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黒髪のグロンダイル 〜巫女と騎士、ふたつでひとつのツバサ〜  作者: ひさち
第十一章 時間遡行編⑤魂は刃に、祈りは光に
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雪原に燃ゆる篝火、世界律への反逆

 どれほど歩いただろうか。


 時間の感覚はとうに麻痺し、ただ機械的に足を前に運ぶだけの時間が続く。ヴォルフが一歩、また一歩と踏みしめる雪の感触だけが、単調なリズムを刻んでいた。


 風は凪いでいる。だが、その静寂がかえって不気味だった。まるで、巨大な獣が息を潜め、獲物が近づくのを待っているかのような、張り詰めた空気。


 魂を直接圧迫するような、純粋で高密度のエネルギーの重みが、距離を詰めるごとに増していくのを感じる。


 呼吸をするたびに、肺腑にガラスの破片を吸い込んでいるかのような鋭い痛みが走り、精神がじわじわと削り取られていく。目に見えない魔素の嵐が、常に彼女の魂を打ち据えていた。


《魔族までの推定距離、2.0 km》


 不意に響くレシュトルの声。その無機質な報告が、ミツルの心臓を鷲掴みにした。


 ドクン、と大きく脈打つ鼓動が、耳の奥で騒がしく反響する。息が、詰まる。


 大丈夫、と自分に言い聞かせたはずだった。茉凜の言葉を胸に、ヴォルフと共に生き抜くと誓ったはずだった。だというのに、未知なるものへの恐怖は、そう簡単には拭い去れない。それは、まるで身体に染み付いた呪いのように、彼女の心を蝕んでいく。


 背に回した腕を支えるヴォルフの手は、変わらず力強く、そして温かい。だが、ミツル自身の指先は、手袋越しだというのに、霜色のように冷え切っていた。


 マウザーグレイルを握るもう一方の手にも、知らず知らずのうちに力がこもり、関節が白くなるほどだ。その剣の柄の冷たさが、逆に現実感を突きつけてくる。


《魔族までの推定距離、1.0 km》


 さらに近づく。心臓の鼓動が、さらに早鐘を打つ。ハッ、ハッ、と荒くなる息遣いが、白い霧となって闇に溶けては消える。まるで、自分の生命そのものが、刻一刻と削り取られていくかのようだ。身体の芯が、凍てついていく。


 ミツルは、マウザーグレイルの柄を、折れんばかりに強く握り締めた。その硬質な感触だけが、今にも崩れ落ちそうな彼女の意識を、かろうじて繋ぎ止めている。


 心の奥底から、本能的な叫びが湧き上がってくる。それは、言葉にならない、魂の悲鳴。


 どんなに決意を固めても、どんなに強い言葉を口にしても、未知なる絶対的な脅威を前にすれば、人間はかくも無力なものなのか。その圧倒的な力の差を前に、希望などというものは、あまりにも脆く、儚い。


 その時、支えられた自分の手の強張りに気づいたのだろう、ヴォルフの指が肩越しに彼女の指先をそっと探り当て、親指で短く合図のように優しく押し返した。


「ミツル」


 低く、落ち着いた声が、彼女の耳朶を打つ。それは、どんな慰めの言葉よりも、彼女の心を鎮める力を持っていた。まるで、嵐の中で見つけた、ただ一つの灯台の光のように。


「息が荒い。落ち着け」


 肩に回した彼の手が、彼女の前腕を包むようにほんのわずか力を足す。その確かな感触と、変わらぬ声の響きに、ミツルの張り詰めていた神経が、ほんの少しだけ和らいだ。彼の温もりが、凍てついた心にじんわりと染み渡っていく。


「……ごめんなさい……わたし……怖くて……」


「謝る必要はない。怖いのは当然だ。俺だって、肌が粟立つのを感じている。だが、恐怖に呑まれるな。それこそ、奴の思う壺かもしれん」


 そう言って、彼は微かに笑った。その笑みは、ミツルの恐怖を和らげようとする、彼なりの優しさなのだろう。そして、その言葉には、戦士としての冷静な分析も含まれていた。


「これだけは忘れるな。俺はお前とともにある。そして、レシュトルもいる。“俺たち三人”で、あの化け物に立ち向かうんだ。どんな敵であろうと力を合わせれば、必ず道は拓ける」


 彼の言葉が、まるで温かい光のように、ミツルの凍てついた心に染み渡っていく。その事実は、何よりも心強い。


 ミツルは、深く、深く息を吸い込んだ。肺を満たす冷気が、逆に思考をクリアにしていく。そして、ゆっくりと吐き出す。


「……そうだね、ヴィル」


 彼女は背に回したヴォルフの手に、もう一度力を込めて握り返した。それは彼への感謝と、そして改めて固めた決意の証だった。彼の存在が、彼女の最後の砦なのだ。


《魔族との距離、五百メートル。――これより、戦闘領域と定義します》


 レシュトルの声が、最終通告のように響き渡る。ついに、この時が来た。


 ミツルはゴクリと息を呑み、全身の神経が極限まで研ぎ澄まされていくのを感じる。IVGフィールドのクールタイムは、既に完了している。いつでも、ミツルの意思一つで、あの絶対的な守護の結界を展開できる。


 その事実は、ほんのわずかな安堵を彼女にもたらしたが、目の前に広がるであろう光景を思うと、その安堵は瞬時に霧散しそうだった。


 歩みを止めた二人の視線の先、闇が僅かに揺らめいた。まるで、空間そのものが生きているかのように。


 そして、音もなく、それは現れた。


 黒紫の影。


 先程まで遠目に捉えていた人型のシルエットが、今はっきりとその異様な姿を闇の中に浮かび上がらせている。


 身長はヴォルフを優に超え、二メートル以上あるのではないか。だが、その体躯は人間のような骨格や筋肉を感じさせず、まるで磨き上げられた黒曜石か、あるいは深淵の闇そのものを凝固させたかのような、ぬらりとした質感を持っていた。


 体表は滑らかでありながら、まるで生きている粘菌のように、あるいは底なしの沼の表面のように、絶えず微細に蠢き、その輪郭を曖昧に揺らめかせている。それが固形なのか液体なのか、あるいは気体なのかすら判然としない。


 ただ、そこに在るのは、絶対的なまでの異質さと、そして圧倒的なまでの存在感だった。それは、この世界の理から逸脱した、禁断の存在。


 顔があるべき場所には、何もない。のっぺりとした闇が広がっているだけだ。ただ、その中心に、二つの紅蓮の光点が、まるで冥府の奥底からこちらを覗き込む巨大な獣の双眸のように、鋭く、そして冷酷無残な光を放ち、ミツルとヴォルフを正確に射抜いていた。


 その瞳に見据えられるだけで、魂が凍てつき、身動き一つ取れなくなりそうだ。それは、獲物が苦しむ様を眺める捕食者の、冷酷な喜び。


 そして、その両肩から伸びる、不気味に蠢く何か。それは、まるで未完成の翼のようでもあり、あるいは、異形の刃を折り畳んでいるようでもあった。その先端が、時折、痙攣するように微かに震え、黒紫の魔素の粒子を周囲に撒き散らしている。


 粒子が雪に触れると、シュウ、という音と共に、雪が黒く変色し、焦げ付くような、そして血の鉄臭さを伴う異臭を放った。その異臭だけで、ミツルの胃の腑が捩れるような不快感に襲われる。


 空気が、死んだ。


 風の音も、雪の気配も、自分自身の呼吸音すらも、まるで分厚い氷壁に閉ざされたかのように、一切が掻き消える。代わりに、耳の奥で、キーンという高周波の耳鳴りが鳴り響き、心臓が、まるで破裂しそうなほど激しく、しかし不規則に鼓動を打っていた。


 魔族の周囲の大気は、陽炎のように歪み、空間そのものがその存在の重圧に耐えかねて悲鳴を上げているかのようだ。それは、単なる魔素の濃度が高いというだけではない。もっと根源的な、世界の法則そのものが捻じ曲げられているかのような、おぞましい感覚。


 呼吸をするたびに、肺腑にガラスの破片を吸い込んでいるかのような鋭い痛みが走り、魂が直接削り取られていくかのような、耐え難い苦痛がミツルを襲う。まるで、自分の存在そのものが、この場所から消し去られようとしているかのような、絶対的な拒絶感。


 これが、魔族。

 これが、意思を持った神罰。

 これが、純粋な破壊の概念が形を得たもの。


 ミツルの全身が、恐怖に総毛立つ。本能が、生存本能の全てが、今すぐここから逃げろと、最大級の警鐘を乱打していた。


「降ろしてヴィル……」


 震える声で請うと、ヴォルフは無言のまましゃがみ、彼女を雪原に立たせた。膝裏から冷えが這い上がり、脛に雪の重みが戻る。雪面の冷たさが、逃げ腰の足を現実へ縫いとめた。


 少しふらつく。けれど彼女は決然として立ち、真正面を見つめた。


 吸って、止めて、三つ数え、吐く。胸の震えが一拍遅れて収まり、視界の輪郭が凍てた空気で研がれる。


「先手を取る……! IVGフィールドを展開して!」


 IVGフィールドが使える今なら、あるいは。そんな万に一つの希望にすがり、一歩踏み出そうとした瞬間、ヴォルフの大きな掌が、そっと、しかし有無を言わせぬ力で、ミツルの肩を押さえた。


「待て、ミツル。まだだ」


 彼の声は、低く、そして驚くほど静かだった。だが、その声には、嵐の前の海の静けさのような、張り詰めた緊張感が宿っている。


「まだ……雪は、落ちてきていない」


 その言葉の意味を、ミツルは瞬時に理解した。まだ、魔族は動いていない。その紅い瞳でこちらを凝視しているだけで、一切の敵意も、攻撃の意思も見せていない。


 ヴォルフは、その魔族の不可解な静寂の中に、何かを感じ取っているのだ。彼の戦士としての本能が、軽挙を諌めている。


 ミツルは、逸る心を必死に抑え、ヴォルフの隣で固唾を飲んで魔族の次の動きを待った。さきほどまで絡めていた指先が、今は空を掴み、冷え切った感覚だけが残る。心臓の音が、まるで破裂しそうなほど大きく、そして早く、胸を打ち続ける。


 そして、その息が詰まるほどの静寂は、唐突に破られた。


 魔族の、顔のないはずの顔の中心あたりが、まるで水面が割れるように、ゆっくりと裂けた。そこから現れたのは、口と呼ぶにはあまりにも冒涜的な、闇そのものが凝固したかのような裂け目。


 そこから、声が、物理的な振動を伴って、大気を震わせた。


「ユルズゥ、マジィ……」


 その最初の音の破裂は、まるで真冬の夜に、極限まで冷え切ったガラスが、内側から軋み、砕け散るかのような、鋭く、そして硬質な響きを持っていた。


 ミツルの鼓膜が、その音の圧力だけでキーンと痛む。空気が、一瞬にしてその硬度を増したかのようだ。それは、決して美しい音色ではない。むしろ、聞く者の神経を逆撫でするような、不快な高周波を含んでいた。


「……イマゴゾォ……ブグジュウノドギィ……」


 続く言葉は、打って変わって、粘性を帯びた濁音の連続。それは、まるで湿った暗渠の奥底から響いてくるような、不快で、そしてどこか粘りつくような響き。


 一つ一つの音が、まるで意思を持った生き物のように、ぬるりとした感触を伴って耳の奥へと侵入してくる。聞いているだけで、魂が重たい泥の中に引きずり込まれていくような、そんな嫌悪感を催させる。


 ミツルは、思わず眉を顰め、吐き気をこらえた。胃の腑が、不快に収縮する。


「……ギダレェリ……」


 そして最後の言葉は、再び鋭く、硬質な破裂音。


 それは、まるで霜色の水面を、鋭利な刃が一瞬にして切り裂くかのような、鮮烈で、そして冷酷な印象を伴っていた。その音の切れ味は、鼓膜を通り越し、直接脳髄に突き刺さるかのようだ。


 ミツルは、その声だけで、魔族という存在の異質さと、その内に秘められた計り知れない恐怖を、肌で感じ取っていた。


 それは、これまで彼女が聞いてきたどんな声とも違う。男性の声のようではあるが、その響きはどこまでも陰湿で、それでいて、聞く者を絡め取るような、妖しいまでの艶めかしさを帯びていた。


 ミツルは、それだけで心が、そして全身が、完全に凍り付いてしまったかのような錯覚に陥った。指先から急速に血の気が引き、感覚が麻痺していく。


 ヴォルフが咄嗟に彼女の腕を支えなければ、そのまま雪の上に崩れ落ちていたかもしれない。


 そして、魔族は、まるで言葉を区切るかのように、ほんのわずかな間を置いた後、さらに言葉を続けた。


 その紅い瞳が、愉悦に歪んだように見える。それは、獲物が苦しむ様を眺める捕食者の、冷酷な喜び。


「デェェル、ワー……ズ」


――えっ……!?


 その途切れ途切れの響きが、ミツルの脳髄に突き刺さる。


 何かが、おかしい。この言葉の響きには、覚えがある――いや、むしろ魂が、この言葉に反応している。まるで、遠い過去の記憶が、無理やりこじ開けられようとしているかのような、激しい拒絶感と、そして抗いがたい引力。


 ミツルの思考が、高速で回転を始める。脳が、勝手に、あの意味不明な音の羅列を、翻訳しようとしている。それは、まるでパズルのピースが一つずつ嵌っていくかのように、しかし、その完成図は、想像を絶するほどおぞましいものだった。


【映像 記憶投影】


 視界の内側に薄青い走査線が差し込み、音が水の底へ沈む。十二歳のミツルであった頃の鮮烈な悪夢が立ち上がる。離宮で見た、あの「不具なる紋章」。そして、その紋章を見つめている時に聞こえてきた、あの意味不明な幻聴。


「……デ……ワ……ズ……ユ……ス……ジ……マ……ソ……ク……ュ……ノ……キ……タ……リ」


 そうだ、あの時の声と、今、目の前の魔族が発した言葉は、同じものだ!


 そして、その幻聴が意味するものとは……!


 単純な仕組み。声と声の隙間を埋める語句など、容易に連想できる。


―――― 許すまじ。今こそ復讐の時、来たれり――デルワーズ ――――


 思考に割り込むように、冷たい光のような理解が、脳髄を縫い合わせた。


【映像終了】


 雪の匂いが戻り、手袋越しに感じる剣の冷金が指先を現実へ引き戻す。胸の奥で鼓動が跳ね、氷の空気が肺を刺した。


 ミツルは、目を見開いたまま、完全に動きを止めた。全身の血が、一瞬にして沸騰し、そして次の瞬間には氷点下まで凍り付いたかのような、激しい衝撃。呼吸が止まり、心臓が、まるで鷲掴みにされたかのように、激しく締め付けられる。


「……デルワーズに……復讐する……?」


 かろうじて絞り出した声は、自分のものではないかのように、遠くで震えた。弱々しく、しかし絶望の重みだけは確かに宿っていた。


――デルワーズ。


 その名は、ミツルの胸に重く響く。


 リーディス王家の始祖にして、黒髪の巫女の源流。


 かつて古代バルファ超文明の統一管理機構が、精霊族殲滅のために生み出した生体兵器であり、精霊族の巫女の遺伝子を基盤に、あらゆる制限を打ち破った規格外の精霊魔術師。IVGシステムを内蔵した補機マウザーグレイルの初代使い手として、白銀の翼を纏いシステムバルファに反旗を翻した者。


 だが、それだけではない。デルワーズは――愛する人と出会い、ひとり娘エリシアを抱いた母であり、家族の未来を願って戦い続けたただの女性でもあった。


 肉体を失った後もマウザーグレイルとともに永劫を生き、世界を守るために立ち続けたという伝説の存在。前世世界で深淵の血族を生み出し、ミツルや茉凜と深く複雑な因縁を結んだ。


 そして、おそらくはこの“巫女と騎士の救済システム”を創造した主。


――そのデルワーズに、この魔族は復讐を誓ったというの? 今、この場で? なぜ、デルワーズではなく、メービスに?


 それは、ミツルにとって、考えもしていなかった、あまりにも驚くべき言葉だった。


 頭の中が真っ白になり、思考が完全に停止する。全身の力が抜け、ヴォルフの腕に完全に体重を預けてしまう。彼の腕の感触だけが、かろうじて彼女をこの場に繋ぎ止めていた。


 ミツルの心が、激しく混乱する。


 この異界に繋がるとしか考えられない虚無のゆりかごという窟から襲い来る魔獣や、今目の前にいる魔族。そして、魔術の力の源である魔石そのものが、全て、全てはるかな昔、古代の超科学文明の時代に繋がっているというのか?


 ロスコーの記憶パッケージに残された映像の中で、デルワーズはこう語っていた。システム・バルファと、その中核意識体である「ラオロ・バルガス」こそが、この世界に混沌をもたらした元凶だと。


 そして彼女は毅然と宣言した──それを止めると。なぜか、デルワーズにはラオロ・バルガスへのアクセス権が与えられていた。自分にしか成し得ない使命。世界を救い、愛する娘エリシアの未来を守るために、彼女はその道を選んだのだ。


 記憶はそこで途切れ、その先の結末を知る術はない。だが、目に映るこの世界は、全人類を繋ぐネットワークの痕跡すら失われ、文明は近世以下へと退行している。人々はもはや人工子宮を必要とせず、母の胎内から自然に命を紡いでいるのだ。


 だとすれば、デルワーズは確かにシステム・バルファを打ち砕いたか、あるいはその理を逆手に取り、世界の構造そのものを塗り替えた──そう考えるのが最も妥当だろう。


 では、ラオロ・バルガスは一体どこへ消えたのだろうか。


 デルワーズに乗っ取られ、完全に歴史の彼方へ葬られてしまったのか。それとも、どこか遠くへ放逐され、いまも潜みながら生き延びているのか。


 あの「魔族」と呼ばれる存在が、なおもデルワーズへの復讐心を抱き続けている以上、後者の可能性を否定できない。


 すべてが恐るべき一本の線でつながる。


 虚無のゆりかごと呼ばれる異界への窟。そこから湧き出す魔獣たちの巣窟。そして、誰もが忌避する“不具なる紋章”と、あの夜に耳を裂くように響いた幻聴。


 これらすべての断片が、いまこの瞬間、古の因果に結びつき、ミツルの胸に凍りつくような確信をもたらしたのだった。


「……まさか……」


 ミツルの唇から漏れた言葉には、本能が震えるような戦慄が宿っていた。その声は、雪原の静寂に吸い込まれそうなほど、か細かった。


「システムバルファは、ラオロバルガスは、この世界ではないどこかでまだ生きている……そして、この世界に窟を穿ち、復讐のための尖兵を送り込もうとしている。そういうことではないの……? レシュトル!」


 彼女はマウザーグレイルを強く握りしめ、その刃の奥にいるはずのレシュトルに必死に問いかけた。その声には、恐怖と、信じたくないという痛切な響きが混ざっていた。


 もしこの推論が正しいのなら、いま対峙しているのは、単なる強大な魔物ではない。


 それは、古代超科学文明が生み出した「復讐と破壊」の意思そのものだ。その力の大きさは、彼女たちの想像をはるかに超えている──。


 だが、レシュトルからの返答はなかった。本来なら瞬時に返ってくるはずの合成音声は、ただ重苦しい沈黙を守るばかり。その沈黙こそが、ミツルの推論を裏づけているかのようだった。


 肯定も否定もできぬほど重く、真実の深淵を覗き込んだかのように、AIすら言葉を呑まれたかのようだ。その静寂は、確かな答え以上に、ミツルの心を凍りつかせた。


《……お答えできません。その情報は、現時点のマスターには開示不可能な、禁則事項に該当します》


――やはりか。


 ようやく返ってきたレシュトルの声は、これまでにないほど平坦で、感情の揺らぎはまったく感じられなかった。しかし、その無機的な響きの奥底には、何かを必死に隠そうとする、冷たい緊張が宿っているようにも思えた。


 禁則事項──。


 その短い一語は、凍りつくほどに重かった。


 世界の真実の最深部が、まだ自分には許されず秘匿されているのか。そして、その真実を知ることが、ミツル自身に、ひいてはこの世界に、どれほどの意味をもたらすのか。


 だが同時に、その返答は彼女に確かな手ごたえを与えた。自分の推論は、やはり的を射ている──と。その覚悟が、ミツルの心をさらに冷たく凍らせていく。


 ミツルの思考は、そのまま深淵へと沈み込んでいった。


◇◇◇


 視界の内側が淡い青ににじみ、音が重たく水底へ沈む。ミツルはこちらの過去に転移する直前を思い出す。


《いい? さっきの共振解析で判明したことを整理するわね。ヴィルの脳の“大脳基底核”周辺が、どうやら精霊子を取り込む方向へ変質しているみたい。それも、普通のヒトではまず起こり得ないレベルのタンパク質異常が見つかったの。自然発生って考えるには無理があるし、どう見ても人為的あるいは外的な原因を疑うほかないわ。何度解析をやり直しても、マウザーグレイルが下す結論は変わらない》


 彼の脳が精霊子を“認識”し、しかも“受け入れ”始めている。ミツルが知る限り、精霊子を感じ取れる人間は、この世界では自分一人だけのはず。かつて栄えたとされる精霊族は、今は影も形もない伝説上の存在なのだから。


「どうして……ヴィルが? 彼は野垂れ死ぬような男じゃない。精霊族の末裔なんかじゃないのに。遺伝子的に考えても、そんなことあり得ない……」


 IVGと呼ばれる、デルワーズが用いていたマウザーグレイルの真の機能や秘匿術式は未開封。徹底したプロテクトが施され、茉凜がいくら挑んでも解除できずにいる。


 そこに至れば、かつてデルワーズが用いただろう、精霊子を用いた遺伝子レベルでの観測や干渉が可能になるかもしれない。ミツルは前世での経緯から、そう推測している。でなければ前世世界において、深淵の血族は誕生しなかったのだから。


 だが、現状マウザーグレイルが直接ゲノムを読めるわけではないからこそ、この“異常パターン”に着目することができたともいえる。


《実際、わたしが拾った神経信号の異常は、普通の病気じゃあり得ないの。もしヴィルの脳が自然に書き換わっているわけじゃないとしたら、何者かの手が加わっていると考えるほうがまだ筋が通る。だからこそ、ここまで急激に症状が出ているのよ》


◇◇◇


 雪の匂いと、剣柄の冷金、隣の掌の温度――現実が戻る。


――つまり、あのヴィルの体調異変は、精霊子を受け取るための、いわば疑似的精霊族化とも呼ぶべき脳の変異だった。


 巫女と結びつき、共鳴し合うことで騎士としての真の力を開花させる──まさに「巫女と騎士システム」構築に欠かせない通過儀礼だったのだ。巫女が精霊子を集積し、認められた騎士の聖剣がその振動と波長を合わせることで、変異システムは完全に起動する。


 まったく別人である過去の騎士ヴォルフも、この変異を経て精霊子を受け渡せる脳構造を獲得していた。だからこそ、ヴィルとのあいだで時代を超えた精霊子の転移が可能になっていたのかもしれない。


――なるほど、そういうことだったのか。


 そのテクノロジーは、古代超文明――システム・バルファが遺したものだ。ならば、ラオロ・バルガスがマウザーグレイルと同等、いやそれを凌駕する未知の力を秘めていても何ら不思議ではない。


 しかし――活動に必要なエネルギー源は何なのか?

 いかにして異界への門、いわゆる「虚無のゆりかご」を発生させるのか?

 魔素と魔石の正体とは? 内包された命の灯火――万の狂気とは一体何なのか?

 そもそも、彼の真の狙いは何なのか? 世界を再び我が手に収めるためか、自身を復活させるためか?


 問いは尽きない。ただ一つ確かなのは、この魔族の言葉が──デルワーズへの復讐の狼煙であると同時に、この世界への侵略と戦いの序章を告げる宣言なのだということ。


 数え切れない記憶の欠片を積み重ねて、ミツルがたどり着いたのは──古代デルワーズの誕生と、彼女が紡いだ過去の出来事が、目の前に現れた「虚無のゆりかご」の現象と、魔族の出現を一本の因果の糸で結びつけているという真実だった。


 この果てしない因果の連鎖の終着点に、いま自分たちは立っている。


 考えがそこまで達した瞬間、ミツルの全身から血の気が一気に引いた。あまりにも壮大で、あまりにも絶望的なその真実──


 ミツルの膝が、がくりと折れそうになる。


 ヴォルフの腕が、それを力強く支えた。彼の掌の温もりが、かろうじて彼女の意識を繋ぎ止める。


「……ミツル、お前が黙り込む時は、何か重大なことを考えているのだと、俺は理解している。だがな、今は目の前の敵に集中しろ。正しかろうが間違っていようが、俺たちが今為すべきことは変わらん。そうだろう?」


 彼の声には、深く重い憂いがにじんでいた。わずかな時間でミツルの精神が極限の淵まで追い込まれていることを、彼は鋭敏に感じ取っている。


 同時に、投げかけられた言葉には彼女の覚悟を試す鋭さが秘められていた。


「大丈夫……大丈夫よ、ヴィル……。ええ、ここで逃げるなんてこと、ありえない」


 ミツルはかろうじてそう答えたものの、その声は頼りなく、自信の欠片すら感じられなかった。しかし、その瞳の奥には、新たな、より強固な決意の光が静かに灯り始めていた。


 世界の真実の一端に触れたことで、彼女の内側で何かが確実に変わり始めていたのだ。それは絶望ではなく、むしろ、戦うべき真の敵を見据える者の、凛とした覚悟。自分たちがこの世界の運命を左右する大いなる戦いの渦中にいるという、身を引き締めるような自覚。そして、その覚悟は、ヴォルフへの絶対的な信頼の炎によって、いっそう強く燃え上がっていった。


《マスター、ヴォルフ殿下。魔族が、僅かにその体表を変化させました。警戒レベルを最大に引き上げてください。何らかの行動を起こす兆候です。おそらく、先程のテレパシーによる呼びかけは、最後の通告、あるいは遊戯の開始を告げるものでしょう。これ以上の対話は、無意味と判断します》


 レシュトルの切迫した声が、二人の意識を貫いた。


 その刹那、魔族の黒紫の体表が、生きた粘菌のごとくぬらりと蠢き始める。紅蓮の瞳は先ほどよりも妖しく輝きを増し、その深く昏い光がまるで二人の魂を喰らおうとするかのようだ。両肩から伸びた異形の突起は、ゆるやかに蠢きながら鋭利な刃へと変貌を遂げていく。


 空気がビリビリと震え、魔族を取り巻く空間は陽炎のように歪む。そのプレッシャーはもはや“殺意”を超え――絶対的な捕食者の、純粋な破壊衝動のオーラそのものだった。


 恐怖は頂点に達した。


 その直後、再びレシュトルの声が二人の脳裏に鋭く響く。


《これより、〈絶対連携戦術・零距離殲滅式〉、最終確認フェーズに移行します。マスター、ヴォルフ殿下、ご準備を! 会敵まで、あと僅かです! 全神経を集中し、プロトコルに従ってください!

 ……この戦いに、私たちの全てを賭けます!》


 レシュトルの最後の言葉には、AIとは思えないほどの悲壮な決意が込められていた。その声は、まるでかつての戦友と再び肩を並べ、戦場に立つことを誓い合ったかのように響き渡った。


 ミツルはそっとヴォルフの顔を見上げた。澄んだ瞳には、もはや一切の迷いはなく、ただ目の前の敵を打ち破るという鋼のような決意だけが宿っている。その眼差しは、夜空で最も明るく輝く星のように、ミツルを導いていた。


 その瞳をじっと見つめ返し、ミツルは心の奥底から最後の勇気を振り絞った。――今は恐怖に沈むときではない。目の前に迫る脅威に、彼とともに立ち向かうのだ。そして、この手で必ず未来を攫み取る。どんな困難が待ち受けていようとも、ここで終わらせる。


 夜明けは、まだ遠い。


 だが二人の胸にともされた小さな篝火は、いまや燃えさかる炎となり、この深い闇を照らし出そうとしていた。その光は、互いの存在を確かめ合うように、激しく、美しく揺らめく。


 遠くで、初雪の粒が一つ、闇に溶けた。


《魔族との距離、十二キロメートル。交戦まで残り三時間》


 レシュトルの無機質なカウントダウンが夜気を震わせる。


 だが二人の瞳に、すでに怯えの色はない。あるのは静かな闘志――雪を溶かすほど熱い決意だけだった。


 その火は歩みに転じ、乾いた雪を踏み締めるたび確かなリズムを刻む。ミツルとヴィルは視線を交わし、ゆっくりと、しかし迷いなく頷いた。


 ここから先は、生涯で最も苛烈な戦場。


 けれど二人なら必ず越えられる。そう信じ合えた瞬間、恐怖は剣の刃に、迷いは魔術の光に姿を変える。


 遥か彼方――闇に溶けていた黒紫の影が輪郭を帯び始めた。米粒ほどの点は人型へと育ち、肩の付け根で不気味な何かがうごめく。獰猛な猛禽が離陸前に翼を試す仕草に似て、ただの“影”ではないと告げていた。


 決戦の刻限は着実に迫っている。


 それでも胸の奥には、小さくとも絶えぬ篝火がある。


 夜明けを迎えるその瞬間まで、二人で護り抜く。


 ミツルはその願いを声にせず、ただ何度も心の中で囁いた。白き風を割って昇る朝日のように、その言葉が二人の魂を照らし続けるのだと信じながら。

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