さよならを隠して踊る
その時が訪れた。
シャンデリアの光が瞬き、広間の空気がしんと張り詰める。私は茉凜の手を握り、ゆっくりと中心へと進んだ。
「ねえ? これから、なにをするの?」
声がかすかに震え、視線が周囲をさまよう。肩が小さく揺れた。
「何って? こういう時の定番は決まってるだろう」
軽く笑って告げると、茉凜の顔から血の気が引いていく。
「まさか……」
怯えの色が瞳に浮かぶ。その様子が愛おしくて、思わず笑みが漏れそうになった。
「その、まさかなんだが?」
息が喉でひとつ転び、肩の力が抜ける前に指先だけが固まってしまう。
「えーっ……!?」
幼さの残る声が響き、場が柔らかく揺れる。私は彼女の手を離し、静かに一礼した。
「というわけで――お姫様、私と一曲踊っていただけませんか?」
沈黙がひとつ落ち、シャンデリアの光だけが天井で細かく揺れた。
「まじで……?」
「大真面目に言っている」
広間が一層静まり返り、シャンデリアの光だけが瞬いていた。茉凜の肩が固まり、吐息が浅くなる。
私はそっと囁いた。
「大丈夫だ、茉凜。ただ俺を見ていればいい。この俺がすべてリードする。任せておけ」
その言葉に、彼女は目を閉じて深く息を吸った。
「弓鶴くんって、そうやっていつもわたしをびっくりさせるんだ……。仕方がないな、やってみるか」
小さな笑みが戻り、瞳に光が宿る。再び重なった手のぬくもりを確かめながら、私たちは光の中心で一歩を踏み出した。
◇◇◇
広間に柔らかな旋律が流れる。茉凜の手が私の右手に重なり、指先から体温がじんわり伝わった。
左腕には力がなく、かすかな震えがある。私はそれを包み込むように導き、足元の不安を感じさせぬよう支えた。ヒールの踵が床をかすめるたび、小さな音が響き、彼女は一瞬バランスを崩しそうになる。そのたびに私はさりげなく回し、安心を取り戻させた。
ぎこちなかったステップが、少しずつ滑らかに変わっていく。肩の力が抜け、呼吸が整っていくのが伝わる。霧が晴れるように、彼女の動きに光が差していった。
「大丈夫、ゆっくりいこう」
耳元に声を落とすと、茉凜は驚いたように瞳を見開き、すぐに視線を合わせた。そこに混じる緊張と信頼が、私の胸を温かくする。思わず微笑みが返った。
やがて彼女の手が背に添えられる。その温もりが広がり、目が合うたびに沈黙の中で言葉にならないものが生まれる。吐息と鼓動が重なり合い、二人の動きはひとつになった。
旋律に合わせて舞ううちに、茉凜の笑顔に自信の色が差していく。その輝きは、光を受けた宝石のように鮮やかで、私の心を照らした。
外のざわめきは遠のき、広間に残るのは音楽と二人の呼吸だけ。今はただ、その瞬間を踊り続けていた。
曲が静かに終わりを告げ、私たちの動きも自然に止まる。次の瞬間、広間いっぱいに拍手が広がった。
音の渦に包まれながらも、茉凜の手のぬくもりはまだ掌に残っている。その感触が名残惜しく、胸の奥に淡い痛みを残した。
視線を交わすと、茉凜は笑っていた。私も微笑み返す。互いに言葉はなかったけれど、この時間が特別であることは明らかだった。
拍手が続く中、胸の奥で切なさがせり上がる。――ただ特別な瞬間を共有しただけだ、と自分に言い聞かせながらも、心のどこかでそれ以上を望んでしまう自分がいる。茉凜もまた、アキラとの間にある協定を思い出しているかもしれない。その後ろめたさが、静かな影のように忍び寄ってきた。
けれど今日は違う。祝宴の魔法に包まれた今だけは、現実の枠を越えていい。完全に影を振り払うことはできなくても、このひとときだけは、何も考えたくなかった。
ふと横を見ると、アキラが拍手をしながらこちらを見ていた。柔らかな笑みが浮かんでいる。その瞳の奥に、他の誰とも違う思いを抱えているのを私は知っている。私の行く末を、彼女だけは理解しているのだから。
それでも、その笑顔は私を責めることなく、ただ見守ってくれていた。その優しさに、ほんのわずか救われた気がする。
――これでいい。
私たちはただ、ひとときの魔法を享受しただけなのだから。
茉凜が大きく息を吐き出し、肩の力を抜いた。張りつめた糸がふっとほどけたようで、胸の奥に愛おしさが広がった。
「はーっ、しんどかった。もう緊張してどうしようもなかったよ」
率直な言葉に、私は微笑んで返した。
「よく頑張ったな。とてもいいダンスだったぞ」
けれど茉凜は自信なさげに視線を伏せる。
「そうかな? わたし、ぜんぜんだめだった。弓鶴くんがカバーしてくれなかったら、どうしようもなかったよ」
小さな声に、自然と優しい言葉がこぼれた。
「気にすることはない。ダンスは二人で作るものだから、お互いに補い合って一つになる。それでいいんだ」
その言葉に、茉凜はふっと顔を上げ、少し照れた笑みを浮かべた。
「私たちの“黒鶴”みたいに?」
胸の奥まで響く問いかけに、私は考え込むようにしながら答えた。
「そうかもしれないな」
茉凜は嬉しそうに目を細め、声を落とす。
「ふふ……そういえば、劇でもわたしたちってダンスしたよね?」
あの舞台の記憶が甦る。私はヒロインのメイヴィス、彼女は主人公ウォルター。二人だけの特別な時間を共有する場面――切なくも美しい瞬間だった。今夜のダンスに重なるその記憶に、胸の奥が静かに疼いた。
「だが、俺がヒロインで、お前が主人公だったのが、どうにも納得いかなかった」
冗談めかして言うと、茉凜はくすりと笑う。
「それで、今日はそのリベンジってわけ?」
言い切ると、胸の奥の熱が少しだけ照れに変わった。
「まあ、そんなところだ。騎士や王子が主人公なら、俺がやるべきだろう。だから、今夜は茉凜にヒロインになってもらった」
唇の端に笑いが走る。
「もう、まだそんなことにこだわってるの?」
からかうような声に、軽く笑って返す。
「そうだ。男はそういうところにこだわるものなんだ」
男の威厳を保つための小さな嘘。けれど茉凜は受け流すように微笑み、瞳を輝かせながら言った。
「でも……わたし、嬉しいな。弓鶴くん、素敵な時間をありがとう。今夜の思い出は、きっと一生の宝物になる……」
◇◇◇
私たちのダンスが終わると、会場はさらに賑やかさを増していった。鮮やかなライトが天井を彩り、企画されたゲームに笑い声が重なる。茉凜はその輪の中心で、子どものように無邪気な笑顔を弾ませていた。時間が、一瞬止まったみたいだった。
私は少し離れて見守る。彼女の笑い声が届き、自然と頬がゆるむ。
背後に気配。振り返ると、給仕に紛れて藤堂さん。気配は薄いのに、表情は硬い。その不釣り合いが、胸の奥をざわつかせた。
「正体不明の人物が接近してきている。暗がりで顔までは確認できないが、性別は男性。和装に剣を携えている。数は一名だ」
背筋を冷たいものが走る。
「たった一人?」
息が浅くなるのを、意識的に整えた。
「ああ、屋敷へと繋がるルートを真っ直ぐ進行している。まるで自分の存在を誇示するかのようだ」
平静な声の端に、薄い緊張。
「そんなふざけた真似をする奴は……」
脳裏で名を探り、ひとつに収束する。
「曽良木……新十郎か」
藤堂さんが小さく息を吐く。
「おそらくな。だが、たった一人で何をしに来たのか?」
答えは出ない。不安だけが広がる。
「何にせよ、招かれざる客だ。地下への退避誘導の準備をお願いします。それから、俺にもインカムを」
冷たい金属が掌に落ち、事態の重みが手の内で確かな形になる。
視線を広間へ戻す。茉凜は笑っていた。幸福そのものの笑顔。伝えるべきか唇が開きかけて、閉じる。今夜の魔法を、壊したくはない。
息をひとつ飲み、私は洸人とアキラのもとへ駆けた。
「二人共、急な話だが聞いてほしい。屋敷に曽良木が迫っている」
照明の熱が背に薄く貼りつく。
「あいつか……。また来るなんて、本当にしつこい奴だね。それもこんな時に……」
アキラが唇を歪め、苛立ちが刃のように滲む。
「なぜこのタイミングで現れたのか、全くの謎だ。我々に対して何かを示したいのか、それともただの嫌がらせか……」
洸人はメガネのブリッジを押し上げ、冷静に言葉を継いだ。その横顔に、私も心を引き締める。
「とにかく、招待客たちの安全確保が最優先だ。いつでも地下施設に避難させられるよう準備は整えてある。曽良木は俺たちで食い止めるしかあるまい。この屋敷に一歩たりとも立ち入らせるわけにはいかない」
言い切った声が、自分自身への号令になる。
「灯子、このことは皆には内緒で頼む。僕は行くよ」
洸人の声は穏やかで、底に固い決意。
「わかった。気をつけてね」
灯子は静かに頷き、真っ直ぐに洸人を見つめた。視線のやり取りだけで満ちる信頼。二人の絆が、思っていた以上に確かだと悟る。
目立たぬよう広間を離れる。だが背に軽い足音。振り返れば、茉凜が不安をたたえた顔でこちらを追っていた。
「どうしたの? 三人でどこへ行くの?」
声がわずかに震える。
「何でもない。三人でちょっと相談したいことがあって、場所を変えたかっただけだ」
できる限り軽く返す。だが、その瞳は受け入れない。
「こんな時に?」
胸がわずかに揺れる。導き手の勘を、軽んじるわけにはいかない。
「大したことじゃない。お前はパーティーの主役なんだから、戻れ」
急かす響きに、自分でも気づく。
「でも、なんだか嫌な感じがするの……」
眉が寄り、唇がかすかに噛まれる。
「まったく、お前は心配性だな」
笑みをつくり、声を和らげる。
「何も起こりはしないさ。それに、その万が一のために俺たちがいる。安心しろ」
瞳はなお揺れていたが、彼女はそれ以上言わなかった。
「すぐに戻るから」
安心の形だけを置く。
「うん、約束だよ」
「ああ、約束だ」
その約束を胸に刻み、私たちは広間とは反対の正門へ向かった。
「茉凜ちゃんが居なくて大丈夫なのかい?」
洸人の懸念は正しい。黒鶴は彼女がいて安定する。
「問題ない。お前たち二人で、あいつ一人くらい圧倒するには十分過ぎる」
足音が石床で小さく弾む。
「けどさ、あいつは場裏の有効半径が半端ない。何をしでかすか予想もつかないよ」
アキラの声が低く落ちる。
「それも問題ない。たとえあいつが屋敷の下の地盤を揺るがそうとしたところで───」
大地が低く唸った。腹の底を揺らす重低音。木々がばきばきと折れ、岩が砕ける音が空気を裂く。
「藤堂さん?」
インカムへ呼びかける。返答はすぐだ。
『曽良木の仕業で間違いない。奴はルートを変えて、屋敷の背後の崖を崩したようだ。崖側のセンサーとカメラがすべてやられた』
「会場の様子はどうですか?」
『騒然としている。もう、ほとんど制御が効かないな』
「くそっ!」
拳が固く握られる。無防備な人々を恐怖に晒す――それが奴の狙いだ。
「何としても奴を止める!」
胸の鼓動が早鐘を打つ。
「待て、こちらから打って出るなんて無謀すぎる。それこそ敵の罠に飛び込むようなものだぞ?」
洸人の制止が鋭い。
「そうよ。弓鶴くん、冷静になって!」
アキラの声が必死に響く。喉の熱を押し下げ、思考を無理やり冷やす。
「そうだな。これは陽動に過ぎない。奴のことだ、きっと正門からやって来るに違いない」
怒りは消えない。だが、曽良木なら堂々と正門を選ぶ。
「俺は、必ず茉凜を守る」
言葉が胸の奥で何度も反響し、決意に固まっていく。洸人とアキラの表情もまた、静かな刃のように引き締まった。




