心の傷、言葉の刃
明とほとんど言葉を交わしたことのない私が、弓鶴の代わりなど務まるのだろうか。冷たい不安が渦を巻き、恐怖へと変わっていく。呼吸が苦しい。
茉凜は目隠しを外し、私に振り返ると、舌を出して照れ笑いを浮かべた。その笑顔が、私の心の影をさらに際立たせる。
「あはは、負けちゃった。勝負はアキラちゃんの勝ちだね」
その言葉に、怒る気力も失せた。立ち尽くす私の前で、彼女の表情はどこか他人事のようだ。空虚感が心を埋めていく。
この状況を招いたのは彼女なのに、私の心情など知る由もない。悪気がないと分かるだけに、その無邪気さが苛立ちを募らせた。
そのとき、激しい怒りが明の声となって迸った。
「あんた、あたしを馬鹿にしてるの?」
驚いて明の方を見つめる。彼女の肩が激しく震えていた。その顔には、深い闇の底から湧き上がるような、鋭い感情が滲んでいた。
茉凜は困惑の色を浮かべたまま、静かに応じた。
「どうしたの、アキラちゃん?」
その無頓着な反応が、さらに火に油を注いだ。明は茉凜に詰め寄り、その声は怒りと混乱に満ちていた。
「あんた、最初から勝負する気なんてなかったでしょ? 昨日、自分から真剣勝負しようとか言ったくせに。いったいどういうつもりなの?」
その言葉を受け、茉凜の笑顔の端が、一瞬だけ硬く揺らいだ。すっと表情が冷える。瞳の奥に、普段とは違う、隠された感情が揺らめいていた。その無感情な眼差しに、私の心も引き込まれた。彼女の口元にはまだ笑みが残っていたが、それは薄い膜のように張り付いて見えた。
「わたしは、ちゃんとやったつもり。でも、全然敵わなかった。やっぱりアキラちゃんはすごいよ」
明は、その返答にいら立ちを隠さない。
「へらへらしやがって。あんた、それであたしに同情してるつもり? ふざけないでよ」
明の言葉には、内なる憎しみと怒りが込められていた。
茉凜は一瞬黙り込む。波が寄せては返す音だけが、やけに大きく聞こえた。その合間が永遠のように伸び、呼吸の音さえ罪に思える沈黙だった。
やがて茉凜は小さく息をついた。
「同情か……。違うんだけどな。わたしはあなたにも弓鶴くんにも、仲直りしてもらいたいって思ったの。昔のことはわたしはよく知らない。けど、せっかく久しぶりに会えたんだから、ちゃんと向き合って話をしてもらいたいって───」
「それが余計だって言ってるのよ。あんたにあたしの何がわかるっていうの? あたしはね、あんたなんかここで殺してやりたいくらい大嫌いなんだ。――でも、弓鶴くんがいる。あんたがいないと死んじゃう。だから仕方ない。そんなあんたにだけは、絶対に言われたくない。なんでこんなやつが弓鶴くんの隣にいるのか、本当に腹が立つ!」
明の言葉が茉凜を遮り、私の胸に鋭く突き刺さった。
その痛みは、体内の深い闇を引きずり出されるようだ。私自身の感情さえも、圧倒し、引き裂いていく。
「ごめんなさい……。そんなつもりじゃなかったの……」
茉凜は俯いて呟いた。その声はか細く、指先がスカートの裾を固く握りしめていた。
明は一息つくと、今度は私をじっと見据えた。
「弓鶴くん、こいつは事がどれだけ深刻なのか、まるで理解してないんじゃないの? じゃなかったら、こんな呑気な顔なんてしてられないよ。あんたに対する責任がどれだけ重いか、ちゃんと知るべきだわ」
その言葉に、冷や汗が背中を伝う。彼女が何を言おうとしているのか、すぐに分かった。
「やめろ、明。茉凜は知る必要などない」
明は私の声を無視し、拳を強く握りしめる。必死に声を絞り出した。
「彼は、命を捨てる覚悟で……あたしたち深淵の血族にかけられた呪いを解こうとしている。あの黒鶴の力を使って、精霊子を受け取る器を――死の淵の、ぎりぎりまで拡大させようとしている。それが、どれだけ危険なことか……。
今は、あんたという“安全装置”のおかげで……なんとか、なってるかもしれない。
でも――いつ死んだって、おかしくないんだ!」
場の空気が凍てつく。明の声は冷たい刃となり、その場にいた全員の時を止めた。
茉凜の肩が震え、その瞳が虚ろに宙を彷徨う。普段の明るさは消え失せ、心の奥底が硬く凍りついたかのようだった。
「彼がどんなに苦しんでるか、どんな気持ちでいるか、あんたはちゃんと理解してるの? そんな平気な顔してられるのが、あたしには信じられない」
明の鋭い視線が、茉凜を射抜く。場の空気はさらに重く、冷たく沈んでいった。その圧倒的な緊張感に、私の心も押し潰されそうだった。
茉凜は私の前で、ただ言葉を失い震えている。その瞳に浮かぶ影は、私がもたらした残酷な現実に、彼女が押し潰されかけていることを示していた。
明の顔に、わずかな後悔と戸惑いが滲む。それでも彼女は感情を抑え込み、冷静な声で言った。
「言いたいことは言ったから、あたしは帰る。じゃあね……」
その一言が、私たちの間に重く響き渡った。明と新庄が静かに去っていく背中を見送る。私の心には、深い虚無感と罪悪感だけが広がっていた。
不気味な静寂の中、私はただ立ち尽くす。茉凜の心に、どれほど深い傷を負わせてしまったのか。そう思うと、喉が締めつけられるように痛んだ。
すべては、私が招いたことだ。茉凜も、明も、そしてこの弓鶴も。私が不幸にした。感情の波が、私を飲み込んでいく。
水平線に傾いた陽が、ゆっくりと海に沈んでいく。刻一刻と赤が失われ、世界が青と紫のグラデーションに塗り替えられていく。その穏やかすぎる時間の流れが、私の胸の奥の罪悪感と重なって、息を詰まらせた。潮風だけが、容赦なく過ぎていく時を告げ、私を置き去りにしていく。
各キャラクターの感情の衝突と対立が中心にあり、その結果として生じる緊張感が物語を進行させています。弓鶴が自分の罪悪感を抱えながらも、周囲との関係をどうにかしようとする一方で、茉凜はその善意が空回りし、無力感に苛まれ、明は弓鶴の態度に対する怒りと保護欲から、激しい感情をぶつける。