紅と蒼が交わるとき
私と洸人は、愛用の得物を取りに行ったアキラより先に、屋敷の正門にたどり着いた。
地滑りの轟音が遠ざかると、あたりは息を潜めたように静まり返る。風は止み、夜気の冷たさが頬へ鋭く刺さった。
そこで、不意に耳を打ったのは、ごくかすかな足音。
下駄の音――。
遠夢の底から滲むように儚く鳴り、やがて等間で近づいてくる。石畳を打つ律動が夜気を小刻みに震わせ、静寂をさらに濃くした。時間の布が薄く裂ける錯覚が胸裏を掠め、背筋がぞくりと震える。
足音は確かに、こちらへ向かっていた。喉の奥が固く張りつき、吸い込む冷気が肺の内側を切る。
次の瞬間、正門に眩い光が弾ける。対人センサーが反応し、自動追尾のスポットが闇を切り裂いた。
白光の中心に、一人の男。
薄い緑の羽織が夜風に揺れ、初老の影が浮かぶ。刃の気配を纏い、短く整えた髪の下で冷たい瞳がこちらを射抜いた。
精悍な面差しは微塵も揺らがない。細身の躯から年齢を裏切る殺気が滲む。長刀は鞘に収まったままなのに、金属の匂いが風に混じる錯覚が鼻に残った。
一歩ごと、空間が支配される。足音の余韻が耳を締めつけ、見えない刃が近づく錯覚に肩が強ばる。
私たちが動けずにいると、男は門を抜け、低く口を開いた。
「今宵の月は、格別に美しい……そうは思わんか?」
白い光が頬の輪郭を削り、空気が一段冷える。
「くだらん。無駄口に付き合う暇はない。今は祝宴の最中だ。貴様を招いた覚えはない――早々に立ち去れ」
吐く息が薄く白む。
「やたら車の出入りが激しいと思えば、なるほど、祝宴か。俺からのささやかな贈り物――存分に味わってくれたか?」
唇の端が、わずかに歪んだ。
「正直、余興にしては退屈だったな。姑息な手口だ」
指先の感覚が薄く、掌が乾く。
「ははは……退屈とは手厳しい。ではもう一押し、屋敷を少しばかり“傾けて”みせよう。石も梁も呻くだろう……楽しかろう?」
深淵の流儀・黄――地質を操るあの異能。彼の場裏半径を思えば、脅しで済まない。
耳元のインカムが弾けた。
「弓鶴くん、招待客の地下本部への退避は完了した」
微かなノイズが混じり、胸の締めつけが少し緩む。
「残念だったな。客はもう地下だ。核シェルター並みの強度がある。数週間は持つ――お前の企みは無意味だ」
強がりを、冷えた声で包む。
「ふむ……さすがは虎洞寺の狸の屋敷。堅牢で結構。だがな――閉じ込められ、何も知らされずに揺さぶられれば、人間など脆いものだ。不安に駆られ、恐怖に喘ぎ……正気など、紙の皮のように剥がれ落ちる」
言葉が刃になって、心臓の膜を薄く裂く。
「貴様……」
噛んだ奥歯に、冷たい味が滲む。
客は無事――それでも今日だけは許せなかった。茉凜の誕生日、彼女のための魔法の時間を、踏みにじるなど。
奥底の闇が喉までせり上がるのを、必死に飲み下す。
その時、ショルダーベルトに得物を収めたアキラが、荒い息を切らして駆け寄った。瞳に焦燥の光。
曽良木が堪えきれないように笑い出す。
「ふふふ……はっはっはっ」
乾いた笑いが夜気に染み、空気がさらに沈む。
「いやはや、失敬。三家の後継者が揃って解呪を望むとは嘆かわしい。力こそが深淵の血族の真髄であり、存在理由そのものだ。……なぜ理解できぬのか」
足もとで石が小さく軋んだ。
「……ふざけるなよ!」
頬に熱が昇り、声が夜を裂く。
「お前たちは理念をねじ曲げ、解呪を禁忌にし、階級を築いた。力なき者を踏みつけ、幼子でさえ容赦なく殺してきた。だが、俺は認めない。――終わらせるのは呪いの構造だ。この俺が、その根源ごと断ち切る」
吐いた熱が、胸の内壁で反響する。
「なるほどな。お前にとって、弱き者は救われるべきであり、強き者は排すべきなのか」
冷えた問いが足首から這い上がる。
けれど、もう迷わない。復讐に囚われた巫女だった私に、洸人とアキラ、茉凜が教えてくれた――生きる意味、繋がること。
私は曽良木を見据え、夜気を深く吸い込む。
「俺が望むことはただ一つ。血族すべてが呪いに囚われず、自らの意志で生きられることだ。力の有無など関係ない」
言葉が静かに広がり、冷気の層をわずかに押し返す。
「曽良木、お前は術者として失格だったはずだ。掃除屋に甘んじる自分に、疑問はなかったのか?」
息が白くほどける。
「疑問など要らん。場裏を精密に扱えぬなら、剣を極めればいい。命じられた通りに術者どもを斬ればいい。これほど単純で楽しいことがあろうか。俺は掃除屋であることで己の存在意義を見つけたのだからな」
淡々とした声に、狂気の温度が潜む。
アキラが靴音も荒く一歩、前へ。
「弓鶴くん、もういい! こいつは、あたしがぶっ殺す!」
夜気が一段、鋭くなる。
「だめだ……」
喉がひゅっと鳴る。
「それだけは、してはならない……。殺しても何も変わらない。――俺たちは憎む者と同じにはならない」
掌の汗が冷え、指がわずかに強張る。
「甘いこと言ってんじゃない。こいつはあんたを殺す気なんだ。火の粉を払うだけじゃ終わらない。火元を叩かなきゃ、何も変わらないんだ」
アキラの吐息が白く散った。
「アキラ……頼む。わかってくれ」
名を呼び、声が掠れる。
「元凶は深淵の異能だ。その連鎖を断たなければ、憎しみは永遠に終わらない」
言葉が夜に沈み、アキラの肩が一瞬だけ揺れた。
「ちっ……わかったよ。殺さなきゃいいんだろ」
刃先だけ、怒りがまだ燃えている。
「そうだね。殺しはしない。ただし、腕の一本や二本は、覚悟してもらわなければならないだろう。とても手加減できるような相手ではないからね」
洸人が冷たい視線で曽良木を射、前に出る。声の縁に氷のきらめき。
掌に青白い光が集まり、膜のような球体が渦を巻いて揺れる。『青の流儀』が息を潜め、空間を震わせた。
「洸人……」
横顔の冷光に、胸がきしむ。
曽良木は肩をすくめ、余裕の笑み。
「やれやれ。虎洞寺の客人は血の気が多い。だが、それが俺に通じるか……試してみるがいい」
挑発の笑みが、闇に薄く浮く。
洸人の手の球体が強く脈打ち、光が場を染めた。恐怖と希望がないまぜになって、胸が揺さぶられる。
洸人の流儀・青なら、遠距離から場裏を至近まで寄せて牽制できる。圧縮した水を極細に絞れば、刃のように貫く。
アキラの流儀・赤は温度操作。焦熱の剣で鉄を溶かし、刀を無力化できる。
作戦は、洸人が注意を引き、その隙にアキラが間合いを詰める。二人の連携なら、制圧は可能だ。
「洸人、アキラ、頼むぞ」
唇の内側を噛み、声を落とす。
洸人は頷いて光を強め、アキラは得物を抜いて身を沈めた。
その瞬間、時間が止まったかのように、夜気が凍りついた。
「弓鶴くん?」
アキラの目が私を鋭く射抜いた。瞳には燃え盛る炎のような光が宿り、足取りさえ普段とは違っていた。踏み込むたびに地が軋み、吐息が白く揺れる。もう後戻りはしない――その表情が雄弁に語っていた。
「もう手加減なんてしてられない。正門をぶっ潰したって構わないよね?」
肩口で熱が弾け、足裏が石を掴み直す。
「アキラ……!」
思わず叫んだ声は喉で潰れた。覚悟の強さに圧倒され、言葉を呑み込む。背筋に氷の指が這い、心臓の鼓動だけが耳を打った。
「次は全力で行く」
低い声が空気を震わせた。その一言に視界が狭まり、呼吸が浅くなる。
「全力? いったい何をするつもりだ……」
弱々しい問い。返ってきたのは自信に満ちた笑みだった。
「ふふん、まあ見てな。ただ、こいつを使う限り、あいつはただじゃ済まないってことさ」
冷たい響きに、不安が膨らむ。曽良木を殺してしまうのでは――その懸念が胸を突いた。
だが手を緩めれば、地盤は揺れ、屋敷も地下も崩れる。
「やむをえん……アキラ、任せる」
絞り出した声に、彼女は頷き、洸人に振り返った。
「洸人、あれをやるよ!」
洸人の目が細まり、冷静な声が返る。
「あれか。だが屋敷への影響は最小限にすべきだ。水量は最小限に絞るぞ」
アキラの踵が石を擦り、火の匂いが一瞬濃くなる。
「それでいい!」
短いやりとりの裏に潜む危うさが胸をざわめかせる。喉が締め付けられ、私はただ来る瞬間を待つしかなかった。
その時、曽良木が口角を吊り上げ、舞台役者のように両腕を広げた。
「さて、次はどんな芸当を見せてくれるかな? 期待外れでなければいいが」
観客を煽るような仕草。心の底から楽しんでいる笑みが夜気を裂き、背筋を氷の指で撫でられたような感覚が走る。抵抗など無意味だと、体の奥が錯覚させられていく。
アキラの目が鋭く光る。
「けっ、軽口叩いてられるのも今のうちだ。覚悟しなっ!」
声と同時に、アキラと洸人が曽良木に向かって全速で駆けた。私はただ背中を見送り、拳を握りしめるしかない。命を懸けて戦う二人に比べ、私は無力だった。その思いが胸を刺した。
アキラの剣先に紅い場裏が広がった。直径は一メートルを超え、空間を焼き尽くす光が迸る。視線を浴びただけで肌が焼け付く錯覚に襲われた。
洸人も掌に蒼い場裏を展開する。空気と地中から水分を引き寄せ、冷たい光を凝縮させていく。二人は距離を詰めながら、力を臨界まで高めていた。
「これは楽しみだ。では俺も、やらせてもらおうか」
曽良木は薄く笑みを浮かべ、悠然と立ち続ける。防御の構えさえ取らない。代わりに地が震え、金属が擦れるような音が広がった。土の壁が彼の前に隆起していく。
「そんな土壁如きで、防ぎきれると思うな!」
アキラが叫び、五メートルを切ったところで剣を振り抜く。紅の場裏が曽良木に奔った。ほぼ同時に洸人も蒼の場裏を放つ。二条の光が交錯し、曽良木を呑み込もうとした。
その瞬間、私は悟った。――水蒸気爆発。それも桁違いの。
千度を超える熱と水が一点で解き放たれる。水は瞬時に蒸発し、数千倍に膨張する。圧力が爆ぜ、衝撃波となって空気を押し潰した。
白い閃光が走り、轟音と熱風が空間を覆う。それは、人間が正面で耐えられるはずのない規模だった。わずか一リットルの水でも、一瞬で蒸気となれば千倍に膨らみ、手榴弾に匹敵する衝撃波を生む。至近で浴びれば、生身など一瞬で吹き飛ぶ。
爆風は、予想を超えていた。空気が膨張し、全身に重圧がのしかかる。皮膚が裂け、骨が叩かれる。湿った鉄の匂いが鼻を刺す。息は詰まり、心臓が押し潰された。
視界が白に塗り潰され、世界が反転する。上下の感覚は消え、私は宙に放り出された。
次の瞬間、背中が地面に叩きつけられ、肺から空気が強制的に押し出される。喉の奥で声にならない音が洩れ、私は地を掴もうと必死に指を伸ばした。
「ぐっ……!」
衝撃が肺を押し潰し、呼吸が途切れる。耳鳴りが鼓膜を塞ぎ、世界から音が消えた。目を開けても白い蒸気が漂い、熱で視界が揺らぐ。湿った空気が肌に貼り付き、吸い込むたびに喉を焼いた。
全身が灼けるように痛む。瓦礫が暴風の砂粒のように叩きつけられ、鋭い痛みが走る。私は腕で顔を覆い、身を丸めるしかなかった。
「あき、ら……ひろ、と……」
名前を呼ぼうとしたが、声は掠れ、蒸気に呑まれた。喉が裂けるように痛い。目を凝らしても白い霧が漂い、何も見えない。
やがて耳鳴りの奥に低い振動音が戻り、続いて石の崩れる音、瓦礫の転がる音が混じり始めた。自分の荒い息遣いがはっきりと聞こえ、私は震える脚に力を込めて立ち上がる。
視界の端で赤い光が揺れた。アキラの焦熱剣だ。まだ彼女は立っている。
「アキラ! 洸人!」
声を張り上げると、白い蒸気の中から二つの影が浮かび上がった。赤と青の光に照らされた姿。二人とも体勢を崩し、血に濡れながらも必死に立とうとしている。アキラの頬には血の筋が走っていたが、彼女は構わず曽良木の方角を睨んでいた。
「……どうだい。絞ってもこれだけの威力だ。いくらあいつだって無事じゃ済まないだろ」
掠れた声に鋭さが宿る。彼女の視線の先、土壁があった場所に私たちも目を凝らす。
「まさか……」
息を呑む音が、蒸気の中に吸い込まれた。




