闇を纏う祈り姫
夜明け前を分厚く覆っていた霧が、地平線の彼方から差し始めた、まだ色のない光のひと筋に触れた。まるでためらいがちに、薄絹のようにゆっくりとほどけてゆく。
濡れた石畳は夜の鈍を払い、朝露の無数の粒で銀を散らしている。軒下に並んだ氷柱が光を噛み、ち、と小さな水音を生んだ。その雫が跳ねた痕にだけ、まだ名もない春の気配が、確かに宿っていた。
嵐のあとに訪れる静けさは、いつもどこか虚ろさを孕みながらも、新しい章の始まりを告げる厳かな鼓動を秘めている。
王宮の一室、磨き上げられた高窓の石枠に指を触れる。ひやりとした感触が、これから起こるであろう出来事の重さを物語っているようだった。眼下に広がる白く煙る王都を見下ろし、わたしは静かにひとつ、息をついた。
昨夜、このバルコニーでヴォルフと分け合ったカモミールティーの温もりは、まだ微かに指先に残っている。それなのに、胸の奥底では、これから始まる“本当の大勝負”の気配が、凍てつく大地の下を流れる地下水脈のように、冷たく、そして確かに脈打っていた。
レズンブール伯爵の書状が暴いた、この国の心臓部に巣食う歪み。北の隣国、アルバート公国の長くそして貪欲な影。すべてが、この清浄な黎明の光の向こうで静かに、しかし大きく口を開け、わたしという存在を呑み込もうと待ち構えている。
「……それでも、わたしは逃げない」
誰に聞かせるでもない声で、けれどわたしは、夜明けの空に向かって確かに宣した。
凍えるような不安は、胸の奥で絶えず燃え続ける小さな炎で焼き尽くす。もはや運命に流されるだけの、ただ守られるだけの少女ではない。この戦いの先手を打つのは、わたし自身だ。
背後で、侍女たちが揃いの息を吐くのが聞こえた。振り返ると、彼女たちは儀式用の純白のローブを、敬虔な手つきでわたしへと捧げ持っている。
その冷たい絹が肌を滑り、夜通しの緊張でこわばっていた身体を、さらに清浄な覚悟で締め上げた。ローブに施された金糸の蔓唐草の刺繍は、光の角度によって若芽の翡翠色を帯びてきらめく。
それは、冬の終わりと春の芽吹き、そしてリーディス王家の威光と再生への願いを、一枚の布地の上に繊細に織り上げた、祈りのような意匠だった。
鏡の奥に映る自分の姿は、まだどこか幼さを残している。けれど、その翡翠色の瞳の奥には、もう一片の迷いもない光が、静かに、そして強く揺れていた。
侍女の一人が、ビロードの盆に載せたティアラを恭しく掲げる。わたしが頷くと、彼女はそれを、わたしの若緑色のウィッグの上に、そっと載せた。
こめかみに、王冠の重みがずしりと落ちた、その刹那。
――これが最期の仮面。
その言葉が、胸の奥で音もなく弾ける。そうだ、これが最後の偽り。これを自らの手で外す刻は、もう目前まで迫っている。
◇◇◇
演説まで、あと、指折り数えるほど。
王宮の奥深くにある控えの間は、分厚い樫の扉を閉ざしたまま、夜の静けさの中に沈んでいた。壁際の燭台で燃える数本の蝋燭だけが、この部屋の主であるかのように、頼りない光と、わずかな煙を吐き出している。
蝋の甘く、そしてどこか宗教的な匂いが、張り詰めた空気の中にゆっくりと溶け、ゆらぐ火影が、タペストリーの織り込まれた壁や、高い天井へ、濃く、そして気まぐれな影を走らせていた。
わたしのすぐ横で――ヴォルフが腕を組み、冷たい石壁にその巨大な背中を預けている。
掘りの深いその横顔を、揺れる蝋燭の金色が斜めに撫で、陰と光が彫刻の鑿跡のようにくっきりと交差する。その瞳は夜の湖面のようにあくまで静かなまま、わたしが今しがた手にしたばかりの羊皮紙――これから民衆の前で読み上げる演説の、最終稿――のインクの染みへと、深く注がれていた。
わたしは、彼が最後の一行を読み終えるのをじっと待った。
眉根が――ほんの刹那、鋭く跳ねる。その微細な変化だけで、部屋の空気が張り詰まり、蝋燭の芯さえ震えを忘れた。
「メービス……本気なのか」
羊皮紙を差し戻す彼の指が、かすかに揺れる。思わず視線を吸い寄せられ、わたしは小さく息を呑んだ。
「ええ。本気よ」
受け取った羊皮紙を卓に伏せる。乾いた音が、決意の拍子を打った。炎が静かに瞬き、羊皮紙の縁に金の火花を咲かせる。
揺るがぬ熱は、わたしの中にだけ燃えている。
「民衆の前で――この偽りを外すわ。わたしの真実を見せるの」
ヴォルフの息が、硬い扉を叩いた。
「馬鹿なことを言うな!」
重い声が空気を震わせた。蝋燭の炎が、その声圧に煽られて大きく、そして激しく跳ね上がる。分厚い石壁に跳ね返った声の反響さえ、彼の荒い息遣いのように、部屋の隅々まで響き渡った。
「それがどれほど危険なことか、分かっているのか? ここは俺たちのいた時代とは違う。それはお前が一番わかっているはずだ」
わたしは再び羊皮紙を胸に抱え直し、その冷たい感触で自身の昂りを鎮めながら、ひとつ息を整えて答える。
「危険は承知の上よ。でも、ヴォルフ。これはわたしが考えに考え抜いた末の決断――あらゆる面で、敵に対して先手を打つための、最善の一手。そして――」
蝋燭の甘い匂いが満ちる中で、わたしは一度言葉を区切り、彼の蒼い瞳を、その魂の最も深い場所を射抜くように、真正面から見つめた。
「そして、黒髪の巫女にまつわる、この国の長きにわたる悲しい因縁を、この時代で、わたし自身の手で断ち切るためよ」
「因縁を断つ、だと……?」
ヴォルフの低い声に、まるで硬い鋼を噛み砕くような、苦々しい響きが混じった。石壁に預けられていた彼の巨躯が、わずかに、しかし確かな威圧感を伴って、前へと乗り出す。胸甲の革ベルトと金具がかすかに軋み、揺らいだ蝋燭の光が、磨かれた鎧の縁で、鋭く、そして警告するように瞬いた。
「お前は自分が何を言っているのか、本当に理解しているのか? せっかく宰相を退け、国内が安定への道筋を見出し始めたこの時に、なぜだ?」
彼の言葉が、まるで重い石のように一つ一つ床に落ちるたび、室内の影が深く息づき、壁に掛かった古地図に描かれた山脈の輪郭さえもが、不安げに揺らいで見えた。蝋燭の灯りが彼の頬の稜線を鋭く切り取り、その影が額に、苦悩に満ちた険しい皺を刻む。
わたしはひとつ瞬きをし、息の底まで、まるで氷のように凛と張り詰めさせてから、静かに、そして明瞭に返した。
「もちろん、理解しているわ。でも、考えてみて。アルバート公国にとって、わたしを、そしてこのリーディス王国を内側から揺さぶるために、彼らが切れる唯一にして最大の切り札は、一体何かしら?」
「そ、それは……」
言い淀む彼の声に、燭影が再び大きく揺れる。わたしは胸元で指を固く絡め、言葉をひとつひとつ、まるで宝石を並べるように、確かめながら置いた。
「それは、『黒髪の巫女』という、わたしの出自の根拠だけ。それ以外に、彼らが大義名分として掲げられるものはないわ。
彼らはその事実を、民衆の恐怖を煽り立てるための最大の道具として、必ず使ってくるでしょう。我々が最も弱っている時期を見計らい、最も効果的なやり方でね。
その前に、わたし自身のこの手で、彼らの最強の手札を、ただの紙切れにして無力化するの。論理的に考えて、これは当然のことじゃないかしら?」
言い切った瞬間、胸の奥で遠雷が鳴ったような気がした。
ヴォルフは視線を冷たい石床へと落とし、分厚い革の手袋に包まれた拳を、わなわなと微かに震わせる。蝋燭の火がその感情の揺れに敏感に反応し、壁に映る彼の巨大な影を引き攣れさせては、大きく崩した。
「たとえ、こちらが『黒髪』の事実などないと、知らぬ存ぜぬで通したところで、いったん民草の胸に播かれた疑念の芽は、そう容易く枯れはしないわ。
それは見えないところで静かに根を張り、憎しみと恐怖を養分にして育ち、やがて国全体をじわじわと蝕む猛毒になる。
根も葉もない噂ほど〈恐怖〉という名の翼を得て、瞬く間に王国の隅々へ飛び火するもの――あなたは、それをただ黙って見過ごせるの?」
わたしの静かな詰問に、ヴォルフの肩甲が、低く、重く軋んだ。
彼は何かを言い返そうとして、しかし言葉を探すように一度口を開き、そして強く引き結ぶ。揺れる蝋燭の光が、彼の眉間に刻まれた深い皺を照らし出した。
「……だからといって、自ら進んで晒す必要などないだろうが!」
ようやく絞り出した低い反駁が、蝋燭の炎を震わせた。
「民が、それをどう受け止めるか考えたのか? 俺たちが知っている“メービス伝説”でさえ、それはあくまで『物語』だからこそ、人々の心を慰め、保たせているに過ぎない。
真実というものが、必ずしも癒やしになるとは限らん。時には、伝説は伝説のまま、美しいヴェールの奥に留めておいた方が賢明だ」
ヴォルフの声はあくまで低く抑えられていたが、その一語一語には、まるで抜身の剣が擦れ合うような、切迫した危うさが帯びていた。窓の外で、厚く垂れ込めていた雲がわずかに裂け、そこから細い黎明の光が、まるで天からの啓示のように差し込みかける。わたしはその淡い光を背中に受けながら、それでもなお、言葉を重ねた。
「物語は美しいままに、か……。
確かに為政者が真実へと蓋をし、民衆が望む美化した英雄像だけを掲げ続けるのは、治世の常套手段なのでしょうね。その方が、“繁栄”や“安定”に、手っ取り早く結び付くと、誰もが考えるでしょう――けれど、わたしは、そんな砂上の楼閣のような、偽りの上に築いた平穏など、微塵も望まない。わたしの口で、わたしの言葉で、すべてを語るわ。
はじまりのデルワーズの哀しみも、王家に流れる古き血の呪縛も、そしてこの黒髪が孕む本当の意味も。民衆に、わたしが“禍ツ神”などではなく、彼らと同じ血と涙と、そして意志をもつ、ただの一人の人間なのだと――その目で、その耳で、確かめてもらう……。
これは、わたしにしかできないこと。そして、いま、この瞬間にしか、成し得ないことよ」
「――無謀な賭けだ!」
怒声が石壁に激しく反響し、揺らぐ灯が床の上を獣のように走った。ヴォルフは、わたしに向かって踏み出しかけたその足を、寸でのところで静かに引き、深く、そして荒く息を吸い込む。
わたしの纏う純白のローブの裾が、その息遣いでふわりと揺れ、金糸で織られた蔓唐草が、差し込み始めた月光をわずかに拾って、きらりと光った。
見上げた彼の瞳は、嵐の前の荒海のように激しく波立ち、しかしその中心の最も深い場所には、まだ折れていない、わたしへの信頼の灯が、確かに残っていた。
「もし民衆がお前を受け入れなかったら、どうする? 恐怖に駆られた彼らが、お前を拒絶したなら?
その瞬間、お前がここまで血の滲むような思いで築き上げてきた全てが――この国がようやくその手に掴みかけた、か細い希望の光さえ――跡形もなく崩れ去るのだぞ! それはもはや賭けでも、理でもない!」
彼の重い言葉が、一つ、また一つと、わたしの胸に深く突き刺さり、心臓が静かに、しかし確かに悲鳴を上げる。喉の奥が、からからに乾いていくのを感じる。
ヴォルフの懸念は、痛いほど理解している。わたしだって怖いのだ。失敗すれば、その代償は計り知れない。彼の未来さえ、このわたしの手で、危うくしてしまうかもしれないのだ。
それでも。
蝋燭の灯影が、床にわたしたちの長い影を落とす中、わたしは固く、固く拳を握りしめ、静かに息を吸った。揺れる炎が、頭上のティアラに嵌められた宝石を掠め、淡い虹彩を放つ。
「これは“恐れ”を打ち砕くための一撃――わたしの剣と同じ。そして、この剣を逃げずに振り下ろせるのは、わたしだけだから……」
わたしの声は、自分でも驚くほど小さかった。けれど、そこには一片の震えもなかった。
ヴォルフは、深く、そして長い息を吐き、その蒼い瞳を苦しげに細めた。沈黙が、燃え尽きた蝋の匂いとともに、重く、重く部屋を満たし、決して開かれることのない扉の向こう側で、黎明の光が、微かに、しかし確実に息づいている。
決断の刻は、もう、その扉の向こうで、足音を立ててわたしを待っている。
「それだけではない!」
不意に、彼は窓辺に立つわたしの隣まで大股で歩み寄り、その大きな手で、わたしの両肩を掴んだ。
骨が軋むかと思うほどのその力強さに、わたしは思わず息をのむ。金の刺繍が施された純白のドレスの肩が、彼の指の力で僅かに、しかし確かに歪んだ。
「国内世論は間違いなく二分される。いや、それ以上に、お前を異端視する者、そしてクレイグやアルバートの息のかかった者たちが、ここぞとばかりに声を上げ、国中が分断され大混乱に陥るだろう。
そうなれば、内戦は避けられない。そして、その混乱に乗じて、アルバートは待ってましたとばかりに介入してくる。そうなれば、リーディスは……リーディスは、音を立ててほどけてしまうだろう。
先王が、そしてギルクが命を賭して守り抜こうとしたこの国が、お前のそのたった一度の賭けで、塵と化すかもしれんのだぞ! それでも、お前はやるというのか!?」
彼の蒼い瞳が、深い、深い苦悩と、そしてわたしへの、ほとんど悲痛なまでの憂慮の色に揺れている。その瞳を真正面から見つめていると、わたしの胸もまた、張り裂けんばかりの痛みに襲われた。
彼が、どれほどわたしの身を案じ、この国の未来を憂いているか、痛いほど伝わってくる。彼の指先が、ドレスの絹越しにもわかるほど熱い。それは、彼の魂の叫びそのものだった。
「そんなのわかっているわ、ヴォルフ……」
わたしは彼のその大きな手に、そっと自分の冷たい手を重ねた。彼の指がピクリと微かに動き、そしてわたしを掴む力が、ほんの少しだけ緩んだ。
「あなたの懸念は、どれももっともなこと。その危険性も。でも、わたしはわたしなりに考えに考え抜いたつもりよ。今までずっと、一人で、何度も何度も自問自答を繰り返したわ。本当にこれが正しい道なのかって。でも……」
わたしは一度言葉を切り、彼の瞳を、その魂の最も深い場所を、真っ直ぐに見つめ返した。そこには、もう一片の迷いもなかった。
「でも、わたしは、このまま偽りの仮面を被り続けることはできない。民を、そして何よりも自分自身を、これ以上欺き続けることはできないの。
この時代にやって来て、わたしは黒髪の巫女が辿る運命が、どれだけ孤独で、悲惨なものだったのかを知ってしまった……。
代々の巫女たちは、物心つく頃には白銀の塔にその身を押し込められ、存在することすら世に認められず、ずっと一人ぼっちで、外の世界を知ることもなく、その一生を終えたのよ。こんなの、こんなのあまりにひどすぎるじゃない……。
これは決して避けられない、いつかは必ず向き合わなければならない真実。ならば、わたし自身の口から、わたし自身の言葉で、それを伝えたい。たとえ、それがどれほどの茨の道だとしても……わたしは、それを選ぶ。それが、女王として、いえ、この時代に生を受けた黒髪の巫女であるわたしの、唯一にして最大の責任だと信じているから」
「メービス……」
彼の声が、ひどく掠れる。その声には、先ほどまでの激しい怒りよりも、もっと深い悲しみと、そしてどこか諦めにも似た、静かな響きがあった。彼もまた、わたしのこの決意が、もはや誰にも覆すことのできない、魂の誓いであることを、悟り始めているのかもしれない。
「……わたしは、この国の人々を、信じているの。本来のメービスがこれまで成し遂げ、もたらしたものの大きさを」
わたしは、重ねた手にそっと力を込めて続けた。
「彼らは、決して愚かではないわ。真実の言葉は、きっと彼らの心に届くと……わたしは、そう信じたいの。彼らが本当に求めているのは、為政者が作り出したまことしやかな噂や、恐怖ではなく、ただ一つの、揺るぎない真実なのだと。
そして、わたしだけがその真実を知っている……。はるかな昔に生まれ、この血の源流となった、わたしのオリジナルであった一人の少女と、彼女が辿った悲しい運命を。そして彼女が、自らの子供たちである未来の巫女たちを、どんなに深く思っていたか。彼女が遺した願いを、祈りをこの世界に正しく示すことができるのは、このわたしだけなの。
だって、そうでもしなきゃ、わたしはいったい何のために生まれてきたの? このままなにもせず、ただ誤魔化し続ければ、また次の時代の巫女が、わたしと同じように、あるいはそれ以上に、泣くことになる。わたしの母さまのように……。
だから、こんな馬鹿げた因習は、今この時代で、このわたしが終わらせなければならないのよ」
わたしの瞳には、一点の曇りもない。その揺るぎない光に、ヴォルフは一瞬、言葉を失ったように見えた。彼の掴んでいたわたしの肩から、ゆっくりと、そして完全に力が抜けていく。
彼は深く、そしてとても長い溜息をつくと、諦めたように、しかしどこか、ほんの少しだけ誇らしげに、わたしの顔を見つめ返した。その口元には、いつもの皮肉な笑みではなく、複雑な、そしてどこか寂しげな微笑が、おぼろげに浮かんでいた。
「まったく……お前という奴は、どこまで真っ直ぐで、どこまで危なっかしいんだ。それじゃ、まるで燃え盛る炎の中に、自ら喜んで飛び込んでいくようなものじゃないか。その炎が、いずれお前自身を焼き尽くすことになると、微塵も考えないのか……」
「怖いに決まってるわよ……。でも、それでも、わたしは行かなければならないの。それが、わたしの選んだ道だから。そして、ヴォルフ……」
わたしは、彼の瞳の奥にある、隠された優しさと、そして彼自身の痛みを見つめながら言った。
「あなたには、その瞬間を、わたしのすぐ隣で見届けてほしい。あなたがそこにいてくれるだけで、わたしは、きっと折れずにいられるから……」
わたしのその、あまりにも真っ直ぐで、そして甘えにも似た願いに、ヴォルフはしばし無言でわたしを見つめ返していた。
彼の瞳の中で様々な感情が激しく交錯し、渦を巻いているのが見て取れる。この国への忠誠、民への責任、わたしへの深い憂慮、そして……言葉にできないほどの、強い、強い愛情。
やがて、彼は全ての感情を振り払うかのように、もう一度深く息を吸い込んだ。そして、その瞳に、再び夜明けの空のように澄んだ、鋼のような決意の光を宿らせた。
「……分かった。お前の覚悟は、確かに受け取った。
ならば、俺も共に往こう。お前がその茨の道を進むというのなら、俺がその全ての棘を、この身で受け止めてやる。それが、お前の騎士たる俺の、魂の誓いだ。
それに、巫女と騎士とは常に離れがたきものなんだろう? お前が戦いに臨むのならば、俺がその隣に立たぬ道理はない。
だがな、メービス、一つだけ約束しろ。もし、万が一のことがあれば……その時は、ためらわずに俺を盾にしろ。お前の命こそが、この国の未来そのものなのだから」
彼の言葉は、どんなに美しい詩よりも、どんなに甘い愛の囁きよりも、わたしの心に深く、そして温かく響いた。わたしは、込み上げてくる熱いものを必死にこらえながら、しかし、力強く彼に答える。
「だめよ、ヴォルフ。全部受け止めるとか盾になるとか、わたし、そういうのは嫌。そうじゃなくて、一緒に背負ってもらいたいの。
辛いことも苦しいことも、はんぶんこにすれば、少しは楽になるでしょう? そうじゃなかったかしら?」
わたしのその、少しだけ子供じみた言葉に、彼は一瞬、意表を突かれたように目を丸くしたが、すぐにふっと、本当に柔らかく、口元を緩めた。
「ああ──半分こだ」
その表情は、まるで固く閉ざされていた氷が、春の優しい陽光に解けるかのようだった。わたしの頑固さを、そしてその奥にある本当の願いを、彼は、受け入れてくれたのだ。
「我儘言ってごめんね。わたしって、いつもこんなのだから」
少しだけ俯いて、照れ隠しにそう言うと、彼は呆れたように、しかし、どこまでも優しい声で応えた。
「いまさらだろう。お前はいつだって、黙って一人で全部抱え込んで、悩み抜いて、そしてろくに相談もせず、とんでもないことをしでかそうとする。そういう、どうしようもなく面倒くさい奴だ。つくづく、ユベルの娘だと思い知らされている」
「そうね。そうかもしれないわね。自分でも馬鹿だって、わかってる」
「だが」と彼は、ふいに、言葉を続ける。その声は、真剣な響きを帯び、わたしは思わず顔を上げた。彼は、少しだけ視線を逸らし、窓の外の白み始めた空を見ながら、まるで独り言のように、けれど、わたしにはっきりと聞こえる声で、そう言ったのだ。
「俺は、そういう馬鹿が放っておけないし、どうしようもなく、好きなんだ。だから、とことん付き合うさ」
胸が、どきり、と大きく、そして甘く跳ねた。彼の言葉が、鋭く、そして熱い矢のように、わたしの心のど真ん中を射抜く。
――“好き”……か。
それはきっといつもの、相棒として、あるいは親友の娘への、深い情愛からくる言葉なのだろう。そう頭では分かっているのに、わたしの心は、勝手に熱を帯びて、耳まで燃えるように熱くなるのを感じる。
彼が今、どんな顔をしているのか、怖くて見ることができない。ただ、彼のその不器用で、そしてあまりにも温かい言葉が、わたしの心の中で、何度も、何度も、優しい木霊のように響き渡っていた。
◇◇◇
そして今、わたしは王宮テラスの中央に設けられた演壇に立っている。
ヴォルフが、その言葉通り、わたしの半歩後ろに、まるでこの世のどんな力からもわたしを守り抜くという、不動の守護神のように控えている。
テラスを縁取る、冷たく硬質な大理石の欄干から眼下を見下ろせば、そこには、人の、人の、人の海が、どこまでも広がっていた。
かつては寸分違わず職人の手で刈り込まれた美しい生垣が幾何学模様を描き、四季折々の花々が息づいていたであろう広大な王宮庭園は、今や万に届こうかという民衆によって、その隅々まで埋め尽くされている。彼らの無数の足によって踏み固められた雪は泥に汚れ、かつての美しい芝生や精巧な花壇の区別さえ、もはやどこにも見当たらない。
それが、宰相の暴走の果てにある、今のリーディス王国の、ありのままの姿なのかもしれなかった。
無数の人々が発する低いざわめきは、まるで巨大な蜂の巣の羽音のように、ひとつの塊となって空気を震わせている。吐き出される無数の白い息が、朝の冷たい光の中で陽炎のように立ち昇り、彼らが抱く熱気と不安、そして抑えきれない好奇心を、ありありと物語っていた。
着古した外套を纏う商人風の男、先の見えない不安に怯えながらも幼子をきつく抱きしめる母親、人生の苦難をその皺に刻んだ杖にすがる老人、そして何ものをも恐れぬ、物怖じしない視線を真っ直ぐに向ける浮浪の子供たち――その顔、顔、顔。その全てが、この国の魂そのものを織りなす一枚の巨大なタペストリーのように、わたしの眼前に、圧倒的な現実として広げられている。
その無数の視線が、まるで巨大なレンズで光を集めるかのように、一斉に、このテラスの一点に、わたしという、たった一人の存在に、突き刺さる。
それは、物理的な重さを持った、無音の圧力。肌を粟立たせ、呼吸さえも奪い去るかのような、圧倒的な存在感。
息が、詰まる。喉が、からからに乾く。足が、まるで大地に縫い付けられたかのように重い。指先が氷のように冷え、自分の身体ではないかのように、感覚がない。
――怖い。けれど、わたしは逃げない。
先程の彼の言葉が、今もわたしの胸の奥で、温かいお守りのように、確かな光を放っている。彼の存在が、見えない力となってわたしの背中を、この心を、支えてくれている。わたしは、もう、決して一人ではないのだ。
わたしはゆっくりと両手を広げ、天を仰いだ。昇り始めた朝の光が瞼を透かし、温かい。そして、心の奥底に眠る力を、この身体に宿るもう一つの魂の存在を、静かに、しかし確かに呼び覚ます。
「我が器に集え、精霊子よ……」
大脳辺縁系にあるという精霊子受容器官が、じわりと熱を帯び始めるのを感じる。わたしの意思に応え、身体の芯から、清浄にして強大な力が湧き上がってくる。
わたしの周囲に、目に見えないはずの精霊子が、まるで光の靄のように集い始める。
それは最初は淡く、頼りなげな光の揺らめきだったが、わたしの呼吸に合わせて次第にその密度を増し、キラキラと輝く無数の光点となって、わたしの周りを優雅に舞い始めた。
まるで、夜空からこぼれ落ちた星屑を散りばめた、光のヴェールを纏っているかのようだった。
そして、わたしの両の掌の上に、ふわりと淡い光が灯る。それは次第にその輝きを増し、凝縮されたエネルギーが美しい螺旋を描きながら、やがて二つの、夜空に浮かぶ月のようにどこまでも清らかで、しかし同時に太陽のように力強い光を放つ“場裏”――わたしの精霊魔術の根幹たる、限定事象干渉領域の顕現――となった。
その二つの光の球体は、わたしの緑の瞳を映し込み、神秘的な輝きを宿している。球体は静かに、そして自律的に回転し、わたしの意思に応えるように、その表面にはオーロラのような微細な光の帯が、ゆらり、ゆらりと揺らめいていた。
この光の球こそが、わたしの内なる「器」に満ち溢れた精霊子が生み出した、わたしの願いを、この世界の法則を書き換えて形にするための媒体なのだ。
思考の片隅では、この力の奔流の中で一時的に形成された、意思を持つ疑似精霊体の声が、囁きとなって直接聴こえる。
《《あなたは何を望むの?》》
いつもそんな感じだ。わたしは、その問いには答えず、ただ静かに微笑み返す。
二つの球体は、周囲の空気に漂う微かな精霊子をさらにその内に吸い込み、そして満ち足りたように、柔らかな光の粒子を周囲へと放ち始める。それは、まるで数多の小さな光の妖精たちが、金と銀の軌跡を描きながら乱れ舞っているかのように幻想的で、そしてどこまでも清浄な光景だった。
金糸と銀糸を縒り合わせた雨が降り注ぐように、光の粒子が王宮庭園を満たし、民衆の凍えた肩や、乱れた髪にそっと触れては、まるで淡雪のように、はかなく消えていく。その神々しいまでの光に触れた者たちの間から、驚嘆とも畏敬ともつかぬ、低い、しかし確かな熱を帯びたどよめきが、大きな波紋のように広がっていった。
貴族たちが集まる一角では、ロゼリーヌが、その光景を息を詰めて見守っていた。その隣で、リュシアンは、その小さな目をこれ以上ないほど大きく見開き、キラキラと輝く光の粒子を、まるで夢でも見ているかのような表情で、その小さな手で掴もうと追いかけている。
彼の小さな唇が、かすかに「きれい……」と動いたのを、わたしは見逃さなかった。
他の貴族たちの中には、顔色を失い、その権威の仮面の下にある狼狽の色を隠せない者もいる。特に、旧宰相派と目されていた者たちの間には、明らかな動揺が走っていた。ヴァルナー卿の、常に余裕を湛えた老獪な顔にも、初めて焦りの色が浮かんでいる。
かつての魔族大戦で前線にいた者たちでもなければ、場裏も精霊魔術も、見たことがないだろうから、当然の反応だろう。
「皆の者、静まりなさい」
わたしの声は、自分でも驚くほど穏やかで、そしてどこまでも凛とした響きをもって、庭園全体へと、そして民衆一人ひとりの心へと、真っ直ぐに響き渡った。その声には、もはや一片の震えもなかった。
「今、あなた方が目の当たりにしているこの力、これは今や伝説にのみ語られる精霊魔術の一端にございます。
かつて存在したとされる精霊族は、このように世界にあまねく存在する精霊子と呼ばれる力を集め、万物に働きかける力を持ち、自然と深く調和して生きる、心優しき民族であったと伝えられています」
わたしは一度言葉を切り、民衆の一人ひとりの顔を、その瞳を、見渡す。恐怖、好奇心、疑念、そして、ほんのわずかな希望。様々な感情が渦巻いているのがわかる。
「そして、わたしがなぜこの力を使えるのか。
皆さんもよくご存知の通り、我がリーディス王家は、建国の祖が精霊族の血を引くと、誇りをもって伝えられております。わたしがこの幻とされる力を使えるのは、その証左に他なりません。
ですが、皆さんも一度は不思議に思われたことはございませんか? 精霊族の血を引くはずの王家にありながら、なぜ、時折生まれる『黒髪の巫女』は、精霊の祝福ではなく、災厄の象徴として恐れられ、歴史の闇に葬られてきたのでしょうか?」
わたしの問いかけに、ざわめきが少しだけ大きくなる。
「その理由は王家の歴史のさらに奥深く、これまで決して語られることのなかった、この国の始祖のそのまた始祖に繋がる、一人の少女の、悲しい運命に隠されています。
その少女の名は……デルワーズ――」
その名が紡がれた瞬間、庭園の空気が微かに、しかし確かに震えたような気がした。
「彼女は、漆黒の髪と、深い森の泉を思わせる翡翠色の瞳を持つ、類まれなる美しさを備えた少女でした。
精霊族の巫女の高貴なる血を受け継ぎながら、皮肉にも、その精霊族を滅ぼすためだけに、人の手によって生み出された、心を持たない悲しい存在でした。
彼女に与えられたのは、ただ、絶対的な破壊の力のみ……。愛を知らず、温もりを知らず、ただ命令のままに、その力を振るい続けることだけを運命づけられた、あまりにも孤独な魂でした……」
わたしの声に、知らず知らずのうちに深い哀しみが滲む。それは、わたしの記憶ではない。けれど、わたしの魂が知っている、デルワーズの哀しみだった。
「けれど、そんな彼女にも運命の転機が訪れたのです。
一人の、純粋で、心優しき精霊族の少年との出会い。その出会いが、凍てついていた彼女の心に、初めて温かな光を灯し、人を愛するという感情を、そして生きるということの意味を教えたのです。
……やがて二人は深く愛し合い、その愛の結晶として、一人の娘をもうけました。その腕に抱いた小さな命の温もりこそが、彼女にとって、生まれて初めて感じた、真実の幸福だったのかもしれません」
わたしの言葉に、民衆の中から、息を呑むような音がいくつも聞こえてきた。
「その娘の名は、エリシアといいます。古代語で『希望』を意味する名を、デルワーズは愛する娘に与えました。そして、そのエリシアこそが、幾多の困難を乗り越え、このリーディス王家の血筋へと、その尊き命を繋いだのです。
そう。彼女こそが、この国の始まりの母だったのです」
わたしはそこで言葉を区切り、一度、大きく息をついた。
「……それから幾星霜の時が流れ、リーディス王家には、時代時代の節目に、親とは似ても似つかぬ、漆黒の髪と翡翠色の瞳を持つ王女が生まれるようになりました。
それを人々は恐れ、あるいは忌み嫌い、『黒髪の巫女は災厄を呼ぶ』と囁き合ったのです。けれど、それは不思議でも何でもありません。ただ、始祖デルワーズの血が、その特徴と共に色濃く現れた。それだけのことだったのです。
先ほど述べたように、それは呪いではなく、血の宿命。誇り高き、そして哀しき始祖の面影を、その身に刻んだ証なのです」
そこまで語り終えたわたしは、両手に浮かべていた光の球体を、そっと天へと解き放った。光は無数の粒子となって夜明けの空へと舞い上がり、昇り始めた朝陽に溶けて、まるでダイヤモンドダストのようにキラキラと輝きながら消えていく。
「そして、今――その始祖デルワーズの血を、この身に最も色濃く受け継いだ者がいます。
それこそが、このわたしなのです! 」
詰めかけた民衆が、今度こそはっきりと、大きくどよめいた。
「なぜ、これらの真実をわたしが知っているか。それは、わたしが彼女の血を最も強く受け継ぎ、彼女の悲しき運命と、そして遺された願いを託されたからです。
わたしが精霊より探すよう命じられ、その末に賜ったこの白き聖剣マウザーグレイル。この剣の中に、その記憶が、その真実が、確かに記されていたからなのです」
わたしは、ゆっくりと、しかし一切の迷いのない手つきで、頭上に載せられたティアラを外し、傍らに控える侍女へと手渡した。
民衆の間から、再び大きなどよめきが起こる。彼らは、わたしが何をしようとしているのか、察し始めているのだろう。
次に、わたしの若緑色のウィッグにかけられた、繊細な金の留め金へと、震える指を伸ばす。
カチリ、と小さな、しかし庭園の隅々まで、いや、この王都の全てに響き渡るかのような、明瞭な音がした。
運命の歯車が、大きく、そして確かな音を立てて、回り始めた合図。
わたしは、その金の留め金を静かに外し、わたしを守り、そして同時にわたしを偽り続けてきた緑髪のウィッグを、ゆっくりと、その頭から外した。
ウィッグが、わたしの手から滑り落ち、音もなくテラスの冷たい大理石の床へと転がる。それは、まるで抜け殻のように、虚ろで、そして哀れだった。
朝の清浄な光の中に、夜の闇をそのまま切り取って写し取ったかのような、艶やかな漆黒の、けれど驚くほどに短い髪が、露わになった。
それは、ボコタへ向かう前に、わたし自身が過去の自分と決別するために断ち切った、決意の証。まるで少年のように潔く刈り込まれ、しかし同時に、夜の湖面を思わせる深い光沢を湛え、見る者に鮮烈な印象を与える。
朝陽を拾った黒髪は、濡羽色に艶めいた。それは、緑のウィッグという偽りの下に隠されていた、わたしの真実の色。始祖デルワーズから連綿と受け継いだ、誇り高き宿命の色。
庭園は、水を打ったように、しんと静まり返っていた。数千、数万の民衆が、ただ息を詰めて、その歴史的な光景を、固唾を飲んで見守っている。彼らの無数の瞳には、信じられないものを見たかのような、深い、深い驚愕の色が浮かんでいた。
風が、わたしの短い黒髪を優しく揺らす。その感触が、あまりにも久しぶりで、そしてあまりにも自然で、わたしは、ようやく本当の自分に戻れたような、そんな不思議な解放感を覚えていた。分厚く、重い鎧を脱ぎ捨て、初めて自由な空気を吸ったかのような、そんな清々しさだった。
わたしは、その無数の視線を一身に受けながら、静かに、しかしこの国全ての民に、そしてこの世界に届くように、高らかに、高らかに宣言した。それは、わたしの魂からの、紛れもない叫びだった。
「――このわたしもまた、始祖デルワーズの血を色濃く受け継ぐ、黒髪の巫女に他なりません! これが、わたしの真実の姿なのです!」
その言葉が放たれた瞬間、庭園の空気が、まるで張り詰めていた巨大な氷が一気に砕け散るかのように、大きく、そして激しく揺れた。
民衆の間に、嵐のような、途方もないどよめきが巻き起こる。
それは、驚愕か、拒絶か、それとも、これまで抑えつけられてきた何かが、一気に噴出したような、もはや言葉では説明のできない、感情の爆発だったのかもしれない。
歓声と悲鳴、怒号と賞賛、その全てが渾然一体となって、王宮の空を、そしてリーディスを、揺るがす。
その喧騒の中で、わたしはただ、真っ直ぐに前を見据える。わたしの隣に立つヴォルフの、微動だにしない横顔が視界の端に映る。
彼の瞳は、変わらず前方の民衆を見据えていたが、その口元には、ほんのわずかに、誇らしげな笑みが浮かんでいるように見えた。彼は、わたしのこの途方もない賭けを、その心の底から、信じてくれていたのかもしれない。
わたしの賭けの行方は、そしてこの国の幼い弟妹たちの明日がどうなるのかは、今、この瞬間の、彼らの心の内に委ねられたのだ。
わたしは、ただ、その運命の審判を、静かに、そして毅然と待つ。
わたしの翠の瞳は、もう何ものをも恐れてはいなかった。その瞳には、ただ、この国を愛する民と共に、輝かしい未来を築き上げるという、揺るぎない決意の光だけが、昇り始めた朝陽のように強く、強く輝いていた。その光は、どんな闇をも打ち払う、希望の光そのものだった。
この黒髪が、かつてのように呪いの象徴として忌み嫌われるのか、それとも、新たな時代の希望の旗印となるのか。
その答えは、もうすぐ、明らかになるだろう。
わたしの心臓が、期待と不安、そして確かな希望をないまぜにして、力強く、そして高らかに、新しい時代の始まりを告げる鐘のように、鳴り響いていた。
1. 夜明けの自然描写 ― 真実への覚醒の予兆
冒頭では、夜明け前の濃霧、濡れた石畳、氷柱の水滴といったディテールが、文字通り「世界がいままさに目覚めようとしている」瞬間を鮮やかに描き出します。ここで描かれる「薄絹のようにゆっくりほどける霧」「朝露の銀」「名もない春の気配」といったイメージは、すべて〈長く閉ざされてきた真実が、今まさに解き放たれようとしている〉という物語全体の〈前奏〉を象徴しています。
「嵐のあとに訪れる静けさ」 → 過去の混乱や内憂が去り、これから新たな時代を切り拓く瞬間──“再生”の舞台装置。
「夜の鈍を払う石畳」「氷柱の雫」 → 重たい秘密・呪縛が溶け出し、ほんのわずかな〈春の兆し〉が宿っている。
したがって、この「夜明けの情景」は、『黒髪の巫女』としての真実を公衆にさらす――つまり“仮面を脱ぐ”ドラマの始まりを示唆するメタファーになっています。
2. 仮面と白いローブ ― 枷と覚悟の象徴
バルコニーから控えの間に移る一連の描写を見てもわかるように、メービスは「偽りの仮面(=若緑のウィッグ)」「儀式用の白いローブ」「ティアラ」という〈装い〉で守られ、かつ遮蔽されてきました。
ローブの「金糸の蔓唐草」
金糸の刺繍が〈冬の終わりと春の芽吹き、王家の威光と再生への願い〉を繊細に記している──まさに〈統治者としての見せかけの清潔さ〉と〈再生の約束〉を同時に担うもの。
しかし、同時に〈母祖から受け継いだ血の宿命〉を隠し息をひそめる装いでもあります。
ウィッグとティアラ
ウィッグは「少女らしさ」「王室の姫としての“ぬくぬくとした安全地帯”」を与える一方で、真実──黒髪の巫女としてのアイデンティティを抹消してきた〈偽りの覆面〉です。
ティアラは〈「公の場で振る舞うべき最高の称号」と「重圧」〉を同時に象徴し、「これ以上の甘えは許されない」というメッセージともなっています。
この二つが組み合わさるとき、メービスは「守られてきた少女」という見かけと、「消せない血の宿命」という本質とを二重に背負うことになります。
3. ヴォルフとの対話 ― 理性/感情、忠誠/愛情のせめぎ合い
控えの間でのヴォルフとのやり取りは、
〈政治的合理性〉を重視するヴォルフ(宰相退け後の安定した政局を乱し、混乱を招く危険性)
メービス自身の〈魂からの誓い〉(黒髪の巫女としての真実を語ることこそが、新たな国のために必要)
という二つの価値観が正面から衝突しており、この一幕だけで以下が明示されています。
ヴォルフの立場=「政局の安寧を最優先」
「なぜ今それをするのか?」「国中が分断される」「最悪の場合、内戦を招き、隣国に隙を与える」といった論理はすべて、王国という国家存立において〈最も合理的に見える解決〉を指向しています。
しかし同時に、ヴォルフが深く憂慮するのはメービス個人の安否だけではなく、「その猜疑の芽が取り除かれなければ結局は国を蝕む毒になる」という認識。
メービスの信念=「“偽りなき真実”があってこその真の繁栄」
「伝説は伝説のままにするべき」「人々は弱いから偽りの英雄を信じていた方が平和だ」というヴォルフの言葉に対し、「それこそが“砂上の楼閣”であり、いずれ崩壊する」「己の言葉で始祖の願いを伝えることは、私にしかできない最大の責任」と突っぱねる。
彼女には「黒髪の巫女」という血の根拠が〈武器にも凶器にもなる〉ことを理解しつつ、その「武器としての呪縛」を自ら中和させ、〈逆手にとって自らの芯を示す〉という強い覚悟があります。
この二人の会話には、「知恵による危険回避」と「覚悟によるリスクの先取り」という、〈王と側近(騎士)の古典的ジレンマ〉が凝縮されています。
4. 黒髪を示すクライマックス ― “呪い”から“希望”への転換
テラスでウィッグを外し、黒髪を晒す一連の描写は、いわゆる〈変身シーン〉に留まらず、メービス自身が抱きしめてきた「母(未来のミツルの母メイレア)と始祖デルワーズの悲しみ」を奪い取り、それを〈国民の前で打ち砕く〉儀式そのものです。
「偽りの仮面を脱ぐ音」=“事象の転換”
「カチリ」という音は物語世界の歯車が大きく回り始める合図。〈盲目的恐怖が一瞬で〈再考〉を迫られる〉ことを、物理的な「音」で強調します。
「漆黒の黒髪」の描写
短く刈り込まれた黒髪は「少年のように潔い」と評されますが、同時に「夜の湖面の深い光沢」というキーワードが示すのは、メービスに脈々と流れる「始祖デルワーズの魂の欠片」。
黒髪そのものが “呪い” として忌避されてきたのではなく、「古い血統の象徴であり、同時に再生の鍵」であることを、視覚的に圧倒的に示す。
「民衆の反応」=未知への狂騒と胎動
「驚愕、拒絶、それとも噴出した感情の爆発」というどよめきは、いずれのリアクションであっても〈これまでの“定説”が根底から覆される〉瞬間を表します。
その渦中で、メービスはまったく怯えずに「静かに前を見据え」ている。これは〈すべてを覚悟した王者〉の姿そのもの。
5. 精霊魔術の顕現 ― 新たな統治理念の宣言
黒髪をさらす直前に、メービスは〈場裏(精霊魔術の限定事象干渉領域)〉を顕現させます。これは単なる“魔法ショー”の演出ではなく、次のように二重の意味を担っています。
「過去の呪縛をすべてあぶり出す光」
無数の光の粒子が庭園に降り注ぐシーンは、「人々の胸に蓄積されてきた恐怖や偏見」を〈一瞬にして溶かし、洗い清める〉イメージ。
旧宰相派や貴族たちの狼狽も、〈精霊子という“生のエネルギー”に触れることで、あぶり出される自己欺瞞〉を象徴します。
「始祖デルワーズの血脈の正統性を示す証拠」
「王家が精霊族の血を引く」という建国神話を、魔術の実演とともに民衆に“目撃させる”ことで、「飾りではなく、本物の〈血〉と〈力〉を備えた統治者であること」を宣明。
これにより「黒髪=呪い」の図式を根底から書き換え、「黒髪でも精霊の恩恵を受ける=希望の灯火」として再定義するという、政治的かつ宗教的ターニングポイントを創出しています。
精霊魔術を操る=〈立ち位置が神話世界と直結している〉ことを示し、民衆に「王女こそが『始祖デルワーズの再来』である」という信仰心を抱かせようとする、まさに〈王権の正統性を芸術的に印象付ける祝祭的演出〉です。
6. 黒髪の宣言 ― 「呪い」から「旗印」への転換点
最後に、メービスは大声で「黒髪の巫女である自分自身」を民衆へ公言します。ここには二重のメッセージがあります。
「自己告白としてのカタルシス」
〈長年隠し続けてきた“出生の秘密”〉を、意図的に暴露し、自分自身がそれを恐れずに受け止めている──この動作自体が最上級の〈覚悟表明〉。
あくまで「黒髪=自分の“真実”」と堂々と向き合うことで、〈帝の血脈を継ぐ者として真っ向から立つ〉女王像を確立。
「民衆への呼びかけとしての希望」
「呪いの象徴」と捉えられてきた黒髪を、自ら手放し、むしろ〈新たな時代の旗印〉として高く掲げる。
これに呼応して民衆がどのように腑に落とすかはこの後の行方にゆだねられているが、少なくとも〈“恐怖”を越えた先にある可能性〉を提示した時点で、王としての責任を果たす意思を見せています。
この瞬間、「黒髪を持つ者は災いをもたらす」という古い迷信を根本から解体し、そこに〈人間と精霊が調和する未来〉――“新たなリーディス王国”――のイメージを差し出しているのです。
しかし、この選択は、元いた世界線とは完全に異なる分岐へと突き進むことを意味します。つまり、ミツルは「そういうことを」覚悟したということです。
【悲劇的な誤解――「呪い」の烙印を押された「祝福」】
リーディス王家は、自らの始祖が世界を救った救世主デルワーズその人であることを知らず、ただ文化的に未発達な恐怖心から、彼女の遺伝子を色濃く受け継いだ「黒髪の巫女」を、「厄災を呼ぶ呪い姫」として忌み嫌い、歴史の闇に葬り去ってきた。その歪んだ因習が、長い年月をかけて根付いてしまったのです。
デルワーズは、ただ、未来の子孫たちに危機を伝え、世界を守るための「言霊」を届けようとしていた。そのための最も信頼できる代行者こそが、黒髪の巫女であったというのに……。その純粋な願いと祈りが、無知と恐怖によって「呪い」へと歪められてしまった。
旅路の重要性――「魂の共鳴」こそがシステムの核
そして、魔族大戦という未曽有の危機を前に、デルワーズが用意した「巫女と騎士のシステム」。彼女がメービスに託した神託――「もっとも信頼できる最強の騎士とともに聖剣を探しなさい」――の真の意味。
それは、単に物理的な武器を探すことだけが目的ではなかった。神託を遂行するための「旅の過程そのもの」が、二人の魂を近づけ、互いを唯一無二の存在として意識させ、想い合うようになるための、必然にして不可欠な試練であった。そして、その過程で育まれた「愛」や「信頼」といった「魂の共鳴」こそが、このシステムの真の核であり、最強の力の源泉。
ただ強いだけではだめ。ただ力があるだけではだめ。互いを想い、信じ合う心がなければ、聖剣も精霊魔術も真の輝きを放つことはない。
真実の証明――黒髪の巫女こそが、希望の旗印
そして、メービスとヴォルフが、その絆の力で見事に魔族大戦を終結させたという事実。それは、これまで「呪い」として虐げられてきた存在が、実は世界を救う唯一の希望であったという、何よりも雄弁な証明です。
「黒髪の巫女でなければ、戦えなかった。聖剣の力を使うことも精霊魔術も使えなかった」。
「呪い」の烙印を押された黒髪こそが、リーディスを救う唯一無二の「祝福」であった。
忌み嫌われた異端の血こそが、最も高貴な「祈り」の継承者であった。
災厄の象徴とされた少女こそが、未来を照らす「願い」の代行者であった。
この真実を踏まえると、ミツルの魂を宿したメービスが、民衆の前で自らの黒髪を晒し、真実を語ろうとする行為の重みが、より一層増して感じられます。
あれは単なる政治的決断や、危険な賭けなどではなく、何代にもわたって続いてきた悲劇の連鎖を断ち切り、誤解の中で孤独に散っていった巫女たちの魂を解放するための、そして「黒髪は祝福なのだ」という真実を、自らの存在をもって証明するための、ミツルの魂からの叫びだったのです。




