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黒髪のグロンダイル 〜巫女と騎士、ふたつでひとつのツバサ〜  作者: ひさち
第二章 前世回想「深淵の黒鶴」編 ダイジェスト「氷の王子様」は「囚われの姫巫女」
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紅と蒼が交わるとき

 私と洸人は、愛用の得物を取りに行ったアキラより先に、屋敷の正門にたどり着いた。


 地滑りの轟音が遠ざかると、あたりは息を潜めたように静まり返る。風は止み、夜気の冷たさが頬へ鋭く刺さった。


 そこで、不意に耳を打ったのは、ごくかすかな足音。


 下駄の音――。


 遠夢の底から滲むように儚く鳴り、やがて等間で近づいてくる。石畳を打つ律動が夜気を小刻みに震わせ、静寂をさらに濃くした。時間の布が薄く裂ける錯覚が胸裏を掠め、背筋がぞくりと震える。


 足音は確かに、こちらへ向かっていた。喉の奥が固く張りつき、吸い込む冷気が肺の内側を切る。


 次の瞬間、正門に眩い光が弾ける。対人センサーが反応し、自動追尾のスポットが闇を切り裂いた。


 白光の中心に、一人の男。


 薄い緑の羽織が夜風に揺れ、初老の影が浮かぶ。刃の気配を纏い、短く整えた髪の下で冷たい瞳がこちらを射抜いた。


 精悍な面差しは微塵も揺らがない。細身の躯から年齢を裏切る殺気が滲む。長刀は鞘に収まったままなのに、金属の匂いが風に混じる錯覚が鼻に残った。


 一歩ごと、空間が支配される。足音の余韻が耳を締めつけ、見えない刃が近づく錯覚に肩が強ばる。


 私たちが動けずにいると、男は門を抜け、低く口を開いた。


「今宵の月は、格別に美しい……そうは思わんか?」


 白い光が頬の輪郭を削り、空気が一段冷える。


「くだらん。無駄口に付き合う暇はない。今は祝宴の最中だ。貴様を招いた覚えはない――早々に立ち去れ」


 吐く息が薄く白む。


「やたら車の出入りが激しいと思えば、なるほど、祝宴か。俺からのささやかな贈り物――存分に味わってくれたか?」


 唇の端が、わずかに歪んだ。


「正直、余興にしては退屈だったな。姑息な手口だ」


 指先の感覚が薄く、掌が乾く。


「ははは……退屈とは手厳しい。ではもう一押し、屋敷を少しばかり“傾けて”みせよう。石も梁も呻くだろう……楽しかろう?」


 深淵の流儀・黄――地質を操るあの異能。彼の場裏半径を思えば、脅しで済まない。


 耳元のインカムが弾けた。


「弓鶴くん、招待客の地下本部への退避は完了した」


 微かなノイズが混じり、胸の締めつけが少し緩む。


「残念だったな。客はもう地下だ。核シェルター並みの強度がある。数週間は持つ――お前の企みは無意味だ」


 強がりを、冷えた声で包む。


「ふむ……さすがは虎洞寺の狸の屋敷。堅牢で結構。だがな――閉じ込められ、何も知らされずに揺さぶられれば、人間など脆いものだ。不安に駆られ、恐怖に喘ぎ……正気など、紙の皮のように剥がれ落ちる」


 言葉が刃になって、心臓の膜を薄く裂く。


「貴様……」


 噛んだ奥歯に、冷たい味が滲む。


 客は無事――それでも今日だけは許せなかった。茉凜の誕生日、彼女のための魔法の時間を、踏みにじるなど。


 奥底の闇が喉までせり上がるのを、必死に飲み下す。


 その時、ショルダーベルトに得物を収めたアキラが、荒い息を切らして駆け寄った。瞳に焦燥の光。


 曽良木が堪えきれないように笑い出す。


「ふふふ……はっはっはっ」


 乾いた笑いが夜気に染み、空気がさらに沈む。


「いやはや、失敬。三家の後継者が揃って解呪を望むとは嘆かわしい。力こそが深淵の血族の真髄であり、存在理由そのものだ。……なぜ理解できぬのか」


 足もとで石が小さく軋んだ。


「……ふざけるなよ!」


 頬に熱が昇り、声が夜を裂く。


「お前たちは理念をねじ曲げ、解呪を禁忌にし、階級を築いた。力なき者を踏みつけ、幼子でさえ容赦なく殺してきた。だが、俺は認めない。――終わらせるのは呪いの構造だ。この俺が、その根源ごと断ち切る」


 吐いた熱が、胸の内壁で反響する。


「なるほどな。お前にとって、弱き者は救われるべきであり、強き者は排すべきなのか」


 冷えた問いが足首から這い上がる。


 けれど、もう迷わない。復讐に囚われた巫女だった私に、洸人とアキラ、茉凜が教えてくれた――生きる意味、繋がること。


 私は曽良木を見据え、夜気を深く吸い込む。


「俺が望むことはただ一つ。血族すべてが呪いに囚われず、自らの意志で生きられることだ。力の有無など関係ない」


 言葉が静かに広がり、冷気の層をわずかに押し返す。


「曽良木、お前は術者として失格だったはずだ。掃除屋に甘んじる自分に、疑問はなかったのか?」


 息が白くほどける。


「疑問など要らん。場裏を精密に扱えぬなら、剣を極めればいい。命じられた通りに術者どもを斬ればいい。これほど単純で楽しいことがあろうか。俺は掃除屋であることで己の存在意義を見つけたのだからな」


 淡々とした声に、狂気の温度が潜む。


 アキラが靴音も荒く一歩、前へ。


「弓鶴くん、もういい! こいつは、あたしがぶっ殺す!」


 夜気が一段、鋭くなる。


「だめだ……」


 喉がひゅっと鳴る。


「それだけは、してはならない……。殺しても何も変わらない。――俺たちは憎む者と同じにはならない」


 掌の汗が冷え、指がわずかに強張る。


「甘いこと言ってんじゃない。こいつはあんたを殺す気なんだ。火の粉を払うだけじゃ終わらない。火元を叩かなきゃ、何も変わらないんだ」


 アキラの吐息が白く散った。


「アキラ……頼む。わかってくれ」


 名を呼び、声が掠れる。


「元凶は深淵の異能だ。その連鎖を断たなければ、憎しみは永遠に終わらない」


 言葉が夜に沈み、アキラの肩が一瞬だけ揺れた。


「ちっ……わかったよ。殺さなきゃいいんだろ」


 刃先だけ、怒りがまだ燃えている。


「そうだね。殺しはしない。ただし、腕の一本や二本は、覚悟してもらわなければならないだろう。とても手加減できるような相手ではないからね」


 洸人が冷たい視線で曽良木を射、前に出る。声の縁に氷のきらめき。


 掌に青白い光が集まり、膜のような球体が渦を巻いて揺れる。『青の流儀』が息を潜め、空間を震わせた。


「洸人……」


 横顔の冷光に、胸がきしむ。


 曽良木は肩をすくめ、余裕の笑み。


「やれやれ。虎洞寺の客人は血の気が多い。だが、それが俺に通じるか……試してみるがいい」


 挑発の笑みが、闇に薄く浮く。


 洸人の手の球体が強く脈打ち、光が場を染めた。恐怖と希望がないまぜになって、胸が揺さぶられる。


 洸人の流儀・青なら、遠距離から場裏を至近まで寄せて牽制できる。圧縮した水を極細に絞れば、刃のように貫く。


 アキラの流儀・赤は温度操作。焦熱の剣で鉄を溶かし、刀を無力化できる。


 作戦は、洸人が注意を引き、その隙にアキラが間合いを詰める。二人の連携なら、制圧は可能だ。


「洸人、アキラ、頼むぞ」


 唇の内側を噛み、声を落とす。


 洸人は頷いて光を強め、アキラは得物を抜いて身を沈めた。

 その瞬間、時間が止まったかのように、夜気が凍りついた。


「弓鶴くん?」


 アキラの目が私を鋭く射抜いた。瞳には燃え盛る炎のような光が宿り、足取りさえ普段とは違っていた。踏み込むたびに地が軋み、吐息が白く揺れる。もう後戻りはしない――その表情が雄弁に語っていた。


「もう手加減なんてしてられない。正門をぶっ潰したって構わないよね?」


 肩口で熱が弾け、足裏が石を掴み直す。


「アキラ……!」


 思わず叫んだ声は喉で潰れた。覚悟の強さに圧倒され、言葉を呑み込む。背筋に氷の指が這い、心臓の鼓動だけが耳を打った。


「次は全力で行く」


 低い声が空気を震わせた。その一言に視界が狭まり、呼吸が浅くなる。


「全力? いったい何をするつもりだ……」


 弱々しい問い。返ってきたのは自信に満ちた笑みだった。


「ふふん、まあ見てな。ただ、こいつを使う限り、あいつはただじゃ済まないってことさ」


 冷たい響きに、不安が膨らむ。曽良木を殺してしまうのでは――その懸念が胸を突いた。


 だが手を緩めれば、地盤は揺れ、屋敷も地下も崩れる。


「やむをえん……アキラ、任せる」


 絞り出した声に、彼女は頷き、洸人に振り返った。


「洸人、あれをやるよ!」


 洸人の目が細まり、冷静な声が返る。


「あれか。だが屋敷への影響は最小限にすべきだ。水量は最小限に絞るぞ」


 アキラの踵が石を擦り、火の匂いが一瞬濃くなる。


「それでいい!」


 短いやりとりの裏に潜む危うさが胸をざわめかせる。喉が締め付けられ、私はただ来る瞬間を待つしかなかった。


 その時、曽良木が口角を吊り上げ、舞台役者のように両腕を広げた。


「さて、次はどんな芸当を見せてくれるかな? 期待外れでなければいいが」


 観客を煽るような仕草。心の底から楽しんでいる笑みが夜気を裂き、背筋を氷の指で撫でられたような感覚が走る。抵抗など無意味だと、体の奥が錯覚させられていく。


 アキラの目が鋭く光る。


「けっ、軽口叩いてられるのも今のうちだ。覚悟しなっ!」


 声と同時に、アキラと洸人が曽良木に向かって全速で駆けた。私はただ背中を見送り、拳を握りしめるしかない。命を懸けて戦う二人に比べ、私は無力だった。その思いが胸を刺した。


 アキラの剣先に紅い場裏が広がった。直径は一メートルを超え、空間を焼き尽くす光が迸る。視線を浴びただけで肌が焼け付く錯覚に襲われた。


 洸人も掌に蒼い場裏を展開する。空気と地中から水分を引き寄せ、冷たい光を凝縮させていく。二人は距離を詰めながら、力を臨界まで高めていた。


「これは楽しみだ。では俺も、やらせてもらおうか」


 曽良木は薄く笑みを浮かべ、悠然と立ち続ける。防御の構えさえ取らない。代わりに地が震え、金属が擦れるような音が広がった。土の壁が彼の前に隆起していく。


「そんな土壁如きで、防ぎきれると思うな!」


 アキラが叫び、五メートルを切ったところで剣を振り抜く。紅の場裏が曽良木に奔った。ほぼ同時に洸人も蒼の場裏を放つ。二条の光が交錯し、曽良木を呑み込もうとした。


 その瞬間、私は悟った。――水蒸気爆発。それも桁違いの。


 千度を超える熱と水が一点で解き放たれる。水は瞬時に蒸発し、数千倍に膨張する。圧力が爆ぜ、衝撃波となって空気を押し潰した。


 白い閃光が走り、轟音と熱風が空間を覆う。それは、人間が正面で耐えられるはずのない規模だった。わずか一リットルの水でも、一瞬で蒸気となれば千倍に膨らみ、手榴弾に匹敵する衝撃波を生む。至近で浴びれば、生身など一瞬で吹き飛ぶ。


 爆風は、予想を超えていた。空気が膨張し、全身に重圧がのしかかる。皮膚が裂け、骨が叩かれる。湿った鉄の匂いが鼻を刺す。息は詰まり、心臓が押し潰された。


 視界が白に塗り潰され、世界が反転する。上下の感覚は消え、私は宙に放り出された。


 次の瞬間、背中が地面に叩きつけられ、肺から空気が強制的に押し出される。喉の奥で声にならない音が洩れ、私は地を掴もうと必死に指を伸ばした。


「ぐっ……!」


 衝撃が肺を押し潰し、呼吸が途切れる。耳鳴りが鼓膜を塞ぎ、世界から音が消えた。目を開けても白い蒸気が漂い、熱で視界が揺らぐ。湿った空気が肌に貼り付き、吸い込むたびに喉を焼いた。


 全身が灼けるように痛む。瓦礫が暴風の砂粒のように叩きつけられ、鋭い痛みが走る。私は腕で顔を覆い、身を丸めるしかなかった。


「あき、ら……ひろ、と……」


 名前を呼ぼうとしたが、声は掠れ、蒸気に呑まれた。喉が裂けるように痛い。目を凝らしても白い霧が漂い、何も見えない。


 やがて耳鳴りの奥に低い振動音が戻り、続いて石の崩れる音、瓦礫の転がる音が混じり始めた。自分の荒い息遣いがはっきりと聞こえ、私は震える脚に力を込めて立ち上がる。


 視界の端で赤い光が揺れた。アキラの焦熱剣だ。まだ彼女は立っている。


「アキラ! 洸人!」


 声を張り上げると、白い蒸気の中から二つの影が浮かび上がった。赤と青の光に照らされた姿。二人とも体勢を崩し、血に濡れながらも必死に立とうとしている。アキラの頬には血の筋が走っていたが、彼女は構わず曽良木の方角を睨んでいた。


「……どうだい。絞ってもこれだけの威力だ。いくらあいつだって無事じゃ済まないだろ」


 掠れた声に鋭さが宿る。彼女の視線の先、土壁があった場所に私たちも目を凝らす。


「まさか……」


 息を呑む音が、蒸気の中に吸い込まれた。


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