白き刃の静謐 即位の日、国は動く
白銀の宣誓式が終わり、万雷の拍手と人々の熱気がまだ大広間に残響していた。それは、新たな時代の産声を祝福する割れんばかりの鬨の声。
その熱狂は――わたしが纏う雪のような絹のドレスにさえ染み込んだかのように、微かな温もりと興奮の余韻を宿していた。
重厚な扉が音もなく閉ざされた瞬間、その熱狂は一枚の扉に遮られ、絶対的な静寂がわたしを包んだ。先程までの喧騒が嘘のように遠のき、代わりに訪れたのは、水底に沈むような、底なしの静寂が沈殿する。
窓の隙間から忍び込む夜気が足元を冷ややかに撫で、ドレスの裾にひそやかな霜を纏わせるかのようだ。
――まるで世界の外側に置き去りにされたみたい……。
この身に纏う寒月を映す霜白のドレスの重みさえ、今は女王として背負うべき覚悟のそれに変わっている。その汚れなき始まりの色は、幾多の血と涙を、静かに吸い込むための色なのかもしれないと、ふと不吉な考えが脳裏をよぎり、わたしは微かに身震いした。
絹靴の踵が、床に敷き詰められた深紅の敷き革をかすめ、こつり、と微かに響いた鈍い音──それだけで酷使した身体の節々から、鉛を注ぎ込まれたような、耐え難いほどに重い疲労が、じわりと滲み出すのを覚えた。コルセットの鯨骨が、息をするたびに微かに軋む音を立てているような気さえする。
父の時代から使われているという、威厳に満ちた黒檀の大きな執務椅子の背もたれに深く沈み込む前に、拳を握り直し、意識を刃のように研ぎ澄ませる。休んでいる暇など、この国には、そしてわたしには、どこにもないのだから。
深く息を吸い込み、その執務椅子へと厳かに腰を下ろした。磨き上げられた肘掛けの冷たく滑らかな感触が、緊張で汗ばむ掌に心地よい。その冷たさが、逆にわたしの意識を覚醒させてくれるようだった。壁際の燭台で揺れる炎から、ふわりと暖かい蜜蝋の香りが漂い、張り詰めた空気にほんのわずかな柔らかさをもたらす。
傍らには、ヴォルフが、その泰然とした佇まいだけでわたしを支えるかのように、室内の影をそっと撫でる視線で、物音ひとつ立てず控えている。
彼のその変わらぬ蒼い眼差しが、見えない力となって、今にも崩れ落ちそうなわたしを内側から支えてくれているのだと悟った。彼がいる、ただそれだけで、この途方もない重圧に立ち向かう勇気が湧いてくる。
彼の手が、そっとわたしの椅子の背に触れたような気がしたが、それはわたしの気のせいだったのかもしれない。あるいは、彼が無意識のうちに伸ばした、言葉にならない励ましの仕草だったのか。彼の纏う革と鉄の匂いが、この息の詰まるような執務室の空気の中で、唯一わたしを安心させてくれるものだった。
目の前には、コルデオを筆頭に、信頼厚い重臣が四名、記録係が二名。息の音すら凍りつくような――いや、期待と不安の影がせめぎ合う顔ぶれが、わたしを取り囲んでいた。
彼らの顔には、先程の宣誓式での高揚感の残り香と、これから始まるであろう新時代の舵取りに対する、計り知れない重圧が見て取れた。その視線は、一斉にわたしに注がれ、わたしの次の一言一句が、彼らの、そしてこの国の未来を決定づけるかのように、鋭く、そして探るようにわたしを射抜いている。
その中には、宰相派の誘いを退け、娘ソフィアを使者としてわたしに貴重な警告をもたらしてくれた、思慮深きヴァロワ侯の姿も、そして──かつて「宰相代行」を名乗り、わたしを牽制しに来た、あのルードウィン・ヴァルナー卿の顔も見えた。
ヴァルナー卿は、以前と変わらぬ貴族然としたにこやかな笑みをその老獪な顔に浮かべてはいるが、その完璧な笑みの下で、一瞬だけ琥珀色の瞳が鋭く揺らいだのを、わたしは見逃さなかった。彼の指先が、感情を抑え込むかのように、かすかに震えているようにも見える。
彼の存在は、この執務室の空気に、目に見えない重圧と、一触即発の緊張感を加えている。他の重臣たちもまた、新たな女王の最初の指示を前に、固唾を飲んでわたしの言葉を待っていた。
ある者は揺るがぬ忠誠をその瞳に宿し、ある者は自身の利害を天秤にかけるような打算の色を隠さず、そしてある者は、この若き女王がどのような手腕を見せるのかという、純粋な、あるいは野次馬的な好奇心をその瞳に宿らせて。
部屋の隅では、書記官たちが羽根ペンを握りしめ、羊皮紙の上にそのペン先を構え、一言一句聞き漏らすまいと全身を耳にして身構えている。彼らの緊張が、壁際の燭台に灯る蝋燭の炎を微かに揺らしているようにも見えた。
コルデオの顔には、深い疲労の色と共に、何かを耐え忍ぶような、そしてこの国を長年見守ってきた者特有の、深い苦悩の影が落ちている。
彼のその深い皺の刻まれた顔を見ていると、わたしは、彼が父王から託された想いの重さを、改めて感じずにはいられなかった。
わたしは列席者の列からダビドを招いた。
年配の重臣たちが纏う重厚な威光とは別種のもの――若さゆえの鋭さと、理想と現実の狭間で揺れる切実な光が、彼の瞳には宿っている。
その実績に曇りはない。
彼が命を賭して掘り当てた極秘情報こそが、宰相を失脚へと追い込む端緒となり、その後も彼は目覚ましい働きを重ねた。並外れた情報収集力、卓越した指揮統率力、そして何より揺るぎない忠誠――。
この国に新たな影を編むなら、彼以上の適任はいるはずもない。必ずや困難を乗り越え、使命を完遂してくれるだろう。
「ダビド、あなたに新たな諜報機関『灰月』の創設と、その全権を委ねます。組織の構成、運営、人員の選定、すべてあなたの裁量に任せます。この『灰月』は、先の銀翼騎士団と同様、わたしと王配直属の機関と心得なさい。その報告は、わたしとヴォルフ、二名のみが直接受けることになります。
元『影の手』の者たちも、その能力と、そして何よりもこの新たなリーディス王国への忠誠を厳しく精査した上で、積極的に登用なさい。過去の所属は問わない。ただ、その刃が、今、誰のために振るわれるのか、それだけを見極めなさい」
ダビドの喉が、わたしの言葉にかすかに、ごくりと動いた。彼の表情が微かに曇る。その瞳が一瞬、遠くを見るように揺れた。声が、ほんの少しだけ掠れたように聞こえる。それは、彼がこれから背負うことになるであろう、血と裏切り、そして時には非情な決断をも要求される、影の世界の重みなのかもしれない。
――彼ならば、きっと……。
「最優先任務は、国内に残る宰相派の残党の炙り出しと無力化。そして──隣国アルバート、及び北海自由協約の三国、ユーラン、ケラン、サーブルの動向を徹底的に探ること。
アルバートがリーディス王家の分家筋でありながら、二百年前の〈シャルトルの和約〉以降、独自の勢力を築き、我が国への干渉を画策している兆候があります」
ここでわたしは、あえてヴァルナー卿へ視線を滑らせた。
彼の眉が、ほんの僅かに、ピクリと動いたのをわたしは見逃さない。彼の完璧な微笑みは崩れなかったが、その瞳の奥に一瞬だけ走った動揺の色を、わたしは確かに捉えた。
彼は、わたしがどこまで情報を掴んでいるのか、必死に探りを入れているのだろう。その計算高さが、彼の表情の端々に見て取れた。彼のその反応こそが、わたしの言葉の正しさを裏付けているようでもあった。
「詳細な証拠について、わたしはある筋より確かな情報を得て全て把握済みです。もし彼らがその野心を捨てないのであれば、わたしはそれを、世界の前に公にしましょう。その時は…アルバートは国際的な信用を失い、孤立することになるでしょう。
何にしても油断はできません。彼らの不穏な動きがあれば、その些細な兆候すらも掴み、逐一わたしに報告してください。これは、この国の存亡に関わる最重要任務と心得なさい。失敗は許されません」
わたしの声は、静かだが、研ぎ澄まされた刃のような、鋼の響きを含んでいた。その言葉は、ダビドだけでなく、この場にいる全ての者たちの心に、重く、鋭く突き刺さったはずだ。
執務室の空気が、さらに一段、冷え込んだのを感じた。
「はっ、陛下。このダビド、身命を賭して、必ずやご期待にお応えいたします。陛下の御ため、そしてこの国の未来のため、いかなる困難も乗り越えてみせます。この命、陛下とこの国に捧げます」
ダビドの、迷いのない力強い返事に頷き、わたしは彼を下がらせた。
重い扉が閉まるコツン、という金具の音が、静寂の中に微かな波紋を投げかけ、執務室の空気が一段引き締まるのを感じる。
彼のその肩に、あまりにも重い責務を負わせてしまったという罪悪感が、わたしの胸をかすめる。
ふと、壁際の燭台で燃える蝋燭の煤が、ぱちりという小さな音と共にこぼれ落ちた。
ヴォルフの革鎧が、彼が微かに身じろぎした際に、カチャリと金属の擦れる音を立てる。その微細な物音が、張り詰めた静寂の中でかえって際立ち、次の言葉を待つ重臣たちの緊張をいや増した。
感傷に浸っている場合ではない。
窓の外の雪は、灯りを奪われた街を音もなく白く埋めている。その静謐に反するように、わたしは残る重臣たちへと、ゆっくりと、しかし威厳を込めて向き直った。その視線を、特にヴァルナー卿へと、そして彼の背後に顔色を失い、あるいは不安げに互いを見交わす十数家の貴族たちへと、意識して注いだ。
彼らの顔には、先程のわたしの言葉に対する様々な感情が交錯している。ある者は恐怖に顔を引きつらせ、ある者は必死に平静を装い、そしてある者は、新たな権力構造の中でいかに立ち回るべきか、必死に計算を巡らせているようだった。
彼らの視線が、探るように、あるいは怯えるように、わたしの上で交錯する。その一つ一つを、わたしは冷静に受け止めた。
「続けて指示を伝えます。まず、私の王位継承に関する正式な承認手続きを、可及的速やかに進めること。
法務官、書記官長、あなた方にその任を命じます。これには、先王陛下の御遺言と、わたしの即位の正統性を内外に示す全ての文書の作成と布告を含みます。いかなる疑念も差し挟む余地のないよう、完璧を期してください。この国の安定は、まず王権の磐石さから始まります」
法務官と書記官長が、緊張した面持ちで深く頭を垂れる。彼らの額には、うっすらと汗が滲んでいた。
「次に、貴族院ならびに重臣会議を、明朝一番に緊急招集いたします。
議題は、旧宰相派の貴族たちの処遇について、そして今後の王国の運営方針についてです」
ここで、わたしはヴァルナー卿に直接語りかけるように、言葉を選び、その声にわずかな圧力を込めた。
彼の背後には、顔面蒼白になっている者や、逆に不敵な笑みを浮かべようとして歪んでいる者など、様々な反応を示す旧宰相派の貴族たちの姿があった。
彼らの視線が、不安と期待、そして恐怖がない交ぜになってわたしに注がれるのを感じる。
ある者は視線を合わせようとせず、ある者は逆にわたしの一挙手一投足を見逃すまいと凝視している。彼らのその反応こそが、彼らの内心を雄弁に物語っていた。
「ヴァルナー卿、そして旧宰相派に与したと見なされている貴族の方々へ。
貴族院は、このリーディス王国の国政にとって、今も昔も、そしてこれからも不可欠な存在です。わたしは、あなた方を一方的に責め、その全てを断罪するつもりはありません。
多くの方々は、ただ時代の大きな流れに巻き込まれ、あるいは己の利害と保身のために、クレイグ宰相に従ったに過ぎないのでしょう。わたしは、そう理解しています。
過去の過ちを問うよりも、未来への建設的な協力を求めたい。この国を再建するためには、あなた方の知恵と力が必要なのです。この国を愛する心に、派閥の違いなどあってはならないはずです」
わたしのその言葉に、ヴァルナー卿の完璧な笑みの下に隠された表情が、ほんの一瞬、微かに動いた。
驚きか、あるいは計算か、それとも安堵か。他の旧宰相派に近い貴族たちからも、ざわりとした微かな動揺が、さざ波のように伝わってくる。ある者は隣の者と目を見合わせ、ある者は固唾を飲み、息の音すら潜めてわたしの次の言葉を待っている。
彼らは、おそらく厳しい粛清を覚悟していたのだろう。ある者は安堵の息を漏らし、ある者はまだ疑念の眼差しを隠さない。その反応の違いが、彼らの宰相への忠誠度の深さ、あるいは彼ら自身の器量を示しているのかもしれない。
わたしの視線を受けたヴァロワ侯は、無言で頷いた。彼のその実直な瞳には、わたしの真意を理解したという安堵と、そして新たな女王への確かな信頼の色が浮かんでいるように見えた。
彼の隣に立つ、かつて宰相派と目されていた別の老貴族は、ハンカチで額の汗をそっと拭っている。その仕草が、彼の内心の動揺を物語っていた。わたしの言葉を信じて良いものかどうか、まだ測りかねているのだろう。その揺らぎこそが、多くの貴族たちの本心なのかもしれない。
「もし、あなた方に自らの行いに対する罪の意識がおありならば、それは、今後のこの国への働きをもって挽回していただきたい。
わたしは恐怖による排除ではなく、寛大さをもって懐柔し、そして新たな体制の中でその能力を最大限に活用する道を探ります。
処罰を恐れるより、この新しいリーディス王国に留まり力を尽くすことが、自らの家門の益になる。そう捉えていただきたい。ただし──」
そこで言葉を強め、声に氷のような響きを込めた。
「二度目の裏切りは、決して許されません。
その時は、たとえどのような理由があろうとも、身分や家柄に関わらず、厳罰をもって処断いたします。その覚悟をお持ちいただきたい。
この国の未来を、再び私利私欲のために歪めることは、断じて許しません。あなた方の忠誠が、言葉だけのものでないことを、行動で示していただきたい」
その言葉に、ヴァルナー卿はやや芝居がかった仕草で、恭しく頭を垂れた。その動きは計算され尽くしているように見えたが、声には隠しきれない緊張が滲んでいた。
「陛下……そのあまりにも寛大なるお言葉、そして厳格なるご意志、身に染みてございます。我々一同、陛下への揺るぎなき忠誠を誓い、この国の復興と発展に全力を尽くす所存にございます。しかしながら……」
彼はそこで言葉を切り、探るような視線をわたしに向けた。その瞳の奥には、老獪な政治家特有の、底知れぬ深みが宿っている。
彼らは、まだわたしの真意を測りかねているのだ。あるいは、わたしの若さを見くびり、まだ交渉の余地があると考えているのかもしれない。
「……一部の者は、陛下のそのお優しさに、あるいは甘さと見て、再び不穏な動きを見せるやもしれませぬ。彼らの力を完全に削ぐことなく活用されるというのは、諸刃の剣ともなり得ましょう。その点につきましては、いかがお考えでございましょうか?
我々としても、陛下の御心に沿えぬ者を、いつまでも見過ごすわけにはまいりませぬ故。国の安定のためには、時には非情な決断も必要かと愚考いたしますが……。例えば、反逆の芽は小さいうちに、そして徹底的に摘み取るべきかと……。
我々が、その汚れ役を担っても構いませぬぞ。陛下の御手を汚すわけにはまいりませぬからな」
老獪な彼の言葉には、わたしの度量を試すような響きと、自らの保身のための予防線、さらには旧宰相派内での主導権を握ろうとする野心さえもが巧みに織り込まれている。
彼が「我々としても」と付け加えたのは、あたかも自分が新体制の忠実な一員であるかのように装い、旧体制派の不満分子を切り捨てることで自らの立場を有利にしようという魂胆だろう。
一見忠誠心から出ているように聞こえるが、その実、女王であるわたしを試すための巧妙な罠だ。そして、あわよくば、わたしを利用して政敵を排除しようとさえしているのかもしれない。
わたしは薄く微笑んだ。その微笑みは、彼の魂胆を見透かしていることを、彼に静かに告げていた。そして、一切の感情を排した、冷徹な声で応じた。
「ヴァルナー卿、ご心配には及びません。先程申し上げた通り、新たな諜報機関『灰月』が、そのような不心得者たちの動きは、白日の下に晒すことでしょう。
そして、法と秩序を乱す者には、身分や過去の功績に関わらず、厳正なる裁きが下されることになります。わたくしは、寛大ではありますが、決して甘くはありません。そのことを、お忘れなきよう。そして、もしあなたが真にこの国を思うのであれば、そのような輩を諫め、新しき王国の礎となるべく尽力することが、何よりの忠誠の証となりましょう。
それとも、卿には何か別の考えがおありか?
例えば、未だ宰相の影に怯え、自らの保身のみを考えておられるとか?
あるいは、この混乱に乗じて、新たな権力を手中に収めようなどと、浅はかな考えをお持ちであるとか?
もし、そのような考えをお持ちであれば、わたくしはそれを決して見過ごしません。この国は、もはや誰か一個人の玩具ではないのですから。ヴァルナー卿、あなたのその忠誠心が、言葉だけのものでないことを、わたしは信じておりますよ」
わたしのその、静かだが有無を言わせぬ言葉、そして最後の鋭い問いかけに、ヴァルナー卿の表情が一瞬にして凍りついた。
他の旧宰相派の貴族たちも、息をすることさえ忘れたかのように、再び緊張した面持ちに戻っている。
彼らは、わたしの言葉の裏にある、揺るぎない決意と、そして彼らの動きを完全に見通しているかのような鋭さを感じ取ったのだろう。
執務室の空気が、さらに数段冷え込んだ気がした。ヴォルフが、わたしの背後で、わずかに剣の柄に手をかけたのが分かった。それは、わたしへの無言の支持であり、そして、いかなる不測の事態にも備えるという、彼の覚悟の表れだった。
壁際の蝋燭の炎が、ひゅっと短く揺らめき、一瞬、室内の陰影を濃くした。
「そ、そのようなことは……滅相もございません。陛下の深きご叡慮、恐れ入りました。我々一同、陛下の新たなる御代に、誠心誠意お仕え申し上げる所存でございます。
陛下の御前において、二心を持つなど、断じて……。このヴァルナー、身命を賭して、陛下の御盾となりますことを、ここにお誓い申し上げます」
ヴァルナー卿は、額に玉のような汗を滲ませながら、再び深く頭を垂れた。その声には、先程までの探るような響きは消え、明らかに狼狽の色が混じっていた。
彼の計算高い頭脳が、新たな状況への対応を必死で模索しているのが、その硬直した背中から伝わってくるようだった。
その変わり身の早さこそが、彼が生き残ってきた理由なのだろう。だが、その忠誠が本物であるかどうかは、今後の彼の行動で見極めるしかない。
「そして、騎士団及び王国軍全体の再編も急務です。先の戦いで露呈した指揮系統の混乱と貴族派と平民派の対立を解消すること。まずは銀翼騎士団を中核として、全軍の士気と戦力の速やかな回復を図ってください。
これに関する詳細は、ヴォルフと共に最終案を詰めてください。軍事に関しては、彼の判断を全面的に信頼します」
矢継ぎ早の指示に、重臣たちは緊張した面持ちで、誰一人として異を唱えることなく、深く頭を垂れた。
ヴァロワ侯もまた、確かな意志をもって頷いているのが見て取れた。その一方で、ヴァルナー卿は、今度は先程のような探るような態度は見せず、ただ恭しく命令を拝聴していた。彼のその変わり身には、ある種の滑稽ささえ感じられたが、わたしはそれを表情には出さなかった。
遠くで鐘が二つ、三つ……夜半を告げるのだろうか。窓の外は、降り積もった雪が一層その厚みを増し、世界の音を吸い込んでいるように静まり返っている。
この執務室の中だけが、新たな時代の胎動を、息詰まるような緊張感と共に刻んでいた。
雪解けの日は、まだ遥か遠い。
――静寂。
胸の奥の砂時計が、ひと粒、またひと粒と骨粉を落とし始めた。
解説と考察
女王メービス(ミツル)が王として正式に即位した直後の出来事を描き、政治・人間関係・個人の心情が絡み合う。
❶【導入部:祝福と孤独のコントラスト】
冒頭、万雷の拍手と歓声に満ちた「白銀の宣誓式」が終わると同時に、メービスは孤独と重責に直面する。この場面は、メービスの心の揺らぎを鮮やかに映し出す象徴的描写である。
熱狂と静寂の対比
大広間の歓声という外部の熱気と、扉が閉ざされた直後の深い孤独感。
「水底に沈む静寂」という比喩で、メービスが背負った「王の孤独」を暗示している。
霜白のドレス
純白で清らかな象徴ながら、これから浴びるであろう「血と涙」を吸収する覚悟を表現している。
「白銀」と「霜」のモチーフが、清廉さと冷徹な責務の二面性を示している。
❷【重臣たちとの心理的駆け引き】
メービスは執務室で重臣たちと対面する。この場面は表面的な静穏の下に、非常に繊細な政治的駆け引きが潜む。
ヴァルナー卿との緊張感
ヴァルナー卿は旧宰相派で、メービスに対して不信感を抱きつつも、表面上は忠誠を装っている。
メービスは彼の小さな仕草から心の動きを見透かし、彼の真意を探っている。
ヴァルナー卿の言葉に巧妙な罠や誘導が隠されており、メービスは冷静にそれを切り返している。
コルデオとヴァロワ侯の描写
コルデオの表情に、父王の遺志を受け継ぐ苦悩や忠誠を宿らせることで、過去から引き継がれる責務と感情的連続性を提示している。
ヴァロワ侯は慎重ながら、メービスへの信頼をはっきりと示している。この対比が、重臣たちの忠誠度の温度差を示す。
❸【新機関『灰月』の創設とダビドへの任務】
新たな諜報機関『灰月』(実は第六章の未来で新設されたものと同名)の設立は、物語上の大きな転換点であり、今後の政局や陰謀劇の土台となる。
ダビドの心理
忠誠心と覚悟は強固だが、踏み込むことへの苦悩を垣間見せる。
「血と裏切りの重さ」という言葉が、この機関が単なる諜報組織以上に深い陰影を持つことを示唆している。
政治的含意
『灰月』は宰相派残党や隣国アルバート、北海諸国の監視を任務としている。これは内政と外交の両面で新女王体制が強力かつ慎重な対応を取ることを意味する。
この措置は「穏健と強硬の二面性」を表し、寛容と厳罰を巧みに使い分けるメービスの統治スタイルを反映している。
❹【宰相派への寛容と警告】
メービスが旧宰相派に向けて寛容を示すのは、単なる甘さではなく、熟考された政治戦略である。
「二度目の裏切りは許さない」
彼女は表面的に寛大さを見せつつも、非常に厳しい警告を発している。
この姿勢は、宰相派に対して一定の活躍の余地を与えながらも、「絶対的な主導権は自分にある」という明確なメッセージである。
ヴァルナー卿への鋭い問いかけ
「自らの保身」「新たな権力への欲望」という表現で、メービスが彼らの内心を完全に見透かしていることを示し、心理戦で優位に立つ。
❺【ヴォルフとの心理的つながり】
この回で特筆すべきなのは、ヴォルフの静かな存在感である。
言葉を超えた信頼と支え
ヴォルフの「椅子の背に触れたような感覚」は、微細だが非常に叙情的な表現で、二人の絆の強さを深く伝えている。
メービスは彼の存在を自らの支柱として感じ取っており、言葉にならない絆と依存が示唆されている。
剣の柄に手をかける動作
ヴォルフが無言で剣に手を添えるという仕草は、メービスの政治的決定を全面的に支え、いざとなれば武力も辞さないという覚悟を示している。
❻【ラストシーン:砂時計の暗示】
章の終わりに登場する「砂時計」の比喩は非常に象徴的である。
「骨粉を落とす」という強烈なイメージで、死や犠牲を暗示するとともに、避けられぬ時間の経過と運命を示している。
メービスが背負う「冷徹な宿命」と「希望」が共存する矛盾した心理状態が、この比喩で胸に深く刻まれる。




