グロンダイルの娘
「じゃあ何だ。お前、“あいつ”、いやユベルの子供だとでも言いたいのか」
ヴィルの低い声が静かに空気を震わせる。その問いに、喉の奥が詰まった。私はあえて、短く息を吐きながら答えを返す。
「そうよ……」
自分でも驚くほど素直な返答。だが、その裏で腹の底が冷えていくのを感じる。そんな内面の揺れなどおくびにも出さず、私はヴィルの瞳が驚愕に見開かれる刹那を見逃さなかった。視線を逸らさず、さらに踏み込む。
「今、『あいつ』って言ったわね。あなた、私の父さまをどこまで知っているの?」
鋭い視線を向けると、ヴィルの眉がかすかにひきつった。その小さな変化に、心臓が跳ねる。
「まあな。あいつは俺の旧い友人だ」
「友人……ね」
彼の言葉を反芻し、その裏に潜む意図を探る。
父さま、ユベル・グロンダイル。その名を知る者がいる。もし本当に友人なら、行方知れずの母さまに関する情報を握っている可能性があった。
「それで? 友人の名をかたる不届き者を懲らしめに来たと?」
わずかに挑発するような調子で問いかける。ヴィルは薄く笑い、私から視線を外さない。その笑みは曖昧で、敵か味方か、判断がつかない。
「まあ、そんなところかもしれんな」
得体の知れない答え。だが、想定内だった。ユベル・グロンダイルの名を掲げていれば、いつかこういう人物が現れると予期していた。
「聞いてちょうだい。私は正真正銘、『ユベル・グロンダイル』の娘よ。この名で魔獣を狩っていて何が悪いわけ?」
静寂が落ちる。私の言葉に、ヴィルの瞳がまた鋭さを増した。
「お前がユベルの娘だと……?」
ヴィルの声が、冷たい刃のように突き刺さった。
確かに、私の顔立ちは父さまに似ていない。むしろ母さまの生き写しだ。髪も、瞳の色さえも。父さまはいつも偽名を使っていたから、本名を知る者は限られている。
彼の反応は、確かな因縁があることを示していた。
「では、教えてもらおうか。あいつは今どうしている? どこにいるんだ?」
その名を掘り返すな、と喉元で悲鳴が暴れる。封印してきた記憶がこじ開けられ、一瞬、呼吸が止まった。
答えなければ。父の名を背負う者として、逃げてはならない。
唇を噛む。指先が微かに震えるのを、テーブルの下で強く握りしめた。
「それは……答えようがないわ。父さまは……もうこの世にはいないのだから」
声音が震え、喉の奥が焼けるようだ。父の死を口にするたび、胸に冷たい何かが突き刺さる。
「あいつが、死んだ……? ふざけるな、嘘を言うんじゃない」
ヴィルの声に明らかな動揺が宿っていた。その揺らぎが、痛いほど伝わってくる。
私は下を向かず、ヴィルの視線を正面から受け止めた。凍えるような記憶が私を蝕もうとするが、堪えて立ち続ける。
「本当のことよ……」
胸の奥で疼く痛みは、私がまだ父の死を受け入れられていない証だった。
ヴィルの目が微かに揺れ、仮面のような冷静さが一瞬崩れる。
「いったい何があったっていうんだ……。あいつはどうして死んだ?」
その問いに、心臓を直接掴まれたような苦しさを感じた。
「父さまは、魔獣との戦いで命を落とした……。私を守ろうとして……」
言葉を発するたび、父の笑顔が脳裏に浮かぶ。涙が滲むが、必死に堪えた。弱さを見せたくなかった。
「ばかな……。あいつは、“閃光”の二つ名を持つ、大陸一の剣士と謳われた男だ。魔獣ごときに遅れを取るなどありえん。俺は信じないぞ……」
ヴィルの言葉に、彼自身の苦悩と混乱が滲んでいた。
その気持ちは私も同じだ。信じたくない。父が負けるなど、受け入れたくない。だが、現実は厳しい。
「そうよ、父さまは強い。どんな魔獣にも負けない。私だってそう信じていた……。――でも、あの時の魔獣はとても大きくて、見たこともない形で、倒しても倒しても尽きることなく湧き出てきて、いくら父さまでも、一人で捌き続けるのは無理だった……」
凄惨な光景を思い出すだけで、息が苦しくなる。
鉄の匂いが立ち込める赤黒い光景の中、父さまが必死に戦っていた。鋭い爪と牙がその身体を貫き、血飛沫が舞う。私はただ立ち尽くし、泣き叫ぶだけだった。
「それでも……父さまは最後の最後まで諦めなかった。ただ、私のことを守るために、戦い続けた……」
言葉は、自分を慰めるためだけのものだった。後悔と無力感が、私を支配する。
なぜ。
なぜもっと早く、気づかなかったのか。
死にゆく父を前に、血と絶望の中で、私の内に眠っていた【前世】が覚醒した。
その力――【深淵の黒鶴】は、怒りのままに無限の魔獣を屠ったが、虚しさだけが残った。
そして気づけば、手にはこの白い剣が握られ、茉凜の声が響き、異世界への転生を悟った。
「父さま……」
喪失の痛みが、こらえきれず涙となって頬を伝う。どんなに力を振るっても、父はもう帰ってこない。
ヴィルは私の言葉をじっと聞きながら、深い息を吐き出した。
純白の剣の中から、茉凜が息をひそめる気配だけが伝わってくる。
「そうか……。あいつは最後まで戦ったんだな」
彼の声には、はっきりとした哀しみが滲んでいた。その哀しみは私の痛みと重なり、酒場の深い紫の夜気へと、静かに溶けていった。