雪解けの円卓、仮面の微笑~帰れない場所、築くべき未来
石畳の隙間を縫うように、温んだ雪解け水がさらさらと流れていく。
まだ日の出前――けれど、バルド街角のパン窯だけは早起きだ。
小太りの職人ルシーが、新麦に白梅の花粉を合わせた生地を大きな鏝でひっくり返すと、甘く、そして力強い香りが、むわっと鼻腔を叩いた。その香りは、もはや冬の間の、わずかな保存食を分け合うための硬い黒パンのそれではない。希望と、そして豊かさの予感を宿した、温かな匂いだった。
「今年の“春告げパン”は、膨らみが違いますね」
粉まみれになって働く弟子が、汗を拭いながら嬉しそうに呟く。
ルシーは、焼き上がったパンの、こんがりとした美しい焼き色を満足げに眺め、粉のついた前掛けを誇らしげにはたいた。
「当たり前だ。女王陛下のおかげで、港の倉庫が開いたんだ。極上の小麦も、砂糖も、蜜も、今じゃあ、俺たちみてえな場末のパン屋でも、真っ当な値段で手に入る。腕が鳴らねえほうがおかしいってもんだ」
「本当ですよね、親方。織物通りの連中も、見たこともないような鮮やかな色の染料が入ってきたって大喜びでしたよ。市場の活気も、まるで祭りの前みたいだ」
「ああ。――黒髪の女王様がご無事で戻り、この国を正しく導いてくださる。街が、国が、喜ばんわけがねえ」
小さな窯場を満たす香ばしい匂いは、冬の長い息苦しさを押し出すように、確かな体温を宿して、夜明け前の小路へと流れ出していく。
その香りに誘われるように、街はゆっくりと、しかし確実に目覚め始めていた。
織物問屋の主人が、新しい反物を誇らしげに店先に並べ、革製品の店先には、旅の商人たちが求めるであろう真新しい鞍が陽光を待っている。鍛冶屋の通りからは、農具を打ち直す小気味よい槌音が、新しい季節の労働歌のように響き渡っていた。
広場では、つい先日まで「挽歌」を悲壮に奏でていた吟遊詩人が、今は、軽やかなリュートの音色に乗せて、新しい歌を高らかに歌い上げている。それは、若き女王の勇気と、彼女を支えた小さな王子の気高さを讃える「祝福」。
その明るい旋律に、行き交う人々の足取りも、心なしか軽くなっているようだった。子供たちの笑い声が、まるで春の光の粒のように、街のあちこちで弾けている。
王都リーディスにも、ようやく確かな春の息吹が訪れようとしていた。城の方角で朝を告げる鐘が、一度だけ、澄んだ音を響かせた。
◇◇◇
【女王の内省】
その日の午後、わたしは宮殿の奥にある、父が愛したという小広間のテラスにいた。春の儀礼――それは、王が精霊に、この国の豊穣と民の安寧を祈る、古くから伝わるささやかな儀式。
純白の、けれど簡素なドレスを纏ったわたしの前には、ヴァロワ侯をはじめとする重臣たちが、静かに整列している。彼らの表情には、新しい女王の下で王国が再生へと向かっていることへの、確かな安堵の色が満ちていた。
わたしの短い黒髪を、春の柔らかな風が優しく撫でる。その感触が心地よくて、わたしはそっと目を閉じる。この穏やかな時間が、いつまでも続けばいいのに、と、心の底から願わずにはいられなかった。
ふと、眼下に広がる王都に目をやる。
港湾の修復、碁盤目状に区画整理が始まった新しい街区、そして、まだ始まったばかりの上下水道の敷設。
その全ては、わたしが知る「未来」の王都の姿を落とし込んだだけ。それをはるかな昔のこの時代に、再現しようとしているのだ。
その光景を見つめていると、胸の奥に、切ないほどの、そしてどうしようもなく愛おしい感情が込み上げてくる。
――……もう、帰れないのね。
あの、わたしのいた世界へは。
この旅は、魂が過去へと渡ったあの瞬間に、もう後戻りのできない、不可逆の旅となった。この世界線は、わたしという存在が介入したことで、本来の歴史とは決定的に分岐してしまったのだから。
決定的だったのは、わたしの公開演説だ。わたしがいた時代にも残る黒髪への偏見と巫女の因習は完全に覆され、もはや過去のものとなった。つまり、歴史は確実に改変されてしまったのだ。
わたしが今、この地に築こうとしている未来は、わたしが元いた未来には、決して繋がらない。忌むべき黒髪の巫女という定義が無くなってしまった以上、わたしの父さまユベルと母さまメイレアは、巡り合うこともなく終わるはずだ。
そうなれば、わたし――ミツル・グロンダイルなる存在は生まれない。
その真実を思うたび、胸の奥が、きゅう、と寂しく軋む。
けれど、そこに後悔はない。
わたしは、この分岐した世界の女王として、メービスとして、その生涯を、この国に、この民に捧げると、そう決めたのだから。わたしが築こうとしているこの街こそが、わたしの、唯一つの故郷となるのだ。
その覚悟が、わたしの背筋を、女王として、そして一人の人間として、真っ直ぐに支えてくれていた。
その、静かな決意を胸に刻んだ、まさにその時だった。一人の伝令の、慌ただしい足音が、わたしの思索を破った。
「申し上げます、女王陛下! アルバート公国よりの使節団が、ただいま王都の北門に到着いたしました!」
その声に、参列していた重臣たちの間に、さざ波のような動揺が走る。安堵に緩んでいた彼らの顔が、再び緊張の色に染まった。
わたしは、静かに目を開けると、伝令に、そして居並ぶ重臣たちに、穏やかに、しかし揺るぎない声で告げた。
「……そうですか。ご苦労様でした。では、皆の者、準備を。――我がリーディス王国は、アストリッド侯妃殿を、国賓として、最大限の敬意をもってお迎えいたします」
◇◇◇
【ヴォルフ視点のインタリュード】
女王の決定が下された後、俺は一人、中庭に面した回廊の石段に腰を下ろしていた。
春の陽光が、雪の解け残った石畳に、まだらな模様を描いている。その光景は、今のこの国の状況そのもののようだった。
長く、血と涙に凍てついた冬は終わりを告げたが、まだ、日陰に残る残雪のように、過去の怨嗟や陰謀の氷が、全て溶け去ったわけではない。
ひやりとした石の感触が鎧越しに伝わってくる。
手の内にあるのは、先日メービスがしたためた、アルバート公国への国書の写しだ。その、一見すると優雅で、しかし剣先のように鋭い言葉の裏に隠された、彼女の深い覚悟と、そして、か細い祈りのようなものを、俺は感じ取っていた。
外交で、剣を抜かずに済む。
それは、騎士として、そして一人の人間として、本来であれば喜ばしいことのはずだ。だが、あの女狐のようなアストリッド侯妃が、このまま素直に引き下がるとは到底思えない。必ずや、何らかの罠を、その仮面の微笑みの下に隠しているに違いない。
そういう戦いは、どうにも好かない。敵意は、刃の色と重さで示せばいい。言葉と、腹の探り合いで繰り広げられる戦は、俺の性分には合わなかった。
その時、俺に何ができる?
彼女の隣で、ただ黙って、敵の放つ見えない毒の矢を、その身に受ける彼女を見ていることしかできないのか。
俺は、腰に佩いたガイザルグレイルの柄を、無意識のうちに強く握りしめていた。
この白銀の聖剣は、あらゆる物体を断ち切る力を持つ。だが、笑顔の裏に隠された悪意や、礼節の衣をまとった侮蔑を、この剣で斬り裂くことはできはしない。
それが、もどかしくてならなかった。
不意に、メービスの、あの演説前の、不安げな、しかし強い光を宿した瞳が脳裏をよぎる。
「あなたには、その瞬間を、わたしの隣で見届けてほしい。あなたがいてくれるだけで、わたしは、折れずにいられるから……」
あの言葉が、今も俺の胸を熱くする。そうだ、彼女は、俺の力を、その存在を、信じてくれている。ならば、俺の成すべきことは、ただ一つだ。
彼女が、女王として、その繊細で、しかし鋼のように強靭な精神を、存分に振るうことができるように。俺は、彼女の盾となる。
宮廷の広間が新たな戦場ならば、俺は、そこに立つ、ただ一つの、決して砕けぬ白銀の盾となればいい。アストリッド侯妃が放つ、見えない刃の全てを、この身で受け止め、彼女には指一本触れさせない。
俺は、冷たい石のベンチに腰を下ろし、再び、国書の写しに目を落とした。そこに記された、彼女の、あまりにも気高い魂の軌跡を、確かめるかのように。その文字の一つひとつが、まるで彼女自身の声となって、俺の心に語りかけてくるようだった。
――そうだ、俺は彼女の隣に立つ、ただそれだけの、一本の剣であればいい。
彼女の刃が言葉であるならば、俺は、その言葉を守るための沈黙の鞘となろう。
その決意を胸に、俺はゆっくりと立ち上がり、アストリッド侯妃を出迎えるための、迎賓ホールへと、確かな足取りで向かった。黒曜石は沈黙し、決闘の時刻だけを映していた。
◇◇◇
【外交という名の戦場 車中シーン】
王都リーディスの外壁を抜け、石畳の道を進むアルバート公国の使節団の馬車列は、しかし、その内側に、城下の春の陽気とはおよそ無縁の、凍てつくような空気を孕んでいた。
先頭を行く一際豪奢な揺り籠馬車の内側は、黒檀の木彫が施され、床には北方の獣のものと思しき分厚い毛皮が敷き詰められている。けれど、その贅を尽くした室内は、窓のカーテンが固く閉ざされているせいか、昼なお暗く、まるで動く霊廟のようだった。
その中央の座席に、アルバート公国摂政、アストリッド侯妃は、背筋を伸ばし、微動だにせず腰掛けていた。
彼女は、カーテンのほんのわずかな隙間から、外の景色を眺めている。活気を取り戻し始めた街並み、修復の槌音、そして、時折聞こえてくる民衆の明るい笑い声。その全てが、彼女の磨き上げられた黒曜石のような瞳には、ただの、取るに足らない情報として映っているに過ぎない。
やがて、彼女はゆっくりと視線を室内に戻し、細身の副官へと、囁くように告げた。その声は、静かだが、冬の薄氷を思わせる、冷たい響きを帯びていた。
「……泥噛みは忘れぬよ。だが、仇花ほど、愛でがいがあるものだ」
副官は、主君のその言葉の裏にある、深い侮蔑と、そして執念のようなものを感じ取り、居住まいを正した。
「はっ。しかし、侯妃殿どうかご用心を。かの女王メービス……報告によればその魔術は、我々の想像を遥かに超えるものやもしれません。
先の戦では“一瞬で雪を溶かし、蒸気を凍らし、地を裂いた”とか。我が国の軍勢は、その光を見ただけで戦意を喪失したと……」
アストリッドは、その報告を聞いても、表情一つ変えない。ただ、手にしていた黒い扇子を、ぱちり、と軽やかに開いただけだった。
「ふふ、面白いではないか。力ある者は力でねじ伏せるよりも、その力を利用し、手懐ける方がよほど愉しめるというもの」
扇子の骨越しに、彼女の唇に、酷薄なまでの微笑が滲む。
「ただの美しい花であるならば、花弁は摘むより、温室に移した方が長生きさせられる。それだけのこと。あの黒髪の小娘も、リーディスという国も、いずれは我がアルバートの、美しき庭園を彩る、一つの見事な飾りとなるかもしれぬ。
可愛らしく咲く花か、はたまた叡智を秘めた棘ある花か。まずはその本性とやらを、見極めようではないか」
その言葉は、彼女の野心の、ほんの序章に過ぎなかった。
彼女は、この度の不可侵条約の締結を、敗北ではなく、次なる戦略への布石としか考えていない。
武力で制圧することが叶わぬのならば、外交と経済で、その内側からゆっくりと、しかし確実に、この国を支配する。そのための、壮大な計画が、既に彼女の頭の中では完成しているのだ。
黒髪の女王が、民衆の前で自らの正体を晒した、愚かとしか思えぬ「賭け」。それは、アストリッドにとってむしろ好都合でしかなかった。民衆の支持を得たところで、国の運営はそれほど甘いものではない。
これから彼女は、リーディス王国の貴族たちを、商人たちを、そして北海三国の欲望を巧みに操り、若き女王を、じわじわと、しかし確実に、孤立させていくつもりなのだ。
その全てを、この仮面の微笑みの下に隠して。
やがて、馬車は速度を落とし、王宮の正門前へと到着する。
アストリッドは、ゆっくりと立ち上がると、副官に向かって、最後の指示を出した。
「よいか。決してこちらの底を見せるな。我らはただ平和を愛する、友好的な隣人でなければならぬ。あの小娘が、どのような手で来るか……存分に、楽しませてもらうとしよう」
鈍い車輪音が、密やかな唇の戦端を告げていた。
扉が開かれ、春の陽光が差し込む。アストリッドは、完璧な、そして慈愛に満ちた、摂政侯妃の仮面をその顔に貼り付け、リーディスの大地へと、優雅にその一歩を踏み出した。
◇◇◇
【宮殿迎賓ホール】
アルバート公国の使節団を迎え入れる王宮の迎賓ホールは、その日のために、かつての壮麗さを取り戻していた。磨き上げられた大理石の床は、高い天窓から差し込む春の陽光を映し、まるで水鏡のように、広間の隅々まで光を届かせている。
壁には、リーディス王国建国の歴史を描いた、色鮮やかな巨大なタペストリーが掲げられ、天井からは、無数の魔晶石(使用済みの魔石)を散りばめたシャンデリアが、沈黙のまま、その輝きを放っていた。
けれど、その目も眩むような豪奢さとは裏腹に、ホールを満たす空気は、氷のように冷たく、そして張り詰めていた。微かに漂う、高価な花々と、燭台で燃える蜜蝋の甘い香りだけが、かろうじて、この場が歓迎の席であることを示しているに過ぎない。
わたしは、玉座へと続く階段の数段下に立ち、静かに、その客人の到着を待っていた。
隣には、純白の礼装に身を包んだヴォルフが、その泰然とした佇まいで控えている。彼の存在が、わたしの、昂りそうになる心を、静かな重石のように鎮めてくれていた。
ホールに整列した重臣たちの顔にも、緊張の色は隠せない。
ラズロー公は、この宴のためにどれほどの国費が投じられたか、その指先で何度も計算しているかのように、落ち着きなく指を動かしている。
ジュルト老侯やイェーガー伯は、苦々しげな表情で、これから現れるであろう「敵」を、値踏みするように待ち構えていた。
ヴァロワ侯だけが、静かな、そして憂いを帯びた瞳で、わたしを見守ってくれている。
やがて、ホールの巨大な扉の前で、一人の儀典官が、高らかに、その名を告げた。
「――アルバート公国摂政、アストリッド・フォン・エルクハーフェン侯妃殿下、ならびに、使節団御一同、ご到着!」
その声と共に、重々しい扉が、ゆっくりと内側へと開かれる。
そこに現れたのは、漆黒の、しかし優雅なデザインのドレスにその身を包んだ、一人の女性。アルバート公国の摂政、アストリッド侯妃だった。
年の頃は、四十代半ばといったところだろうか。かつての美貌の面影は、今は深い心労と、そして全てを見透かすかのような怜悧な光を宿す目元に凝縮されている。その瞳は、まるで夜の硝子のように、何の感情も映し出してはいない。ただ、静かに、そして冷徹に、この場の全てを観察している。
彼女は、一歩、また一歩と、音もなく、しかし確かな足取りで、わたしの方へと進んでくる。その姿は、まるで夜の闇そのものが、優雅な貴婦人の姿を借りて歩いているかのようだった。
「ようこそお越しくださいました、アストリッド侯妃殿。長旅、さぞお疲れのことと存じます」
わたしは、女王としての威厳を保ちながら、穏やかな笑みを浮かべて、彼女を迎えた。
「これは、これは、メービス女王陛下。この度は、このような盛大な歓迎を賜り、誠に恐縮に存じます。
そして、この度のリーディス王国の速やかなる安定、心よりお慶び申し上げます。これもひとえに、女王陛下の、類まれなるご手腕の賜物でございましょう」
アストリッド侯妃は、完璧なカーテシーと共に、わたしに敬意を表した。その言葉は、どこまでも丁寧で、そして甘美な響きを持っていたが、その瞳の奥には、鋭い刃のような光が隠されているのを、わたしは見逃さなかった。
こうして、わたしと彼女の、静かで、しかし熾烈な戦いの火蓋は、切って落とされたのだ。
◇◇◇
【歓迎祝宴 “黒いワイン”】
その夜、女王主催の宮廷晩餐会の席は、表向き和やかな雰囲気に包まれていた。美しいハープの音色がホールに流れ、テーブルには、山海の珍味が、まるで芸術品のように並べられている。
けれど、その華やかな雰囲気とは裏腹に、わたしとアストリッド侯妃の間には、見えない壁が存在していた。わたしたちは、互いに当たり障りのない会話を交わしながらも、その言葉の裏で、互いの真意を探り合っていた。
やがて、一人の侍従が、銀盆に載せた二つの水晶のグラスを、わたしたちの前に、恭しく差し出した。
グラスに注がれていたのは、リーディス王家伝統の、極甘口の黒葡萄酒。それは、まるで溶かした黒曜石のように、深い、深い色をしていた。その液体は、光をほとんど反射せず、ただ、静かに、そして不気味に、底なしの闇を湛えている。
アストリッド侯妃は、そのグラスを優雅に手に取ると、光にかざし、そして、わたしに向かって、薄い微笑みを浮かべた。
「まるで溶けた黒曜石。王都を象徴するお味ですわね、女王陛下」
その言葉には、この国の闇を知っているとでも言いたげな、鋭い棘が隠されている。この黒い葡萄酒を、先の宰相がもたらした混乱と、そして、わたしという存在の異質さに、彼女は重ねているのだ。
わたしの内心を見透かすような、その冷たい挑発。わたしは、しかし、少しも動じることなく、静かな微笑でそれを受け流した。
「ええ。けれど、その底に映る月はいつだって白いもの。――それが、真実というものではないでしょうか?」
わたしのその言葉に、アストリッド侯妃の瞳が、ほんの一瞬、鋭く光った。
彼女の、完璧な仮面の下にある、素顔が一瞬だけ、垣間見えたような気がした。彼女は、わたしが、ただの世間知らずの小娘ではないことを、この一瞬で、悟ったのかもしれない。
彼女は、すぐにいつもの、底の知れない微笑をその顔に戻すと、グラスを高く掲げた。
「女王陛下の、その深きご叡慮に、そして、両国の輝かしき未来に、乾杯」
「ええ、乾杯」
わたしたちは、グラスを軽く打ち合わせた。カチン、という硬質な音が、張り詰めた空気の中に、小さく、そして鋭く響き渡った。それは、これから始まる、長い、長い戦いの、始まりを告げる合図のようだった。
◇◇◇
【会議場にて】
歓迎の宴という、華やかな、しかし仮面に満ちた前哨戦が終わり、わたしとアストリッド侯妃、そして両国の随行団は、王宮の中枢に位置する大会議場へと、その場所を移していた。
そこは、祝宴の開かれた迎賓ホールとは、全く異なる空気が支配する空間だった。
高い、高い、アーチ状の天井には、リーディス王国の歴代の王たちの肖像画が、まるで天から我々を見下ろすかのように、厳粛な眼差しで並んでいる。壁には、分厚いタペストリーが掛けられ、部屋の全ての音を吸い込み、重々しい静寂を生み出していた。
部屋の中央には、磨き上げられた巨大な円卓が置かれ、その鏡面の闇が、高い窓から差し込む、午後の、どこか気だるい光を鈍く反射している。その円卓を囲むように、背もたれの高い、まるで玉座のようにも見える椅子が、一分の隙もなく、完璧な間隔で並べられていた。
わたしは、父がかつて座っていたであろう、主賓席へと静かに腰を下ろす。父の指輪を、無意識に、指先でそっと撫でた。その冷たい感触が、わたしの心を落ち着かせてくれる。
わたしの隣には、変わらずヴォルフが、そしてその後方には、ヴァロワ侯とラズロー公が、それぞれの席に着いた。
対面に座すのは、アストリッド侯妃と、彼女の腹心である副官クラウス。その表情は、先程の宴の席での柔らかな微笑みとは打って変わり、今はまるで能面のように、一切の感情を消し去っている。
やがて、書記官長が立ち上がり、先日締結されたばかりの、両国間の不可侵条約について、三つの要点のみを抑揚なく告げた。その乾いた声だけが、張り詰めた静寂の中に響き渡る。
わたしは、その声に耳を傾けながら、心の内で、別のことを考えていた。この条約は、しょせんは、時間稼ぎのための、薄い、薄い氷の膜に過ぎない。
その下では、アルバート公国と、そして北海三国の、深く、そして冷たい野心の奔流が、今もなお、激しく渦巻いているのだ。
書記官長が深く一礼をして席に戻ると、わたしは、静かに口を開いた。
「条約の締結、誠にご同慶の至りに存じます、アストリッド侯妃殿。これは、両国の平和への、大きな、大きな一歩となることでしょう」
「ええ、女王陛下のおっしゃる通りですわ。この歴史的な条約が、末永く、両国の友好の礎となりますことを、わたくしも心より願っております」
彼女は、完璧な外交辞令で、わたしの言葉に応じた。けれど、その微笑みの奥で、彼女の黒曜石の瞳が、わたしの真意を探るように、鋭く光るのを、わたしは見逃さなかった。
「そして、この条約をより確かなものとするために」と、わたしは続ける。
「わたくしは、ここに、北海自由協約に名を連ねる三国――ユーラン、ケラン、サーブルを交えた、『北海三国共同商業会議』の開催を、正式に提案いたします。
真の平和は、軍事的な均衡だけでは得られません。互いの繁栄を分かち合う、経済的な強い結びつきこそが、何よりも確かな、平和への礎となると、わたくしは信じております」
わたしのその言葉に、アストリッド侯妃は、一瞬だけ、その完璧な仮面の下にある、素顔を覗かせた。その瞳に浮かんだのは、驚きと、そして、わたしの意図を測りかねるかのような、深い、深い探究の色だった。
彼女は、すぐにいつもの、底の知れない微笑をその顔に戻すと、優雅に、しかし、どこか探るような響きをその声に含ませて、わたしに問いかけた。
「なんと高潔な、そして先見の明に満ちたご提案でしょう、女王陛下。わたくしも、そのご提案には、大いに賛同いたしますわ。ですが……」
彼女はそこで、わざとらしく言葉を切った。その沈黙が、彼女の次の言葉の重さを、そして、その言葉に隠された毒の鋭さを、予感させる。
「一つだけ、懸念がございます。かの、予測のつかない北海三国の者たちが、ただ、商業的な利益のためだけに、素直にこの会議の席に着くとお思いで?
彼らの欲望は……わたくしたちが思うよりも、ずっと、深く、そして強欲なもの。女王陛下、あなた様のそのあまりにも清廉な理想だけで、あの者たちを御することができると、本当にお考えで?」
その言葉は、わたしを試すための、巧妙な罠だった。ここでわたしが少しでも迷いや、弱さを見せれば、彼女は、そこを容赦なく突いてくるだろう。
わたしの背後で、ラズロー公が、息を呑むのが分かった。ヴォルフの纏う空気が、さらに一段、冷たく張り詰めたのも。
わたしは、しかし、少しも動じることなく、静かな、そして確かな自信を込めた微笑で、彼女に応えた。
「侯妃殿のご懸念は、ごもっともですわ。彼らの欲望が、一筋縄ではいかぬものであることは、わたくしも重々承知しております。
ですが、どのような強欲な者も、自らの破滅は望まないもの。そして、どのような狡猾な者も、自らが不利な交渉の席には、決して着こうとはしないものではなくて?」
「……と、申されますと?」
「わたくしは、彼らが何を望んでいるか、そして、彼らが何を恐れているか、その全てを、すでに把握しておりますの。
例えば、ユーラン商館都市邦が、新たな交易路の確保と、魔石取引の独占的地位を望んでいることも。ケラン氏族が、喉から手が出るほど、新たな放牧地を欲していることも。そして、サーブル峡谷公国が、古い和議を盾に、法外な『安全保障協力金』を要求しようとしていることも」
わたしのその言葉に、アストリッド侯妃の瞳が、今度こそ、はっきりと、驚愕の色に見開かれた。彼女の隣に座す副官クラウスの顔もまた、蒼白になっている。
わたしは、彼女たちのその動揺を、楽しむかのように、言葉を続けた。
「彼らが、その欲望を満たすために、どのような駆け引きを仕掛けてくるか、それも、全てお見通しですわ。
ですから、わたくしは、彼らが、この会議の席に着かざるを得ないような、そして、わたしの提案を受け入れざるを得ないような、そんな、魅力的な『お土産』を、すでに用意しておりますのよ」
「……お土産、ですって?」
「ええ。このリーディス王国が、どれほどの豊かさを、そしてどれほどの『力』を、その手の中に握っているか。それを彼らに、そしてあなたにも、改めてご理解いただくための、ささやかな、ね」
わたしのその言葉は、どこまでも優雅で、そしてどこまでも、冷徹な響きを持っていた。
アストリッド侯妃は、しばらくの間、言葉もなく、わたしをじっと見つめていた。その黒曜石の瞳の奥で、激しい計算と、そして、新たな戦略の構築が、高速で繰り広げられているのが見て取れる。
やがて、彼女は、まるで何事もなかったかのように、完璧な、そしてどこか諦観の色さえ浮かんだ、美しい微笑を、その顔に貼り付けた。
「……さすがは、リーディスの新たなる女王陛下。そのご慧眼、そしてご覚悟、恐れ入りました。よろしいでしょう。その『お土産』とやら、そして、女王陛下のお手並み、拝見させていただきたく存じますわ」
こうして、わたしと彼女の、最初の戦いは、わたしの完全な勝利のうちに、その幕を閉じた。
けれど、わたしは知っている。これは、これから始まる、長い、長い戦いの、ほんの序章に過ぎないということを。
会議場を出る、彼女の、その優雅な背中を見送りながら、わたしは、次なる戦いへの、新たな決意を、心の奥底で、固く、固く誓うのだった。
◇◇◇
【リュシアンの養子縁組式】
翌日、わたしはロゼリーヌとリュシアンを伴い、王宮の奥深くにある、わたしの私室の、さらに奥にある、小さな執務室へと足を運んでいた。そこは、父が、王としての責務から離れ、ただ一人の人間として過ごすために使っていた、ささやかな部屋だと聞いていた。
高い書架には、政治や軍事に関する難解な書物ではなく、歴史や詩、そして遠い国の物語を綴った、古びた革表紙の本が静かに並んでいる。
暖炉の火が、パチパチと穏やかな音を立て、磨き上げられた黒檀の机や、父が愛用していたという、少しだけ革の擦れた肘掛け椅子を、温かな橙色の光で照らし出していた。
部屋に満ちる、古い紙と微かなインク、そして父が好んだという、甘く、そして少しだけ苦い薬草茶の残り香が、わたしの心を、不思議なほどに落ち着かせてくれる。
そこには、コルデオと、王家の記録を司る、白髪の老書記官だけが、静かにわたしたちを待っていた。彼らの顔には、この歴史的な瞬間に立ち会うことへの、厳粛な緊張の色が浮かんでいる。
わたしは、リュシアンの、まだ小さな手を固く握りしめ、そして、彼とロゼリーヌさんに、静かに、しかし確かな声で告げた。
「これから、この国の未来にとって、何よりも大切な儀式を執り行います」
わたしのその言葉に、ロゼリーヌは息を呑み、そしてリュシアンの手を、さらに強く握り返した。リュシアンもまた、この部屋の、いつもとは違う、どこか神聖な空気を感じ取っているのだろう。その美しい灰色の瞳で、じっと、わたしの顔を見上げている。
老書記官が、古びた羊皮紙の巻物を、厳かに広げる。彼の、歳月を重ねた声が、時折かすれ、途切れながら、宣誓文を読み上げていく。その声の響きが、この儀式の、そして時間の重みを、何よりも雄弁に物語っていた。
「――そして、王太子候補リュシアンに、第二の名を授けるものとする。その名は、『リュシファルド』。古代語にて、光を守り導く者を意味する」
その名を、わたしは、かつてロゼリーヌにだけ、そっと告げた。けれど今、この瞬間、その名は、この国の公式な記録に、永遠に刻まれることとなる。
老書記官の持つ羽根ペンが、羊皮紙の上を、カリ、という微かな音を立てて滑り、「リュシファルド」という、未来の王となるかもしれないその名を記していく。
その音を聞きながら、わたしはこの名に込められた、多くの人々の想いの重さを、改めて感じていた。
ロゼリーヌの瞳から、一筋の涙が、静かに流れ落ちた。それは、悲しみの涙ではない。長年の苦しみが報われ、息子の未来が、確かな光に照らされたことへの、安堵と喜びの涙だった。
わたしは、父の形見である、小さな銀のペーパーナイフを手に取った。
その冷たく、そして滑らかな感触が、指先に、父の温もりを伝えてくれるかのようだ。
――父上、見ていてくださいますか。あなたの愛したこの国も、そして、あなたの愛したギルク兄上の血も、わたしが、必ず、この手で守り抜いてみせます。
そのナイフで、羊皮紙の一部を、丁寧に、そして慎重に切り取り、溶かした深紅の封蝋を垂らし、女王の印璽を、力強く押し当てた。
金の獅子が、血の色の蝋に深く刻まれる。その行為一つ一つに、わたしの決意と、そしてこの国を背負う覚悟が、そして何よりも、この二人を守り抜くという、わたしの魂からの誓いが込められていた。
「ありがとうございます、メービス様……。本当に……なんとお礼を申し上げたらよいか……」
ロゼリーヌは、涙声で、何度も、何度も、わたしに頭を下げた。わたしは、そんな彼女の手を、優しく、そして力強く握り返す。
「お礼を言うのは、わたしのほうです、ロゼリーヌさん。あなたと、そしてリュシアンがいてくれるからこそ、わたしは、女王としてここに立つことができているのですから。そして、わたしたちはもう、家族なのです」
わたしのその言葉に、彼女は、顔を覆い、声を殺して泣きじゃくった。その背中を、リュシアンが小さな手で、一生懸命にさすっている。その光景はあまりにも愛おしく、そして尊かった。
わたしは、涙に濡れる彼女に、そっと声をかけた。
「ロゼリーヌさん。リュシファルドという名は、あくまで彼をいずれ王太子として立たせるための、公式的かつ対外的なもの。あなたにとって、そしてわたしにとっても、彼は愛しいリュシアンのままです。それだけは、決して変わりません」
その言葉に、ロゼリーヌさんは、はっと顔を上げた。その瞳には、深い感謝と、そして、わたしへの、絶対的な信頼の色が浮かんでいた。彼女は、何度も、何度も、静かに頷いた。
わたしは、この二人と共に、この国の、新しい歴史を、未来を、築いていくのだ。そう、心の底から、強く、強く誓った。
◇◇◇
【養子宣誓の直後、秘密の夢見】
その夜、離宮の寝室で、リュシアンは、深い、深い眠りについていた。
その小さな胸は、安らかな寝息に合わせて、規則正しく上下している。
夢の中で、彼は、どこまでも広がる、光の野原に立っていた。
足元には、見たこともないような、美しい花々が咲き乱れ、その甘い香りが、優しい風に乗って運ばれてくる。空には、薄紅の暁光を縫うように、七色の虹が架かっていた。
その、夢とも現ともつかぬ、幻想的な光景の中で、彼は、どこからともなく響いてくる、荘厳で、そしてどこまでも優しい声を、聞いた。
「――リュシファルド、暁を開いて……」
その声に、リュシアンは、ゆっくりと目を開いた。彼の瞳には、もう、何の不安もなかった。ただ、自らの運命を受け入れた者だけが持つ、静かで、そして強い光だけが宿っていた。
窓の外では、春の柔らかな月が、わたしたち三人の、新たな家族の門出を、静かに、そして優しく、見守ってくれているかのようだった。
◇◇◇
【二人だけの祝杯】
翌々日、アストリッド侯妃とその使節団が、物々しい馬車列と共に王宮を辞した頃には、空はすでに深い藍色に染まり、一番星が、まるで凍てついた夜空に灯る、小さな蝋燭のように瞬いていた。
日中の、仮面と探り合いに満ちた喧騒が嘘のように、王宮の回廊は静寂に包まれている。わたしは、山のような執務をなんとか終えると、人目を忍ぶように、王宮の片隅にある、二人だけの私室に戻っていた。
公務という名の、重く、そして冷たい鎧を脱ぎ捨て、柔らかな部屋着に着替えると、ようやく、わたしは「女王」から、ただの「わたし」へと戻れたような気がした。
ふと気配を感じてバルコニーへ続く窓辺に目をやると、いつの間にかヴォルフがそこに立っていた。
黒い簡素なシャツ姿の彼は、外套を纏っている時とは違う、どこか無防備な、それでいてしなやかな獣のような雰囲気を漂わせている。彼もまた、王配という重責から解放され、ただの「彼」として、静かに王都の夜景を見下ろしていた。
その横顔は、朧月の薄光を受けてなお、彫刻を思わせる峻厳さと静謐な美しさを宿している。
わたしがそっと隣に立つと、彼は無言のまま、片手に携えていた一本の葡萄酒の瓶と、二つの簡素な銀の杯を、テーブルに置いた。
「こいつは、この日のためにとっておいたんだ」
ぶっきらぼうな、しかしどこか誇らしげな声。彼は、古いコルクを器用に抜き、琥珀色の液体を二つの杯に、静かに注いだ。ふわりと、芳醇で、そしてどこか懐かしい、甘い果実の香りが立ちのぼる。
「アストリッド侯妃に供した、あの高価な黒葡萄酒よりは、ずっと安い代物だがな。だが、味は俺が保証する」
「あなたの見立てなら、間違いないわね」
差し出された杯を受け取ると、その豊かな香りが、冷えた指先から、心の奥まで、じんわりと温めてくれるようだった。
わたしは、その美しい琥珀色を月光にかざし、そして、そっと口に含んだ。
驚くほど、口当たりが良かった。微かな、しかし確かな甘みと、それでいて、後に残る芳醇な香り。わたしの好みを、彼は本当によく知っている。
「……とても、美味しいわ」
素直な感想が、吐息と共に漏れる。彼は、ただ、満足そうに頷くだけだった。
何より、こうして、久しぶりに彼とお酒を酌み交わせることが、心の底から嬉しかった。まるで、出会ったばかりの頃、エレダンの街の、あの騒がしい酒場で交わした、ぎこちない会話の日々を思い出す。
あの頃は、まだこんな未来が待っているなんて、想像もしていなかった。
その、懐かしい記憶が蘇った、まさにその瞬間だった。
胸の奥が、きゅう、と鋭く痛んだ。
そうだ、もう、あの頃には戻れないのだ。あの、ミツルとヴィルであった二度と帰らない日々には……。
わたしは、メービスとして、彼は、ヴォルフとして、この、本来の歴史とは決定的に分岐してしまった世界で、生きていかなければならない。
その、どうしようもない事実が、冷たい刃となって、わたしの心を突き刺す。その切なさと、そして、どこにも行き場のない、底なしの怖れに、わたしの指先が、微かに、しかし確かに、震え始めた。杯を持つ手が、カタリ、と小さな音を立てる。
「……メービス?」
彼は見逃さなかった。低い、心配そうな声。
わたしの手に、彼の、大きな、そして温かい手が、そっと重ねられる。その不器用で、しかし絶対的な優しさが、わたしの心の震えを、まるで吸い取るかのように、鎮めていく。
「お前の怖れていること、俺なりに理解しているつもりだ」
「えっ……!?」
思いもしなかった。彼はわたしの考えをとっくに見透かしていたのだ。
「前に少し言っていなかったか? もう俺たちは、明らかに俺たちの知っている歴史とは違う道を進んでいる。……そういうことなんだろう?」
わたしは息を呑んだ。並行世界観なんて、彼が知るはずもない。それなのに、彼はわたしの魂の、その最も深い場所にある孤独と哀しみを、まるで自分のことのように、ただ、静かに察してくれていたのだ。
「ええ……。わたしのあの演説で、民衆に根付いた黒髪の偏見も、王家の黒髪の巫女の因習も、いずれ消えていくでしょう……。
つまり、わたしがいた未来とは、もう決定的に違う歴史を刻み始めてしまっている」
「だったら、いいことじゃないか?」
「どこが……」
わたしの言い淀んだ言葉の先を、彼は、静かに、しかし確かな声で引き取った。
「……俺も頭が悪いなりに、いろいろ考えたし、わかっているつもりだ。
過去の歴史が変わっちまえば、未来だって変わるってこだ。俺たちが戻るべき、本来の未来なんて、もうどこにもなくなっちまうんじゃないかってことくらいはな」
彼の言うことは、半分だけ当たっている。本当は、並行世界に分岐しただけで、元の世界が消えたわけではないのかもしれない。けれど、わたしたちがもう二度とそこへは帰れないということ、その本質を彼はその鋭い直感だけで見抜いているのだ。
「……たとえ、戻れなくても。この時代で、こうして生きるしかないとしても」
彼は、重ねたわたしの手に、僅かに力を込めた。
「俺は、お前のそばにいる。お前とともにある。それだけは絶対だ」
それは、誓いだった。どんな愛の言葉よりも重く、そして確かな、魂の誓約。
彼にそこまで言われてしまうと、わたしはもう、何も言えなかった。ただ、彼のその温かい手に、自分の手をそっと委ねるだけしかない。
バルコニーの冷たい石の欄干に、はらりはらりと雪片が舞い落ち、そしてすぐに溶けて消える。それはまるで、二人の間に引かれた、決して越えることのできない、そして越えようとはしない、白い境界線のようにも見えた。
しかし春は、必ず、その雪を溶かすのだ。
そして、わたしのなかには、もう一つの“まだ名もない“願い”が灯り始めていた。
わたしはもう、“還るべき未来”を捨てた。――この地に骨を埋めると、決めたのだ。
そして、その儚い願いが成就する日が来るかどうかは、今はまだわからない。
けれど、その「願いを抱くこと自体」が、わたしの歩んできた長い旅路――美鶴から、ミツルへ、そしてメービスへと至った魂の証なのだと思う。
――それが卑怯だってことはわかってる。でもそうでもしなきゃ、わたしは永遠にこの思いを形にできないかもしれない。
ごめんなさい……メービス。わたしはあなたの人生を正しく辿り、未来へと繋げるつもりだった。
なのに、いまわたしはあなたの人生を勝手に横取りして、自分の好き勝手にしようとしている。
でも、この好き勝手の代償は、生き抜いたわたし自身で払うと決めた。
あなたの名に恥じないように……わたしは「ちゃんと」生きるよ。
【総括:『戦後』を描く、静かなる激動の章】
この話は、前話の劇的なクライマックス――女王メービスが自らの真実を民衆に示し、その支持を勝ち取った直後から始まる、いわば「戦後処理」と「新時代の序章」を描く、極めて重要なエピソードである。
物語は、軍事的な動乱という「動」の局面から、外交と内政という「静」の戦いへと移行する。しかし、その静けさの裏には、より複雑で、より根深い対立の火種が燻っており、読者に束の間の安堵と、次なる危機への緊張感を同時に与える、見事な構成となっている。
本話の核心は、「公(女王)」と「私(ミツルという魂)」の対比、そして「不可逆の過去と、自ら創り出す未来」という、主人公が背負う宿命の深層に触れる点にある。
【1:『雪解け』が象徴する、世界と心の二重の再生】
城下町の息吹と民心の安定
冒頭、パンの香ばしい匂いや、吟遊詩人の「祝福」といった、五感に訴える描写を通して、王都が確実に活気を取り戻している様が鮮烈に描かれている。
これは、宰相派の倉庫が解放され、物資が流通し始めたという、メービスの具体的な政策が民の生活に直接的な恩恵をもたらしていることの証左だ。「黒髪の女王様」という呼び名が、民衆の間で、もはや恐怖ではなく、親しみと信頼の対象として定着し始めていることがわかる。
メービスの内的独白――『帰れない』という覚悟
このエピソードで最も重要なのが、街の復興を見つめるメービスの内省である。彼女が進める都市計画が、彼女が知る「未来」の再現であること。そして、彼女の演説によって「黒髪の巫女の因習」が覆された瞬間、歴史は決定的に改変され、彼女がいた元の世界線への道は完全に断たれた、という事実。
さらに、「父ユベルと母メイレアは巡り合うこともなく終わるはずだ。そうなれば、わたし――ミツル・グロンダイルなる存在は生まれない」という自己の存在の消滅にまで思い至る。これは、彼女が背負う犠牲の、あまりにも残酷で、そして気高い本質を、読者に突きつける。
しかし、彼女は「後悔はない」と断言する。この分岐した世界で、メービスとして生き、この国を故郷とする覚悟を決めている。この独白は、彼女の全ての行動の根源にある、切実で、そして強靭な意志の核を明らかにする、極めて重要なパートだ。
【2:『円卓』を巡る、二人の女君主の心理戦】
ヴォルフの葛藤と、新たなる『盾』の誓い
ヴォルフ視点のインタリュードは、彼のキャラクターに更なる深みを与えている。彼は、言葉と腹の探り合いで繰り広げられる「外交」という戦場に、騎士としての無力さともどかしさを感じている。しかし、彼はそこで思考を停止しない。メービスが「言葉」を刃とするならば、自分は「その言葉を守るための沈黙の鞘となろう」と、自らの役割を再定義する。これは、彼が単なる守護者ではなく、メービスの政治的闘争を理解し、共に歩む、真のパートナーへと進化していることを示している。
アストリッドの仮面と、冷徹な野心
アルバート公国摂政アストリッドは、この物語における、新たな、そして極めて知的な敵対者として登場する。彼女の「花弁は摘むより、温室に移した方が長生きさせられる」という台詞は、リーディスを武力でなく、支配下に置いて利用しようとする、彼女の冷徹な野心を象徴している。彼女はメービスの「賭け」を「愚か」と断じ、その若さと理想主義を、自らの戦略の駒として利用しようと画策する。
『黒いワイン』の応酬――腹芸の極致
晩餐会の席での、黒葡萄酒を巡る会話は、本話のハイライトの一つだ。アストリッドが「黒曜石。王都を象徴するお味」と、この国の闇とメービスの異質さを皮肉るのに対し、メービスは「けれど、その底に映る月はいつだって白いもの。――それが、真実というものではないでしょうか?」と鮮やかに切り返す。
これは、表面的な闇(黒髪や混乱)の奥にある、真実(王家の正統性や自身の意志)の輝きを主張する、見事な反撃である。この一瞬で、二人の力量が互角であることが示され、今後の外交戦が熾烈なものになることを予感させる。
【3:『戴冠』――ひそやかな儀式と、未来への布石】
リュシアンの養子縁組と『リュシファルド』の名
外交という「公」の戦いの後、物語は、父王の私室という「私」の空間で行われる、ひそやかな儀式へと移る。ここで、リュシアンは正式にメービスの養子となり、「リュシファルド」という、未来の王となるべき第二の名を授かる。
これは、王家の血筋を保護するという、政治的に極めて重要な行為であると同時に、ミツル、ロゼリーヌ、リュシアンという三人の間に、新たな「家族」の絆が結ばれる、感動的な瞬間でもある。
父王の形見と、母への配慮
メービスが、父の形見である銀のペーパーナイフで印璽を施す場面は、彼女が父の遺志を正しく継承したことを象徴する。さらに、「彼にとってはリュシアンのまま」とロゼリーヌを思いやる言葉は、彼女がただの冷徹な為政者ではなく、他者の痛みに寄り添える、深い慈愛の持ち主であることを示している。
リュシアンの夢と、次章へのフック
物語の最後に置かれた、リュシアンが「リュシファルド、暁を開いて……」という声を聴く夢の場面。これは、彼自身が、ただ守られるだけの存在ではなく、いずれ自らの意志で運命を切り開く、次なる物語の主役の一人であることを示唆する、強力な伏線となっている。
【結論:『二人だけの祝杯』に凝縮された、物語の核心】
最後のエピローグは、この話、いやこれまでの物語全体のテーマを凝縮した、あまりにも美しく、そして切ない場面だ。
帰れない未来への哀愁
第一章と第三章のエレダンでの日々を思い出し、それがもう手の届かない、別の世界線の出来事であると悟るミツルの痛み。
魂の共鳴
その理由を知らぬはずのヴォルフが、彼女の魂の震えを直感だけで理解し、「たとえ戻れなくても、俺はお前のそばにいる」と誓う。これは、理屈を超えた二人の絆の、究極の証明である。
新たなる『願い』の萌芽
そして、そのヴォルフの誓いを受け、ミツルの中に灯り始める、もう一つの願い――女王としての責務を超えた、一人の女性としての「エゴ」。
覚悟の昇華
彼女はその「好き勝手」の代償を、「生き抜いたわたし自身で払う」と決意する。これは、これまでの「美鶴」の自己犠牲ではなく、全ての運命を受け入れた上で、自らの意志で未来を創造するという、彼女の魂の最終的な進化を示している。
今話は、華やかな外交の舞台裏で、主人公が自らの「帰れない運命」と「新たな願い」を深く自覚し、静かに、しかし確固たる覚悟を固めるまでを描き切った。これにより、物語は単なる王国の復興劇から、一人の女性の魂の救済と創造の物語へと、その深度をさらに増したと言えるだろう。




