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伯爵が消えた街の紅い影

 北方の空に雲は厚く、冷たい風がどこまでも吹きすさぶ。白銀の風景をしんしんと進めば、地平の山々が夕日に染まり、雪面へ赤が返る瞬間があるという。

 その赤は反射して、目の奥へじわりと残った。


 その光景を見た者はごくわずか。いったん見れば、赤い輝きが心の奥に染みついて離れない――そんな話が、王都から遠い街道をかすかに渡っていく。

 道標の影は長く、旅人の足音だけが乾いた雪を刻んだ。


 その噂を耳にしながら旅を続けてきたレオンとクリスは、ようやくボコタへ辿り着いた。

 指先の痺れは解けきらず、手綱の革はまだ冷たい。想像していた深雪の静けさに反し、城壁の内は思いのほか賑やかで、二人は思わず顔を見合わせる。

 門前の掛け声と車輪の軋みが重なり、冷えた空気へ人の熱が戻った。


「ねえ、レオン。見て、活気があるね。雪続きで閑散としてるかと思ったのに。……あの屋台、湯気がきれい」


 湯気に果皮めいた甘さが混じり、頬の内側がやわらいだ。


「だな。人も馬車も多い。王都の外れみたいだ。商隊もいるし……宿、空いてるといいが。満室かもしれない」


 押し返す人波の温度が袖へ移り、肩と肩がかすかに触れる。


 ローブの裾の雪を払えば、冷たさが遅れて手首へ沁み、皮膚がきゅっと収縮する。

 ここは王都と北方の中間。街道の交差点で、軸油と挽きたての香辛料の匂いが鼻腔の奥に薄い膜をつくる。活気の密度は想像以上だった。

 城門付近では衛兵が荷を改めつつ笑い声を交わし、槍の石突が石畳を規則正しく叩く。


 名義上の領主はいるが、実際には北行の商隊が必ず通る中継都市。近年は各地の物資が流れ込み、“小さな王都”めいてきた。

 手綱を握る掌にじんわり汗が滲む。胸骨の内側で呼吸が浅く跳ね、落ち着かない気配だけが先に立った。


 ここは、伯爵の足取りが途絶えた街。合流予定のダビド班はどこにいる――焦りの輪郭が舌の裏に金属の味を残す。

 二人は城門を越えて街へ入った。遠くで蝶番が低くうなり、音は雪に吸われる。


 城壁内は一面の雪景色だが、主要な通りは除雪が行き届き、石畳と歩行の帯が確保されている。

 踏み固められた雪が薄く光り、靴底は乾いた音を返した。


「あそこの露店、何を売ってるんだろう。甘い飲み物かスープかな……気になる。身体の芯が温まりそう」


 壺が小さく喉を鳴らし、立ちのぼる蒸気が唇を一枚めくる。


「後で寄るか? その前に宿と馬車の置き場所だ。大荷物で歩き回るのは厳しい。動く前に退路と隠し場所を決めよう」


 言葉の端が乾いて光り、小さな不安が形を持つ。


 足を止めかけたクリスの肘を、レオンがやんわり支える。

 フードを深く被り直し、ポーチを握れば革紐が掌に食い込み、脈に合わせて熱を帯びた。

 その中には偽の身分証と最低限の生活用品。女王メービスの“心づくし”は荷台の奥へ巧妙に隠してある。荷台へ意識が引かれ、視線だけが何度も振り返る。


 城門から少し奥、「王印の厩舎」の看板。何台もの馬車が停められ、屈強な男たちが手綱を預かっている。

 藁と馬体の温度が冷気に溶け、鼻先がやわらいだ。


 二人はここで馬車を預け、短い交渉の末、多少割高な料金に応じる。


「うちで預かってやるから安心しな。馬もだいぶくたびれてるようだ。飼い葉代はちょいと上乗せになるが、どうする?」


 掌の荒れに麦藁の粉が白く残る。


「わかりました。しっかり休ませてやってください。よろしくお願いします。あ……荷台には触らないでくださいね。壊れものが入っていますので」


 小袋の硬貨が掌で鳴り、革が低く応えた。

 レオンは小銭袋を懐から出し、クリスは管理人の視線が蓋の錠へ滑らないよう、身体の角度でさりげなく遮る。厳重な留め具――そう簡単には覗けない。


「ここまでよく走ってくれたからな。しっかり休んで元気になってくれよ」


 馬の温い吐息が指節へ移り、張っていた肩がひとつほどけた。


 厩舎を出てほど近く、「緑柳亭」の看板。古木の板に細かな装飾、鎖金具が控えめに軋む。


「あの看板、宿屋だな。暖炉がありそうだし、空いてるか聞いてみよう。ここなら人混みに紛れやすいし、行動の基点には最適じゃないか?」


 取っ手は冷えきって、掌の熱をさらっていく。


「ええ、そうしましょう。指先が凍えそうで……もう我慢できない。湯気のある場所が恋しいわ」


 吐いた息が白くほどけ、喉の奥が軽く緩む。


 扉の内側は薪の香。程よい広さの玄関、瘦せた主人の笑顔に、背の中心が半歩ゆるむ。

 幸運にも一部屋だけ空きがあり、すぐ宿泊を決めた。


「おや、見たところ新婚さんかな? 仲が良さそうでうらやましいねえ。一部屋だけなら空いてる。ちょっと狭いけど、暖炉もあるよ。よければ泊まっていきな」


 煤けた温度の声に、頬の筋肉が自然にほどける。


「ありがとうございます。ぜひお願いします。わたしたち南から来たので寒さに弱くて……暖炉のある部屋なら天国です」


 笑みが湯気みたいに軽くのぼり、耳の内側へ温かさが戻る。


 二階の奥の部屋。小さな暖炉とベッド、テーブル、椅子が二脚――寝起きには十分だ。


「……やっと落ち着ける」


 ローブを椅子の背へ掛ける。指の節が、ゆっくり元の形に戻った。


「まだ昼のはずだけど、もう陽が傾いてる。雪国って本当に日が短いんだな……」


 窓の外は灰の雲が重なり、遠い山並みが白くかすむ。硝子へ指を当てれば、冷たさが骨に静かに染みた。


 のんびり暖をとってはいられない。伯爵の失踪、ダビド班との合流――優先すべきことは山積みだ。

 火の小さな爆ぜが、思考の端を現実へ引き戻す。


「でも、ここは伯爵が姿を消した街でしょう? 落ち着かないわ……」


 声の端がわずかに震え、喉の奥に小さな結び目が生まれる。


「ああ。危険は覚悟のうえだけど、本当に何が起きてもおかしくない空気だな。ま、焦るなよ。まずダビドさんたちと合流して、伯爵の情報を集めよう」


 薪の香に言葉が染み、炎の音と重なる。


「……うん、そうだね」


 うなずきに合わせて前髪が額へやわらかく触れた。二人は身支度を整え、外套の重みを肩に戻す。


 階段を下りかけたところで、主人に呼び止められる。


「ちょいといいかな、あんたたち。さっき他のお客さんが『レズンブール伯爵を探している人がいないか』って言うもんだからね。あんたら、知らないか?」


 踊り場の空気は冷え、声が木に吸い込まれて低く響く。


「……それ、わたしたちのことかも。何か問題でも?」


 掌の革手袋が小さく鳴り、指先の血が一瞬引いた。


 主人は渋い顔で声を潜める。


「悪いことは言わない。あんまり大っぴらにその名前を出さないほうがいい。最近は宰相の私兵だとか、どこぞの傭兵だとか、得体のしれない連中が急に増えてきてる。うかつに伯爵なんて口にして、巻き込まれたら大変だ」


 息がひとつ止まり、背の皮膚が薄く冷える。


「そ、そうなんですか。ご忠告、ありがとうございます。気をつけます……」


 礼の角度を深く取り、視線で影を撫でる。


「特に夜は出歩かないほうがいい。せっかくの夫婦旅が台無しになるのは気の毒だ。……じゃ、何かあったら声をかけてくれ」


 足音が階下へ遠ざかり、廊下の灯がわずかに揺れた。

 目を合わせ、すぐ外す。胸の中央で呼吸が一拍だけ重なる。


「行こう、クリス」


 名を呼ぶ声が、張り詰めた糸をやさしく梳いた。


「……うん」


 かじかむ指を握りしめ、関節に小さく熱を集める。白く霞む街へ踏み出した。


◇◇◇


 街で伯爵の噂を探っても、誰もが口を濁す。

 「知らない」と言いながら視線を伏せ、同じ方向へ流れていく。名を口にするたび、周囲の温度がひと息分だけ下がった。


 遠目に宰相の紋章を染めた赤いマント。赤布の縁が雪の白に浮き、露店の色を奪う。

 彼らは露店へ言いがかりを浴びせているらしい。レオンの拳は意識の外で固まり、肩甲骨が前へ寄った。


「……レオン、だめ。――落ち着いて」


 袖を引く指先に、自分の脈が跳ね返る。


 赤布の影がこちらを掃き、空気だけが硬くなる。へたに関われば、すぐ目をつけられる。


 やがて近くの女店主が、ひそひそ声で寄ってきた。


「……あんたたち、伯爵のことでうろちょろしてるらしいね? 悪いことは言わない、やめときな。泊まってた宿が襲われたって噂だし、それ以来、宰相の手下が来ては我が物顔で振る舞ってるよ」


「そうなんですか……でも、どうして宰相が関わるんですか?」


 レオンの問いに、女店主は苦々しく肩をすくめる。


「さあ、知らないね。少なくとも“行方を探してる”って雰囲気じゃない」


「というと?」


「そうだね。むしろ、探し回ってる者を捕まえようって腹かね。だから、その話題を口にしただけで引っ立てられるって話だよ。みんな困ってる。役人も袖の下を掴まされて、ちっとも動いちゃくれないんだ」


 言葉は冷えているのに、目だけが素早く周囲を掃いた。


「そんな横暴……女王陛下が知ったら、黙っていないはずです!」


 声の高さが半歩上がり、すぐ噛みしめて落とす。


「女王陛下ねぇ……最近はあまり良い噂を聞かない。悪いけど、期待はできないよ」


 女店主は力なく笑い、香辛料の粉の匂いだけを残して人ごみに消える。

 宰相の私兵が露店を圧迫する今、ここで声を荒げるのは危険だ。二人は軒の影に身を寄せ、小声で呼吸を合わせた。


「やっぱり伯爵は何者かに襲われたのね。だとすると、宰相の私兵はその隠蔽に動いているのかもしれない……。でも、証拠が要るわ」


 舌の裏に、慎重という名の苦さが滲む。


「いずれにしても、一刻も早くダビド班と合流して情報を突き止める必要があるな。接触は短く、痕跡は薄くだ」


短い文節で、歩調が整う。二人は視線を避けて露店通りを離れた。



 行き交う商人や旅人に探りを入れつつ歩くが、成果は乏しい。足裏に疲労の砂がたまり、歩幅がわずかに狭くなる。

 そのとき、茶色のジャケットの男が穏やかな笑みを浮かべて近づく。靴音は柔らかいが、視線だけが硬い。


「失礼。行商の新婚さんと聞きました。伯爵様の行方を探しているとか?」


 言葉は丸いのに、末尾の一音が耳に残る。


 一見、人当たりのいい町人。けれど瞳の奥に鋭い光が潜む。クリスは警戒を抱きつつ、むやみに怪しまれぬよう視線を相手の肩へ落とし、レオンと目配せを交わして微笑みを返した。


「ええ、北のほうにわたしの実家がありまして、結婚の報告も兼ねて向かっています。それで……レズンブール伯爵様に、一言ご挨拶をと思ったんですが」


 語尾をやわらげると、相手の肩の力がわずかに抜ける。


「へえ、伯爵様とはどんなご関係で?」


 露店の布越しに獣脂の匂いが濃くなる。問いは柔らかいが、目の底は測っていた。


「実は以前、ちょっとしたご縁があって……お世話になったことがあるんです。いろいろ騒がしいようですし、深く踏み込むつもりはありません。ただ、もし伯爵について何かご存じなら、失礼のない範囲で教えていただけたら、と」


 籠の口を少しだけ開け、祝言の細いリボンを覗かせる。結び目を指先で撫で、息を整えた。


「ご縁、ねえ。北の実家ってのは、どのあたりかな?」


 男の声が半歩近づく。周囲のざわめきが遠のき、粉雪が睫毛の端で溶けた。


「ここから北へ山を二つ越えた小さな村です。冬はとりわけ厳しくて……皆、ひもじい思いをしているかもしれません。ここで食料を仕入れて、できるだけ早く届けたいんです。その前に――伯爵様へ挨拶だけでもと考えたのですが、嫌な噂を耳にして……」


 否定と敬意を同じ器に入れて差し出す。背後でレオンが籠の重みをさりげなく受けた。


 男は動じず、小さく笑って観察を続ける。瞳孔の動きは速く、笑みは皮膚の表で止まる。


「はは、なるほどね。そりゃあ気になるだろうし、大っぴらには話しづらいこともあるだろう。……実は私、こう見えて情報を扱う仕事をしているんですよ」


 “情報”の二音に、薄い刃が潜む。


「情報、ですか……?」


 クリスが首を傾げると、男は声を落とし素早く周囲を見回した。袖口の布が擦れて、乾いた音がする。


「ええ、今のこの街はいろいろ物騒でしょう? そんな噂を口にすれば目をつけられる。よければ、場所を変えてお話しませんか? 実は伯爵様に関して、面白い話を仕入れているんですよ」


 言葉の温度は人当たりを装い、芯に演技の冷ややかさ。


 レオンは眉をわずかに寄せ、クリスへ「進め」の合図を送る。


「ありがとうございます。ぜひ、聞かせてください」


 返事の高さを抑え、相手の間合いに小さく楔を打つ。


「ここから少し歩いた先に、知人が営んでいる店があるんですよ。昼間は客もあまり来ないし、人目につきにくい。そこなら話もしやすいでしょう。さあ、ついてきてください」


 にこやかな笑みのまま歩き出す。足取りは軽いが、決して背を返さない。

 クリスとレオンは少し距離を取り、その後ろについた。路地の角の影が歩幅に合わせて移動する。


「夫婦で行商か……いいねえ。寒くたってへっちゃらでしょう? 愛の力ってやつですねえ」


 軽口の末尾が湿り、耳の内側に残る。


「ええ、まあ……。夫婦は助け合いが基本ですから。寒さくらい、手を重ねれば少しはましになります」


 言ってみると、指先が勝手に重なりたがる。クリスはぎこちなく笑みを返し、レオンは低い相槌だけを落とした。喉の奥で、短い音が転がる。


 胸の底では警戒が渦を巻く。ふと後ろを見れば、路地の角に誰かの気配――目を凝らす間もなく、姿はない。

 風だけが角を曲がり、布の裾を少し持ち上げた。


――誘い込まれてる可能性は高い。でも、もし本当に伯爵の手掛かりを握っているなら……。何の成果もないまま合流なんてのも、情けないし。


 胸元をそっと押さえる。ひと跳ねごとに布地が小さく上下した。


「顔が赤いぞ……寒いか?」


 レオンの小声が耳に落ち、皮膚の内側で熱が増える。


「うん、冷えるね……温かいものが飲めたらいいんだけど。……それと、少し緊張してる」


 語尾が細り、吐息は短い。


 別の意味が混じった気がして、頬はさらに熱を持つ。フードを深く被り直し、視界の縁が狭まった。足音と心音が、同じ拍を刻む。


◇◇◇


 やがて中心部を離れ、街外れへ向かうと人通りは目に見えて薄くなる。

 風が建物の角で渦を巻き、凍った石が靴底の下で細く鳴った。


 倉庫街を抜け、小さな広場を横切る。背後の視線に気づいたクリスはさりげなく振り返るが、やはり誰もいない。うなじの産毛がそっと立つ。


「疲れましたか?」


 問いの柔らかさに比べ、足取りだけが妙に軽い。


「いや……大丈夫です」


 吐く息が薄く解け、胸の奥で一拍だけ強く跳ねた。


「どうぞお気遣いなく」


 手袋の内側で掌は湿り、指先の熱が行き場を探す。


「もう少しですからね」


 笑みは皮膚に貼りついたまま、瞳孔だけがわずかに動いた。


 クリスは小声で囁く。


「ねえ、この人、本当に善意だけで案内してると思う? どうも信用しきれないの」


 白い吐息がかすれ、言葉の端だけが凍る。


「そのつもりで対処するしかないさ。……万が一のときは……だろ?」


 歩幅を半歩だけ変え、肘の角度で合図を返す。


「……うん」


 胸の内で小さな熱が灯り、手袋の内側がじんわり汗ばむ。


 やがて男が指差す先に小さな店。表の札には『営業中』と手書きだが、客気は薄い。札の紐が風に揺れ、金具がかすかに触れ合う。


「こんにちは。今日はお客さんを連れてきましたよ~」


 扉が押し開かれ、ほんのり温い空気が流れ出る。薪と乾いた草の匂いが胸にさっと入った。


「ここですよ、お二人さん。どうぞ座って、ゆっくりしていってください。……店主は奥にいるみたいですね」


 指し示す先は奥のテーブル。指先の角度が、逃げ道を細く区切る。

 入店して目で撫でる。カウンターはあるが店主は出てこない。梁の乾草がわずかに揺れ、音はない。戸口越しの通りも、人影は細い。


――怪しいけど、ここで尻込みしては情報は得られない……。


 視線が絡んでほどけ、位置を入れ替えるように立つ。いつでも反撃へ移れる角度でテーブルへ近づいた。

 そのとき背後でギシリと扉が閉まり、「いらっしゃいませ。――おや、そちらのお客さんは?」と声。内側で閂がそっと触れ合った気配が残る。


 カウンターの奥から現れたのはメガネの初老の男。整えた口ひげに落ち着いた目つき――ただし視線の硬さは品定め。レンズの反射が一瞬こちらを白く塗りつぶす。


「店主さん、お客さんを連れてきたんですよ。伯爵様のことで……ね?」


 肩をすくめる仕草に、唇だけが笑う。


「ほう、伯爵様ね……」


 その名の重みで、空気が薄く張った。


「まあ、とりあえず座りなさい。ハーブティーでも飲んで、冷えた体を温めるといい」


 トレイの三つのカップから白い蒸気が細く上がる。甘さに草いぶしの棘が混じり、鼻の奥で静かに刺さった。

 レオンは思わず鼻をひそめる。記憶の棚の同じ引き出しが、きい、と鳴る。


「温かいお茶でほっとしてからお話ししましょう」


 クリスは袖口をぎゅっと握ったまま固まる。掌の脈が布の糸をわずかにきしませた。


――やたら人当たりがいいけど、むしろそれが怖い……。


 店主が差し出すカップに指が触れた瞬間だけ、温度が切り替わる。喉は条件反射で開くのに、意志だけが半拍遅れた。


――これ、怪しいけど、どうする……?


 湯気が睫毛に触れ、視界の縁が曇る。


「っ……!」


 腕に力が入り、カップがわずかに傾いたとき、レオンの手が静かに制した。


「おまえ、猫舌だろ? もう少し冷ましてからにしろ」


 夫婦のやり取りに見せかけ、手の甲が合図を送る。


「……ここのお茶は珍しい香りがしましてね、お勧めなんです。さぁ、温かいうちにどうぞ」


 案内役の掌が、見えない圧でこちらを押す。一方、店主はメガネを押し上げ、レオンの表情を探った。


 レオンはカップを鼻先へ寄せ、呼吸を浅くして香りだけを拾う。湯気の層が薄く割れ、草いぶしの棘が鼻腔に触れた。


「……確かに珍しい香りだ。店主さん、薬草にお詳しい?」


 言葉の縁に、ごく薄い刃を忍ばせる。


「いやあ、ちょっとした独学でね」


 笑いは喉で止まり、瞳の底は動かない。


「何か問題でも?」


 情報屋の声は柔らかいが、温度だけが底で冷える。


「俺の地元じゃ、サノリサって呼ばれる草があるんです。適切に使えば疲労回復に役立つんですが、濃度が強いと眠りが深くなりすぎるっていうか……二度と起きられなくなる危険もあるって……」


 指はカップに触れたまま、飲む仕草だけを演じた。


「へえ、そいつは物騒だ。私はそんな名前、聞いたことないですがねえ」


 動じない静けさが、かえって騒がしい。


 クリスは唇を結び、カップをそっと卓へ戻す。膝の上で絡めた指が白み、心臓は早い拍を刻んだ。


――もしあのまま飲んでいたら……?


 両腕で自分の腕を包む。レオンは椅子の位置をわずかにずらし、床を擦る音を意図的に小さくした。


「ああ、そういえば伯爵様の件でしたね」


 案内役は湯気を吹く仕草だけを繰り返す。


「ここなら外に聞こえないし、安心して話せるでしょう? ……ただね、お茶を飲みながら、落ち着いて聞いたほうがいい話もあるんですよ」


 レオンは穏やかさを崩さず、声だけを半段落とす。


「ありがたいが、さっき言ったとおり急ぎだ」


 言葉の隙間に、退出の線を引いた。


「ふふ、まあ、そんなに急かさないでください。夫婦での長旅、さぞお疲れでしょう? ……もしお口に合わなければ、残していただいて構いませんよ。ただ、せっかくこだわりの店主が淹れてくれたんですから。できれば――ね?」


 柔和な笑みの輪郭が、じわり硬さを帯びる。


「……本当に“ただの”情報屋なんですか? 『影の手』や宰相の私兵と繋がっている……なんてこと、ないですよね?」


 語尾が細く尖り、空気がひとつ沈む。


「影の手? へえ、そんなのが実在するなんて話は初耳ですね。ま、噂で聞いたことはありますが……ねえ、店主さん?」


 店主は棚の木目を指で撫で、「さあ、どうでしょうねえ」ととぼける。木の乾いた音が、針のように短く残った。


――まるで、何かを確認しているかのよう。


 背筋に冷たい汗。クリスは“行商の新婚妻”の微笑を薄く保ち、レオンは左足をわずかに後ろへ――呼吸が合図になる。


「嫌なら出て行っていただいても構いませんよ? ……ただ、伯爵の件を聞き回っている時点で、あなたたちの立場はかなり危ういとは思いますがね」


 出口の影に、見えない針が置かれたようだった。


「……わかりました。まず、どんな噂をお持ちですか。報酬はご相談します」


 声の高さを半歩落とし、揺さぶりを受け流す。


「では、お話しましょうか。伯爵様が滞在していた宿が、何者かに襲撃されたというのは、ご存知ですよね?」


「はい。それは耳にしましたよ」


 陶器が卓で小さく鳴り、湯気がゆるく揺れる。


「どうも、その襲撃犯ってのが、女王陛下とつながっているらしいんですよ。重大な秘密を握っていて、邪魔だから消された――とか。王都の権力争いに巻き込まれた――とか。噂はいろいろありましてね」


――でっちあげにもほどがある。陛下がそんなことをするわけがない。


「秘密、ですか。たとえば、どんな?」


 店主がわざとらしく近づく。靴音だけが不自然に軽い。


「まあまあ、お客さん。長旅でお疲れでしょう? うちのハーブティーを飲めば、気分が落ち着きますよ」


「……そ、そうですね。ただ、ちょっと香りが強いので、もう少し冷ましてからにします」


 店主は「そうかい」と言いつつ離れない。視線だけが、カップの縁へ貼りついた。

 クリスはそっとレオンの袖を握る。布越しの体温が指へ移り、震えの輪郭が薄れる。


――こんな状況なのに、どうしてこんなにレオンを意識してるんだろう。


 任務とは別の小さな灯りが胸に点る。いけない、集中――二拍で呼吸を整えた。


「クリス、落ち着いて」


 低い声が鼓膜の手前で止まり、安心だけを残す。


「さて、そろそろ本題に入りましょうか」


 案内役はカップに息を吹きかける。湯気の向こうで口元だけが笑った。


「伯爵は、ここで襲撃を受けた後、何者かの手引きで逃げ延びた――それが私の見立てです。ただ、今どこにいるかは不明でしてね。宰相の私兵が血眼で探しているという話もあれば、事件そのものが“影の手”なる連中の仕業だという話もある。どちらが真かは、測りかねます」


「その“影の手”、っていうのは……」


 浅い笑みとともにカップが卓へ置かれ、陶器がまた小さく鳴る。


「さあ、“汚れ仕事”を一手に引き受ける女王陛下の諜報組織――なんて噂もありますよ。どこまで本当かは知りませんがね。ともあれ、公にすべき話じゃないでしょう」


 クリスの表情が一瞬だけ曇る。


「――その女王陛下というのも、出自が怪しいだの何だのと、妙な噂が絶えない。伯爵が襲われたのも、さっきの“秘密”――つまり女王の立場を揺るがす弱みを握っていたから、という筋書きです。 それに、王都からは次の王太子候補が見つかったとも聞く。擁立を推していたのが伯爵様、女王陛下は面白く思っていない――そういう話も、ね」


 歯の見えない笑いに、音はなかった。


「あなたはそのあたりを、どの程度ご存じなんですか?」


「そこまで詳しいわけじゃありませんが、頼まれればさらに調べることはできますよ。こう見えて、私兵連中に顔が利きましてね」


「ほう、そうですか」


「もちろん、それなりの対価はいただきますが……さて、どうなさいます? まだ話を続けるなら、ここでゆっくりしていくといい」


 視線はテーブルのハーブティーへ落ちる。液面が天井梁を揺らして映した。


「……話の内容次第では報酬は弾みますが、俺たち、早く北方の実家に向かわないといけないので」


「北方ですか? それはよしたほうがいい。どうやらモンヴェール男爵領がきな臭いようでしてね。近々なにかあるんじゃないかって、もっぱらの噂ですよ」


 沈黙の温度がじわり上がる。店主は相変わらず口を閉ざしたまま二人を観察していた。

 クリスは卓の下で指を絡め、もう一度目で合図を送る。指先の震えが収まり、決断が一本になる。


――不確かな噂ばかり。ここにいても時間の無駄。なにより、この茶を飲めと言わんばかりの空気が気味悪い。


「クリス……」


 名を呼ぶ声に頷きが重なる。足裏の重さが一点に集まり、体の芯だけが静かになった。


 レオンが静かに口を開く。


 「……申し訳ない。あなた方を信用するには至りません。ここで失礼します」


 椅子の脚が小さく鳴り、退路の線が鮮明になる。


「あら、それは残念だ。せっかくお淹れしたのに……」


 肩を落とす仕草に、目だけが笑わない。


「そうですか。では、お気をつけて。外の寒さは骨まで沁みるでしょうからね。――ああ、それと、くれぐれも伯爵様の失踪については詮索しないことです。無事に実家にたどり着きたいのであれば、ね……」


 脅しとも警告ともつかぬ響きが、空気をわずかに重くした。


「ご忠告、ありがとうございます。失礼します」


 膝裏の力を確かめ、踵を音の小さい方へ向ける。取っ手は外気で冷え、掌の熱を奪った。

 扉が開き、冷たい風が店内の湯気をかき乱す。鈴がひとつ、乾いた音で転がり、二人は視線を背に受けたまま雪の路地へ出た。


◇◇◇


 「はあ……」


 曲がり角で吐いた息が白くほどけ、胸の硬さが少し崩れる。力の抜けた膝を、レオンの掌の温度がそっと支えた。


「あれは飲まなくて正解だ。あれ、やっぱり危なかったよな」


 低い声に、怒りと安堵が混じる。


「……うん。もしうっかり飲んでたらと思うと、ゾッとする」


 胸に手を当て、拍はゆっくり数を減らした。


「ありがとう、レオン……さっき、飲む寸前に止めてくれたでしょ?」


 声の高さが自然に落ち、耳の内側が温まる。


「ま、お互い様だ。お前がいてくれたから、冷静に対処できたんだと思う」


 袖口を直す指先が、布越しにやわらかい熱を運ぶ。


 頬に血が戻り、耳たぶにまで温度が上がる。クリスは深く吸い込み、雪の冷気で背筋を伸ばした。


「情報屋の言ってたことだけど、影の手が陛下の指揮下で動いているとかあり得ない。むしろ伯爵をさらったのは宰相じゃないの? それに陛下がリュシアン殿を嫌っているみたいな言い方、酷すぎる。いったい誰がそんな噂を流しているの?」


 言い切りの余熱が、息の端で白く消える。


「まったくだ」


 短い返事が、足並みの拍に重なる。


「もしかして、襲撃事件自体が宰相と結託した自作自演で、陛下を首謀者にでっちあげるための工作だったんじゃない? こんな噂が広まったら、陛下のお立場が危うくなる」


 雪明かりが頬を冷やし、言葉の芯だけが熱を帯びる。


「ああ、完全にでっちあげだろうな。ほんとにどこまで狡猾なんだ……。早くダビドの兄貴と合流して、伯爵の行方を突き止めないと、手遅れになりかねない」


 角を曲がるたび、影の深さを測る視線が交差した。


 街のどこかに、宰相の私兵もさきほどの一味も潜むかもしれない。

 それでも退けはしない。伯爵を救い、この街の真実へ近づくために――二人の歩幅は自然に揃う。


 曲がり角の向こうで、角笛が短く、二度。

 足元の雪は凍りつき、さくり、と靴底をきしませた。音は風に攫われ、決意だけが足元に残る。

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