月光のテラス、言えない「好き」
茉凜の挨拶は、彼女らしい感謝で満ちていた。最初の深いお辞儲の瞬間――こつん、と額がマイクに当たった。
「あわっ!」
空気が一拍だけ止まり、次いで笑いとざわめきが波のように広がる。
「う、うふへへ……やっちゃった!」
頬を赤らめ、前髪を直し、すぐに柔らかな声へ切り替える。
「皆さん、本当にありがとう。こうしてみんなが集まってくれて……もう嬉しくて、たまりません」
笑顔が灯りのように場を照らす。
「今日で十七歳になりましたが、まだまだたくさん助けてもらうことが多いです。でも、それが本当に幸せなんです。みんながいてくれるから、私は毎日笑顔でいられるし、どんなことも頑張れるんです」
言葉が静かに胸へ沁みていく。
「これからもみんなと楽しい時間を一緒に過ごしていけたらって、心から思っています。だから、これからもよろしくお願いします!」
深い一礼。拍手がはじけ、空気が一気に華やいだ。
◇◇◇
パーティーが始まり、茉凜は笑顔で応じ続ける。指先がわずかに揺れ、瞳の奥の戸惑いが覗いた。私は視線で「がんばれ」と送る。気づいた彼女の肩から力が抜け、ほっと微笑む。
人の輪が緩んだ隙に、ドリンクコーナーへ。ノンアルコールのシャーリーテンプルを二つ。氷が触れ合い、澄んだ音が涼しく弾む。
照明の赤がグラスの縁で揺れた。
「喉、乾いただろう?」
彼女のまつ毛が一度だけ震える。
「わぁ、ありがとう!」
両手で受け取り、一息に飲み干す。
「ふう……やっと一息つけたよ」
吐息が細くほどける。
「それにしても、こんなにたくさんの人たちが来てくれるなんて、思いもしなかったなぁ」
グラスの氷がからりと鳴った。
「そうか? お前なら当然だろう」
照明の熱が頬に薄く滲む。
「ううん、わたし、特別なことなんて何もしてないし、誰かの役に立つようなこともできてない。ただ、毎日楽しく過ごしてるだけなんだよ。なのに……不思議だなって」
視線は床へ落ち、指先が小さく動く。
「その自覚の無さが、いいところなんだよ。お前がいるだけで、みんな元気になる。これは誰にも真似できないことだ」
言ってから、喉の奥が少し熱くなった。
「そっかな……。だとしたら嬉しいな」
柔らかな笑顔が、場の温度を上げていく。
と、その時――
ぐぅーっ。
「うげっ!」
お腹の音に顔を真っ赤にして両手で押さえる。思わず笑いがこみ上げた。
「ははは、これは豪快に鳴ったな。そういえば、いつもは帰り道に何かしら食べてたのに、最近それもできてなかった」
むくれた唇の端が、わずかに震える。
「……だってさ、食べなきゃ晩ごはんまでもたないんだもん。それで今日はこれでしょ? お腹が空いて仕方ないよ」
テーブルの香りが一段と濃くなる。
「よし、こうなったら、食って食って食いまくるぞ!」
テーブルへ向かう肩を、視線で引き留める。
「待て、茉凜。それはいいが、食べ過ぎにだけは気をつけろ」
ドレスが胸元で小さく揺れた。
「大丈夫だよ! 弓鶴くんだって知ってるでしょ、わたしの胃袋は底なしなんだから!」
眉が困ったように寄る。
「あのな、今の自分の格好をよく考えろ。食べ過ぎてお腹がぽっこりなんてなったら、恥ずかしくないか?」
視線が泳ぎ、唇が結ばれる。
「うぐぐぐ……」
肩の力が少し抜ける。
「そういうことだ。主役が食べ過ぎて動けなくなっても困るしな。それに、後で特別な余興も用意してあるんだから」
首をかしげ、髪がさらりと揺れる。
「余興? なにそれ?」
唇の端で悪戯を隠す。
「それは、ひ・み・つ」
目がじとりと細くなる。
「またろくでもないこと考えてるんでしょ?」
冗談めかして肩をすくめる。
「さて、どうだかな。それはさておき、早く食べてこいよ」
踵を返しかけ、振り向く。
「うん。弓鶴くんは?」
軽く片手を上げる。
「俺はいい。お前のペースに付き合ってたら、こっちが轟沈する。いいから行けって」
頬をふくらませ、ふっと緩む。
「わ、わかったわよ」
背を見送りながら、胸の奥に温かな灯を抱く。彼女が楽しそうである限り、私も幸せでいられる――この瞬間を大切に刻む。
◇◇◇
喧騒から離れ、テラスへ。冷たい夜気と月明かり。ガラス越しに笑う茉凜を眺めるだけで、胸が満ちる。
背後から足音。アキラが現れた。濃い赤のドレスに黒のレース。裾が月光を受けて波のように揺れる。
月光が頬を撫で、息が白く滲む。
「茉凜をほったらかしにしてていいの? 今夜のあなたは、お姫様をエスコートする王子様なんじゃなかったっけ?」
ガラスに映る自分の影が揺れた。
「いいの。今夜は彼女が主役なんだし、いつもくっついている必要なんてないでしょ」
アキラの口元に小さな笑い皺。
「それもそうだね。それにしても、ほんとにあいつって、変なやつだ……」
庭の木々がさらさらと鳴る。
「だね、ほんとにへん……。でも、そこがいいところなのよ」
短い会話が夜に溶け、沈黙が落ちる。月光が肌に触れ、胸のざわめきが浮く。
「……どうしても、言えないの?」
心臓が跳ね、喉が詰まる。
「……あなただったら、言える?」
アキラは目を伏せ、小さく息を吐く。
「言えるかもしれない」
息が浅くなり、胸がきゅっと縮む。
「アキラは強いね。私もこんなふうに思わなかったら、言えたのかもしれない……。でも、今の私はやっぱり弓鶴で、男の子で、茉凜が見ているのは“私”じゃない。彼女なら、理解してくれるかもしれないけど……。こんなの間違ってるし、どう頑張っても向き合うなんてできるわけない」
言葉が唇の内側で溶け、白い息だけが流れる。
「今のままでいないとだめなのよ。これ以上先に進んだら、もっと彼女を傷つけることになる。だからこれでいいの」
```
月の輪郭が薄雲に滲む。
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「私って狡いのよ。彼女の優しさに甘えて浸って、それなのに何もしてあげられない。その上、仮面をつけて嘘ばかり……」
夜風が頬を撫で、沈黙が重く落ちる。
「大丈夫?」
視線の優しさが、逃げ場を塞ぐ。
「何でもない」
作り笑いで震えをごまかす。月明かりが影を濃くし、風音が思いを際立たせる。
「どうして、こんなことになっちゃったんだろうね……」
答えは見つからない。愛がなぜこれほど苦しいのか、理由だけが宙に浮く。
胸の底からせり上がるのは渇望。触れたい、抱きしめたい。けれど一度触れたら戻れない気がする。彼女が見ているのは弓鶴で、私――美鶴ではないから。
だから弓鶴の顔で笑い、何でもないふりを続けるしかない。そうしなければ、彼女を傷つけてしまう。
好きになってしまったこと――それが、私にとっての最大の罪。想いは届かない。けれど、茉凜が笑っている限り、その隣にい続ける。
切なくても、痛くても、狂おしくても。この想いを抱えたまま、最後まで生きていく。
「あーっ、こんなところに隠れてたんだ」
茉凜の声に、沈んでいた意識が浮上する。背に汗が滲み、指がわずかに震えた。
振り返ると、アキラが茉凜と向き合い、何かを話している。接近に気づけなかった自分に胸がざわつく。無意識に、私は茉凜を遠ざけていたのかもしれない。けれど彼女の前では「氷の王子様」でいなければならない。
「何を言うか、俺は隠れてなどいないぞ。ところで、空腹は静まったのか?」
照明の熱が頬に薄く差し、呼吸が静まる。
「モチのロンよ! 美味しい料理ってのは、がっつくもんじゃないね。全部、少しずつ味わってきたよ」
グラスの氷がからりと鳴った。
「佐藤さんが、お前の嗜好を徹底的に調べ上げて準備したからな。その上最高級の食材を揃えたんだから当然だ」
茉凜の目尻がきゅっと上がる。
「さすがは佐藤さんだね。たとえば───」
茉凜は楽しげに料理の感想を語り出す。無垢な笑顔がまぶしいのに、声だけが遠のいて聞こえた。現実に根を張る彼女と、乖離する私。その差が胸を締めつける。
「───って感じだったんだけど、弓鶴くん?」
名を呼ばれ、視界に彼女の瞳が射し込む。
「弓鶴くん、大丈夫?」
瞬き一つで呼吸が戻る。
せめて「弓鶴」として最後まで向き合おう。それが私にできる唯一の贈り物だ。
「なんでもない。大丈夫だ」
自分の声が遠く、薄い。
「弓鶴くんは、気を遣って疲れてるんだよ。慣れない格好してる茉凜がずっこけないようにってね」
アキラが助け舟を出す。
「あー、たしかに! こんな高いヒールなんて履いたことないし。でももう平気! わたしバランス感覚には自信あるんで!」
軽やかな一歩が、きらりと床に映る。
だが次の瞬間、足が滑った。考えるより早く身体が動く。衣擦れの音とともに彼女を抱き留めた。髪が頬に触れ、香水と髪の甘い匂いが鼻先をくすぐる。吐息の温度に、頭がくらりと揺れる。鼓動が早まる。どちらの音か、区別がつかない。
「まったく、いわんこっちゃない。調子に乗るとすぐこれだ。とんだおバカさんだな、お前は」
平静を装い、そっと立たせる。
「うふへへ、ごめんごめん」
照れ笑いに胸が軋む。気づけば私は手を取っていた。
「この手を離すな」
言葉が先に出た。
茉凜の頬に朱が差す。驚きが瞳に広がる。
「誤解するなよ。主役のお前に必要以上にくっつくわけにもいかんと思ったが、こう危なっかしくては仕方がない。この俺が責任を持って監督する。そういうことだ」
指先の温度が、掌にゆっくり移る。
「うん、わかった。今夜は弓鶴くんに頼ることにする。お願いね」
喉の渇きがひとつほどけた。
「ああ、任せろ」
半分は本音で、半分は嘘だ。触れる理由が欲しかっただけかもしれない。握る手はあたたかい。だが、いつかは離すと知っている。それでも今だけは。
「さて、そろそろ余興の時間に進むとするか」
彼女の睫がふわりと瞬く。
「余興?」
私は人の波を見やり、口角を上げた。
「ああ、魔法をかけられたお姫様に相応しい舞台が待っている」
にこりと笑うと、茉凜は小さく身を退いた。その怯えを愛おしく感じる。
「なんだか今、背筋に寒いものが走ったんですけど……」
肩口を夜風がかすめた。
「そんなに警戒するな。俺がついている。何も心配はいらない」
できる限りやわらかい声で告げる。今夜の茉凜は、無邪気さに華やかさと気品を纏っている。演劇の夜、彼女が私を立ち直らせたように、今度は私が彼女を輝かせる番だ。
「本当に大丈夫かなぁ……」
不安の余韻に、私は頷いて手を握り直した。許された時間のあいだだけ、この温度を連れて舞台へ進む。




