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雪化粧の納屋で交わす夢

 果樹園を見渡す丘の外れに、素朴で古びた納屋が一軒建っていた。

 板壁は長い年月を経て飴色に変わり、茅葺きの屋根からはわずかに干し草が覗いている。周囲は白一色の雪景色に覆われ、遠目にはただの倉庫にしか見えないその建物にも、二階には小さなロフトがあり、簡易的ながらも部屋としての体裁を成していた。


 そのロフトの一角、まだ薄暗さの残る床の上で、クリスはそっとベッドへ腰を下ろした。昨夜までは激しく痛んでいた腕には、いまだ厚めの包帯が巻かれている。

 布のざらりとした感触が手首に残り、鼓動だけがゆっくり熱を帯びる。


 けれど、夜明けとともに傷の疼きが幾分かやわらいだのを感じ、クリスは深い息を吐く。吐息が白く空気に溶けるたび、胸の奥からじんわりと広がる安堵が、身体のこわばりをそっと解きほぐしていくようだった。


 部屋の隅には、クリスが着ていたローブや小物、そしてレオンの外套がひとまとめに置かれている。《仮初めの夫婦》として旅をしている間に必要だった荷物が、今はなんとも居場所なさげに重なっていた。


 木枠の窓から見下ろす果樹園は、深い雪に覆われてほとんどが白銀の世界と化している。冬枯れの林檎や杏の木々は裸の枝を静かに差し伸べ、木立の根元には風にさらされた雪がふんわりと積もっていた。

 凍てつく外気に乗って運ばれてくる空気には、かすかな果実の香りがまだ残っているが、その甘さは雪の冷たさに溶け込み、どこか澄んだ静けさを帯びている。


「ふう……」


 吐いた息が胸もとでほどけ、指先までやわらぐ。

 クリスはかすかな痛みに気を遣いながら、もう一度深呼吸をする。息を吐くたびに屋根裏部屋のひんやりとした空気が肺の奥まで染み入り、まるで疲れた心までもが清められていくような気がした。

 その一方で、満足に眠れなかった倦怠感が首筋あたりからじわじわと重くのしかかってきて、意識を引きずろうとする。


 けれど腕の痛みが少し落ち着くと、代わりに胸の鼓動が不思議と熱を帯びてきた。

 昨夜まで痛みに囚われていた神経が、今朝の冷たく張りつめた空気に刺激されて、胸の奥で小さな焚き火が灯るみたいに、熱が集まる。


「痛みは、だいぶマシになったか?」


 柔らかな声が、ロフトの静けさを破った。


 テーブル代わりに使っていた木箱に背を預け、夜通し付き添っていたレオンが問いかける。まだ雪明かりに照らされた薄青い光が部屋の奥に差し込むなか、その瞳にはクリスの容態を気遣う優しさが宿っていた。


 声の温度が、包帯の白にやわらかく触れる。


「ええ、マリアさんの処置が丁寧だったから、随分楽になったわ。……ちゃんと休めば何日かで傷も塞がりそう。命にかかわるほどじゃないし、ほっとしてる」


 クリスは包帯を巻いた腕をそっと押さえ、弱々しい笑みを浮かべる。

 じんわりとした熱はまだ腕の内側でくすぶり、動かすたびに鈍い痛みが走る。しかし昨夜よりはずっとマシだと感じるだけで、呼吸が深くなり、心に光が差し込むような気がした。


 むしろレオンがそばにいてくれる安心感で、痛みが雪のように静かに消えていくのを感じる。すると、横隔膜のあたりがどうしようもなく温むのだ。


「そうか……よかった」


 肩の力がふっと落ちる。


 レオンは大きく息をつき、張り詰めていた緊張の糸がほどけたように笑みを返す。その横顔をかすかな冬の朝陽が淡く照らし、普段の逞しい戦士の姿とは違う、どこか儚げな雰囲気をかもし出していた。


 干し草を厚めに敷いた床には、ところどころ人が使いやすいような空間がある。そこで簡易的に組み立てられたベッドや積み重ねた木箱などが、小さな住まいのような居心地を形作っている。


 納屋の一階には、果樹園での収穫物――冬の間に保管される林檎や干した果実を詰めた大きな木箱が並んでおり、ダビドたちが少しくらい物音を立てても農作業の準備に紛れる。


 窓の外では、雪に覆われた林檎の木々が風に揺れ、枝がこすれ合う乾いた音が遠くから届いてくる。白い地面は足跡を拒み、町はまだ目を覚まさない時間が続いていた。かすかな鳥のさえずりが、果樹園の向こうからひそやかに聞こえてくる。


「早く治さないと、先へ進むにも足手まといになっちゃう……」


 言いながら、指先がシーツの縁を探す。


 クリスは自嘲ぎみにそう呟きながら、苦笑のような表情をつくる。彼女のローブは隅に丸めて置いてあり、今は白い寝間着姿で腕の包帯だけがやけに目立っていた。


 レオンはその言葉に小さく頷き、「しばらくは休めばいい。何もかも背負わなくていいんだ」と優しい声で返す。

 そして包帯を巻いた腕に目を留め、いつになく静かな口調で「大変だったな」とそっと付け加えた。低く落とした声が、みぞおちを浅く撫でていく。


「……ありがとう。気にかけてくれて」


 吐息が言葉に触れて、頬まで熱が昇る。


 クリスの頬がわずかに赤らむ。薄い寝間着の袖口から入ってくる冷気と、レオンの声に感じるぬくもり――その二つが対照的に存在していて、自分でもどうしようもないほど、みぞおちがそっとゆるむのを感じた。


 二人はしばし無言で顔を見合わせる。

 まばたきの間に、朝の光が一段明るくなる。


 先ほどまで言葉を交わしていたのに、なぜか次の言葉が出てこない。気まずい沈黙ではなく、どこか甘く切ない空気がロフトを満たし、干し草の香りや果樹園のわずかな果実の匂いが柔らかく鼻腔をくすぐった。


 町外れとはいえ、ここも宰相の私兵たちが活動する一帯。けれど、今この瞬間だけは二人きりの世界に包まれているようで、何者にも邪魔をされたくない――そう感じるほど、朝の静寂は深く、雪景色の白さが光を反射していた。


「なあ、クリス」


 呼ばれた名が、やわらかく胸にもぐる。


「なに?」


 指が膝の上でそっと重なる。


 レオンは困ったように目を伏せ、唇を噛み締める。

 その指先がぐっと力を込めるように握り込まれ、関節がかすかに白く浮き上がっているのが見えた。


――なにか…言いづらいことでもあるのかな?


 呼吸が一拍だけ止まる。


 クリスの胸に小さな鼓動が鳴る。呼吸を止めかけた瞬間、夜明けの薄光が目にしみるように感じられた。痛みとは別の緊張が全身を包み、寒気か緊張か分からない震えが背筋に走る。


 レオンは深いため息をつくと、決意を固めるように言葉をこぼし始める。


「……実はさ、この作戦が終わったあとのことを考えると……俺正直、怖いんだ」


 言い終わりに、喉が小さく鳴る。


「……え?」


 胸の中心でなにかが跳ねる。


 『怖い』という言葉をレオンの口から聞くのは極めて珍しい。


「どういう意味……?」


 言葉は細く、目は真っ直ぐ。


 みぞおちに冷たい指を置かれたようで、息がひと拍だけ途切れた。


 レオンは自分の鮮やかな赤髪を軽く掻き上げ、視線を壁に落とす。

 拳の骨がきゅっと鳴り、迷いが指先に集まる。


 雪の寒さとは違う冷や汗めいたものを隠そうとするかのように、拳が硬く握られていた。いつになく緊張した横顔を見ると、クリスの胸も締めつけられるような痛みを覚える。


「……俺たちはさ、陛下の命令で《新婚の行商人夫婦》を演じながらここまで旅してきた。けど、任務が終わったら、その芝居も夫婦っていう設定も――全部、元に戻るわけだろ?」


 言いながら、目の端がかすかに潤む。


 その言葉の最後ににじむ切なさや寂しさ。同じようにただの仲間に戻るという現実が、胸を抉るような苦しみを伴って迫ってくる。クリスはその痛みを共有するかのように、小さく呼吸を詰まらせる。


「……レオンは、そのほうが、楽? 安心する?」


 問いのかたちで、自分の心まで揺れる。


 自分の言葉が震えているのを感じながら問い返す。

 もしここで「そうだよ」と言われたら、冷たい雪の中に一人取り残されたような、そんな喪失感に襲われるだろう。


 だがレオンは首を小さく横に振り、苦しげに眉を寄せる。


「安心できるわけないだろ。むしろ……辛い」


 短い一語が、胸の底に落ちる。


 “辛い”――それはレオンがめったに口にしない感情だった。だからこそ、その言葉にこもる重みが一層痛烈に伝わってきて、クリスの胸がぎゅっと締め付けられる。


「俺にとって、クリスは一番の戦友なんだ。命を預けられる相棒で、男とか女とか、そんなの超えた仲間だと思ってた。

 でも……《夫婦のフリ》をしてるうちに、どうしても意識しちゃうようになって。任務が終わったら、また昔みたいに戻れるのかなって考えたら、全然戻れる気がしない。むしろ、戻りたくないのかもしれないって……」


 最後の言葉が、ほとんど囁きに溶ける。


 その最後の言葉は、かすれるように小さい。それでも“戻りたくない”という響きに、クリスの心は微かな光を見出すような温かさを覚える。同時に、胸の奥が切ないほど疼き出す。


 そのとき、クリスの脳裏に、この冬の旅路で重ねてきた記憶が蘇る。

 手に触れた温度、肩に落ちた息、寝息が合った夜。


 長い雪道を馬車で進むあいだ、周囲の人々に《新婚の行商人夫婦》だと思われるように、自然と腕を組んだり、肩を寄せ合って寒さをしのいだりした。


 宿屋では、一緒のベッドで眠るのも当たり前だった。背中合わせだったのに、レオンの体温がほんのりと伝わってきて、なぜかまったく寝付けなかったあの夜――。


 今になって思えば、あのときに感じていた高鳴りは、すでに仲間以上の感情を予感させていたのかもしれない。まるで冷たい風の中でこそ際立つ焚き火の暖かさのように、レオンの存在が愛おしかった。


「……わたしも、同じだよ。レオンは強いし頼りになる仲間だって、ずっと思ってた。だけど、夫婦っていう形でこんなに近くにいると、どうしても意識しちゃって。この気持ち、どうしたらいいんだろうって……」


 言葉の途中で、まぶたが熱を含む。


「そうか、よかった。同じだったんだ……。俺ひとりで悩んでるわけじゃないなら……少し安心した。でもすごくドキドキするというか……」


 声音が甘くほどけ、指先がふるえる。


「クリス……」


 名を呼ぶだけで、距離が縮まる。


 レオンは静かに彼女の手を取った。包帯を巻いていないほうの手をそっと包み込むと、彼の指先がわずかに冷たいはずなのに、鼓動を伝えてくるように熱を帯びているのを感じる。


「俺、今だからちゃんと言っておきたい。この任務が終わっても……お前と離れたくない。もっとずっと、一緒にいたい」


 言葉の輪郭が、手のひらで確かになる。


「それは……わたしたちが、その、もっと関係を深めるってこと……?」


 頬の熱が、声にまで滲む。


「いや、正直、結婚とかすぐには無理だと思う。俺も騎士として一人前だとは言えないし、お前だって目指すものがあるだろ? 

 でも……俺は……クリスのことが……好きなんだ」


 “好き”の二音に、世界が静かになる。


「あ……」


 短い息が、言葉より先にこぼれる。


「ごめん、こういうの初めてだし、うまく言えないけど……。足を引っ張ってるかもしれないってのに……それでも、好きでさ。お前とずっと一緒にいたいって気持ちが、どうしたって抑えられないんだ」


 言い終わりに、指がぎゅっと強くなる。


「そんなこと、謝らなくていいよ。わたしだって、こんなの初めてだし……戸惑ってる。だけど……」


 胸の前で、言葉がほどけて集まる。


「もしわたしが、『いいえ』って言ったら、どうするの?」


 意地悪に見せかけた声が、ほんの少し甘える。


「そんなの、嫌だ。いまさら、クリスじゃない誰かを好きになれる気がしない。……もう、遅いんだ。お前のことしか考えられない」


 真っ直ぐな視線に、胸がきゅっと鳴る。


「……ふふ。断るわけ、ないじゃない」


 喉の奥で小さく笑いが芽生え、頬の熱だけが静かに残った。


「前はふつうに仲間だと思ってたのに、こんなふうに想い合うことになるなんて……なんだか変な感じ」


 視線を落として、頬の熱だけを彼に預ける。


「変でも、悪くはないだろ?」


 低く落ち着いた声に甘さがにじみ、鎖骨の下がさらに熱くなる。


「悪くなんかないよ……むしろ、すごく幸せ、かも」


 言いながら、指先が彼の指に絡む。


 重ねた手は彼が少し冷えて、わたしの脈だけが内側からゆるく温んだ。


「あ、ありがとう……」


 ぎこちない礼が、ふたりの間をやさしく満たす。


「……さ、もう少し休んでおけ。腕が治らなきゃ、何もできないだろう?」


 言葉といっしょに、肩へそっと手が置かれる。


「そうね。ダビドさんたちには申し訳ないけど、少しだけ甘えさせてもらおうかな……」


 甘い息が、朝の冷たさに小さく混ざる。


 互いに見つめ合う目と目のあいだには、もはや《夫婦のフリ》ではない感情が芽生えていた。クリスの包帯を巻いた腕を、雪明かりに混ざった朝の光が優しく照らし、これまで痛んでいた心にも未来への希望が差し込んでくるようだ。


 外では、果樹園のほうから微かな農夫の足音や、遠くで鶏の鳴く声が聞こえ始めている。もう少しすれば、宰相の私兵たちも巡回を始め、町も否応なしに動き出すだろう。だが今だけは、白銀の静寂が二人を包み込み、邪魔されることなく向き合っていられる。


 ふたりとも騎士としてまだ未熟で、この先には困難の多い道が待ち受けている。それでも――。

 指先で確かめ合った鼓動の数だけ、未来が近づく。


 この想いを胸に秘めながら、いつか本当に夫婦になって隣同士で支え合える日が来ると信じられる。そんな確信が、冬の朝の静謐さを透かして差し込む柔らかな光となって、二人をまるごと包み込んでいた。


 指先の震えが、すこし止まる。

 睫毛の影が頬に触れ、喉がひとつ鳴り、毛糸の匂いが鼻先でやわらかく重なった。


 そっと近づいたレオンが、ためらいがちにクリスの額へ唇を置く。

 雪の光よりも静かな口づけに、胸の火種がやさしく高く燃えた。


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