華やかな欺瞞、或いは真実の帰還
ボコタの街を後にしてから、さらに幾日かが過ぎようとしていた。
馬車の窓から流れゆく景色は、長く続いた雪景色から、次第に人の営みの温もりを映し始める。
まず、陽光にきらめく雪が道の端へと追いやられ、次に、湿り気を帯びた黒い土が顔を覗かせた。そして、その大地を耕す人々の逞しい姿や、のどかに草を食む家畜の群れが、そこかしこに見受けられるようになる。
その一つひとつが、長きにわたり焦がれた王都の近さを、柔らかな筆致で描き出していく。
しかし、近づくにつれて、わたしの胸をしめつけるのは、甘やかな期待ばかりではなかった。むしろ、言いようのない緊張の糸が、心の弦を張りつめさせてゆく。
砂ぼこりを孕んだタフタの袖が、手首にかすかにざらつく感触に、こわばった肩の芯がいっそう重く感じられた。
王都を離れたのは、いつの日だったろうか。
王宮の回廊に響いた権謀術数の囁き、硝子細工のように張り詰めた空気の中で交わされた言葉の刃。あの息詰まる日々。
策略の果て、わたしはあえて宰相クレイグ・アレムウェルの前に恭順の仮面をつけ、『無力な小娘』と侮らせた。そして、リュシアン殿擁立という偽りの約束を与え、彼みずからが意気揚々と車列を率いて男爵家へと向かうよう仕向けたのだ。
それは、狡猾な狐を罠にかける猟師のように相手の油断を誘い、反撃の刻を稼ぐための、わたしなりの、か細くも必死の抵抗であった。
そうして得た間隙に、伯爵生存という一条の光を見出し、北の地で反撃の狼煙を上げるため──わたしとヴォルフ、そして忠実なる侍従長コルデオは、夜を徹して入念な計画を練り上げたのだった。
あの夜の密談の熱っぽさ、胸に秘めた決意の重さが、まるで昨日のことのように、鮮烈に胸の奥に蘇ってくる。
◇◇◇
まだ東の空が瑠璃色に染まり、一番星が宝石のように淡い光を瞬かせている、そんな夜明け前。王都の巨大な北門城壁が、地平線の彼方に、その荘厳なシルエットを現した。
城壁の下は、日の出にはまだ早いこの時刻にもかかわらず、にわかに人の気配でざわついていた。
遠駆けであろうか、数騎の馬が刻む蹄の音がりりしく響き、夜明けと共に開門を待つのであろう商隊の荷馬車が、重々しい車輪の音を軋ませる。そして、夜を徹して警備に就く衛兵たちの、鎧が擦れ合う硬質な音。
それらの音に混じって、わたしには、もう一つ、別の種類のざわめきが聞こえてくるような気がした。それは、ひそやかな、しかし抑えきれない期待と不安を孕んだ、大勢の人々の声。集まっている民衆の気配。馬車の窓の布地一枚を隔てた外の囁きが鼓膜をそっと震わせ、頬の産毛にまで鳥肌を立てた。
「……ヴォルフ、あれは……。まさか……」
わたしが馬車の小窓をそっと開け、吐息のような不安げな声で囁くと、すぐ傍らを愛馬シュトルムでゆるやかに進むヴォルフが、静かに頷いた。磨かれた鋼のような彼の横顔は、いつになく険しく、緊張の色を隠さない。
「既に噂が広まっているのだろう。北方で起きた忌むべき騒乱を鎮圧した銀翼騎士団が、この夜明けと共に帰還すると。……そんな噂がな。一体、どこから流れたものかは見当もつかんが」
一目、その姿を見ようと、夜明けの冷気の中、どこからともなく集まってきたのであろう、市民たちの小さな人垣が発する、期待と不安が織りなす密やかな囁き声。その囁きの一つひとつが、まるで小さな針で心を刺すように、わたしの胸を締め付ける。
わたしは、そそくさと小窓から離れ、分厚い窓帷をきつく引き、外の気配を遮断する。そして、旅の埃を纏ったままの装いで、馬車の柔らかな座席に深く身を沈めた。
リュシアンは、長旅の疲れからか、ロゼリーヌの膝の上で、まだ幼い寝息を天使のように規則正しく立てていた。
その無垢な寝顔を見つめていると、わたしの胸に、このいたいけない命だけは、何があろうと絶対に守り抜かねばならないという、母性にも似た強い想いが、熱い奔流となって込み上げてくる。
「メービスさま……」
ロゼリーヌが、絹を重ねたような柔らかな声で、心配そうにわたしの顔を覗き込む。彼女の白魚のような手が、そっとわたしの手に重ねられた。
その手は、驚くほどに温かく、心細さに震えるわたしの心を、そっと包み込んでくれるようだった。
車窓のカーテンの、ほんのわずかな隙間から見える、徐々に数を増していく人々の波に、胸の奥が、きゅっと固く強張るのを感じた。心臓が、まるで打ち鳴らされる警鐘のように、嫌な音を立てて脈打っている。
「……大丈夫かしら……。ここにわたしがいると知れたら、民衆がどのような反応を示すか。『影の手』が執拗に流した“暴虐女王”そして“黒髪の巫女”という、あの忌まわしい二つの呪詛が、まことしやかに広まっていると聞くのに……」
──暴虐女王、か。
心の内で、その呪詛を小さく繰り返す。民衆の前に、堂々と姿を現すことなど……本当に、できるというのだろうか……。
窓の外では、雪解けの雫が馬車の屋根を打つ音が、ぽつり、ぽつりと微かに聞こえる。まるで、凍てついた何かが、ゆっくりと溶け出していくような音だった。
元宰相麾下の、蛇のように執拗な諜報組織が流した数々の悪辣な中傷。その根は絶たれたとヴァレリウス参謀は報告してくれたけれど、一度植え付けられた恐怖は、そう簡単には人の心から消え去らないものだ。
ボコタの街の善良な民でさえ、最初はわたしを恐れ、遠巻きにしていたのだから……。
わたしの憂いを帯びた呟きに、ロゼリーヌは泉の水のように澄んだ瞳で、力強く頷いてみせた。
「きっと、大丈夫ですわ、メービスさま。あなた様が身を挺して行ってきたこと、その尊いお姿こそが、揺るがぬ真実でございます。
そして、卑劣な噂の渦中に立たされたリュシアンが、あなた様によって救われ、今こうして共に在ること。これこそが何よりの証ではございませんか。
……それに、あなた様は、かつて魔族大戦を終結へと導いたと謳われる、精霊の巫女。そのような根も葉もない風聞で、民の心が揺らぐことなど、決して──ございませんわ」
手袋の奥で、わたしの指が知らず知らずのうちに強張り、思わず額にかかった淡緑の髪──そう、父がわたしに託した、希望の芽の色をしたウィッグの柔らかな髪を、何度も何度も指先で整えたくなる衝動に駆られる。
この若草色の髪は、わたしを守るために纏った、偽りの仮面。けれど、今のわたしは、この仮面の下にある「本当のわたし」──忌み嫌われた黒髪の巫女としての姿──を衆目に晒すことを、以前よりもずっと、心の底から恐れているのかもしれない。
そして、何よりも、わたしは民衆に対し、ある大きな嘘をついている。それは──
『流行り風邪をこじらせ、重篤な状態で王宮に臥せっている』という、巧妙に仕組まれた偽装工作。
王都を密やかに出立するための、侍従長コルデオが知恵を絞って提案してくれた、周到な作戦。
折しも王都では、“感染力の強い風邪”が猛威を振るっており、それはまさに絶好の口実となったのだ。
女王陛下と王配殿下、お二人までもが感染し、病の床に伏せっているという噂を広めれば、事態の深刻さとその真実味は、いやがうえにも増す。そうなれば、いかに権勢を誇る宰相派といえども、軽々しく王宮を詮索し、世論の激しい反感を買うような愚は犯せなくなるはず。
『女王、敵に非ず。病に倒れ、王都から動くこと叶わず』
すべては、敵の目を欺き、油断に油断を重ねさせるための、計算され尽くした計略だった。そして、結果として、その作戦は望外の功を奏したといえよう。
当初の予定では、帰還の際はまず人目を忍んで離宮へ戻り、そこで数日をかけて「女王の病状が快方へ向かっている」という情報を徐々に流し、然るべき後に公式の場に姿を見せるという手筈だった……。
けれど、せっかくここまで来たというのに、王宮をただ窓から眺めながら、何日も息を潜めて待つだなんてことはできない。
――だから、このまま行く。
あの幾重にも連なる壁の向こうにこそ、わたしたちの次なる戦場が、その口を大きく開けて待ち構えている。
そして何よりも、父上が、わたしの帰りを、一日千秋の思いで、病の床で待ち望んでおられる……。
焦りと苛立ちが、まるで春霞のように、じわりじわりと心を覆っていく。わたしは、そっと自分の両手を固く握りしめた。その指先が、まるで冬の夜空に置かれた氷のように、冷え切っているのがわかった。
◇◇◇
鈍い車軸の音がやみ、馬のいななきが間近に聞こえてきた。城門の手前で、馬車がゆっくりと停止したのだ。
周囲のざわめきが、まるで堰を切ったように、一層大きくなったような気がする。人々の期待と不安が入り混じる囁き声が、馬車の分厚い壁を透して、わたしの鼓膜を揺らす。
「メービス、少しの間、ロゼリーヌ殿たちと共にここで待っていてくれ。すぐに戻る」
ヴォルフはそれだけを低く告げると、喧騒と朝の冷気の中へと、その逞しい姿を消した。
わたしは、彼のその硬質な言葉に、ただ黙って頷くことしかできない。彼の広い背中が、いつにも増して頼もしく、そしてどこか張り詰めた、近寄りがたいほどの空気を纏っているように見えた。
数分が、まるで永遠のように長く感じられた。
馬車の窓のカーテンの隙間からは、ヴォルフが数名の騎士と厳しい表情で何事か言葉を交わし、そして鋭い眼光で城門の方角を見つめているのが見える。彼が何を考え、何をしようとしているのか、今のわたしには全く見当もつかなかった。
やがて、彼は馬車へと戻ってきた。その精悍な顔には、先程よりもさらに真剣な、決意の光が宿っている。
「メービス、やはり状況が変わった。我々は──まず離宮へ向かう」
「離宮へ……? どうして……? 王宮へ急がなくてはならないのに……! 父上のご容態も、そして王都の緊迫した状況も、一刻も早く、この目で確かめなければ……!」
わたしの焦りを帯びた声にも、彼は揺るがぬ冷静な瞳で応える。
「コルデオからの伝令だ。まずは離宮で態勢を整える必要がある。
……それに、お前も、そのみすぼらしい格好のままで王宮へ乗り込むわけにはいくまい。それでは、我々の立てた緻密な策が無駄になるどころか、民に余計な不安を与えるだけだ」
彼の言葉は、暗にわたしのくたびれた旅装を指している。それは、あの巧妙な偽装工作とも、深く繋がっているのかもしれない。ヴォルフは、わたしが気にするだろうと、あえて疲弊しきった顔色には触れなかったのだろう。
「……わかったわ。あなたの言う通りにする。でも、あまり時間はかけられないわ……。父上が、待っているのだから……」
わたしがそう答えると、彼は短く、しかし力強く頷き、御者へ低い声で指示を出した。
馬車は、威圧的な城門を潜ることなく、王都の堅牢な外壁に沿って、小高い丘の上に静かに佇む離宮へと続く、木立の美しい道を進み始めた。民衆の期待と不安が入り混じったざわめきが、まるで潮が引くように、少しずつ遠のいていく。
離宮は、王宮とは異なり、いかに権勢を誇る貴族派といえども、容易には近づくことのできない場所。そして、わたしとヴォルフが「流行り風邪で静養している」という偽装工作の、まさにその舞台となった場所だった。
◇◇◇
離宮へ到着すると、そこは侍従長コルデオの指示によって、非の打ち所がないほど完璧に手配がなされていた。
出迎えた侍女たちの衣擦れの音と、ほのかに漂うベロニカ花の甘い香りが、長旅の緊張を和らげる。彼女たちは、わたしとロゼリーヌ様、そして眠りから優しく揺り起こされたリュシアンを、奥にある私室へと案内した。
「メービス様、長旅、さぞお疲れ様でございました。まずは、お召し替えをなさいませ。そして、少しでもお身体をお休めくださいませ」
侍女が恭しく差し出したのは、以前わたしがおおやけの場で纏っていたものよりも、ずっと壮麗で、そしてどこか戦いの女神アテナを思わせるような、凛とした気品に満ちたデザインの儀式用のドレスだった。
その純白のシルク地には、銀糸でリーディス王家の気高き紋章が、そして金の糸で聖剣の崇高な意匠が、息を呑むほど繊細に刺繍されている。
「これは……? こんなにも立派なドレス、いつの間に……」
わたしが驚きを隠せずにいると、いつの間にか儀礼用の、白地に金の装飾が映える豪奢な軍服へと着替えたヴォルフが、静かに部屋へと入ってきた。その堂々たる姿は、いつもの無骨な彼とはまた違う、王配としての揺るぎない威厳に満ち溢れている。
「まあ着てみろ。それと──王宮へ向かう時は、俺と一緒に、特別に用意してある御料馬車に乗ってもらう」
その抑揚のない、しかし有無を言わせぬ言葉に、わたしは再び息を呑んだ。今度こそ、彼の真意が、雷に打たれたように理解できた。
「ヴォルフ……あなた、まさか……! わたしに民衆の目の前に出ろと?」
戸惑うわたしに、彼は一切の反論を許さぬ強い口調で、しかしその蒼い瞳の奥には深い深い優しさを湛えて、きっぱりと言い切った。
「そうだ。お前は女王――メービス・マティルデ・アデライド・フォン・オベルワルト=リューベンロート。
『離宮にてしばらく病に臥せっていたが、今は劇的に回復し、離宮での静養を終えて王宮へと帰還する』──つまり、俺たちは“王都から一歩たりとも動いてなどいない”、ということだ」
「ええっ……!? そ、そんな……!」
「それとだ……王権簒奪を謀った卑劣なる宰相の陰謀を打ち破り、リュシアン殿を救い出したのは、女王に雇われ、その全権を託された謎の魔術師“ミツル・グロンダイル”と、しがない放浪の剣士“ヴィル・ブルフォード”なる人物。そして、彼らに影ながら協力した銀翼騎士団の輝かしい活躍によるもの、ということになる。当然、宰相を断罪する勅命も、離宮にいた女王陛下ご自身が発したもの。……そういう筋書きだ」
「それって、あまりにも強引ではないかしら……。それに、ミツル・グロンダイルとヴィル・ブルフォードですって……? それは、わたしたちの……」
彼は、わたしの言葉を遮るように、静かに、しかし諭すように続けた。
「別におかしなことではあるまい。女王の名代が、勅命を受けて動いただけのことだ。
それに、今はまだリュシアン殿の存在をおおやけにすることはできん。無用な混乱を避けるためにも、目立たぬようにしておいた方が賢明だ。
お前は堂々と胸を張れ。民に元気になった、輝かしい姿を見せるんだ。これも女王としての務めだぞ?」
彼の言葉は、有無を言わせぬ力強さを持っていた。それは、王都の民衆にも「女王と王配」という、揺るぎない信頼の並びが一目で分かるように。そして、王家の権威を象徴する御料馬車というおおやけの乗り物から、民の熱い視線と割れんばかりの歓声を受け止め、わたし自身の心に巣食う恐れを払拭させるために。
そして何よりも、偽りの「暴虐女王」という忌まわしい虚像を、わたし自身の、この生身の姿と真実の言葉で上書きしようという、彼らしい無骨で、しかし細部まで計算され尽くした、壮大な演出なのだ。
「あと、侍女に頼んで、ちゃんと化粧もしてもらえ。やはりまだ血の気が薄い。病み上がりなんだから、当然だがな」
ヴォルフが見かねたように、少し眉をひそめて付け加えた。
「そんなに顔色悪い……? 自分では、もうすっかり回復したつもりでいたのに……」
「四六時中、片時も離れずお前を見ているこの俺が言うんだ。間違いない。……だが、その方が『奇跡的なご回復』という我々の演出には、かえって真実味が増すかもしれんな」
彼の口元に、ほんのわずかに悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「……見てるんだ、わたしのこと……。
でも、嘘も方便とは言うけど、結局は民を欺いたことにはならない? それに、あまり派手なことをして、宰相派の残党を刺激することになったら、どうするつもり?
彼らが、黙って指をくわえて見ているとは思えないわ」
わたしの不安を、彼は海のように深い、力強い眼差しで受け止める。
「だからどうしたというんだ。たとえ嘘であろうが、それが誰かを傷つけるような悪しき嘘ではあるまい。それで敵が面白いように釣れるのなら、むしろ好都合というものだ。
それに、お前は何ひとつ間違ったことなどしていない。
実際お前は過労で床に臥せっていたし、そこから力強く回復した。その劇的な過程を、民が最も自然に受け入れやすい形で示してやるだけのことだ」
「なんだか、もう無茶苦茶ね……。でも、あなたの言うことにも、一理あるのかもしれないけれど……」
「綺麗事ばかりを並べていては、あの長く厳しい戦いには到底勝てなかったはずだ。違うか? 清濁併せ呑むという覚悟。それは、あのレズンブールとの関わりを通じて、お前自身も深く理解したはずだ。
……それに、いつまでも影に隠れているわけにはいくまい。いつかは、民の前に凛として立たねばならない。その『いつか』が、ただ、今、この瞬間に来たというだけのことだ。
いいか、メービス。お前はこのリーディス王国の、唯一無二の女王だ。そして、この華々しい凱旋こそが、いまだ都のどこかに潜む宰相派の残党に、お前の輝かしい健在ぶりを、そして彼らの暗黒時代の完全なる終わりを、最も効果的に知らしめることになる。
そして──お前の背負う重荷は、全部とは言わん、この俺が“半分”、いや、それ以上を引き受けてやる。だから、今はただ、ひたすらに前だけを見据えろ。俺が言いたいのは──それだけだ」
彼の言葉は、どこまでも曇りなく真っ直ぐで、そしてわたしの心の奥底に眠っていた、ほんのわずかな、しかし確かな勇気を、優しく呼び覚ますかのようだった。その最後の、力強い言葉が、わたしの胸を熱く、強く打った。
「……本当に、民はわたしを心から受け入れてくれるかしら……? あの呪詛が、まだ心のどこかで彼らを縛っていたら……」
思わず、心の奥底から弱音がこぼれ落ちる。その言葉は、あまりにもか細く、まるで糸のように頼りなくて、自分でも驚くほどだった。
「案ずることはない。お前のその輝かしい姿をひと目見れば、民は必ずやお前を熱狂的に支持するだろう。……そして、この俺が、必ずやお前を守り抜く。どんな時も、お前の傍らにいると固く誓ったはずだ。
……それに、お前が民の前に凛として立つことで、初めてこの長き戦いは終わりを告げる。本当の意味でな。
……さあ、行こう。民がお前を待っている。そして、先王陛下、お前の父君もな。……お前を、心の底から信じているはずだ」
彼のその言葉は、どんな高名な魔術師の秘術よりも、わたしの心を強く、そして温かくした。その瞳の奥に宿る、決して揺らぐことのない鋼のような決意が、わたしに言葉では言い尽くせぬほどの勇気を与えてくれる。
「ええ、そうね。わたしは、前を向いて、正々堂々と進むわ。
ありがとうね……ヴォルフ」
わたしが、本当に愛おしさを込めて呼ぶと、彼は一瞬だけ驚いたように目を見開き、そして、ほんのわずかに、その引き締まった口元を、春の陽光のように優しく緩めた。
◇◇◇
わたしは侍女たちの甲斐甲斐しい手を借りて、息を呑むほどに美しく、しかしどこか戦いの女神を思わせる壮麗なドレスへと、静かに着替える。
純白のシルクと金銀の糸が織りなすそのドレスは、わたしの若草色のウィッグと見事な調和を見せ、鏡に映る自分の姿は、まるで別人のように気高く、そして輝いて見えた。
侍女たちの手で丁寧に施された化粧も、旅の疲れを巧みに隠し、その顔は、確かに一国の女王としての侵しがたい威厳を漂わせている。
ロゼリーヌが、わたしの豊かな髪を、絹のような手つきで丁寧に結い上げ、小さな、しかし清らかな光を放つ真珠の髪飾りを、そっと挿してくれた。その手つきは、どこまでも優しく、そして慈愛に満ちた温かいものだった。
「申し訳ございません、メービス様。ここには陛下のティアラはございませんでしたので……。ですが、この慎ましやかな真珠も、きっと今のあなた様に、よくお似合いで──ございますわ」
控えていた侍女の一人が、恐縮したように小さな声でこぼす。
「いいえ、それには及びません。表向き、わたしは病に臥せっていたのですし、このような内々の帰還は、正式な式典というわけではありませんもの。これで十分すぎるほどです。ありがとう、皆さん」
わたしは、彼女たち一人ひとりの顔を見つめ、心からの感謝を伝えた。
「あと、わたしが王都を留守にしている間、わたしの影武者という困難な役目を務めてくださった方はいらっしゃいますか?」
わたしの問いに、侍女の一人がおずおずと、しかし凛とした態度で前に進み出た。見れば背格好はわたしと寸分違わぬほどよく似ており、栗色の髪が清楚な印象を与える、可憐な少女だった。
「……おそれながら、わたくしめが、その大役を……」と、震えるような、しかし澄んだ小さな声で言った。
「この度は、本当にご苦労さまでした。あなたがその重責を担ってくださったおかげで、わたしは北の地へと向かうことができました。このご恩は、決して忘れません。皆様へのお礼は、また後日、改めてさせていただきますね」
すると侍女たちは一斉に驚き、そして恐縮したように、深々とその細い腰を折った。
「と、とんでもございません、陛下っ。そのような格別のお計らいなど、もったいなき極みでございます。わたくしたちは、ただ、陛下のご無事とご健勝を、片時も忘れずお祈りしておりましただけで……」
「いいえ、あなたたちのその勇気と忠誠があればこそ、わたしたちの勝利への道筋が、より確かなものとなったのです。心から感謝しています。本当に、ありがとう」
そう言って、わたしは彼女たちに対し、わずかに、しかし敬意を込めて頭を垂れた。
「陛下……」
侍女たちは完全に言葉を失い、その潤んだ瞳には、美しい涙が、まるで朝露のようにきらきらと滲んでいた。
──暴虐女王、か。
心の内で、その呪詛を小さく繰り返す。民衆の前に、堂々と姿を現すことなど……本当に、できるというのだろうか……。もし、彼らがわたしを、その冷たい視線で拒絶したなら……その時、わたしは……この身を引き裂かれるような絶望に、耐えることができるのだろうか……。
けれど、ヴォルフはわたしを、心の底から信じてくれている……。そして、ロゼリーヌも、いたいけなリュシアンも……。彼らのその純粋で温かい信頼に、わたしは、この命に代えても応えなくてはならない……。
その時、わたしの細い手を、小さな、しかし驚くほどに温かい手が、ぎゅっと力強く握りしめた。
いつの間にか目を覚ましていたリュシアンだった。彼の美しい灰色の瞳が、不安と、しかしそれ以上の、子供らしい真っ直ぐな信頼を込めて、わたしをじっと見上げている。
「メービスさま……行こう……」
「リュシアン……」
「あなたは、このリーディス王国の、たったひとりの女王様なんだもの。ぼくも、いつか女王さまを守る騎士になるって、心に誓ったから……。女王様が、民の前に勇気を出して立つなら、ぼくも、いっしょに、どこまでも進むよ。
……メービスさまなら、きっと大丈夫だよ。だって、メービスさまは、ぼくが知る誰よりも、とっても強くて、優しいもの。それに、あの無敵のヴォルフ様が一緒なら、もっともっと大丈夫!」
そして、隣に静かに立つロゼリーヌ様もまた、その優しくも芯の強い、美しい淡褐色の瞳でわたしをじっと見つめ、そして、慈愛に満ちた微笑みと共に、そっと頷いた。彼女のその静謐な眼差しは、わたしに、言葉にはできない、静かで大きな勇気を与えてくれる。
「あなた様なら、きっと大丈夫ですわ。わたくしたちが、いつもお側についておりますもの。……それに、あなた様は、もう何ひとつ隠れている必要など、この世のどこにもないはずですわ。あなたのその気高いお姿こそが、この国の、そして民の希望なのですから。ヴォルフ様の仰る通り、堂々と、あなたのありのままの真実を、民に、そして世界に、示して差し上げてくださいまし」
彼女の柔らかな手が、わたしのもう片方の手を、まるで大切な宝物を包むかのように、優しく、そして温かく包み込む。その確かな温もりが、さざ波のように揺れていたわたしの心を、穏やかな凪へと導いてくれる。
リュシアンの、幼いながらも力強い励まし。ロゼリーヌ様の、揺るぎない信頼。そして、目の前に立つヴォルフの、ぶっきらぼうな言葉の裏に隠された、絶対的な愛情を込めた眼差し。それらが、わたしの背中を、強く、そして限りなく優しく押してくれた。
わたしは、夜明けの清浄な空気を、ゆっくりと、そして深く胸に吸い込み、そして、顔を上げた。
「……わかりました、ヴォルフ。あなたの言う通りにしましょう。……ロゼリーヌさん、リュシアン。わたしが、“暴虐女王”などという偽りの汚名とは無縁であるということを、そして、このリーディス王国の輝かしい未来を、必ずやこの手で切り開いてみせるという確かな意志を──民の前に、そして世界の前に、示してみせます。この国の、真の女王として」
わたしの声は、まだほんの少し、か細く震えていたかもしれない。けれど、その翠の瞳には、もう迷いの色は一片たりともなかった。
この国の女王として、そして、一人の人間として、わたしは民の前に立つのだ。そして、わたしの真実を、彼らに、この声で、この心で、伝えるのだ。
ヴォルフは、わたしのその晴れやかな言葉に満足したように小さく、しかし深く頷くと、わたしを恭しくエスコートし、離宮の壮麗な玄関へと向かった。
そこには、王家の気高き紋章が朝日を浴びて黄金色に輝く、目も眩むような美しい飾りの施された純白の御料馬車が、四頭のたくましい白馬に引かれて、静かに待っていた。磨き上げられた車体は朝日にきらめき、馬たちの白い息が、真珠の首飾りのように冷たい空気に連なっていた。
解説・考察
Ⅰ. 構成と主題
北の地での苛烈な戦いと数々の陰謀を乗り越えたメービスが、再び王都の門をくぐり、女王として堂々と凱旋するまでを描いた物語の大きな転換点である。
本話の主題は、
過去の虚構を乗り越え、真実の姿で民衆の前に立つ勇気
王としての責任と、民からの信頼を取り戻す覚悟
ヴォルフとの信頼関係の深化と、「巫女と騎士」の完全な対等性の確立
である。
これまで仮面を被り、巧妙な策謀を駆使してきたメービスが、ついに素顔で民衆の前に立ち、その真価が試されることになる。これは女王としてのメービスの真の覚醒と、物語が新たなフェーズへ移行することを象徴している。
Ⅱ. メービスの心理描写と葛藤の深層
メービスは、ボコタから王都へ戻る途上、かつての王宮内での息詰まる陰謀と策略の記憶を鮮烈に思い出す。彼女は宰相クレイグを欺くために、意図的に『無力な小娘』を演じていた。これは彼女が長きに渡って負ってきた「仮面」と「偽り」の象徴でもある。
だが今、彼女の心に湧き上がるのは、民衆の視線への恐れである。彼女に刻まれた『暴虐女王』という呪詛的なレッテルが、深い傷となって心を蝕んでいる。メービスが窓から見える民衆のざわめきに恐怖を感じるのは、彼女が人々の心に宿る疑念を、自らに突きつけられる恐怖として捉えているからだ。
一方、旅の間に保護し共に帰還するリュシアンとロゼリーヌの存在が、メービスに新たな感情を芽生えさせている。それは「守り抜かねばならないもの」がはっきりと目に見える形で彼女の手の中にあるからだ。特にリュシアンに対して感じる「母性にも似た感情」は、彼女が「女王」としての立場だけでなく、「人間」として守りたいものを強烈に意識していることを示している。
Ⅲ. 凱旋計画の戦略と意図
ヴォルフとコルデオが中心となって立案した「凱旋計画」は、精緻かつ冷徹な政治的策略である。その意図は、王都に巣食う宰相派の残党と、クレイグが広めた虚偽情報を一掃することにある。
ヴォルフが採用した主な戦略は以下の通りである。
「病気の偽装」による攪乱と真実味の強化
メービスが「流行り風邪」で王宮に臥せっているという設定で宰相派の警戒を緩め、密かな北方行きを成功させた。
帰還時はその設定を逆利用し、「奇跡的回復」という神話的演出で民衆の支持を集めようとしている。
「謎の魔術師ミツル」と「放浪の剣士ヴィル」という別人格の活用
政治的・外交的リスクを避けるため、宰相派討伐とリュシアン救出の功績を、あえて実在しない架空の「名代」に託す。これにより、メービス自身の手を「清く」保ちつつ、民衆に英雄的な物語を提供するという狙いがある。
「御料馬車」と「豪奢な儀礼衣装」による視覚的インパクトの演出
見る者の感情に訴え、理屈を超えてメービスを象徴的存在として受け入れさせる演出。これにより、「暴虐女王」という虚偽の噂を一瞬で塗り替えることを狙っている。
リュシアンとロゼリーヌの保護と隠密帰還
敵の視線を完全に逸らしつつ、最重要人物の安全を確保する。この周到な措置は、ヴォルフの計算高さと慎重さを強調するものである。
Ⅳ. 物語構造としての帰還の意味
今回の王都帰還は、構造的にも極めて重要である。これまでメービスは常に「影の中」で闘ってきた。王位を簒奪されかけた身分として、正面から堂々と自らを示すことは難しかった。
しかし、本話において、メービスは初めて自らの意志で、「ありのまま」の姿を民衆に示すことを決断する。この行動は、彼女の心理的な成熟と、自らの力を自覚し、受け入れるプロセスの完了を意味している。
この凱旋は、民衆にとっても、メービス自身にとっても、『黒髪のグロンダイル』という壮大な叙事詩の中での重要なクライマックスであると共に、新たな物語(政治闘争・王国の再建・父王との再会)の始まりを告げる重要な転換点でもある。
解説・考察【唯一のリスクについて】
この凱旋計画の中で用いられた『ミツル・グロンダイル』『ヴィル・ブルフォード』という名前には、大きなリスクが潜んでいる。なぜなら、この二つの名こそが、現在のメービスとヴォルフを駆動する魂――すなわち未来の『ミツル』と『ヴィル』の本来の名前だからである。
もしこれらの名前が、単なる作り話の英雄譚ではなく、実際の歴史に「実在の英雄」として深く刻まれてしまえば、当然、彼らの元いた未来の世界において、この名前や伝承が歴史書や記録に残ってしまう可能性がある。その場合、未来における『ミツル』と『ヴィル』がこの時代へ魂を送り込まれる前から、彼らの行動があらかじめ記録として確定してしまうという矛盾が発生しかねない。
ただし、ここで重要なのは、『黒髪のグロンダイル』という物語の背景に流れるSF的時間概念である。本作においては、単一の確定した時間軸ではなく、複数の可能性が枝分かれする「並行世界」のモデルが用いられていると考えられる。すなわち、ミツルとヴィルが過去の時代(メービスとヴォルフの時代)へ魂を転移させたその瞬間に、世界線はすでに元の世界とは異なる新たな分岐を起こしてしまった可能性が高いということだ。
【並行世界観におけるタイムトラベルの意味】
このモデルでは、元の世界(オリジナルのミツルとヴィルがいた世界)と、現在ミツルとヴィルの魂が介入した世界(メービスとヴォルフが生きる世界)は、もはや同じ未来へと収束しない。世界線の分岐が確定している以上、過去で起こした変化や名前が歴史に刻まれたとしても、元の世界に与える影響はない。
しかし、この並行世界論に従うと、タイムトラベルした魂が元の肉体に戻るということ自体が、極めて困難、あるいは不可能になる。世界線が異なってしまった以上、元の時代の肉体と現在の魂の間に接続が維持されている保証はない。実質的に「魂は過去に閉じ込められてしまう」ことになる。
【ミツルの心理的認識】
ミツル自身は、この事実に既に薄々気づいているはずだ。物語の進行において彼女は常に内省的であり、慎重に自身と周囲の状況を分析してきた。彼女が自らの存在と行動が与える影響を考えないわけがなく、「もし歴史が改変されたら」「世界がすでに元のものではなくなっていたら」という問いを既に抱えているはずである。
ミツルの心には以下のような葛藤が存在すると考えられる:
使命感と贖罪意識
本来の未来を守るために歴史を維持しようという強い使命感がある一方で、自分たちの介入自体が世界を変えてしまった可能性があることへの罪悪感や不安。
帰還不能という恐怖
魂だけが過去へ来た結果、二度と元の身体には戻れないかもしれないという恐怖。この恐怖が、彼女の行動や決断にさらなる重圧を加えている。
自己犠牲と受容の覚悟
ミツルは、もしかすると自分が未来に戻れないということを、すでにどこかで覚悟し始めている可能性が高い。それゆえに、自らをこの時代の『メービス』として受け入れ、生きていく決意を固めつつある。つまり……。




