精霊の子らに捧ぐ凱歌~デルワーズの娘、未来を抱いて
彼が先に軽やかに乗り込み、そしてわたしに、騎士の礼をもって手を差し伸べる。わたしは、その大きく、節くれだった、しかし何よりも信頼できる手を固く握りしめ、彼と共に御料馬車へと、凛として乗り込んだ。
驚くほどに広い車内は、深紅のビロードのクッションが贅沢に敷き詰められ、窓には金糸の優美な刺繍が施されたカーテンがかけられている。まさしく一国の女王が乗るにふさわしい、壮麗な馬車だった。
「ロゼリーヌ殿たちの馬車は、我々の後方、目立たぬように進ませる。護衛は銀翼騎士団が総力を挙げて万全を期す。
念のため、車内には完全武装の騎士二名を左右の窓側に配置せよ。万が一、不届き者による狙撃を受けようとも──その身を盾とし、必ずや二人を守り抜け」
ヴォルフが馬車の中から、外で待機していた銀翼騎士団の指揮官バロック卿に、低く、しかし鋭い声で指示を飛ばす。言葉少なながら、その声には確かな重みがあった。
「はっ、ヴォルフ様。すべてお任せください」
バロック卿は深く頭を垂れた。
「メービス様も──道中くれぐれもお気をつけて……」
「ありがとう、バロック卿。あなたも、どうかご無事で」
短い、しかし信頼に満ちた言葉が交わされる。
やがて遠くで、重々しい軍太鼓の音が、三度、厳かに打ち鳴らされた。それを合図とするかのように、王都の分厚い北門が、まるで古の巨人がゆっくりと瞼を開くかのように、内側へとその巨体を開き始めた。
その悠然たる響きは、新しい時代の到来を告げるファンファーレのように、わたしの胸を高鳴らせる。
真冬の朝の太陽が、開かれた門の隙間から、一条の鋭い光芒となって射し込み、わたしたちの吐く白い息を、金色の靄のように美しく揺らめかせた。
その光は、あまりにも眩しく、そして希望に満ちて温かい。この清浄な光が、わたしたちの進むべき未来を明るく照らし出しているように、今この瞬間は感じられた。
王家の威光を示す儀礼馬車が、ゆっくりと、しかし大地を踏みしめるように力強く動き出す。わたしの純白のマントが、車窓から吹き込んできた朝の新しい風に、誇らしげに翻った。
風は、わたしに、眩耀の新たな始まりを、優しく告げている。
わたしの右脇には、古代バルファ超文明の科学技術の結晶であり、デルワーズの主装備として生み出された“白き聖剣マウザーグレイル”が静かに横たわっている。
そして、左腕には、リュシアンが「メービスさまに、たくさんの幸運がありますように」と、小さな願いを込めて、出発の直前にそっと結んでくれた、ロゼリーヌのハンカチで作られた、小さな愛らしい栗色のリボン──
それは、わたしがこの命に代えても守るべき“輝ける未来”と、そして“胸に刻んだ内なる約束”の、ささやかな、しかし何よりも大切で、尊い印なのだ。
わたしたちの美しい馬車の後ろには、式典用の、目も眩むほどにきらびやかな武具にその身を固めた銀翼騎士団の精鋭たちが続き、ロゼリーヌとリュシアンの乗る(比較的簡素で目立たない)馬車を中央で厳重に護衛しながら、静かに、しかし揺るぎない威厳をもって、威風堂々と行進を開始した。
民衆の熱い視線は、先頭を行くわたしとヴォルフの乗る、この上なく優美な馬車に、自ずと集中している。
これで、ロゼリーヌたちの馬車は人目を引くことなく、警護も万全だ。ヴォルフの言った通り、これはまさしく、細部まで計算され尽くした、壮大なる「凱旋パレード」なのだ。
現段階において、その存在が極めて微妙な立場にあるリュシアンの姿を、軽々しくおおやけにするのは得策とはいえない。そのための、考え得る限り最善の策。
ヴォルフのその底知れぬ深謀遠慮に、わたしは改めて感嘆し、そして胸の奥から熱いものが込み上げてくるのを抑えることができなかった。
◇◇◇
開かれた城門の向こうには、朝日を浴びてキラキラと輝く、広大な石畳の広場が広がっていた。
まず耳に届いたのは、抑えきれない期待と不安が入り混じる、大勢の民の声。そのざわめきが、馬車の壁を透して、わたしの鼓膜を揺らす。
そして、その歴史ある広場を埋め尽くすかのような、無数の、無数の人々の姿。彼らの顔、顔、顔……。
最初、そこには、水を打ったような、ただ清澄な静けさだけがあった。
彼らの顔には、期待と、不安と、そしてどこか値踏みするかのような、複雑な感情が、まるでモザイク画のように入り混じっている。
あの呪詛が──“暴虐女王”そして“黒髪の巫女”という二つの鎖が、まだ彼らの心を縛っているのかもしれない。
その息が詰まるような重苦しい空気が、まるで深淵のように、わたしをその暗がりへと呑み込もうとする。わたしは、その無数の視線の重圧に耐えきれず、思わず目を伏せそうになった。
「メービス、俯くな。前を、民の顔を、まっすぐに見据えろ。お前は女王だ。……何も恐れることはない。俺がついている」
ヴォルフの低い、しかし岩をも砕くほどに力強い声が、わたしの耳元で、確かな温もりと共に囁かれた。その声に含まれた、絶対的な、そして揺るぎない信頼が、氷のように冷え切っていたわたしの心を、再び奮い立たせる。
わたしは、ゆっくりと背筋を伸ばし、民衆の一人ひとりの顔を、その瞳の奥にある光を、逸らすことなく、しっかりと見据えた。その瞳の奥底にある、隠された真実を切に求める、か細い光を見逃さないように。
わたしは、もう決して逃げない。この国の女王として、彼らの前に、凛として立つのだ。
その時だった。
幾重にも重なる人垣の中から、甲高い、しかし冬の朝の空気のように澄み切った子供の声が、高らかに響き渡った。
「あ! 王家の立派な馬車だ! すごい、お日様の光でピカピカだ!
あの緑の髪のお美しい方は……女王様だ! 女王様がお帰りになったんだ! 本当に、病気がすっかり治ったんだね! よかったね、お母さん!」
その天使のような声に、まるで堰を切ったかのように、人々の囁きが波紋のように広がった。
「女王陛下……? 本当に、我らが女王陛下がお戻りになられたというのか……? たしかに、お顔の色もすこぶるお元気そうだ……」
「しかし、もっともらしく流されていたあの噂はなんだったのだ……。暴虐女王だの黒髪の巫女だの、宰相こそ憂国の士だの。もう、何を信じていいのやら、わけがわからん」
「馬鹿を言うな! 宰相こそが、我々民を騙していたのだ! 現に勅命が出てから物が流れ出しただろうが。物価の高騰も抑えられたし、商売だって再開できた」
「あの気高く、そして慈愛に満ちたお美しいお姿を見ろ! あれこそが、我らを救った精霊の巫女、そして、待ち望んだ女王陛下のお姿ではないか!」
その熱のこもったざわめきは、期待と不安が複雑に綾を織りなす、どこかぎこちない、しかし力強い響きをしていた。
彼らの心は、まだ一筋縄ではいかぬほどに、揺れ動いている。しかし、その喧噪の只中にあって、わたしは、ほんの少しずつ、確かな希望の光が、まるで暗闇に灯る蝋燭のように、灯り始めているのを感じる。
城壁の見張り台に立つ兵士たちが、一斉にその剣を高く掲げ、寸分違わぬ敬礼の姿勢を取る。その引き締まった姿は、彼らの女王への揺るぎない忠誠を、何よりも雄弁に示していた。
それを合図にするかのように、再び、軍太鼓の音が、三度、厳かに、そして高らかに打ち鳴らされた。今度は輝かしい勝利を祝うかのように、その荘厳な音色は王都全体にくまなく響き渡り、新しい時代の到来を、高らかに告げているかのようだ。
そして、誰からともなく、最初はどこかためらいがちだった温かい拍手が、一人、また一人と加わり、やがてそれは、春の雪解け水が集まって大河となるように、大きな、大きなうねりとなって、広場全体へと力強く広がっていった。
その万雷の拍手は、まだ完全な心からの喝采ではなく、どこか手探りのような、それでいて確かな、燃えるような熱を帯びている。彼らの固く閉ざされていた心が、まるで春の陽光を浴びた蕾のように、少しずつ、わたしに向かって開かれようとしているのを、肌で感じる。
「女王陛下、万歳!」
「お帰りなさいませ、我らが女王陛下!」
「よくぞご無事で! 我々は、この日をどれほど待ち望んだことか!」
「我らが美しき女王陛下に──神のご加護があらんことを!」
「リーディス王国に、永遠の栄光あれ!」
いつしか、そのような熱狂的な声が、広場のあちこちから、まるで地鳴りのように湧き上がり始めた。その声は、次第にその勢いを増し、王都の空気を震わせ、広場全体を、興奮の坩堝へと変えていく。
その歓喜の声は、まるで春一番の嵐のように、古い時代の淀んだ空気を、ことごとく吹き払い、清浄な新しい息吹を、この王都へと運んでくるかのようだ。
雪を蹴って、彩り豊かな紙片──それは、おそらく王国の平和と繁栄、そして復興を願う人々の、切なる祈願札なのだろう──が、まるで祝福の天使が舞い降りたかのように、わたしたちの頭上に、きらきらと舞い散る。その光景は、あまりにも幻想的で、そして言葉を失うほどに美しかった。
そのあまりにも温かく、そして感動的な光景に、わたしの目から、熱い、熱いものが止めどなく込み上げてくるのを、もうどうすることもできなかった。それは、心からの安堵の涙であり、民への深い感謝の涙であり、そして、輝かしい未来への、揺るぎない希望の涙だった。
◇◇◇
わたしたちの乗る御料馬車は、ゆっくりと、しかし少しの揺らぎも見せず堂々と、その熱狂する人々の大波を割って、王宮へと進んでいく。ヴォルフのその泰然とした存在が、わたしに言葉では言い尽くせぬほどの勇気と、そして揺るぎない力を与えてくれる。
城門を厳かにくぐり、優美な城壁通路を抜け、城郭前の広大な広場へ。そこでは、近衛隊長代理が、最小限の、しかし精鋭揃いの兵を率いて、わたしたちを厳粛に出迎えた。
彼の読み上げる簡潔な歓迎の辞は、飾り気のない短いものだったが、しかしその一言一句に、心のこもった温かい歓迎の気持ちが溢れていた。
これは、おそらくヴォルフが手配した「非公式な入城」という形なのだろう。それでも、その場にいた全ての者たちの瞳には、わたしへの疑う余地のない、確かな敬意の光が宿っていた。
彼らのその真摯な眼差しが、わたしの心を、より一層強くする。
広場の一角では、王宮直属の軍楽隊が、リーディス王国の古き、そして勇壮なる凱旋の歌を、静かに、しかし魂を揺さぶるように力強く奏でている。その気高い調べが、わたしの心を激しく震わせた。
それは、遠い遠い昔、このリーディス王国建国の英雄たちが、輝かしい勝利を手にこの王都へ凱旋した時に奏でられたという、伝説の曲だという。その勇壮かつ悲壮な旋律が、今のわたしたちの置かれた状況と不思議と重なり、熱いものが胸に迫る。
そして、わたしは知っている。リーディス王家の始祖が伝説の精霊族の子孫であり、あのデルワーズが遺した愛娘エリシアの血統を受け継いでいること。
それを裏付けるように、時代の節目毎に王家に誕生する黒髪の巫女は、デルワーズとまったく同じ容姿をもって生まれるのだと。──それはきっと宿命、あるいは呪いのようだ、とわたしは感じていた。
──でも、それは違う。これは願いを伝えるためだったんだ。
今のわたしにはそう思える。胸の内で、何かがカチリと音を立てて噛み合ったような、そんな確信があった。
呪いの鎖を断ち切る力を、悲しみの淵から立ち上がる希望を、デルワーズは遥かな時を超えてわたしたちに託したのだ。この黒髪が示すものは、逃れられない宿命ではない。それはきっと、かつて人であることを願った殲滅兵器が、娘に託した愛情のしるしであり、未来へと向かう人々への、祈りに似た小さな光だったのだ。
音楽が高らかに響く中で、胸に宿るその想いが熱く脈打つのを感じる。
遠く、あの軍太鼓が、遠ざかりながらも三度、小さく鼓動を刻んだような気がした。
──デルワーズ、あなたの遺した願いは、わたしが受け継ぐわ。
悲しみの連鎖は、“わたしの時代”で終わらせる。そして、ここから始めるのよ。
瞼を閉じ、わたしは再びゆっくりと目を開けた。
今ならば、この先の道を恐れずに歩いていける──そう、信じて。
侍従たちが、いつの間にかわたしたちの後方の馬車を、人垣と柵で巧みに囲み、ロゼリーヌとリュシアンを、決して人目に触れぬよう、細心の注意を払いながら、速やかに王宮の奥へと案内していく。
ロゼリーヌは、顔が隠れるほど深くフードを目深に被り、まるで侍女の一人であるかのように、静かにその流れに従っていた。リュシアンは、馬車の小窓から、ほんの一瞬だけ、わたしに向かって小さな手を健気に振った。
そのいたいけない小さな手が、わたしに大きな勇気を与えてくれる。彼のその曇りない純粋な信頼が、わたしの心を、強く、そして優しく支える。
わたしは、その二人の後ろ姿を、感謝と祈りを込めてそっと見送り、そして、御料馬車の窓から、再び民衆に向き直ると、深く、深く、頭を垂れた。それは、女王としての心からの感謝であり、そして、この戦いで多くの、あまりにも多くの尊い犠牲を出してしまったことへの、心からの贖罪の意を込めて。
民衆は、そのわたしの思いがけない姿に、再び、割れんばかりの、大きな、大きな歓声を上げた。その声には、もう先程のような戸惑いやためらいの色はなく、純粋な喜びと、そして未来への輝かしい期待が、溢れんばかりに満ちているように感じられた。彼らの心が、わたしに、完全に開かれた瞬間だったのかもしれない。
その熱狂的な歓声は、わたしにとって、何よりも温かく、そして力強い励ましとなった。
やがて、御料馬車は、王宮外郭の、古色蒼然とした通用門をゆっくりとくぐり、静かで、どこか懐かしい空気に満ちた石畳の回廊へと入っていく。そのひんやりとした回廊は、どこか懐かしい、古い石と、そして幾多の歴史が刻まれた、厳粛な匂いがした。
そこには、一人の老人が、まるで古木のように、静かに、しかし威厳をもって佇んでいた。一点の染みも許さぬ、完璧な執事服にその身を包み、その背筋は、その重ねた歳月を感じさせないほど、驚くほどに真っ直ぐに伸びている。
コルデオ──かつて先王の右腕として、その辣腕を振るった有能な文官にして、今や、わたしが最も信頼を寄せる、忠実なる侍従長。
彼のその懐かしい姿を認めた瞬間、わたしの胸に、ようやく王都へ辿り着いたという深い安堵と、そして同時に、父君の容態への、身を焦がすような激しい不安が、再び激流のように込み上げてきた。
ヴォルフが馬車を静かに止めさせ、わたしをそっと、しかし力強くエスコートしてくれる。その逞しい手が、わたしの震える肩を、確かな温もりで力強く支えてくれる。
わたしは、まるで鉛のように重い、よろめく足を叱咤し、コルデオの元へ、夢中で駆け寄った。
「コルデオ……! よかった、ご無事だったのですね……!
わたしはあなたに、勅命代行などというあまりにも危険な任務を、無理やり押し付けてしまいました。道中、何かあったのではないかと……本当に、本当に、心配していました……!」
わたしの、もはや感情のままに、まとまりのない言葉の羅列にも、彼はいつものように、あくまで冷静に、しかしその瞳の奥には深い安堵の色を浮かべて返答した。
「とんでもございません、メービス様……。
よくぞ、ご無事で……。このコルデオ、どれほどこの日を、指折り数えて待ち望んだことでございましょうか……。陛下のお帰りを、そして、リュシアン殿下とロゼリーヌ様のご無事を、一日千秋の思いで、ただひたすらにお待ち申し上げておりました。
……少々お窶れになったご様子ではございますが……わたくしには、より一層、気高く、そしてお強くなられたように、お見受けいたします……。
その凛々しいお姿を、こうして再び拝見することができ、わたくしは……。これ以上の喜びは、望外の幸せは──ございません……。」
「ありがとう、コルデオ。この旅路は短いようで長いものでした。辛いことも苦しいこともたくさんありました。でも、おかげで多くのことを知り、学ぶことができたように思います。わたしにとって、これは立ち向かわなければならない試練だったのかもしれません」
「よくぞ、よくぞ乗り越えられました……」
彼は、その皺深い顔を、抑えきれない喜びと心からの安堵でくしゃくしゃにしながら、わたしの冷え切った手を、力強く、そして温かく握りしめた。
その手は、驚くほどに力強かった。そして、その深い慈愛に満ちた瞳には、美しい涙が、きらきらと光って滲んでいる。
「状況説明は後で結構です。それよりも、父上は……? いま、父上のご容態は、どうなのですか!? まさか……まさか、もう、この世にはおられないなどと……そんなことは……。
お願い、コルデオ、教えて……!わたしは、父上に、一刻も早く……! お伝えしたいことが、山ほど、山ほどあるのです……!」
わたしの声は、必死の形相で、まるで木の葉のように細かく震えていた。今にも堰を切ったように泣き出してしまいそうなのを、ただ必死で堪えている。彼の口から、聞きたくない、最悪の言葉が告げられるのではないかと、恐ろしくて、恐ろしくて、たまらない。
コルデオは、わたしのその悲痛な言葉に、一瞬、痛ましげにその目を伏せたが、すぐに顔を上げ、落ち着いた、しかしどこか深い悲しみを堪えるような、絞り出すような声で言った。
「……どうかご安心を、メービス様。先王陛下は、まだ、ご存命でございます。……あなたの、そして、ロゼリーヌ殿とリュシアン殿下のご到着を、ただひたすらに、それはもう、ただひたすらに、お待ちかねで──ございます。
毎日のように、あなた様のお名前を……。そして、『我が娘は、必ずや、あの日の約束を果たすであろう』と、そう繰り返し仰せでございます。」
その言葉に、胸の奥で張り詰めていた氷が、ひとひらずつ溶けていくのを感じた。全身の力がふっと抜け、震える唇から、深く、ゆっくりとした息が漏れる。
「ああ……よかった。本当に……本当によかった。──父上……」
たとえメービスとしての記憶を持たないとしても、老いた瞳に慈しみを湛える人は、紛れもなく“わたしの父”だ。
その確かさが、静かに雪を融かす春の陽射しのように、心の底まで沁みわたる。
「国中より、腕利きの回復術師を集め、昼夜兼行で陛下の尊き生命の灯火を、何とか、かろうじて繋ぎ止めてはおります。しかし……それも、もはや限界に近づいております……」
部屋を満たす薬湯の濃い匂いが、彼の言葉の重さを裏付けていた。
「侍医団も、これ以上は手の施しようがないと……。
……お辛いことを申し上げるようで、まことに恐縮では──ございますが、メービス様、あまり長くは……。今すぐにでも、お会いになられた方が……。陛下も、それを心の底から望んでおいででございます」
コルデオの声が、そこで、まるで糸が切れたように途切れた。その重い、重い沈黙が、何よりも雄弁に、わたしの心に冷たくのしかかる。わたしは、彼の言わんとしていることを、痛いほど、身を切られるように理解していた。
この世界の回復術は、生命の神秘なる交感による自然治癒力を高めるものであって、決して万能の秘術ではない。
「……父上はわたしの帰りを信じて、ただひたすらに、待っていてくださっていたのですね……。わたしが王都を発つ前に託したあの手紙を、そして、あの日の約束を、心の底から信じて……」
「はい。……左様でございます。……陛下を今、この現世に生き永らえさせているのは、ひとえに、メービス様のご帰還を、そして、リュシアン殿下とのご対面を、心の底から強く信じ、待ち望んでおられるからこそ、と……わたくしには、そう思えてなりませぬ。
陛下は、あのお手紙を、来る日も来る日も、ご自身の枕元で読ませてくれと……。そのお言葉だけが、陛下の御心を、かろうじて支えておられるのでございます。
……さあ、メービス様、こちらへ。わたくしがご案内いたします。一刻も早く、陛下にお顔を見せて差し上げてください」
その言葉に、わたしは唇を強く噛み締めた。父上が、どれほどの切なる想いで、わたしを待っていてくれたのか。その痛いほどの想いに、わたしは、この身の全てを賭けて応えなければならない。
「そうですね、コルデオ。……すぐにでも、父上に面会させてください。そして、リュシアンと、ロゼリーヌさんを、お引き合わせしたいのです。一刻も早く……。父上の、最後の、そして切なる願いを、叶えてあげたいのです……。
それだけが、わたしの、今の……。わたしにできる、唯一のことなのかもしれません……」
わたしのその決意に満ちた言葉に、コルデオは、深く、そして静かに頷いた。彼のその深い知恵を湛えた瞳にも、わたしと同じ、熱く、そして悲しい想いが宿っているのが、痛いほどにわかった。
◇◇◇
王宮内・執務翼の清澄な静けさに包まれた控え室。そこは、わたしの私室のすぐ手前にあった。
ルシル軍医が、再びわたしの手首を取り、静かに脈を診て、そして顔色を注意深く窺う。彼女の美しい柳眉は、依然として厳しく寄せられている。
「陛下、ようやく王宮にお戻りになられたとはいえ、無理は禁物でございます。まだご回復の途上にあり、長旅の過酷な疲れも、お身体の深くに溜まっておいでです。どうか、くれぐれもご自愛くださいませ。あなたの尊いお身体の代わりは、この世の誰にもできないのですから」
彼女のその毅然とした、しかし温かい心遣いに満ちた言葉に、わたしは反論することなどできなかった。ここでわたしが病の床に倒れてしまっては、元も子もない。それに、王宮筆頭医師としての彼女が言うことは、確かに、そして疑いようもなく正しいのだから。
「……わかっています、ルシル。あなたの指示には、必ず従います。……でも、時間は、もうあまり残されていないのでしょう? 父上だけではありません。この国も……。
この一瞬にも、事態は刻一刻と深刻さを増しているのかもしれないの……。もう、本当に、一刻の猶予もないのかもしれません……」
コルデオがわたしの代理として発した勅命は、あくまでも緊急の措置に過ぎない。宰相の全ての権利を剥奪し、貴族院の機能を一時的に凍結したところで、それは短期的な効果しか望めないだろう。むしろ、それによって引き起こされる国内の混乱は、避けられないといえよう。
また、クレイグと裏で通じていた隣国アルバートと、〈北海自由協約〉に名を連ねる三国が、今後どのように動いてくるかも、全く不透明な状況だ。かつての忌まわしい因縁も含めて、何らかの外交的、あるいは軍事的な圧力を掛けてくることも、十分に予想できる。
わたしの不安げな問いに、彼女は静かに、そして深く頷いた。その澄んだ瞳には、深い悲しみの色が、水面の月影のように揺らめいている。
「……陛下のそのご懸念は、ごもっともでございます。ですが、今はまず、ご自身の完全なるご回復を最優先にお考えくださいませ。それが、結果として、全ての事態を良い方向へと導くと、医師であるわたくしは、固く信じております。
……それに、あなた様お一人で、全ての重荷を背負う必要など、どこにもないのです。ヴォルフ殿下も、コルデオ様も、そして、勇敢なる銀翼騎士団の皆も、あなた様を命懸けでお支えするために、ここに、こうしているのですから。
……わたくしも、あまりにも微力ではございますが、この命ある限り、全力でお支えいたしますわ」
その時、部屋の外で、バロック卿やステファンたちの、力強く、そして頼もしい声が聞こえてきた。
彼らが、この控え室の周囲の警備配置について、的確な指示を出しているようだ。その張りのある声は、どこまでも頼もしく、そしてわたしの不安に揺れる心を、そっと勇気づけてくれる。
──そうだわ……わたしは、まず、このリーディス王国の現状を、寸分違わず正確に把握しなければならない。そして、真の平和を、この手で取り戻す。それが、父上への、そして、この国を愛する全ての人々への、わたしの務め……。この国の未来は、今、わたしのこの細い双肩にかかっている……。
わたしは、コルデオに向き直り、静かに、しかし鋼のような力強い声で言った。
「コルデオ、すぐに政務官たちを招集してください。そして、わたしは、明日の朝、この王都の全ての民に向けて、そして国内の隅々にまで届くように、わたしの揺るぎない決意を、高らかに布告するつもりです。
そして、その前に、父上には必ず……。リュシアンとロゼリーヌ様をお連れして、必ずや、お会いいたします。
……それから、宰相派の残党の動き、そして貴族院の現在の状況についても、詳細な報告を。一刻も早く。時間は、もう、あまり残されていないのかもしれないのですから。
わたしは、もう決して迷いません。このリーディス王国の女王として、ただ、為すべきことを、この身の全てを賭けて為すだけです」
その凛とした言葉に、コルデオは、驚いたようにその目を見開き、そして、深く、深く、心からの敬意を込めて頷いた。彼のその深い知恵を湛えた瞳には、新たな、そして燃えるような決意の光が、鮮やかに灯っていた。
「かしこまりました。
宰相派の動きにつきましては、ダビド殿と私の信頼厚き配下が対処しております。詳細は速やかにご報告いたしますので、今後の方針はその後お決めください。
まずはご面会の段取りを整えましょう」
彼が退出する間際、わたしはふと、薄暗い回廊の奥で、何者かの重い衣擦れの音と、微かに古いインクと香油の入り混じったような、不思議な匂いを感じた気がした。
父上との面会を目前にした興奮と緊張が、そうさせたのかもしれない。床に、鴉の濡れ羽にも似た、油のような鈍い光沢を放ち、触れたならば、まるで冬の夜空の星を宿したかのような、ひやりとした冷たさを感じさせるだろう黒い羽根が一枚、ひらりと落ちていたが、今は、余計なことに気を取られている場合ではなかった。
“即位後初の街頭演説”──それは、新しい時代の輝かしい幕開けを、高らかに告げる、わたしの最初の、そして最も重要な戦いとなるだろう。
その戦いに、わたしは決して負けるわけにはいかない。この国の輝かしい未来のために、そして、わたしが愛する全ての人々のために。わたしの胸の奥で、希望の炎が、より一層、その勢いを増して、力強く燃え上がった。
◆ メービスの凱旋は、デルワーズの魂の“帰還”
象徴的なのは、御料馬車に横たわるマウザーグレイルと、その対になるようにメービスの左腕に巻かれた栗色のリボンです。
右手には古代科学の暴力の結晶、左手には未来への小さな祈り。
この対比が、かつて「心なき殲滅兵器」として生まれたデルワーズの末裔であるメービスが、「母のように人々を包む存在」へと変容していく物語の軸を示しています。
デルワーズの始まりが、“精霊族の巫女”という最も尊い存在の遺伝子を用いた皮肉な生体兵器であり、彼女がマウザーグレイル無しでは暴走するほどの力を宿していたという事実は、この凱旋シーンに潜む静かな緊張を裏打ちしています。
つまり、今この瞬間、王都に帰還したのは「女王」ではなく、かつて世界を滅ぼしうる存在だった“力の末裔”なのです。
にもかかわらず、王都は彼女を拒絶しませんでした。それはなぜか――
それこそが、デルワーズが遺した最大の贈りものであり、この話における本質なのです。
◆ 「巫女と騎士のシステム」は“孤独な母”の反省である
新たに明かされた補足設定により、巫女と騎士のシステムの真の意味が浮かび上がります。
「だってお母さんだから。だから巫女と騎士のシステムは、自分のように一人で背負ってはだめだと定めたのだ……」
これは第669話で描かれるメービスとヴォルフの関係に直接重なります。
メービスが凱旋時に抱く不安も、民衆の視線に怯える瞬間も、ヴォルフの「俯くな」という一言で支えられる。
あの言葉の背後には、単なる恋情でも忠誠でもない、“並び立つ者としての対等性”が宿っている。
つまり、「力の根源を持つ巫女」メービスが「独りではない」と知る構造そのものが、デルワーズの痛切な教訓をなぞっているのです。
この時点で、メービスとヴォルフは無意識のうちに、デルワーズとライルズの“再演”でありながら、より健やかな形で悲劇の連鎖を断ち切ろうとしているのだと読めます。
◆ 軍太鼓の三度は、“母なる存在”の胎動
軍太鼓が三度鳴り響きます。
馬車の出立(決意の胎動)
城門通過(未来への扉の開閉)
王都広場での勝利宣言(民衆の心を動かすリズム)
これは単なる演出装置ではなく、デルワーズという母の子宮から新たに生まれる世界の鼓動です。
“孤独な兵器”だったデルワーズが、自分の子とその子孫(リーディス王家)に、未来を刻むリズムを遺したのだと捉えれば、その音は悲しみではなく、再生の合図となる。
そして、最終的に王都広場に響く「メービス万歳」は、デルワーズが抱くことのできなかった“娘を抱きしめる歓喜”の代理でもあります。
メービスが民衆の声を受け入れ、そして彼らを抱き返すように頭を垂れる描写は、デルワーズが成しえなかった未来のやり直しなのです。
◆ 「呪いではない」――宿命の解放
「黒髪の巫女は呪われた存在」
この言葉を、民衆も、王家も、そしてメービス自身も半ば信じてきた。
しかし、彼女は自らの黒髪を“祈りのしるし”として受け入れる。
「それはきっと、かつて人であることを願った殲滅兵器が、娘に託した愛情のしるしであり、未来へと向かう人々への、祈りに似た小さな光だったのだ。」
これは呪いからの完全な反転であり、精霊魔術の怪物として生まれたデルワーズが、愛するために生き、祈る母として消えていったことの、最も静かで尊い証言です。
メービスはこの証言者として、世界に「力ある者の倫理」と「母性の矜持」を刻む存在へと生まれ変わったのです。
◆ 結びに代えて
今話は、物語世界の原点と現在を重ね合わせる章です。
過去に孤独を選んだ者がいたからこそ、いま、寄り添って歩むふたりがいる。
母の祈りが断たれたからこそ、娘の覚悟が未来を切り拓く。
この章の最後に灯る“希望の炎”とは、科学でも精霊でもない、赦しと継承のあかしであり――
それは、母であり、娘であり、巫女であり、兵器であり、女王であるすべてが、ついにひとつになった瞬間なのです。




