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影と光の狭間で事態は動きだす――銀翼の騎士たち

 白く染まる夜明け前の空気が、町外れの納屋をひそやかに包んでいた。梁は冷えを吸い、干し草は乾いた匂いで胸の奥をかすかにくすぐる。


 その二階に当たる小さなロフトで、クリスは身を起こそうとして、包帯の下でこもる熱に呼吸を止めた。右腕をわずかに動かしただけで、痛みが針の先のように皮膚の内側へ突き立つ。


「……っ」


 喉の奥で小さく空気が弾ける。冷たい外気を一度だけ深く吸い込み、肺の内側を冷やして痛みから意識をそらしていく。


 床下――納屋の一階からは、男たちの低い声が折り重なって上がってきた。言葉の角が、ときおり梁に触れて跳ねる。ダビドの声、レオンの声、ほかの班員たちの声。軽い話ではない。


――尋問が始まっているのね……。


 昨夜の奇襲で捕らえた傭兵。あの“影の手”に雇われていたらしい――記憶に触れた途端、包帯の内側がじんわり熱を増し、心拍が包帯のきしみに似た浅いリズムで揺れた。ここにいていいのだろうか、そんな焦りが右腕の熱と混じり合って落ち着かない。


「レオン……無茶してないわよね?」


 声に出した瞬間、唇の冷たさに気づく。理屈ではわかっている。いま下へ降りても足手まといだ。医療担当のマリアには叱られるし、ダビドも「今は安静にしていろ」と命じていた。


――だけど……。


 軍人としての誇りが、黙って背を押した。女王陛下の密命で動く“銀翼”の一員――いつまでも寝ているわけにはいかない。けれど、理屈を越えて胸の奥を強く引くのは、やはり彼のことだった。昨夜、彼をかばって負った傷。その悔しさが、小骨のように胸にささる。


――あのときわたしがちゃんとしていれば、こんなことにはならなかった……。


 包帯の上からそっと押さえる。わずかな力でも痛みが弾け、額に薄い汗がにじむ。ここで無理をして悪化させるのが何より愚かだ――それでも、焦りは喉の奥で形を変えずに残った。


 干し草の甘い匂いに、古い木枠の冷えが混ざる。肩が落ちかけるたび、背すじにゆっくり力を通して呼吸の深さを取り戻していく。毛布を胸まで引き上げ、痛みの輪郭を和らげると、視界の揺れがようやくおさまった。


 遠くから、男たちの声が薄く続く。まぶたを閉じれば眠気が引き寄せられ、痛みが強まればまた浮かび上がる。均等でない波に身を任せながら、唇の内側だけが熱を保っていた。


「レオン……どうか、無茶しないで……」


 祈るように一度だけ呟いて、クリスは目を閉じる。瞼の裏に、旅の光景と、雪の夜に彼をかばった自分の姿が交互に浮かび、胸のあたりで悔しさと、ひとにぎりの幸福がこすれ合った。あのときの「大丈夫か」という声を思い出すだけで、胸の熱がほんのわずか、やさしい方へ傾く。


◇◇◇


 納屋の一階。夜明け前の薄闇に、吐息だけが白く短く立ちのぼる。油をしみ込ませた木の匂い、縄の硬い擦れ。輪になった男たちの視線は、冷えて澄んでいた。


 中央に縛られたのは、昨夜の奇襲で捕らえた傭兵風の男。焦げ茶にくすんだ髪をぼさぼさに伸ばし、口元には薄い笑み。視線だけが落ち着きなく周囲を撫で、狡猾さの影がちらつく。


「さて……」


 ダビドが短く息を吐いた。声は低く、梁に吸われて広がらない。周囲にはレオン、そして班員たちが数名。夜通しの見張りで疲労は濃いが、どの肩も沈んではいない。


「お前たちが何の目的で動いているのか……詳しく話してもらおうか」


 鎖帷子の下で筋肉が呼吸に合わせてわずかに動く。冷静の色を宿した瞳に、責任の硬さが落ちていた。


 隣に立つレオンが一歩前へ。目には熱が乗る。昨夜、クリスの肩を貫いた痛みが、言葉より先に指の関節へ溜まっている。


「痛い目に遭いたくなければ、素直に全部吐け。……わかってるな?」


 声は抑えているのに、熱が奥でさざめいた。


 男は鼻で笑い、肩をすくめる。縄がこすれて短い音を立てた。


「へえ、あんたずいぶん元気そうだな。あの奥方さん、まだ生きてるか? だとしたら、意外としぶといもんだな」


 レオンの表情に瞬時に険が差す。


「貴様……」


 靴底が藁を踏み、怒りより先に短い音が走る。


「やめろ」


 舌裏が乾く。冷たい息を喉の奥へ落とし、熱だけを静かに沈めた。


 ダビドの制止は短く、鋭い。ここは取り調べが最優先。感情で扉を閉ざすわけにはいかない。レオンは拳を握り、喉で息を整えて踏みとどまった。


「そういきりなさんな。俺は別に“影の手”って連中に忠義立てしてるわけじゃねえしな」


 男が開き直るように口を開く。乾いた唇の端に、揶揄だけが薄く残る。


「ほう。なら話せ。お前の身の安全は、俺たちが保障する。だが、隠し立てするようであれば、わかっているな?」


 縄の結び目が指先で確かめられ、張りの具合が小さく鳴る。


「けっ、俺はただ、金で雇われただけだ。隠すほどのこともねぇ。“影の手”なんざ、俺みたいな下っ端の命なんて端金より軽く見てる。要するに――使い捨ての駒ってわけさ」


 淡々とした口ぶりの奥で、諦観が石のように重い。周囲の警戒は逆に強まった。


 “影の手”――王都の噂にのぼる名。暗殺と扇動で名を上げ、十年前の西部反乱にも影を落とした――と、王都では囁かれる。名を聞くだけで、場の温度が半度だけ下がった。


縄の繊維が擦れて、乾いた音が一点だけ跳ねた。


「……聞かせろ。知っていること、なにもかもすべてだ」


 ダビドの声が、梁の下でまっすぐ落ちる。


 男は唇を歪め、周囲を見回した。


「俺が受けた仕事はこうだ――“宰相と伯爵を探ってる怪しい行商人夫婦を捕まえろ”。そいつらが女王の密命で動いてるって話でな。真偽までは知らねぇが、あんたらがここにいるってことは……まあ、当たりなんだろ?」


 乾いた笑いが油の匂いに混ざり、藁の間へ沈む。


 レオンが顔をしかめる。


「それで? その行商人夫婦を捕まえて、いったい何をするつもりだった?」


 男は肩を揺らし、唇の端を上げた。


「細かい筋までは教えられちゃいねぇが――『女王が伯爵誘拐を指示した』って筋書きで、お前らをハメる算段だったんじゃねえかと思ってる。

 あのメービスとかいう女王様は、リュシアンとかいうガキが王太子に担がれるのが、よっぽど癪に障るらしいな。救世主だの聖巫女だのと持ち上げられても、裏返しゃ権力まみれの“暴虐女王”――そんな噂、そこら中で囁かれてるぜ」


 空気が一段冷える。レオンの奥歯がきしむ音が、自分でわかるほど近くにあった。ダビドは険しい目のまま、問いを重ねる。


「伯爵は……今、どうなっている?」


「ああ、そういや、生きてるって話だ。私兵を率いてる偉いさんが言ってたよ――『まだ利用価値がある』ってな。

 高級な食材や嗜好品を取り寄せて、ずいぶん優雅に暮らしてるって噂だぜ」


「……囚われの身で、そんな待遇を受けているのか?」


 誰かの驚きが短く漏れ、縄の軋みがその上を通る。


「そうそう、まったく妙な話だろ。監禁ってよりは……そうだな、軟禁ってやつか。

 ま、そんなこたぁ俺の知ったこっちゃねぇが――。

 一度だけ、その買い付けに付き合わされたことがあってな。ボコタの外れの古い屋敷に荷を運んだんだ。宰相の私兵がそこら中に詰めてやがって、物々しいったらありゃしねぇ。俺は門先で荷を渡しただけだが……中は、見ねぇほうが良さそうな空気だったぜ」


 周囲がわずかにざわつく。ダビドはその波を掌一つで沈めた。


「……もし伯爵が本当にそこに拘束されているなら、警備は相当厳しいはずだ」


 レオンは喉の乾きを飲み込む。


「本当に伯爵が無事なら、救出の機会も望めるだろう。だが、罠の線も十分あり得る。俺たちを誘い出して一網打尽――そういう仕掛けかもしれない」


 男は鼻で笑い、縄の結び目をわずかに揺らす。


「“影の手”の連中ってのは、何を考えてるのかまるで読めねえ、気味の悪い奴らだ。罠を何重にも仕込むのが常套手段ってやつだよ。今回あんたらを襲ったときも――同じ筋書きさ」


 レオンの脳裏に、昨夜の手順が音とともに戻る。


「まさか……あの街で近づいてきた情報屋、あれも含めたまるごと仕込みだったってのか……?」


「そうさ。あんたらを誘い込む“第一段階”が、そいつとの接触だ。

 もしそこで仕留め損ねりゃ、“第二段階”を用意して叩く――今回の仕掛けは、その通りに進んだってわけさ」


「……なんてこった。つまり、俺たちは最初から罠の中で踊らされてたってことか」


 藁の粉が光を受けて細かく舞う。ダビドは男の表情をじっと見やり、やがて顎で合図を送って取り調べを一旦切り上げた。男は物置の隅へ拘束を強めて移し、状況の整理に移る。扉を開けると、外の冷気がひと息で肺へ降りた。


◇◇◇


 東の空に薄い光が差し、雪面が淡く青を返す。納屋の裏手、吐息が白い線をつくる距離で、ダビド班は顔を寄せ合った。革手袋の指先に、夜の名残の冷たさが残る。


「どう思う?」


 ダビドの声は小さく、雪に吸われて短く切れる。


 “冷静沈着な斥候”――シモンが顎を引いて答える。額の汗は冷えて、筋のように固まっていた。


「伯爵が生きているのはありがたいことですが……宰相側が陽動を仕掛けているのかもしれません。わざと情報を流して、俺たちを一網打尽にするつもりじゃないかと……」


 続いて、シモンの相棒――ブルーノが周囲の気配を探るように目を巡らせる。


「実際、周辺を偵察してた仲間が言ってましたぜ。廃屋敷に宰相の私兵がぞろぞろ警護に立ってたって。ただ、中までは確認できなかったんで、伯爵が本当にいるかは分からねぇ。……無闇に突っ込んで、ハズレを引きかねん」


 レオンは腕を組み、指先の白さが戻らないのを感じる。


「仮に伯爵がそこにいたとしても……待ち伏せを喰らうだけかもしれない。そんなことになったら、最悪じゃないか」


 ダビドは手袋をはめ直し、遠くの屋並の影を一瞥する。瞳に、迷いと並んで決意の光が宿った。


「だが、逆に言えばこの瞬間を逃せば機会は二度と来ないかもしれない。先手を取って混乱を作れば、伯爵を連れ出すチャンスは十分にある。問題は──女王陛下の正式な許可を待たずに動くべきか否か、だな」


 雪明かりが頬の骨を冷やす。使命の重さは、肩の位置をわずかに正す。


 レオンが小さく頷いた。


「焦るな、レオン。まずは最優先で陛下に報せを入れる。このまま伯爵を放置すれば、“影の手”が好き勝手に立ち回るだろう。宰相側もそれに乗じて、女王を追い落とす策を加速させるはずだ。それを黙って見過ごすことなど、できはしない」


「当然です……」


「いずれにしても、偵察を強化して状況を見極める。軽はずみな行動は禁物だが、手をこまねいても仕方ない。だが、いざとなれば――わかっているな?」


「はい……。ですが、この件は……クリスには伏せてください。今はあまり刺激したくありません。なにより、彼女が無茶をしないか、それが気がかりで……」


 レオンの声は細く震え、ぎゅっと結んだ拳に不安がのり移っている。ダビドの目がわずかに見開かれ、すぐ納得の色に和らぐ。


「お前が彼女を想う気持ちはわかる。……あれだけの怪我をして、なお自分を責めるような、真っすぐすぎる子だからな。下手をすれば、痛みを押してでも前線に出ようとするだろう」


 風が一度だけ雪面を撫で、裾の裏にひやりとした冷たさが忍び込む。


「だからこそ……万が一の事態になったときは、お前がクリスを連れて北へ退いてくれ」


「それって、俺が戦力外だと……」


「違う。お前は十分強いし、頼りにもしている。ただ、最悪の展開を考えるとな……。もし俺たちが失敗したら、先行する本隊へ連絡してもらいたい」


「兄貴の言いたい事はわかります。けど……」


「それと、彼女を守れるのはお前しかいない。あいつは人当たりは柔らかいが、本音を打ち明けられる相手は限られている。その一人が――お前だ。……違うか?」


 レオンは視線を落とし、頬の内側に広がる熱をやり過ごした。


「……そうかもしれません。確かに、俺はあいつの“大切な仲間以上”の存在でありたい。誰よりも、大切に思ってます……」


 言い終えた語尾が雪に吸い込まれ、短い沈黙が足もとに降り積もる。ダビドは無言のまま、レオンの背を軽く叩いた。


「……なら、頼んだぞ。いまは焦らず状況を探り、機を待つんだ。伯爵救出の実行がどう転ぶかはまだ読めないが――事態が急転しても慌てずに済むよう、備えだけは整えておけ」


「了解しました」


 掌がぎゅっと返され、息遣いが短く震えたまま、鉄と石の冷たさが鼻腔に滑り込んだ。


◇◇◇


 ロフト。薄い毛布の内側で、クリスは眠りと覚醒の継ぎ目を何度か行き来していた。痛みが強まれば浮上し、やわらげば沈む。階段板の軋む音が近づくと、まぶたの裏に小さな灯がともった。


「ごめん、起こしちゃったか……?」


 声はやわらかく、いつもの凛々しさから半歩だけ退いていた。吐息が干し草の香りをわずかに揺らす。


 上体を起こそうとした瞬間、痛みがきゅっと走る。レオンが駆け寄り、肩を支える。指先の冷えが、痛みの輪郭をひとつ削る。


「無理しなくていい。……痛むんだろ?」


「痛いけど……でも、あなたが来たのなら、きちんと顔を見て話したいから」


 笑みを作ろうとする頬がまだこわばる。レオンは干し草の横に腰を下ろし、肩の下へそっと手を添えた。


「……それで、下で何かあったの? さっきから声が聞こえてたけど」


 その問いに、レオンは一瞬だけ息を詰めた。話すつもりはなかった。胸の奥でそう言い聞かせながら、彼は言葉を選ぶ。


「大したことじゃない。ただ、捕まえた男が少し口を滑らせた。……あの“影の手”が宰相と繋がっているのは間違いない。伯爵も、どうやらどこかに軟禁されているようだ」


「……伯爵は、生きてるの?」


「たぶんな。詳しいことまでは、俺もまだ聞かされてない」


 腰の鞘に触れた指が離れ、肩の力が半歩だけ抜けた。言わないと決めた言葉が、喉の奥で静かに留まる。


 それ以上を語らぬまま、彼は軽く息を吐く。彼女を刺激したくないと願っていたのに、問い詰められると嘘をつくこともできなかった。


 沈黙を紛らわせるように、レオンは話題をすり替える。


「クリス。……お前が傷を負ったのは、俺を庇ったせいだ。俺は、あのとき何もできなかった。だから責任がある。今度こそ、俺がお前を守る。だからもう無茶はしてほしくないんだ」


 クリスは小さく首を振る。胸の内で熱と冷たさが擦れ合った。


「あなたが悪いわけじゃない。あれはわたしが油断して、周りに気を配れてなかったせいよ。それに……」


 続く言葉は喉で絡まり、沈黙が肩口で揺れる。――一緒に戦いたい。けれど、彼の瞳を見れば、その欲はおとなしく座り直す。


「お前は俺にとって……なにより特別なんだ。さっき、ふたりで言い合ったばかりじゃないか。違うか?」


 耳の奥が熱くなり、答えの語尾が自分でも見つけづらい。


「……わたしだって、あなたを……」


 言いかけた瞬間、痛みがきゅっと跳ね、短いうめきが零れた。レオンが慌てて肩を支える。


「おい、大丈夫か?」


「……ごめんなさい、急に痛みが……。でも、気にしないで。わたし、すぐに良くなるから……」


 無理に笑えば、彼は苦い顔で「無理するなよ」と返す。その声の温度に、胸の波が少しだけ静まった。


 外では木枠を渡る風が薄く鳴り、戸縁の隙間を粉雪が一枚すべり落ちた。


「……そうか。俺はこれから見回りに出る。おまえは、しっかり休んでくれ。それと、陛下には連絡を――“風耳鳥”を飛ばす手はずになってる」


「ほんとう?」


「ああ。陛下が報せを受け取れば、きっと流れは変わる。詳しいことは、しかるべき時に兄貴から、いやダビドさんから話があるはずだ」


「わかったわ……」


「……クリス。お前が元気を取り戻してくれないと、俺落ち着かないんだ」


「レオン……」


 不満と無力感は喉を通る前に丸くなる。それでも、やさしさは痛いほど伝わってくる。クリスは「うん」と小さく答えた。


 レオンはほっと息を吐き、毛布の縁を整える。指先がかすめた途端、胸の奥で音のない火花が散った。


「心配するなって。クリスを心配させるようなことはしない。約束する」


 指先の冷えがゆっくり戻り、胸の張りつめが少しほどけた。


「ええ、信じてるわ。あなたを……」


 ロフトに、短い安らぎの温度が残る。


◇◇◇


 外の空気が動き始め、町の輪郭に人影が滲むころ。ダビドたちは廃屋敷への偵察部隊を編成し、王都への伝書の仕度を進めていた。


 捕虜の傭兵は「どうせ殺すなら、さっさとしろよ」と投げやりを崩さない。その諦めは、下請けとしての地の低さを、かえって生々しく示す。


 廃屋敷の周辺に潜む“影の手”の本隊。糸を引く宰相。読めない部分はまだ多い。だが、伯爵を救わなければ、女王陛下の立場はさらに危うくなる――その一点だけは、誰の胸の中でも明瞭だった。


「風耳鳥には、最優先事項を記した密書を括り付ける。王都まで届くのに……そうだな、一日かかるだろう。そのあいだ、こちらは不用意に動かず、偵察に徹して情報を蓄積する。大きな動きが見えたら――すぐに共有しろ」


「了解!」


 返事の声が雪面に反射して、乾いた音とともに跳ね返る。レオンも短く頷いた。


「準備はいいか」


 ダビドはレオンの肩を軽く叩き、目尻にわずかな笑みを浮かべる。


「みんな、くれぐれも無茶はするなよ」


 そのあと、声をやや低めて言葉を継ぐ。


「レオン、お前の腕前は信じてる。ただ、今はまだ全貌が見えない。動くとしても慎重にな。……それと、クリスのこと、頼んだぞ」


「もちろんです。彼女を守るのが……俺にとっての、最優先事項です」


 革手袋の継ぎ目が小さく鳴り、合意の気配だけが雪に沈む。


 満足げな頷きが一つ。続けて、配置が手際よく割り振られていく。誰が偵察へ向かい、誰が納屋に残って捕虜を管理し、誰がクリスの看護に就くのか。号令は的確で、無駄がない。


「俺たちは女王陛下に仕える騎士だ。その誇りを忘れるな。だが、命を軽んじろという意味ではない。最良の選択で最善を尽くすこと――それが“銀翼”の流儀だ」


 短い訓示が胸骨の内側に落ち、じわりと熱をつくる。「よし」と誰かが低く言い、足音が雪を刻み始めた。


 朝の光はまだ薄く、雪の地面を白く撫でるだけ。遠くから町人の話し声、鶏の鳴き声がかすかに届く。平穏に見える風景の下で、宰相と“影の手”の影だけが、別の温度で息をしている。


 東は浅い青から鉛色へと移り、納屋口の灯だけが小さく息をしていた。


 合図。風耳鳥が掌から跳ね上がる。細い脚が空を離れ、羽音が一度だけ凍てた空気を弾いた。すぐさま小さな点となり、真冬の空へ溶けていく。


 ダビドは、王都と反対の方角――ボコタの町の先、例の廃屋敷があるはずの位置へと視線を移す。いずれ向かわねばならない。伯爵が生きているなら救い出し、宰相と“影の手”の策を断ち切るために。


◇◇◇


 ロフトでは、クリスがそっと瞼を上げた。下から伝わる物音、風耳鳥の羽ばたきがもたらすわずかな気配――何が動き始めたのか、体の奥で察する。彼女は布団の中で指先をきゅっと握り、痛む腕を意識的に動かさないようにする。


――今は耐えるしかない。レオンが……きっとうまくやってくれる。わたしも、そのときが来たら――。


 胸骨の内側にゆっくりと温度が集まり、痛みの縁だけが丸くなった。


 胸の内側で小さく誓いを重ねる。先ほどの「特別だ」という言葉が、包帯の熱と重なってやわらかな灯になった。痛みは涙を呼ぶけれど、それを幸福の一端として受け止めるくらいには、心があたたまっている。


 風耳鳥が王都へ着くまで、わずかな猶予がある。その間に何が起こるのか、誰にもわからない。宰相と“影の手”がどれほど先回りしているのかも、まだ霧の中だ。


 それでも――ダビド班、レオン、そしてクリスたち“銀翼”は、ここからそれぞれの役割を担って動き出す。伯爵救出へ向かう運命の歯車は、もう静かに回り始めている。


 雪に覆われた朝の光が、納屋の外壁にじんわり広がった。頼りない明るさは、寒気に震えるように細く、それでも確かに新しい一日を告げている。


 クリスは毛布の中で目を閉じ、静かに息を吐く。痛みの底から立ち上がる熱が、彼の言葉の余韻と重なり、背骨の内側でそっと支えになった。白銀の世界に潜む影を断つには、女王の意志と、彼ら“銀翼”の奮闘がいる――その思いを胸に、彼女は微かな笑みを残して、もう一度だけ瞼を閉じた。


 遠く、雪を踏む足音。鳥のさえずり。釘が板をわずかに鳴らす微かな音。どれもが、これから始まる物語のプロローグを告げているように聞こえた。


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