柊(ひいらぎ)の木の下で、わたしは目を伏せる
ヴォルフの胸に抱かれながら、わたしは白い雪野をゆるやかに進んでいた。
先程までの、世界が砕け散るかのような轟音と閃光、そして魂を直接握り潰されるようなおぞましいプレッシャーは、遠い悪夢の残滓のように薄れ――まだ耳鳴りだけが微かに滲んでいるものの――今はただ、彼の規則正しい足音と、鎧と革の擦れる微かな音、そして粉雪の囁きだけが、そっとわたしの鼓膜を撫でていた。
その音の一つひとつが、沈黙の子守唄のように、わたしの荒ぶる心を静めていく。
摂氏マイナス十五度を下回るであろう極寒の夜気。それが今は、彼の腕の温もりによって、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
風は止み、無音の白粒だけがしんしんと、けれどどこか慈しむように舞っている。その雪片が、時折わたしの頬を掠め、冷たいけれど嫌ではない感触を残していく。
彼の歩幅は驚くほど正確で、揺れはほとんど感じない。それでも、時折わたしの身体が右へ、あるいは左へと傾ぎそうになるたびに、彼の逞しい腕が、まるでそれが当然であるかのように、ごく自然にわたしの身体を支え、その温もりで包み込んでくれる。
鎧は冷えきっているのに、そこから滲む体温は確かな陽だまりだった。わたしは細く息を吐く。その温もりが、凍えきった心の結び目をゆっくりほどき、静かな体温へ編み直していく。
意識しているわけじゃない、と思う。たぶん彼自身も、わたしのこの小さな身体を「抱えている」というよりは、大切な何かを「預かっている」くらいの、そんな無骨な感覚でいるのかもしれない。
彼の実直さが、そうさせるのだろう。その不器用な優しさが、今のわたしには何よりも心地よかった。
だけど、そう――わたしにとっては、まるで意味合いが違うのだ。
こんなふうに、誰かの腕に全てを委ねて運ばれるのなんて、一体いつ以来だったろう。
遠い記憶を辿っても、思い出せない。赤子の頃は、きっと母さまの腕にこうして抱かれていたのだろうけれど、物心ついてからは、おそらく一度もなかったように思う。
ミツル・グロンダイルとしても、そして今のメービスとしても。常に誰かを守る立場、あるいは一人で戦うことを強いられてきたわたしにとって、こうして無防備に誰かに身を委ねるという経験は、あまりにも新鮮で、そしてどこか戸惑いを伴うものだった。
だとしたら、わたしは今、まるで雪の中に新しく生まれた雛鳥のように、彼の腕の中で、もう一度生を授かっているのかもしれない。
あの壮絶な戦いを生き延び、そして今、この確かな温もりに包まれている。それは、まさしく再生の奇跡。
彼の心臓の音が、ゆっくりと、けれど深く、わたしの強張った背中を通して、そして胸の奥深くへと染み込んでいく。トクン、トクン、というその力強いリズムは、どんな美しい音楽よりも、わたしの魂を慰撫する。それは、荒れ狂う嵐の後に訪れた、絶対的な静寂の中で聞く、唯一無二の生命の賛歌。
それは――生きているという、たしかな証のようなものだった。彼の命の音が、わたしの命の音と重なり合い、一つの旋律を奏でている。その旋律は、優しく、そして力強く、わたしに「お前は生きているのだ」と語りかけてくる。
その確かな温もりと鼓動に包まれていると、彼の一歩がわたしの胸へ静かな拍動を移植してくる――鼓動が、彼のリズムへ帰順していくのがわかる。
浅く繰り返していた呼吸も、いつしか彼の呼吸のリズムに同調し、深く、そして安らかになっていく。彼の大きな存在そのものが、わたしにとっての聖域であるかのように。
微睡みのような心地よさの中で、わたしは、巫女と騎士による世界救済システムについて、ぼんやりと思いを馳せる。
あの、あまりにも過酷で、そしてあまりにも人間離れした戦術の、その奥底に隠された真実について。
デルワーズという、黒髪の巫女の始祖が遺した、その祈りの意味について。
視界の端、遠い男爵邸の方角から、黒煙が月光を掠めた。戦闘の余波だろうか、それとも……。
胸の奥で、鈍い予感が煤の味を残した。それを振り払うように、わたしは再びデルワーズの想念へと意識を沈めた。
レシュトルはやたらと禁則事項を盾に、核心の部分については口を閉ざしたまま。そのAIらしからぬ頑なさが、逆に事の重大さを物語っているようでもある。まるで、知ってしまえば後戻りできない深淵が、その先にあるとでも言うように。
彼女が守ろうとしているのは、単なる情報ではなく、もしかしたら、わたし自身の魂なのかもしれない。
今のわたしには、システムの創造主たるデルワーズが、あの“巫女と騎士”という、どこか古めかしく、そしてあまりにも人間臭い仕組みに託したであろう切実な願いが、まるで彼女自身の声のように、はっきりと胸の奥に響いてくる気がした。
その声は、悲しく、そしてどこまでも優しい。
「わたしのように、一人で全てを背負ってはダメよ――」
そう、彼女の声が、風の囁きのように聞こえる気がした。その声は、わたしの魂に直接語りかけてくる。
「大切な人と、二人でその重荷を分け合って。
どんな困難が待ち受けていようとも、決して諦めず、何が何でも生き抜いて。
そして、その先にある、ささやかでも確かな幸福を、その手で掴んでほしい。
あなたたちには、わたしが手に入れられなかった未来を、“ちゃんと”生きてほしいから……」
だから、彼女が遺した最終形態の〈システム〉は、冷たい機械仕掛けの論理ではなく、どこまでも人間味の匂いに満ちた、温かな仕掛けへと帰着したのだ。
そのシステムには、彼女の涙と、そして祈りが込められている。
感情――それは数式すら沸騰させる、無色の焔だった。
片方ずつではあまりにも頼りない翼――不器用な片翼同士が、互いの不完全さを認め、そして補い合うように寄り添い、ようやく紺碧の空を掴むことができる。
それは、なんと美しく、そして切ない仕組みなのだろう。
巫女は、世界に満ちる精霊子を集め、それを魔術という名の旋律に変えるための楽譜を、その魂に書き記す。
騎士は、その魂に贈られた旋律を、信頼する巫女への想いと共に、無双の剣へと変え、白き風よりも速く状況を判断し、無敵の一閃をもって、閉ざされた未来を切り拓くのだ。
あの、神業としか思えない奇跡的な戦闘力の、その本当の核にあるのは、ただひたすらに「あなたを信じる」という、混じり気のない純粋な想い。
どんなに高度な装置も、どんなに優れた能力も、その絶対的な絆がなければ、ただの木偶の坊に過ぎない。
テクノロジーと魔術という、相反する力の衣をまとった、“愛と絆のためのシステム”。
ひとりで背負えば、その重みに心が折れてしまうような罪も、消えることのない深い痛みも、ふたりなら、きっと分け合える。
そして、いつかふたりで――本当のしあわせになる。
それが「ふたつでひとつのツバサ」に込められた、デルワーズの、たった一つの、そして何よりも切実な祈り。
――デルワーズ、これがあなたの願いであり、祈りだったのね。わたしには、それが痛いほどわかる気がする。
もはや物質世界に直接干渉することができない彼女は、異界からの侵略者からこの世界を守るための代行者を、自らの血を引く子孫であるリーディス王家の、黒髪の巫女に託すほかはなかったのだろう。
だからといって、一人で全てを背負わせては、いずれ必ず自分の二の舞いになると、彼女は痛いほどわかっていた。
だからこのシステムを構築した。
マウザーグレイルをただ承継させるのではなく、自らの意志で探索させる。そして、最も信頼する最優の騎士を帯同させる。旅を重ねる中で、お互いの理解を深め、お互いを思いやる関係を構築させる。
それこそが、このシステムを完成させるために必要不可欠な道筋だったのだ。
伝説の巫女メービスと、その伴侶であった騎士ヴォルフ。わたしの母さまであるメイレア・レナ・ディウム・フェルトゥーナ・オベルワルトと、父であるユベル・グロンダイル。
そして、今のわたし、ミツル・グロンダイルと……ヴィル・ブルフォード。
すべては同じ。繋がっている。
これを仕組まれた運命だと、人は言うのかもしれない。
でも、わたしは彼女にこう言いたい。
……ありがとう、って。
「……少し休め。もう危険はないはずだ」
ふいに、ヴォルフの低い声が、わたしの思考の海から意識を引き上げた。
彼の声は、いつもと変わらずぶっきらぼうだけれど、その響きの奥には、深い安堵と、そしてわたしへの労りが滲んでいるのがわかる。
その声を聞くだけで、わたしの心は不思議と落ち着いていく。
「……うん。じゃあ、少しだけ……甘えさせてもらおうかな……」
わたしは、まるで小さな子供が親に甘えるように、彼の胸にそっと顔を埋めた。彼の鎧の冷たさが、今は心地よい。
わたしは目を閉じた。
鎧の硬質な感触。鉄と革の、どこか懐かしい匂い。そして、何よりも彼の確かな体温。それら全てに包まれているだけで、わたしの中で張り詰めていた何かが、ふっと音を立ててほどけていくのがわかった。まるで、固く結ばれていた糸が、するりと解けるように。
安心なんて、ずっと昔に失ってしまったものだと思っていた。
なのに、こんなふうに彼の腕に抱きかかえられていると、それだけで強張っていた肩から力が抜け、呼吸がどこまでも楽になる。嵐の後に訪れた、凪いだ海のようだ。この腕の中だけが、世界のどこよりも安全な場所だと、魂が告げている。
――このまま、優しい夢の中に落ちてしまっても、いいかもしれない。
そんな甘い誘惑が、わたしの心を微睡みへと誘う。瞼が、鉛のように重くなっていく。
◇ ◇ ◇
ふわりと、頬を撫でる風にかすかに草の匂いがした。
霜色の世界は消え、足裏には柔らかな春の陽だまり。
ゆっくりと目を開くと、そこには、信じられないほど懐かしい光景が広がっていた。
午後の柔らかな陽射しに照らされた、見覚えのある校庭。そして、校舎の隅に佇む、一本の小さな木陰。
あれは、柊の木。風に揺れるその濃緑の葉が擦れ合う音が、今はもう遠い日の記憶のように、やけに優しく耳に響く。遠い子守歌のようだ。
わたしは、夢を見ているのだとすぐに理解した。だって、そこに、いるはずのない人がいたから。
ミルクティーブラウンの、肩までのショートカット。太陽の光を浴びて、キラキラと輝いている。懐かしい色合いの制服に身を包んだ少女――加茂野 茉凛が、そこにいたのだ。
彼女は、柊の木の太い根本に、膝を抱えてちょこんと座っている。その姿は、昔と少しも変わらない。あの頃の、無邪気で、そして少しだけおませな彼女のまま。
「おつかれさま、美鶴。大変だったみたいね」
顔を上げた茉凛が、悪戯っぽく片目を瞑って、わたしに微笑みかけた。その笑顔は、太陽のように明るく、わたしの心の奥底まで照らし出す。
その屈託のない笑顔。わたしは、込み上げてくる熱いものを必死にこらえながら、小さく微笑み返し、彼女の隣にそっと腰を下ろした。柊の葉が、わたしたちの頭上で優しく揺れている。
「……少しだけ、ここにいてもいい? すぐに、戻らなきゃいけないのは、わかってるんだけど……」
声が、微かに震えてしまったかもしれない。本当は、もっとずっと、ここにいたいのに。
「もちろん。少しだけとは言わず、けっこう長くなったっていいよ。ここでは時間の概念はないからね」
茉凛はそう言って、悪戯っぽく笑う。
「……」
わたしは何も言えず、ただ柊の影が地面に落とす模様が、風に揺れるのを見つめていた。
「それに、いろいろ思うところ、あるんでしょ? あの魔族との戦い、すごかったみたいじゃない」
彼女の声は、以前と少しも変わらない。さらさらとした、心地よい風のような響き。でも、その声は、いつもわたしの心の、一番弱いところに、そっと寄り添うように届くのだ。彼女の言葉は、魔法のように、わたしの心を軽くしてくれる。
「ねえ、さっきの100%同調って、どんな感じだった? ヴィルと、完全に一つになったんでしょ? 教えてよ、ねえねえ」
ふいに核心を突かれて、わたしはすこしだけ目を伏せた。その時の感覚を言葉にするのは、あまりにも難しくて、そして、どこか恐ろしい。頬が、カッと熱くなるのを感じた。枝を握る指が白くなる。
「そうね……たしかに、全部がひとつになった気がしたわ。
感情も、呼吸も、剣を振るうタイミングも、場裏を展開するイメージも、怖いほど寸分の狂いもなく重なり合って……迷いなんて、ひとかけらもなかった。まるで、二人で一つの生き物になったみたいだった……。
……でも、それは……ただ、お互いの戦う意志が、あの極限状況で重なり合っただけのこと、だと思う。
でも、たぶん彼にとってはそれだけ。それだけなのよ。
昔、父さまと剣を並べて戦った頃の……あの、純粋な戦友としての感覚と、きっと同じ……。
わたしも、そう思いたい。――だって、そうじゃなきゃ、わたし……なんだか、困るから……。期待なんて、しちゃいけないって、わかってるのに……」
逃げるように、わたしは早口で言った。それ以上を口にするのが、怖かったから。この気持ちの正体を、まだ認めたくなかったから。認めてしまったら、もう後戻りできなくなりそうで。わたしの握る指が、白くなる。
けれど茉凛は、木陰を渡る風のように静かに首を振った。その大きな瞳が、慈しむようにわたしを見つめている。まるで、わたしの心の奥底まで、全てお見通しだと言わんばかりに。
「いやいや、それは違うと思うよ。……きっと彼は、もう気づいてる。ううん、ずっと前から気づいていたのかもしれないわね。あなたが、彼にとってどれほど特別で、かけがえのない存在なのかってことに。あの人、不器用だから、なかなか素直になれないだけよ」
彼女の声は、確信に満ちていた。その言葉が、わたしの心に小さな波紋を広げる。
「けどさ……無理なものは、無理なんだよ。いまはね……。彼にも、背負っているものがあるから。
あなたも、そうでしょ? 無理に答えを出そうとしなくていいのよ。焦らなくたって、いつかきっと……、でしょ?」
茉凛は、悪戯っぽくウィンクする。その仕草に、わたしの心は少しだけ軽くなった。スカートを握っていた指から、雪粒のように力が抜け、近くにあった柊の小枝が、ぽろりと手から落ちた。
わたしの胸が、小さく、でも鋭く痛んだ。茉凛の言葉は、いつもやさしくて、でも逃れられないほどまっすぐで、わたしの心の奥底にある、見ないふりをしていた本当の気持ちを、容赦なく暴き出す。
「……うん。わかってる。今はまだ、踏み込めない。わたしも、あの人も。この気持ちに名前をつけたら、きっと何かが壊れてしまうから……。
でも、今の、この関係が、心地いいって思ってしまう自分が、少し怖いの」
俯いたまま、わたしは消え入りそうな声で答えた。指先が、冷たくなっていく。
「そんなに深刻に考えなさんな。いま一番大切なのは、お互いを信じ合えるってこと。そして、どんなことがあっても、もう離れたくても、離れられないって、お互いがちゃんと気づいたことでしょう? それって、すごいことなんだよ」
彼女の細い指が、そっとわたしの指に触れる。その感触は、ひんやりとして、でもどこか懐かしい。
あの温度。ずっと昔に失ったと思っていたけれど、たしかに、そこにあった。それは、彼女の魂の温もり。その温もりが、わたしの心の氷を、少しずつ溶かしていく。
「だから、あきらめないで。時間がかかったって大丈夫。焦る必要なんてないんだよ。
だって、あなたたちはもうちゃんと“同じ未来”に向かって、一緒に歩き始めているんだから。その一歩は、小さく見えるかもしれないけれど、とても大きな一歩なんだよ」
「そう、かな……。本当に、そんな未来が、わたしたちに……訪れるのかしら……」
自信なさげに呟くわたしに、茉凛は力強く頷いた。その瞳には、一点の曇りもない。
「安心しなよ。未来はちゃんとあなた達を待ってる。わたしには、はっきりと見えているからね。
ああ、でも言っとくけど、それは確定した未来なんかじゃないよ。
未来っていうのは、誰かに与えられるものじゃなくて、自分の手で、大切な人と一緒に手繰り寄せていくものなんだから。わかるよね、美鶴?
あなたなら、きっとできるわ」
わたしは、彼女の言葉を噛みしめるように、小さくうなずいた。
この柊の木の下には、かつて、まだ何も知らなかった頃、よく足を運んだものだった。それは前世の、弓鶴として生きた頃の記憶。
お昼休みになると、決まってこの大きな木の下で、茉凛と二人でお弁当を広げた。木漏れ日がキラキラと降り注ぎ、季節の風が頬を撫でていく、そんな穏やかな場所。
わたしは“氷の王子様”としての仮面を崩せなかったけれど、茉凛はいつも太陽みたいに明るくて、他愛のない話でわたしを笑わせてくれた。
彼女の優しい声を聞いているだけで、彼女の笑顔を見ているだけで、頑なだったわたしの心が、ぽかぽかと温まっていくのを感じていた。これが、普通の子の、温かい日常なのだと、彼女が教えてくれた。
気を張ってばかりいたわたしが、彼女の前でだけは、ほんの少し肩の力を抜くことができた。ある日、うたた寝をして、気づいたら彼女の膝の上で眠ってしまっていたこともあった。
目覚めた時の、あの優しい微笑み。咎めるでもなく、ただ穏やかにわたしを見守る茉凛の眼差しに、わたしは言葉にならないほどの羞恥と、そしてそれ以上の温かいもので胸がいっぱいになって、何も言えずに逃げ出してしまったけれど……。
後日、彼女が「弓鶴くんって、無理していつも気を張り詰めているから、疲れてるんだよね? 無理しなくたっていいんだよ。休みたいときは、いつでも私に頼って。遠慮なんていらないからね、どーんとこい!」と、いつものように屈託なく笑って言ってくれた時、どれほど心が軽くなったことか。その言葉は、わたしの心の奥深くに、まるで小さな太陽のように、ずっと灯り続けている。
そうだ――ここは、ただの木陰なんかじゃない。たくさんの優しさと言葉、そして誰にも言えなかった小さな願いごとが眠る、わたしの記憶の聖域だったのだ。
柊の葉が一枚、わたしの膝に、はらりと落ちた。影が戻り、風が今を揺らした。
あの頃はまだ、何も知らなかった。
世界がこんなにも重くて、痛くて、そして、それでもこんなにも愛おしくて美しい場所だということを。失うことの痛みも、守ることの難しさも、そして、誰かを心の底から愛おしいと思う、この切ないほどの感情も。
でも――今なら、願える。心の底から。
この柊の木の下で、もう一度、新しい願いを、そっと芽生えさせてみたい。
あの人となら、いつか。
ほんとうに、いつか。
肩を並べて、こんな穏やかな木陰で、柔らかな風に吹かれながら、何でもない、たわいない会話を交わす未来があるのだと。お互いの手の温もりを感じながら、ただ静かに、同じ時を過ごせる日が来るのだと。
それがわたしの、今の、小さくて、でも世界すべてに等しい、たった一つの、大切な願い。
わたしはそっと目を閉じた。
雪の中で、ヴォルフの腕の中にいる自分に、少しずつ意識が帰っていくのを感じた。茉凛の温もりが、彼女の優しい声が、ゆっくりと遠のいていく。でも、寂しくはなかった。彼女の言葉は、確かにわたしの心に届いたから。
言葉のない静寂が、柊の葉をそよがせる。その音は、まるで彼女からの優しいエールのようだった。
――……ありがとう、茉凛。わたし、がんばるから。あなたが見守っていてくれる限り、絶対に諦めない。
◇ ◇ ◇
意識の縁で、雪を踏みしめる足音が、微かに聞こえた。ザクッ、ザクッ、という、規則正しい音。
男爵邸の、温かな窓の灯が、遠く、闇の中に揺れて見える。まるで、荒れ狂う海原を照らす、小さな灯台の光のように。ヴォルフの腕の中、わたしは再び、ゆっくりと目を開いた。
摂氏零度を下回る冷気が、現実へと意識を引き戻す。
「目が覚めたか、ミツル?」
彼は相変わらず無骨な声で、わたしの顔を覗きこむ。その蒼い瞳の奥に、深い安堵の色が浮かんでいるのを見て、わたしの胸が温かくなる。彼の表情は硬いけれど、その瞳は、どんな言葉よりも雄弁に、わたしへの気遣いを語っていた。
「うん。……ちょっと、懐かしい夢を見てたみたい」
わたしは、まだ少し掠れた声で答えた。
「夢か。……また悪い夢でも見たんじゃないだろうな?」
彼の声には、隠しきれない心配が滲んでいる。彼は、わたしがどれほどの恐怖と戦っていたか、痛いほど理解してくれているのだろう。その声音だけで、彼の深い優しさが伝わってくる。
「ううん。……大丈夫。とっても、あたたかい夢だったわ」
わたしは、彼に安心してもらうように、精一杯の笑顔を向けた。その笑顔は、まだ少しぎこちなかったかもしれないけれど、心からのものだった。その笑顔が、彼に届いているといいな、と思った。
それ以上、彼は何も聞かず、ただ黙って、けれど確かな足取りで、男爵邸へと歩みを進める。その沈黙が、今は心地よい。彼の腕に抱かれていると、世界のどんな場所よりも安全だと感じられる。
わたしは彼の胸にもう一度額を預けながら、夢の中の茉凛の声を、その温もりを、心の奥でそっと反芻する。彼女の言葉は、まるで小さな種のように、わたしの心に蒔かれた。いつか、それが美しい花を咲かせる日が来ることを、信じたい。そして、その花を、ヴォルフと一緒に見たい。
「――信じ合えるってこと。
それだけで、ちゃんと生きていけるってこと」
雪は、いつの間にか止んでいた。
夜が、静かに、そしてゆっくりと明けようとしていた。東の空が、ほんのわずかに白み始めている。それは、瑠璃色と乳白色が混じり合った、言葉では言い表せないほど美しいグラデーション。まるで、新しい世界の始まりを告げるかのように。
わたしはその彼の胸の確かな鼓動に包まれながら、ほんの少しだけ、遠い未来のことを、思い描いていた。
そこには、絶望も、恐怖も、そして戦いもない、ただ穏やかで、温かな日々が広がっている。彼と、そして大切な人たちと、笑い合える日々が。しかし、その穏やかな未来に至るまでには、まだ乗り越えねばならぬ多くの犠牲や、名も知れぬ脅威が存在することも、心のどこかで理解していた。
あの、虚無のゆりかごから響く、不吉な弓弦の音のようなものが、まだ耳の奥に残っている。
彼の肩越しに見える空は、まだ深い藍色だった。星々は、夜明け前の最後の輝きを放ち、まるでわたしたちの行く末を見守ってくれているかのようだ。
でも、あの空の、一番深い藍色の底には、きっと眩しいほどの光がある。
ただ、その光が、この世界に満ち溢れるまでには、もう少しだけ時間がかかるのだろう。
そして、その時間を手に入れるためには、まだ多くの困難が待ち受けているのかもしれない。それは、想像もできないほどの、過酷な道のりかもしれない。
そう胸の灯に誓った。
だから、わたしももう少しだけ、この胸の中の小さな灯火を、決して絶やすことなく、大切に守り続けていたい。
自分のことも、彼のことも、そして、これから訪れるであろう未来のことも、全部ひっくるめて、心の底から信じていけるように。
この、胸の奥で芽生えたばかりの、名前のない感情。それは、恋と呼ぶには、まだあまりにもおぼろげで、そして怖すぎるけれど。その感情の正体を確かめるのも、今はまだ、少しだけ怖い。
でも、こんなふうに、彼の腕の中で、同じ未来へと歩いていけるのなら、わたしはもう、それだけで――。
それだけで、わたしは強くなれる。
いつか必ず、本当の笑顔で彼の隣に立つ――そう、信じていた。
それでも胸の奥には、小さくとも絶えぬ篝火がある。
夜明けを迎えるその瞬間まで、二人で護り抜く。
わたしはその願いを声にせず、ただ何度も心の中で囁いた。夜気を割って昇る朝日のように、その言葉がふたりの魂を照らし続けると信じながら。
夜がほどけた。
光が、まだ淡い。
この話は一見すると戦いの合間に差し挟まれた“静かな一夜”の描写に過ぎませんが、実際には、ミツル=メービスが本当の意味で「巫女」としての孤独を解きほぐされる瞬間であり、同時に、読者が「巫女と騎士システム」の哲学的核に触れる場面でもあります。
まず描写は、深く繊細な“身体感覚”の描出によって始まります。ヴォルフの歩み、革と金属の擦過音、冷気と体温の対比、心臓の鼓動の移植。これらはすべて、ミツルが“他者の中で生きている”という感覚を五感を通して再認識していく過程です。この場面は、「守られることへの戸惑い」と「再生される自我」を繋ぎ、“戦場の巫女”から“生きる女の子”へと視座を降ろす移行を描いています。
続くデルワーズへの思索では、「巫女と騎士」という構造が人間性の救済装置であることが明らかになります。戦術システムでありながら、それは〈感情に導かれる技術〉であり、傷と涙に裏打ちされた祈りの継承である、と。デルワーズは〈孤独〉に敗れたからこそ、〈ふたりでなければ発動しないシステム〉を作った――その構想が、ようやくミツルの心に届くのです。
しかし、最大の山場はその後の〈夢の中の再会〉にあります。茉凛という少女の登場は、ミツルにとって“少女”としての記憶を呼び戻す装置です。あの柊の木の下で、ミツルははじめて「名前をつけるのが怖い感情」を口にし、それを茉凛が肯定します。ここには、他者からの共感という最も普遍的な癒しが描かれています。
このやりとりは、「語らずとも触れられるもの」「わかってしまうから、なおさら言えないもの」の繊細な往復運動を通じて、ミツルの心が確かに変化していくのが分かります。
そして最後の「夜がほどけた。光が、まだ淡い。」という一文は、構造上の余白です。感情が言葉になりきらないまま、ただ未来への静かな信頼と覚悟を残して幕が閉じる――この物語は決して「告白」では終わらず、「見つめあい、歩き続けること」の肯定で終わる。
すなわち本話は、
精霊子兵装という超技術の“倫理的根幹”、
巫女という存在の“非戦的意味づけ”、
戦友から信頼へ、信頼から愛へという“言葉にならない変化”、
そして、過去の自分と向き合い、未来を願う“心の再出発”
これらをすべて包含した、“物語の中心軸が動き出す”回なのです。
「あきらめないで」という茉凛の言葉は、彼女だけでなく、デルワーズの、そして未来の巫女たちすべての声でもあります。だからこそ、この夜明け前の一歩は、戦場のどの勝利よりも価値がある。
ミツルという少女の心理
彼女は今、「戦いの終焉と再生の境界」に立たされながら、自分が本当は何者であり、何を望んでいるのかを、はじめて直視しようとしている――それがこの章の核心です。
◇ 他者に預けるという“初めて”の体験
彼女がヴォルフ――魂はヴィルの腕に抱かれるという状況は、物理的な意味以上に、心理的な委ねを意味しています。
ずっと誰かを“守る側”だった彼女が、初めて「自分を預ける」という選択をする――その経験は、ミツルにとって「生まれ直し」に等しい。作中ではそれを、雪の中の雛鳥としての自己再生に喩えています。
ここには、“強さの鎧”を脱いだ少女が、「誰かにとって、大切にされている自分」を知ってしまう恐れと甘美が混在している。
自立を志す者にとって、“頼っていい”という発見は、決して喜びだけではなく、揺らぎと恥じらいと、何よりも喪失への恐怖を伴います。ミツルは、まさにそのはざまに立っている。
◇ 恋という言葉に触れられない
茉凛との会話において、ミツルははっきりと「この気持ちに名前をつけたら壊れてしまう」と語ります。
これは、恋を認めること=失う可能性を受け入れることに他ならない。
彼女はまだ、ヴォルフの優しさや信頼を「確かな形」では持っていない。だからこそ、望むほどに怖いのです。望んでしまえば、拒まれたときの痛みもまた、比べようのない深さになるから。
それでもミツルは、自分の中にその感情が芽生えていることを否定できない。
「信じ合えるってこと。それだけで、生きていけるってこと」――それが彼女の、今の限界であり、到達点でもあるのです。
◇ デルワーズとの同化と分岐
この章で特に印象的なのは、彼女がデルワーズの祈りと“自分”を重ねながらも、「わたしは、ありがとうって言いたい」と応えるところです。
ミツルは、デルワーズの願い――二人で重荷を分かち合う未来を――継ごうとしながら、どこかでそれを“自分の意志”に変えたいと願っている。
つまり、ミツルという少女は「誰かの願いの器」でありながら、同時にそれを自分の言葉、自分の感情、自分の選択で受け取り直したいと強く願っている。
彼女の苦悩はそこにある。継がされた祈りを、ただなぞるのではなく、“自分の足で歩いて、自分の愛として結実させたい”――その希望が彼女を揺らし、でもそれゆえに、彼女は美しい。
◇ 本当の少女性とは“弱さを認める強さ”である
ミツルはまさに「自らの弱さを受け入れ、他者と共有しようとする過程」にあります。
それは決して敗北ではなく、人間らしくあろうとする、最も勇敢な在り方です。
誰よりも強く、誰よりも孤独に戦ってきた彼女が、いまようやく“甘える”という選択をしたこと。それは「生きたい」と思うこと、「誰かと共に在りたい」と望むことに他なりません。
その心の軌跡こそが、ミツルという少女の魅力であり、彼女がこの物語の「未来」を体現する者であるゆえんです。
彼女の恋はまだ始まってさえいない。
でも、彼女はもうすでに、「誰かと生きる」ことを選び始めている。
その覚悟の萌芽こそが――この夜の雪よりも、なによりも美しい。
結論から言いますと、ミツルは本音では完全にヴィルを愛しています。本編では意識して形にしていませんが、実際はこういうことです。
わたしは、もう――完全に、彼を愛している。
その事実は、とっくに自分の中で形になっている。呼吸するたび、彼の姿が瞼の裏に浮かぶ。胸が痛むほどに、名前を呼びたい。触れたい。隣にいたい。
でも、わかっている。
いまのわたしは、彼の隣には、まだ“ふさわしくない”。
彼は四十四歳。わたしは、元の肉体で言えばまだ十二歳だった少女。たとえ魂の中に二十一年分の経験が刻まれていようと、彼にとってのわたしは、あの人――父さまの、親友の娘に過ぎない。
「親代わりとは言わないが、護り通す」――
その言葉は、どこまでも誠実で、真っ直ぐで、だからこそ、残酷だった。
彼の中で、わたしはまだ“守るべき存在”でしかない。
戦場で肩を並べたとしても、命を預け合ったとしても、心はまだ、横には並べていない。
彼の視線の高さに、わたしの心が届くには、まだ越えなければならない壁がある。
わたしが彼を見上げることに、迷いはない。
でも、彼がわたしを見下ろすその目が、どうかいつか、並び立つものへと変わってくれたら――
そう願わずにはいられない。
彼の背中は遠い。けれど、わたしにはその背に追いつける力がある。
なぜなら、わたしたちは「巫女と騎士」。
魂の奥深くで繋がれてきたふたり。
信じている。
この絆は運命なんかじゃない。
わたし自身が選んだものだから。
たとえ、今はまだ「好き」なんて言葉を口にできなくても、
いつかきっと、わたしの心が彼に届くその時が来る。
真正面から、目を逸らさず、肩を並べて――
「わたしはあなたを愛しています」と、そう言える日が。
わたしはその未来を、生きるためにここにいるのだから。
その時まで、焦らず、諦めず、ただ信じ続ける。
だって、わたしたちは「ふたつでひとつのツバサ」。
同じ空を翔けるために、選ばれたふたりだから。
 




