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黒髪のグロンダイル 〜巫女と騎士、ふたつでひとつのツバサ〜  作者: ひさち
第二章 前世回想「深淵の黒鶴」編 ダイジェスト「氷の王子様」は「囚われの姫巫女」
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彼を守る、それがわたしのぜんぶ

 曽良木は、泰然と身じろぎもせず、重く冷たい声音で語り始めた。


「そこにいる柚羽は、解呪を目論み、自らの器を拡大しようとした。深淵の力の起源、根源たる存在を蘇らせるべく、この世に散らばったすべての精霊子を受け入れるためにな……。

 黒と呼ばれる禁忌の色は、確かに器としては最適だ。精霊子への感受性が極めて高い異常個体だからな。だが、それゆえに常に制御不能の危険をはらんでいる」


 威圧の下で、言葉だけは論理の温度を保っていた。


 彼の断言は、容赦のない事実だった。適格者とは言えない私――美鶴には、彼のような感受性はなく、暴走の恐怖を噛み殺しながら、少しずつ器を広げていくしかなかった。完成に近づくまで、七年。長い砂時計を、ただ見つめ続けた。


「さらに黒を恐るべきものとするのは、他の術者から精霊子を簒奪する力だ。近づいた術者は無力化され、返り討ちに遭う。そんな化け物が暴れ出したなら、もはや手の施しようがない。

 だが、幸いにも過去に出現した黒は、ことごとく自滅している。器として完成するまで、狂わずにいられた者などいなかったからだ。それほどまでに危うく、また脆い存在。それが黒だ」


 唇に、薄い冷笑が滲む。


 両親は弓鶴の行く末を恐れ、黒の発現を避けようとした。救うために選んだ解呪の道は、虎洞寺家に密かに託され、私の手元にも残った。私は、その遺稿と願いに従っただけだ。


「柚羽の場合も、“少し突けば、勝手に自滅するだろう”。誰もがそう考えていた。しかしだ……突然、安全装置セーフティなんて不確定要素イレギュラーが降って湧いた」


「わたしのこと? それは残念だったわね。わたしがいるかぎり、弓鶴くんは自滅なんてしない」


 茉凜は真っ直ぐに睨み返し、声音を揺らさない。


 曽良木は一瞬、眉をわずかに動かし、すぐ冷たい笑みに戻した。


「それはその通りなんだがな……」


 響きには、侮りが混じる。


「虎洞寺の野郎はそれを利用し、解呪がもはや夢物語ではなく現実的に到達可能な目標になったと喧伝した。長年の悲願が成就される、とな。

 そこの鳴海沢のお坊ちゃんと、真坂の嬢ちゃんがちょっかい出したことで、それが証明された。その結果、上帳は混乱し、解呪を望む側と望まぬ側に二分されちまったのさ。嘆かわしいことよ」


 叔父様が水面下で盤面を揺らしていたのは知っている。上帳の重鎮たちは、彼の育てた外郭の収益に縛られていた。期待と不安が渦を作り、組織は割れ、解呪を巡る争いが熱を帯びた。


 曽良木は、無慈悲な笑みのまま言葉を継いだ。


「古狸――虎洞寺の思惑通り、結局誰も自分の手を汚したくない。だからこそ、俺が密命を受けて動く必要があったわけだ」


 底光りする闇が、声の底に潜む。重いものが、静かに胸へ沈んでいく。


「このままでは、柚羽は遠からず器の完成に近づく。そこで俺は考えた。どうすれば確実に黒鶴を破滅に追い込めるのか、とな」


 息が詰まる。狙いの輪郭は見えるのに、核だけが掴めない。


「……ところで話は変わるが、お前たちは、上帳のお偉いさんたちの実体をどこまで掴んでいる?」


 洸人が口を開きかける。


「彼らは術者としての限界を迎え、現役を退いた者たちだと聞き及んでいる。それは優秀だったがゆえの……」


 洸人は言い淀む。


 曽良木が淡々と引き取った。


「そうだな。強い力を持ち、実績を積み重ねてきた連中――すなわちエリートさんたちというわけだ。その力だが、長年使い続けていれば、それに伴って精霊子を受け止める器の容量も飛躍的に拡大していく。力が強ければ強いほどにな。

 だが……限界はいずれ来る。それが何だかお前たちも知っているだろう?」


 蒸気の白が風に削がれ、吐息だけが薄く残った。


「器の容量の拡大が限界に達した時、それ以上に精霊子を受け止めるために……」


 靴先で砕けた砂が、かすかに鳴った。


「ああ、身体自体が器に変質していくのさ。それが受容結晶体と呼ばれるおぞましい“異物”だ」


 冷えた空気が、肺の奥で固まる。皆、知っていた。だが、誰も口にはしなかった言葉だ。洸人もアキラも視線を落とし、茉凜だけが、事情を与えられていない。


「なによそれ、あなたがなにを言ってるのか、わたしにはさっぱり意味がわからない……」


 茉凜の声が高く跳ね、静けさを裂く。戸惑いが、瞳の縁で揺れた。私は、彼女へ真実を渡せなかった。怖さを、誰より知っているから。


 曽良木は、遠い噂話でもするように、温度のない声を落とす。


「要するに、上帳の連中は、術者としては使い物にならない連中ってことさ。それ以上術を使えば、その代償はどんどん増えていく。結晶体が身体の中で急速に増殖していき、寿命を削られ、最終的にあの世行きだ。

 まあ、強い力に相応のしっぺ返しがあるのは当然だろう。なぜ強力な血筋である有力三家の長たちが、早々に一線を退いているか、わかるだろう? つまりはそういうことさ」


 重い扉が内側から軋むような感覚がして、誰もが表情を固くする。力の背後にある代償――それが、目の前で具体の輪郭を得た。


 父さまも、そうだった。三十を待たずに一線を退き、柚羽家へ婿入りして母さまと結ばれた。優秀な術者の血を取り入れる――ただそれだけのために。そして山奥で「深淵の始まりの回廊」を守り続けた。襲撃を受けたあの時には、もう戦える身体ではなかったのだ。


「実際、上帳などという地位にしがみついている連中は、その罰を受けている哀れな骸に過ぎない。力の代償を背負い、全てを失っていく運命なのさ」


 曽良木の確信は、氷の縁で光る。


「つまり、僕たちもいずれそうなると?」


 洸人の声は、重さと驚きを同時に含む。


 曽良木は小さく頷き、薄い笑みを刻んだ。


「だろうな。どれだけ優秀であっても、いずれ限界は来る。受け止める精霊子の量が多ければ、その代償もまた莫大だ。だが、俺は違う。たとえそうなったとしても、戦って、生き残るだけの力はある」


 見下ろすような無慈悲さが、声の陰に潜む。私たち深淵の血族は、根源が用意した、精霊子を集めるための使い捨ての器――不完全で脆い器に過ぎない。


「で、柚羽についてだが、今言ったのと同様、いやそれ以上に規格外だ。器としての成長速度とその代償の大きさは、通常の術者の比ではない。そこでだ──」


 曽良木の声は低く、冷たい風が吹きすさぶように私たちの心を刺した。その言葉一つ一つに圧倒され、まるで自分たちが舞台に上げられた操り人形のように感じていた。


「──我々は、定期的に術者を送り込み、襲撃させることにした。目的はわかるよな?」


 私は心臓が次第に重くなるのを感じた。彼の冷徹さと、その根底に潜む無慈悲な意図に気づかされたからだ。


 洸人が答えた。


「黒鶴の器を、いや、弓鶴くんを限界域に導くことか……」


 かすかな声の震えが、洸人の内心を映し出していた。曽良木は微動だにせず、状況があくまで彼の手の内にあることを誇示していた。


「そうだ。黒鶴が持っている特性を最大限に使わせて、器を拡大させることにした。見立てでは、そろそろ“頃合い”ではないかと思ったのでな。だから今宵、少し探りを入れに来たというわけさ……」


 風が一筋、蒸気を裂き、焦げた土の匂いが立った。


「いやはや、黒鶴を引きずり出すには苦労したぞ。肝心の安全装置が見当たらなかったんだからな。秘匿奥義まで繰り出して、狂ったフリまでするなんざ、俺らしくもない。はっはっはっ」


「すべては、弓鶴くんを陥れるための計略だったということか?」


 指先の震えが、自分の温度を教える。


「ふふ……俺の演技も、なかなか真に迫っていただろう?」


 口端がわずかに歪み、低い声が空気を割った。笑っているはずなのに、そこに愉快さはひとかけらもなく、冷たい刃の音が忍び込んでくる。


 私は内心で愕然としていた。曽良木――この冷酷な策士は、ずっと私たちを見下ろし、周到に盤上の駒として動かしていた。私たちがどれだけ抵抗しても、それは単なるゲームの一部に過ぎなかったのだ。


「だが、これはお前たちの、解呪という目論見を、わざわざ助けてやるような行為でもあった。さっき言ったように、感謝してもらいたいくらいなのだがな」


 その皮肉交じりの言葉に、私は怒りが込み上げてきた。けれども、曽良木の冷たい視線が私を黙らせる。彼の策略の前では、私の感情など些細なものでしかなかった。


「もはや黒鶴は使えまい? 使えば加速度的に死に近づくのだからな」


 彼の言葉は確かだった。私にはもはや戦う術は残されていない。彼の計略はすべてを見越し、私を完全に追い詰めていた。苦痛と恐怖が私の体を包み込み、心が深い絶望に沈んでいくのを感じた。


「ずいぶんと手間がかかったが、これでようやく仕上げに取りかかれるというものだ」


 その時、茉凜の決意が場を圧倒した。


「そんなこと、わたしがさせないっ!!」


 重い霧が裂けるように、空気が変わる。細い背なのに、声音だけが場を震わせた。


 曽良木の笑みがわずかに歪む。


「おいおい、何の力も持たない、わけのわからん安全装置セーフティごときに、一体何が出来るというのだ?」


 刃のような視線が茉凜を射抜き、侮辱の冷たさが胸にまで刺さる。


「見くびっているようね。わたしはただの安全装置なんかじゃない。あなたは知らないでしょうけど――」


 ドレスの裾が微かに揺れ、呼吸が静かに揃う。


「――わたしは呪いを解くための、彼にとっての最後の武器なのよ。だからあなたなんかにぜったいに負けない」


 その声は宣戦布告に等しかった。


 胸の奥が熱くなる。彼女の確信が、私を貫いた。


 曽良木の目に一瞬だけ驚きが走り、すぐ冷酷な笑みに戻る。


「守られているだけの只人かと思えば、ずいぶんと剛毅なことだ。お前に何が出来るというのだ。まあ、死にたいなら、今すぐにでも始末してやろう」


 靴裏が石を擦り、冷たい音が弾けた。


「いいえ、わたしは負けない。あなたの思うようになんてさせない。わたしは彼を守るためにここにいる。それが“わたしのぜんぶ”なんだから」


 空気が一拍だけ止まる。幼い言葉にしか聞こえないのに、誰もすぐには否定できなかった。


 曽良木の笑みが一瞬だけ消える。予想を外されたのだろう。


「ほう……では、どうするというんだ?」


 蒸気の膜がほどけ、月の白がわずかに差した。


 茉凜は小さく息を吸い、迷いのない瞳を向けた。


「わたしとあなたで、ひとつ勝負をしましょう!」


 場が張り詰め、心臓が大きく跳ねる。洸人もアキラも目を見開き、視線が彼女へ集まった。


 だが私には、その背が痛ましく映った。勝てるはずがない。わかっているのに。


――やめて……。


 喉が塞がり、声は出なかった。止めたいのに、唇は凍りついたままだ。


 曽良木は腕を組み、余裕を崩さぬ笑みを見せる。


「面白いことを言う娘だ」


 冷たい響きが胸を貫く。


 茉凜が、この曽良木に挑む――。


――やめて……そんなことしたら駄目……。


 心が叫ぶのに、声は零れない。ただ背中を見つめるしかなかった。


 曽良木の肩がわずかに揺れ、冷たい笑みが戻る。


「お前ごときが俺に挑んで勝てるとでも?」


 息が細り、指先が強く握られる。


「いいだろう。言ったからには後悔するなよ。その覚悟、見せてもらおうじゃないか」


 言葉が場を裂いた瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。


 茉凜は優雅なドレス姿のまま、一歩ずつ進み出た。夜風が庭の木々を揺らし、そのたびに彼女の髪も細く震える。

 石畳に擦れる靴音は軽やかで、裾を翻す足元には――戦場には似つかわしくないスニーカーが覗いていた。きっと轟音に気づいて駆けつけるとき、ヒールを脱ぎ捨てたのだろう。


 焦りに駆られたアキラが後ろから追いつき、思わず茉凜の肩を強く掴む。指の震えが、そのまま声に滲む。


「やめなって。あんたなんかが、あいつに敵うと思ってるの?」


 冷えた風が袖口を抜け、握った手の熱がわずかに伝わる。


「アキラちゃん、心配しないで。わたしなら大丈夫だよ」


 その無邪気な調子に、アキラは息を呑んだ。胸の奥が疼き、曽良木の一撃の記憶が皮膚の下で疼く。


「なに言ってんの。あたしですら、まるでかすりもしなかったんだ。勝ち目なんてあるわけないだろ?」


 石畳の上でスニーカーが小さくきしむ。


「勝ち目なんて、やってみなきゃわからないよ」


 言葉の軽さと裏腹に、瞳は揺れずに澄んでいた。


「能天気にも程がある! だいたいそんな格好で、まともに動けるわけない。死にたいの?」


 アキラの肩が細かく震え、吐く息だけが白く浮いた。


「死ぬつもりなんて、わたしにはないよ」


 茉凜は曽良木へ向き直り、歩を止める。裾が風に鳴り、彼女は一瞬だけ振り返った。


「これは、“わたしにしかできないこと”だから。お願い、アキラちゃんはここで見ていて」


 その横顔の芯の強さに、アキラは喉を詰まらせた。声はもう出ない。


 私は洸人に支えられたまま、ぼやけた視界でその背を追う。呼び止めたいのに、喉は塞がり、無力な涙だけが頬を伝って冷えた地面に消えた。


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