赦しの街路、希望の雪解け
雪道を南へ三日――。
馬車の窓から見える景色は、日に日にその色合いを変えていった。イストリア領の、雪を頂く険しくも美しい山々が遠ざかり、代わりに広がるのは、なだらかな丘陵地帯と、その上に点在する小さな村々。そして、ところどころに残る煤の焦げ跡。雪の白さに滲むそれが、胸の奥を鈍く刺した。
旅の途中、ロゼリーヌとは多くの言葉を交わしたわけではない。けれど、時折交わす視線や、リュシアンを介しての穏やかな微笑みの中に、確かにぬくもりが往き交っているのを感じていた。
彼女は、グラン=イストを発つ前、わたしにこう告げた。
「両親のことですが……父は、まだイストリアの伯爵家で保護されております。先日、ようやく連絡が取れ、無事を確認できました。母は、ひとまず父の元へ向かいました。ですので、王都へご一緒させていただくのは、わたくしとリュシアンだけとなります。
ですが……メービスさま、本当によろしいのでございましょうか。わたくしたちが、あなた様のご負担になるようなことは……」
その言葉には、僅かな不安と、しかしそれ以上に、わたしたちと共に未来へ進むという静かな決意が滲んでいた。その瞳の奥には、もう以前のような怯えの色はない。
「もちろんですわ、ロゼリーヌさん。あなたとリュシアンは、わたしが必ずお守りいたします。そして、ご両親のことも……男爵領の再建も含めて、必ずやお力になりましょう。
それに、あなたはもう“ただ守られるだけの存在”ではない。戦う意志と覚悟を携えておいでですわ。わたしには、そう見えます」
わたしの言葉に、彼女は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに深く頭を下げ、そして、以前よりもずっと力強い光を宿した瞳で、わたしを見つめ返した。
「ありがとうございます、メービスさま。そのお言葉だけで、私は……。陛下のお力になれるよう、どんなに小さくとも力を尽くします」
ロゼリーヌは静かに、けれど確かな声でそう告げた。その声音は、わたしの胸に温かな勇気を灯してくれる。
「ええ、頼りにしていますわ、ロゼリーヌさん。――けれど今は、まずリュシアンと共に王都での暮らしに慣れることが先決ですわね。焦らず、あなたの歩幅で少しずつ進めばよろしいのです。
女王として……いえ、ひとりの友人として、わたくしはお二人を支えます。それこそが、わたしに出来るささやかな償いですもの。
ですから、助けが必要なときはいつでも遠慮なくお申しつけください。
……むしろ母としてのあなたから、わたしが学ばせていただく場面の方が多いかもしれませんけれど」
言い終えると、彼女はほんのわずかに唇をほころばせた。
「はい……陛下。わたくしはもう、逃げないと決めました。あの子の未来のために、そして――私自身のささやかな誇りのためにも」
その言葉には、かつて子を手放す恐れに揺れた母の影と、今なお揺るがぬ「母としての矜持」が、澄んだ光となって宿っていた。
◇◇◇
そして今日、わたしたちはついに、中継地たる交通の要衝ボコタへ辿り着いた。
城壁の門――かつて元宰相私兵の暴虐で崩れ落ちた一角――は、今や真新しい材木で組み直され、冬陽を浴びて白く光っている。門をくぐるや否や、目に飛び込んできたのは、戦禍の爪痕を覆うように聳える足場と、その上で汗を飛ばす人々の姿だった。
焼け落ちた外壁の傍らでは、子どもたちが雪玉を投げ合い、皺深い老婦人が大鍋をかき回している。湯気に溶ける笑い声は、いかなる名曲よりも胸を明るく照らした。
絶望から這い上がろうとする人間の底力――その光景を前に、冬の陽光が額の汗をひときわ輝かせる。途切れぬ槌音が鼓膜を揺らすたび、同じ鼓動が胸の奥で重なった。生きている。街も、わたしも。
「騒乱で荒れ果てたと伺っていましたのに……。市民の皆さまの逞しさ、本当にうれしいですわ」
ロゼリーヌが感嘆の息を漏らす。馬車の窓にはりつくリュシアンの瞳も、好奇心で星のように瞬いていた。
「ええ――逞しいわ。ボコタは必ず甦ります」
わたしは静かに頷き、その復活の鼓動を全身で受け止めた。
鼻腔をくすぐるのは、新しい木材の薫り、広場で振る舞われているらしい温かなスープの湯気、そして立ちのぼる土埃。それらが、微かに残る焦げの匂いと溶け合い、ボコタの「いま」を鮮烈に知らせてくる。
その匂いは、あの苛烈な戦いの日々と、なお希望を捨てなかった人々の顔を呼び覚ました。
馬車の扉を開けると、グラン=イストより柔らかな陽射しの温度と、それでも肌を刺す冬気の冷たさが同時に頬を撫で、意識がすっと冴える。
ヴォルフの腕を離れ、久しぶりに自らの足で大地を踏む。ざらりとした感触が、確かに生きているという実感を返してくれた。
「おい、メービス。本当に大丈夫か? まだ顔色が優れないぞ。また倒れられたらかなわん」
隣に立つヴォルフが低く囁く。その声音には、不器用なまでの優しさが滲んでいた。大きな手がそっと背を支えてくれる。
「もう平気よ、ヴォルフ。でも……信じられないわ。この街が、こんなにも早く、こんなにも力強く立ち上がろうとしているなんて」
声は微かに震え、胸の奥が熱くなる。
ここは、わたしが“悪魔の魔術師”を演じ、レズンブール伯爵を救い出し、そして「暴虐女王」の汚名を跳ね除け、市民と共に戦った街――。
その頃と変わり果てた姿に、驚きと感動、そして痛みさえ連れてくる。
この人々は、わたしがもたらしてしまった破壊の記憶をどう抱えているのだろう。その問いが胸を締め付けながらも、街が確かに再生へ歩むのを見て、静かな、けれど揺るぎない希望が湧き上がる。
――あんな地獄の中でも、人はここまで強くなれる……。
わたしも負けてはいられない。この街の傷も再生も、わたしが戦った意味そのもの。
希望の火を、決して絶やさない。――その笑顔を、わたしが守り抜く。
◇◇◇
一行──わたしたちは街の中心に位置する中央広場へ向かった。そこは臨時の物資集積所であり、そして同時に、ボコタ復興の指揮所ともなっていた。
山と積まれた木材、食料の袋、薬草の束――それらのあいだを、兵士や市民たちが慌ただしく行き交っている。その誰もが生き生きとした表情をしていた。額には汗が光り、手は土と埃で汚れていたけれど、瞳には未来への確かな希望が宿っている。
広場中央に張られた大きな天幕では、全体指揮を執るヴァレリウス参謀が、雪のように白い公文書をうず高く積み上げながらも精力的に指示を飛ばしていた。以前、共闘した時よりも少し頬がこけたように見えたが、その瞳には復興させるという強い責任感が、まるで青い炎のように宿っている。その真摯な姿に、わたしは改めて敬意を抱いた。彼がわたしの姿を認めた瞬間、その表情が驚きと、そして深い安堵の色に変わった。
「女王陛下! よくぞ……よくぞご無事でお戻りになられました。陛下のお姿を拝見でき、このヴァレリウス、感無量にございます!」
ヴァレリウス参謀は椅子から立ち上がると、早足でこちらへ近づき、わたしの前に恭しく跪いた。その声は、感動で微かに震えている。
「ヴァレリウス卿、お久しぶりです。元気そうなお顔を見られて、わたしも安心いたしました。
……それよりも、あなたのその働きぶり、本当に頭が下がります。この街の復興は、あなたの献身なくしてはあり得なかったでしょう。心から感謝いたします。あなたのような方がいてくださることが、この国の何よりの宝です」
わたしは彼の働きぶりをつぶさに見てきたからこそ、よく理解している。人や物資の配分を指示しながら自ら先頭に立って汗を流す。その真面目一徹ぶりは、貴族派出身の軍人という枠を超えて目を見張るものがあった。
わたしはそっと彼の肩に手を置き、労いの言葉をかける。どれほどの重圧の中で、この街を支えてきたのかが痛いほど伝わってきた。
「もったいないお言葉にございます、陛下。これもひとえに陛下の先見とご英断の賜物にございます。この迅速な対応が、どれほど民の心を勇気づけたことか……。
王都から派遣された工兵部隊の活躍も目覚ましく、食料や医薬品などの支援物資も各駐屯地から不足なく届いております。市民の生活はまだ厳しいながらも、飢えや寒さに震えることなく、徐々に安定を取り戻しつつあります」
ヴァレリウス参謀は顔を上げ、青い炎のような声で報告を続けた。その言葉の端々から、この街の復興に全身全霊を捧げている覚悟が滲み出ていた。
「それは何よりです。民の安寧こそ、わたしの最も望むところですから。彼らの笑顔が、この国の未来を照らす光となるのです。
……それで、レズンブール伯爵のことですが、何か伝言はありましたか?」
問いを受け、ヴァレリウス参謀は一瞬だけ表情を曇らせる。慎重に言葉を選びながら答えるその瞳には、複雑な色が揺れていた。
「はっ。伯爵の件でございますが……わたくしから北のイストリア領へ向かい、陛下と合流なさるよう進言いたしました。ですが――」
「伯爵は、お断りになったのですね?」
わたしは息を詰め、続く言葉を待った。
「はい。『自分には逃げるという選択肢はない。陛下にボコタ再建の全権を託された以上、途中で投げ出すなど言語道断。この街の復興を見届けるまでは、どのような運命が待とうとも離れるわけにはいかぬ』――そう固辞なされました。
そして……数日前、王都から派遣された正規軍の部隊に抵抗することなく、しかし堂々とした態度で護送されていかれました。吹っ切れたというより、すべてを覚悟されたような落ち着き――私の目には、敗者ではなく、何かに打ち勝った者のように映りました」
報告を聞きながら、胸の奥が熱くなる。脳裏には彼が寄こした書状が蘇る――ラテン語の一節と、「進みなさい」という力強い励まし。
――伯爵……あなたもまた、己の戦いを選んだのですね。
その覚悟、確かに受け止めます。あなたの残した炎を、必ず未来へつなげてみせる。
あなたは敗者ではない。この国を照らす一つの光です――。
「ヴァレリウス卿。ボコタを完全に復興させることこそ、伯爵への最大の敬意であり、この国の未来へつながる道です。引き続き、全権をもって指揮を執ってください。
支援は惜しみません。必要なものがあれば、わたしの名のもとに何なりと申し付けてください」
力強く告げると、ヴァレリウスは目に熱いものを宿しながら、深々と頭を垂れた。
「はっ! このヴァレリウス、身命を賭して必ずやボコタを、以前にも増して素晴らしい街へ復興させてご覧にいれます! 陛下のご期待、必ずやお応えいたします!」
そのやり取りを黙って聞いていたヴォルフが、腕を組んだまま視線だけを落とし、低く呟いた。冬の乾いた空気が吐息に混じり、白く揺らめく――その声には、いつもの無骨な厳しさに加え、言いしれぬ感情の翳が滲んでいる。
「伯爵め、ようやく自分の魂と向き合う覚悟ができたか……」
口調は皮肉めいているのに、わずかに震える胸板が、彼の本心を物語っていた。
わたしはそっと横顔を覗き込み、唇の端を上げる。砂利を踏む兵士たちの足音が背後で遠ざかり、ふたりの間だけが、不思議と静けさに包まれる。
「ヴォルフ……あなた、まだ彼のことを認めていないの?」
問いかけに彼は肩をすくめるだけで答えず、灰色の空を仰いだ。ふいに逸らした視線が、まるで照れ隠しのようで、わたしには少し可愛らしく映る。
「そりゃそうさ。あいつとはまだ酒を酌み交わしていないからな」
苦みを帯びた声に混じる、わずかな淋しさ。その感情を読み取り、思わず眉を上げる。
「はぁ? なによそれ……」
わたしが半ば呆れたように返すと、ヴォルフは口を引き結び、靴先で地面の砂を蹴った。足場を組む金具の音が遠くで鳴り、鉄と木の匂いが微かに漂う。
「別れる前、勝利の暁には必ず一杯やろうと約束したのに、勝手なことしやがって……」
ぶつぶつと文句をこぼしながらも、声にはどこか相手を案ずる色がある。
わたしは肩をすくめ、ヴァレリウスたちの忙しない背中を一瞥してから、いたずらっぽく笑った。
「まったくあなたったら、お酒ばっかりね。……でも悪くない話ね、それ」
ヴォルフは鼻を鳴らし、分厚い外套を翻す。冷え込む風が髪を揺らし、彼の額の汗を瞬いた冬陽が掠めた。
「これは男と男の約束だ。守ってもらわねばならん。それにだ、あいつの淹れてくれた紅茶は、なかなかのものだったからな……。
ああ、言っておくが、俺はあいつをまだ信用しているわけじゃないぞ?」
照れ隠しなのか、わたしのほうを見ようともせずに言い募る彼。その頬にわずかに差した朱を見逃す人は少ないだろう。
「はいはい。まったく素直じゃないんだから」
わたしは肩を叩き、くすりと笑う。彼はむっと口を尖らせながらも、わたしの手を払おうとはしない。
「ふん……。とにかく、まだあいつを死なせるわけにはいかんのだ」
短く吐き出された言葉の裏に、頑なな友情と、消えかけた炎を守ろうとするような真摯さを感じ取る。青い空に鳶が一声鳴き、遠巻きに立つ兵たちの笑い声が雪解けのように滲んだ。
そのぶっきらぼうな宣言の奥に潜む温かさ――わたしへの揺るぎない愛情すら――が胸に満ちる。思わず手袋の下で拳を握り、頷いた。
「同感よ。彼を死なせたりなんかするものですか。
彼には、これからのわたしたちの行いを、そしてこの国が生まれ変わる姿を、その目で確かめてもらわなければならないのだから」
言葉を置いて、雪を踏み締める一歩を重ねる。修復現場から漂う木屑の匂いが鼻先に甘い。
「そして、いつかまた彼が淹れてくれた紅茶を飲む日が来るかもしれないわね。その時は、わたしも同席していいかしら?」
振り返ると、ヴォルフはわたしを真っ直ぐ見つめ、口元だけで笑った。
「もちろんだ。香り付けのブランデーは、俺が特上のものを用意しよう」
低い声に宿る約束――それは、遠い夜明けへの道標のように確かだ。
わたしは彼の手袋越しの手を軽く叩き、「期待しているわ」と囁いた。冬の日差しがふたりの影を長く伸ばし、その先に続く希望の光を静かに照らしていた。
◇◇◇
Ⅲ 灰鴉亭の再会(改稿案)
ヴァレリウス参謀との会談を終え、わたしとヴォルフ、そして護衛に控えていたレオンの三人で酒場「灰鴉亭」へ向かった。
夕映えの路地はまだところどころに雪が残り、水気を含んだ石畳が橙色に光っている。かすかな藁の匂いと、露店で焼かれる栗の甘い香りが風に乗り、鼻孔をくすぐった。背後でヴォルフの手がそっと外套の裾を直してくれる。その確かな温もりに鼓動が跳ねる。
レオンは、久しく会えていないクリスのことが気掛かりなのか、行き交う人波に目を配りながらも落ち着かない様子だった。けれど足は確かな歩調でついて来る。鮮やかな赤髪が沈みゆく夕陽を受け、まるで焔のように揺らめいていた。若さと情熱がそのまま光へ変わったようで、見ているこちらまで胸が熱くなる。
“灰鴉亭”――かつて臨時救護所となり、絶望と痛嘆の声で満ちた場所。今は黒塗りの看板に銀色の鴉が描き直され、入口のランタンが琥珀色の光を投げかけている。扉を押し開けると、戦いの煤が残る梁の奥で暖炉がぱちぱちと薪を弾き、麦とハーブの香ばしい匂いが鼻先を包んだ。壁には剥がれかけた古い献立表があり、それを覆うように新しい木札が整然と打ち付けられている。まさしく「再生」の風景――主人のアリアが中心となり、この店も、この街の心も、見事に建て直したのだ。その底力に、思わず息を飲む。
店に足を踏み入れた途端、赤いマフラーを小粋に巻いたアリアが、ひときわ大きなジョッキを掲げて飛んできた。笑顔は冬空に差す陽光のように明るく、頬には健やかな薔薇色が宿っている。
「――あっ!? メービス様! ヴォルフ様も! それから……レオンじゃない!
よくぞご無事で……! みんな、あなたたちが帰ってくるのを首を長くして待っていたんですよ!」
彼女はわたしを見つけるや、瞳を潤ませ、その腕で力強く抱きしめた。頬を掠めるマフラーの赤い糸は少し焦げた跡があり、彼女がここで戦ってきた時間を物語っている。その温かな抱擁は、冷えた胸にまでじんわり染みた。
「ただいま、アリアさん……。こうしてまた会えて、本当に嬉しいわ。
あなたこそ、この街を守ってくれてありがとう。あなたの笑顔が、どれほど多くの人を救ったことでしょう」
「まあ、女王陛下にそんなこと言われたら照れますってば! さ、奥へどうぞ。今日は特別に、とっておきの料理をご馳走します! 腕によりをかけましたから! レオンも来なさい。クリスがずっとあんたのこと心配してたんだからね!」
陽気な声が煤色の梁に反響し、暖炉の炎がゆらりとゆらめいた。煮込み鍋の湯気はハーブと根菜の甘い香りを含み、焼きたてのパンの匂いと溶け合って店内を満たす。胸の奥までほどけていくような温もり――アリアの笑顔は、やはり何よりの良薬だ。この匂いと笑い声こそ、ボコタ復興の“今”を告げる燦然たる証しなのだと実感する。
そのアリアの声に、レオンの頬がほんのり朱に染まったのを、わたしは見逃さなかった。彼は視線を泳がせ、指先でマントの縁をいじりながらも、どこか誇らしげだ。
店の奥では、白衣姿のマリアが、血の滲んだ包帯を丁寧に巻き替えていた。頬には疲労の影が濃いが、眼差しは凛としている。わたしに気づくと、緊張がほどけたのか、潤んだ瞳で深々と礼を取った。
「女王陛下……ご無事で何よりでございます……。わたくし、陛下のお身体が、どれほど心配だったことか……。でも、こうしてまたお会いできて、本当に……本当に嬉しゅうございます」
声が震え、最後は囁きに近い。「マリア、ありがとう」わたしは歩み寄り、彼女の手を軽く握る。「この街の医療を、あなたが一人で支えてくれたと聞きました。あなたの献身が、どれほど多くの命を救ったことでしょう。心から感謝しています」
マリアは恐縮して首を振りつつも、安堵の色をにじませた。「いえ、私など……。陛下のご無事こそが、街の、そしてわたくしたちの何よりの希望でございます。陛下がいらっしゃるからこそ、皆、頑張れるのです」
そのとき、店の隅から衣擦れと共に小さな息を呑む音がした。視線を向けると、クリスが凍りついたように立ち尽くしていた。透きとおった涙が頬を伝い、胸の前で指を絡めたまま動けずにいる。
彼女の視線の先にはレオン。少年は一瞬言葉を失い、深紅の髪を揺らして硬直した。まだ幼さを残す横顔は、安堵と照れ、そして彼女への深い想いに揺れている。暖炉の火が二人の間で赤くまたたき、その影を壁に重ねた。
やがてレオンは息を整え、雪の上を踏み締めるような静かな足取りで彼女へ近づく。そして、震える声で、しかし真っ直ぐに告げた。
「……ただいま、クリス。遅くなって、ごめん……」
そっと懐から取り出した銀翼騎士団の片翼の胸章――クリスが北行の前に託した証。傷付きながらも燦々と輝く銀色が、暖炉の火を受けてきらりと光った。彼の手が微かに震え、目尻が赤く染まる。
「約束は守ったぞ。これがあったから、俺は最後まで戦えた。お前が待っていると信じていたから……こいつが、俺に勇気をくれた」
クリスは胸章を両手で受け取ると、堰を切ったように泣き崩れた。レオンは驚いたように目を瞬かせたが、すぐに彼女をしっかりと抱きしめる。細い肩が彼の胸で震え、長く溜め込んだ恐れと安堵が涙になって流れ落ちていく。
「……レオン……! もう会えないかと思った……信じたかったけど、怖くて……」
「馬鹿だな……俺はとことんしぶといんだ。絶対に帰るって誓ったじゃないか。お前のいない世界なんて、まっぴらごめんだからな」
ぶっきらぼうな言葉に隠しきれない愛情が滲む。その声音は柔らかな陽射しのように、クリスの心を、そして店にいるわたしたちの心をも包み込んだ。暖炉の火がぱちりと弾け、灰鴉亭の梁をあたたかな橙に染め上げていく。
わたしとヴォルフ、そしてアリアとマリアは、その光景をただ黙って、微笑ましく見守っていた。
――これこそ、わたしが守りたかったもの。
この温かさ、絆こそが希望そのもの。――この光景を、この国にもっともっと増やしていく。それが、わたしの使命。
そして、わたし自身がいつか叶えたい、ささやかな願い……。いつ辿り着けるかは分からない。けれど、わたしは諦めたくない。
だから――どんなことがあっても、生き抜いてみせる。
しばらくして、ようやく涙を拭ったクリスとレオンを交え、わたしたちはアリアの特製料理に舌鼓を打った。
贅沢ではない。けれど、滋味あふれる温かな味がした。とろりと煮込まれた根菜の甘さ、香草バターを染み込ませた黒パンの香り――その一皿ごとに、アリアの、そしてこの街の人々の力強い生命力が宿っている。
食事の後、アリアがわたしを奥の小さな個室へ招いた。蒔絵細工の小箱や古い航海図が壁際に並び、彼女の快活さの裏に潜む繊細な趣味が垣間見える。
「アリアさん……ダビドのこと、わたしの独断で王都へ向かわせてしまって、本当に申し訳なく思っています。
勅命が効力を発揮したとはいえ、王都は切迫しています。忠臣のコルデオと限られた人員だけではどうにもならなくて……それで彼を……」
言いかけたわたしを、アリアはいつもの快活な笑みで制した。いつもより少しだけ大人びた、揺るぎない笑顔。
「何をおっしゃいます、メービス様。ダビドは“銀翼”の騎士――女王陛下を護るために生きてる人ですよ? 私はそれを誇りに思っています。彼なら大丈夫。
それに、私もただ待っているだけの女じゃない。彼が王都で戦うなら、私はここで戦う。この街には、まだ癒えきらない傷が山ほどあって、灰鴉亭が皆の拠りどころになるまで離れられません。ここが私の城であり、戦場ですからね!
だからメービス様、あなたはあなたの戦いをやり遂げて下さい。そして――またここで一緒に笑いましょう!」
揺るぎない決意が宿る琥珀の瞳。その言葉に胸が熱くなる。雄々しい――否、凛々しい。どんな勇猛な騎士よりも誇らしい。
「ありがとう、アリアさん。ダビドには必ずあなたの想いを伝えます。そして、一日も早く、あなたの元へ戻るよう厳命しておきます。
『さもなくば、アリアさんに逃げられてしまいますよ』って――ね」
からかうように微笑むと、彼女も太陽みたいにあかるく笑った。立場を超えた友情と信頼が、ふわりと個室を満たす。暖炉の火が跳ね、二人の影を橙色に重ねた。
Ⅳ 出発の朝──篝火の誓い(改稿案)
ボコタでの時は、雪解けの雫が落ちるほどの速さで過ぎていった。
専属軍医ルシルの献身、アリアたちの温かなもてなし――そして何より、リュシアンの屈託ない笑顔。小さな手が差し出す雪玉や、無邪気な笑い声は薬草より効いたらしく、わたしの体調は驚くほどに回復した。
銀翼騎士団も再編を終え、王都行きの支度を整える。
ロゼリーヌの瞳には、雪解け水を映す湖面のような静かな決意が宿り、もう過去に囚われた影はない。
リュシアンはヴォルフ直伝の型を熱心に繰り返し、その拳はまだ細いのに、確かな意志の重さを帯びていた。
――出発の朝。
薄明の光が雪原を瑠璃色から淡い黄金へと染め替えてゆく。澄んだ空気に、馬の息が白い綿のように立ち昇り、鞍金具の澄んだ音が脈打つ鼓動と重なる。旅立ちの静謐と未来への昂りが、朝の空気に折り重なっていた。
わたしはヴォルフの隣で馬首を揃えながら、銀翼の面々を思い描く。
バロック、ステファン、シモン、ブルーノ、ガイルズ、レオン、そして療養中のディクソン――。
王都ではコルデオと共にダビドが奮戦している。百にも満たぬ小さな騎士団が、どれほどの奇跡を紡いだことか。胸の奥に、誇りと感謝が雪嵩のように積もる。
ヴォルフがわずかに手綱を寄せ、低く囁いた。
「行くぞ、女王陛下」
その声音に籠められた不器用な優しさが、心臓を穏やかに揺らす。
わたしの胸には、なお消えぬ炎――レズンブール伯爵が託したラテン語が燃えている。
“In tenebris lucem amittō, sed flamma manet.”
――闇の中で光を失っても、炎は残る。
遠く、霧の向こうにぼんやり浮かぶ王都の輪郭を想い描きながら、わたしはその言葉をそっと胸に押し当てた。
雪面に伸びる影は二筋。わたしとヴォルフ。
振り返れば、ロゼリーヌとリュシアンの影が三筋、しっかり続いている。朝陽に照らされ長く伸びた影は、未来へ続く一本の道のようだった。
――恐れはない。胸に灯した小さな篝火が、羅針盤のように進む方角を示してくれるから。
その炎と、かけがえのない絆がある限り、夜明けは必ず迎えに行ける。
歯切れの良い号令が響く。
わたしたちは馬腹を軽く蹴り、雪を巻き上げながら王都へ向かって踏み出した。粉雪が朝陽を受けて金の粒となり、凍てつく空気さえ祝福のようにきらめく。
まだ見ぬ夜明けを、この手で必ず迎えに行く。
篝火は小さくとも、決して絶えぬ。
■ 静かな再始動と「赦し」の地平
前話までに積み重ねられてきた戦いや喪失、誓いの一つひとつを胸に収めた登場人物たちが、「次の章」へ向かって心を切り替える、再始動の物語です。
物語の舞台は、かつて戦火に見舞われた中継地ボコタ。戦場だった街に再び戻るという構造が、「破壊から再生へ」「対立から共生へ」というテーマを象徴的に描き出しています。
主人公メービス(ミツル)は、街の回復を目の当たりにし、かつて宰相派によって流布された噂――「暴虐女王」や、自身の行動が結果として街を混乱に巻き込むことになってしまった事実と静かに向き合います。それは彼女にとって、戦った意味を確かめ、赦されるのではなく“自ら赦す”という心の成熟を示す瞬間です。
■ ロゼリーヌとリュシアン――母と子の第二の旅立ち
序盤の旅路では、ロゼリーヌとメービスの関係に注目すべき変化があります。これまで「保護される立場」であったロゼリーヌが、「母として」「一人の人間として」責任を引き受けようとする。メービスもそれをただ認めるのではなく、友人として、また未だ子を持たぬ女性として、心から尊敬を込めて受け止める。
この相互の“対等な認知”が、この物語世界における女性同士の連帯の真の形です。ただの対称的存在ではなく、互いの欠落を見つめ、支え合おうとするあり方が、美しい余韻を残します。
■ ボコタの再生描写――五感の積層が意味するもの
ボコタの街を描くパートでは、簡潔ながらも視覚・嗅覚・聴覚といった五感が連なり、読者は現実以上に“肌で感じる戦後復興”を体験します。
とりわけ、子どもたちの笑い声や、老婦人の鍋の匂い、焦げた跡の匂いと木材の香りが混ざる描写には、過去の傷と現在の希望が混じり合う「現在進行形の再生が凝縮されています。
ここでメービスが「生きている。街も、わたしも」と静かに確かめるシーンは、読者にも深い実感をもたらすはずです。
■ ヴァレリウスの忠誠――理想的な部下の鏡像
ヴァレリウス参謀との再会は、政治的な場面ではなく、情と義の交差点として描かれます。彼は軍人でありながら、感情を隠さない。女王に対して最大限の敬意を払いながらも、個としての意志と責任感を持っている。
その姿勢は、主人公メービスの理想とする“共に国を支える人材像”の一つの完成形であり、ヴォルフのような対等なパートナーともまた異なる、忠誠の美学を体現しています。
また彼の口から語られるレズンブール伯爵の決断は、彼自身の赦しでもあり、視点を変えれば「一度は国を裏切った男を、名誉をもって送り出す」幕引きの儀礼にもなっています。
■ ヴォルフと伯爵――友情と赦しの“まだらな感情”
一方で、ヴォルフの態度は決して単純な赦しではなく、「まだあいつとは酒を酌み交わせていない」という未完の関係性を通じて、男同士の感情の複雑さを魅せます。
メービスの問いに口を濁し、しかし最後には「死なせるわけにはいかない」と言い切る。
そのぶっきらぼうな優しさに、彼の誠実さと不器用な信頼が宿っています。
この対話は、読者に「人を赦すとはどういうことか」という問いを静かに投げかける役割を果たしています。
■ レオンとクリスの再会――少年と少女の初恋の昇華
中盤のハイライトは、レオンとクリスの再会シーンでしょう。
ここでは言葉よりも“仕草”と“視線”で語る時間が長く、読者が呼吸を整えながらふたりの再接続を見守るよう設計されています。
涙・震え・沈黙・胸章――シンプルな素材を、繊細な間と余白で組み立てたことで、感情の密度が非常に高く保たれています。
■ 灰鴉亭のアリア――もう一つの“女王”像
後半の会話劇で、アリアが語る「ここが私の城であり、戦場ですからね!」という台詞は、メービスの立場と対照を成す、もう一人の“戦う女性”の姿を象徴しています。
メービスが国家の象徴として戦うのに対し、アリアは街と人の生活を守る存在。どちらが上でも下でもなく、役割を違えた対等な者同士の信頼が描かれることで、読者はより広く「戦い」や「生きること」の多様性を感じ取れます。
■ 篝火の誓いと“未来の約束”
ラストシーンでは、出発の朝の描写を通じて、読者に「再び歩み出すこと」の美しさと力強さが伝えられます。
朝焼けの雪面に映る影、ラテン語のフレーズ、馬の蹄音、粉雪が光を浴びる一瞬の美。すべてが、静かで強い“誓いの時間”を表現しており、章のタイトル「篝火の誓い」にぴったりと重なります。
ここで掲げられるのは、過去に囚われない“再起の物語”であり、メービスたちが次に向かう王都編への精神的な準備運動として、読者の気持ちも整えてくれる結びとなっています。
総括
この話数は、戦いと喪失の連続だった中盤以降の読者にとって、「胸を撫で下ろせる時間」でありながら、次章への予感と決意が脈打つ、“呼吸の整う一章”です。
「わたしも誰かと再会したくなる」
「ささやかな願いを諦めずに、生きていたい」
そんな思いが胸に残る、極めて感情密度の高いエピソードになっています。




