼い頃、父さまに手を引かれて歩いた景色が重なった。

 まだ雪解けの残る早春の庭、父さまわたしに小さな苗木を植えさせた。


「根が張ることは、未来を地中に預けることだ」


 あの掌の温かさが、今も胸骨の裏側に残っている。


 今日からまた一人の師が芽を守る。

 伯爵は、かつて自らが壊そうとした王家の血を、今度は導き未来へと繋ぐ。

 歴史の皮肉は、ときに誰よりも詩的だ。


 執務塔へ続く高い扉の前で足を止める。

 金装飾の把手は陽を受けて燃えるよう。

 わたしは羊皮紙の束を胸に当て、目を閉じる。


――リュシアン。


 見えない彼の幼い笑顔が瞼の裏に浮かぶ。

 あの子が未来の玉座を選ぼうと、あるいは他の道を歩もうと、その歩幅を守り抜くこと。

 それこそが、伯爵に課した《新しい宿題》の本質だ。


 深い息をひとつ。

 扉の向こうには、執務と政争と計算が渦巻く日常が待つ。

 だが今は、石牢の冷たさより、白梅の匂いが胸を満たしている。

 わたしは扉を押し開き、春の光を背に、再び玉座へ向かう。


 塔の上層――往年の天文台に続く回廊は、いつもより澄んだ空気で満ちていた。

 春の光がステンドグラスに溶け、床石に水彩のようなはんを落とす。

 すぐ脇の胸壁では、庭師が苗木を抱えたまま帽子を取り、遠くの鐘楼に向かって黙礼した。

 (いくさ)の気配など、ここには欠片もない。ただ、冬の凍結から解かれた王都が、まだ使い慣れない呼吸を整えている――そんな静かな息遣いだけが感じられる。


 頭上で羽音が弾け、風耳鳥が尖塔の庇へ降り立った。

 ももに括られた銀の筒を外し、封蝋に刻まれた《騎士団総司令ヴォルフ・レッテンビヒラー》の印章を確かめる。

 文面は短く、端整さと不器用さが同居する筆致だった。


『新型兵器――炸裂槍ブラスト・ランスのテスト結果は良好だ。

 タンデム戦法についても、専用の小型魔導兵装の開発の目処がついた。

 来週には詳細資料が揃う。

 その頃には、伯爵も“檻”を出ているだろう。

 ……お前がオーバーワークで倒れる前に、な。』


 読み終えた紙を胸で折り、微笑がこぼれる。

 “戦支度”ではなく“将来を見据えた布石”。平時ゆえの点検でしかないし、そもそもこんなことくらいでわざわざ風耳鳥を飛ばすなんて。


「まったく、心配性なんだから」


 けれど彼らしい――過不足無い盾を整え、こちらへ顔を向けぬまま気遣う文面。


◇◇◇


 玉座の間。

 高窓から射す午後の光が黒漆の床を走り、王椅子の背紋を淡く縁取る。

 父王が選んだ重厚な椅子は、今日も静かにそこへ鎮座している。

 わたしは背凭れへ手を置き、深く息を吸った。

 新しい季節の匂い――樹皮の甘みと、遠い街路樹の若葉の青。

 石と木の温度差が、王都の再生をゆっくり測る温度計のようだ。


 かたわらの卓には、伯爵から託された分厚い紙束。

 そして、もうひとつ。離宮から届いた小さな封筒が載っている。


 宛名は流麗な筆記体で、《To Her Majesty, Mavis》。

 十歳のリュシアンの手だ――年齢を疑うほど整った文字運び。


『メービスさまへ

 先日お貸しいただいた地誌はたいへん刺激的でした。

 水運を軸に置いた地域経済の発展史、とくに“運河と税関の両輪が

 消費都市を育てる”という一節に強い示唆を得ました。

 次回お会いするとき、伯爵閣下と合わせて考察を聞いていただければ幸いです。

 追伸 庭の白梅が満開です。離宮にもぜひお運びを。』


 わたしは思わず唇をほころばせた。

 子どもの愛らしさより、次代の王位継承者としての確かな――そして少し生意気な――知性が先に匂う。

 伯爵が“師”として立つ舞台は、どうやら整い過ぎているくらいだ。


 伯爵の羊皮紙束を開く。最初の頁に、彼の細い筆が序文を残していた。


『陛下。

 光を掲げるには、影の位置と濃さを測量する者が要る。

 この毒にもなる文書が、貴方にとっての測定者となれば本望。

 後は、光源たる貴方が強度と角度をお決めあそばせ。』


 測定者――なんと彼らしい控えめさ。

 けれど、その計測結果は余りあるほど濃密だ。

 頁を繰るたび、各伯領の税収推移と“裏負債”が並び、貴族同士の姻戚線が精密な網を張る。

 わたしはそっと閉じ、玉座の脇棚へ置いた。


 未来の統治は、この二つ――

 聡い十歳の手紙と、闇を測る計測図――から始まるのだと、胸の奥で静かに宣言を下す。


 扉の外、侍従長コルデオが控えていた。

 わたしは命じる。


「離宮への通行手配を。七日後。

 それまでに、伯爵の部屋を整え、梅の瓶花を絶やさないように」


「ははっ」


 返事とともに、廊下に薫る花油の香が揺れる。

 玉座の広間へ再び光が滿ち、黒漆の床が春空を映した。

 わたしはその真ん中を歩き出す――


 王国の夜はとうに凪ぎ、これからは“学び”と“測量”と“守り”の季節。


 背後で閉まる扉の音は静かだったが、

 ようと深い静寂の底に、新芽が突き刺さる音がした。

「檻の中の師、玉座の生徒」は、赦しと再出発という主題を中心に、メービス女王とアドリアン・レズンブール伯爵のあいだで繰り広げられる繊細な人間ドラマが重層的に編み上げられています。本話の核は、“贖罪を超えた再任命”という物語的構造と、それにともなう感情の揺らぎと心理的逆転にあります。


【再会】――償いの姿に宿る誇り

 メービスが独房を訪ねる場面から物語は静かに幕を開けます。


 ここで強調されるのは、伯爵の変わり果てた姿(痩せた頬、伸びた髪、囚人服)ではなく、変わらぬ礼節と知性です。衣服は褪せても、所作は貴族としての矜持を失っておらず、ここに彼の“精神の不屈”が滲みます。


 一方のメービスも、女王としてではなく“旧き友”として訪れていることが行間から読み取れます。二人の交わす微笑、そしてヴォルフの名にまつわる軽口と共笑い――それは、政治を離れた「人と人の記憶」の回復です。


 この“人間としての再会”が、以降の赦しの説得力を支える「前提」となっています。



【宿題の採点】――メービスの未熟と成長

 伯爵が語る「六十五点」という採点は、単なる評価ではなく、メービスに対する期待と育成の視点を帯びています。


ここでの人間ドラマは三重構造です

 メービスは王としての自負を持ちつつも、自らを子ども扱いする声音にほんの少しの照れと甘えを見せる。伯爵はそんな彼女の“成長”と“覚悟”を冷静に、しかし温かく肯定する。


 二人の会話には、“先王と重なる姿”と“先王を超える兆し”という世代交代の重さが編み込まれている。


 この場面の妙味は、「教師が生徒に宿題を返す」という構図が、女王と貴族、加害者と被害者、父のような存在と娘のような後継者という関係性のレイヤーで多重化されている点にあります。



【書類の束】――裏の真実と“生きる贈与”

 紙束――すなわち「政治の影の記録」を伯爵が手渡す場面は、剣ではなく知と記録による贖罪です。彼は死をもって償おうとしていますが、メービスはその意志を受け取るどころか、それを未来のために転換する。


 ここに、死を望む者へ「役割」を与えることで生の価値を返すという、人間ドラマの根源的な逆転が生まれています。これは単なる赦しではなく、「死に場所」ではなく「生きる居場所」を与える構造なのです。



【新たな任命】――贖罪から使命へ

 伯爵が新たに任じられるのは、単なる蟄居ではなく、次代の王位候補・リュシアンの教育係。これは、「過去に破壊しかけたものを、未来に育む役を担わせる」という痛烈な皮肉を孕んだ希望であり、同時に“赦す”というより“未来を託す”という信頼の証です。


 そして何より、ロゼリーヌが「同じ痛みを知る者(旧来のシステムに翻弄された人生)」として彼を望んだ――という言葉が、伯爵の“涙を許された瞬間”を生みます。これは、加害者と被害者が互いに歩み寄った、物語全体でも稀有な共感の成就と言えるでしょう。



【春と玉座】――静かなる交替と連鎖

 ラストの描写では、地下牢の冷たさから陽光と白梅の香りへと移る中で、メービスが「政治の芯を受け取った者」として明確に描かれます。


 ヴォルフの短文書簡は、彼の無言の支援と共に、メービスの労りと連帯の象徴。

 リュシアンの手紙は、伯爵の役割がすでに始まりつつあることを象徴し、“過去”が“未来”を育てる準備が整ったことを物語っています。


 玉座の静寂と羊皮紙――この対比は、「重さ」と「しなやかさ」を併せ持つ政治の現場を、詩的かつ力強く提示しています。



この話に流れる四つの感情的力学

後悔と赦し

 伯爵は罪を背負い、死を選ぼうとしていた。しかしメービスはそれを赦し、“生かして役割を与える”という、より苛烈な愛を示した。


不信と信頼

 策士と女王という関係を越えた、過去を共有する人間同士の信頼の再構築。


師弟関係の反転

 かつて教える側だった伯爵が、新たな生徒リュシアンを託され、再び「学び舎」に戻る皮肉と祝福。


罪と役割の変換

 政治的・道徳的な贖罪ではなく、「未来を育てる」という役割への昇華。

 これは、罪人が“政治の再構成因子”に転化される構造的な赦し。


 この話は、赦しとは、忘れることではなく「未来へ責任を引き継ぐこと」であるという哲学的命題を、対話と構図で明確に描き切っています。


 玉座の間へ歩むメービスの姿。「ひとりの少女が国家を背負う王へと成熟した」過程。そしてそこに、誰よりも厳しく見守る旧き師の存在が、影となり支えとなる――それが、この回の人間ドラマです。



「赦し vs 断罪」——メービスが“お決まりの隠居ルート”を採らなかった理由

〈普通の物語構造〉との齟齬

 王家転覆に荷担した伯爵は“不可逆の大罪人”というポジションに据えるのが、勧善懲悪型のストーリーでは王道です。


 「罪を犯した/改心した/でも功績は帳消しにならない → 閉門・流刑・終身刑で退場」──読者の“カタルシスを失わせない処分”として合理的。


しかしメービス(=柚羽 美鶴)は王道ヒロインではなく「再生の当事者」

自分自身が“罪人”という意識

 前世で〈解呪の過程で弟の体を奪う形で生き直した〉という経緯により、「罪からの再起」は自分の存立と同義。


 彼女にとって〈赦す/赦される〉は抽象倫理ではなく“生存の根拠”。


黒髪への偏見を“構造ごと更新”したい

 王都に巣 食う差別・因習は「罰を与えて切り捨て」方式では決して消えないと理解している。

 敵を味方へ“パッチ”しながら価値観そのものを上書きする──これが彼女の革命手法。


実利と人材運用のリアリスト

 レズンブール伯爵は「国際交渉・財務・情報戦」に通じる希少戦力。

 ボコタ防衛で示した統率力は、王国再建期にこそ必要。

 死刑も幽閉も「貴重な才能をドブに捨てる」行為と彼女は考える。


テーマレベル──「罰よりリブート」

 物語全体のキーワードは精霊子=魂のバックアップ/リストア。

 「人もまたアップデート可能だ」という哲学的芯が主人公の行動原理になる。


ドラマ効果

読者の“予測”を外すことで伯爵というキャラを退場させず、

→ 新たに「贖罪と教育」というドラマ軸を追加。


ヒロインが処罰せず活用する姿勢は、

→ 彼女の“非‐王道”ヒューマニズムを際立たせ、

次世代リュシアンとの師弟‐家族ネットワークを拡張。


結論——“この私がそうだったように”

 メービスは 「人は間違える。しかし“帰る器”さえ用意すれば立ち直れる」 の実例。だからこそ、伯爵にも隠居ではなく“新しい器=リュシアンの師”を与える。


 この選択は政治的リスクを孕むが、彼女にとって 贖罪とは死より難しい仕事 であり、同時に 王国を再設計するうえで最短効率の手段 でもある。


 伯爵の罪を生かして国の未来を編む――それが“黒髪の女王”メービス流のリセット&リビルド。

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