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白銀の王宮で夢みるわたし――旅に重ねたもう一つの未来

 わたしのいる執務室は、今夜も書類の山と薄暗い灯火に埋め尽くされている。蝋の甘さが低く漂い、硝子窓は白く息を呑むように曇っていた。


 深夜に近いこの時間、床から染み込む冬の冷たさが脛を遡り、窓枠には雪の名残がまだ固い。指先はすぐに痺れるのに、手だけは止められない。紙は乾き、羽ペンは細い音で耐えている。


 けれど、“女王”の前にひとりの女でいる時、喉の裏がきゅっと張る。呼吸が浅くなるだけだ。


 次々と押し寄せる公文書をめくり、サインして砂を払う。その反復の隙間から、両親の体温や食卓の匂い――遠い幸福の影がふいに立ち上がり、みぞおちが浅く沈む。


 王宮は寝落ちて、椅子の背板だけが起きている。背に角が当たる。


 背中の空洞に、ひと息分の体温がほしくなる。


 「あなたは女王なのだから」――そう言われれば、それで終わる。けれど、果てのない事務の波がこの先も続くと思うと、心はふっと萎む。


 いつからだろう、わたしが“責務”という重さを常に抱えるようになったのは。


 メービスとしての記憶を持たないまま、この地に降り立った“ミツル・グロンダイル”のわたし。本来の人生はどこで枝分かれしてしまったのだろう。女王の所作と、秘めた正体――二重の皮膚が夜ごと意識に影を落とす。


◇◇◇


 三年にも及ぶ魔族大戦ののち、荒れた国土と疲れ切った人々を立て直す――その中心に立つ未来など、想像すらしていなかった。もともと“黒髪の巫女”は忌避の象徴で、救世ののちにヴォルフと自由に旅へ出るはずだったのに。


 それが「緑髪の精霊の巫女」という偽りの姿を被せられ、ついには「女王」に担ぎ上げられた。誰かに糸を引かれたような道筋――そんな予感が時折、皮膚の裏をかすめる。


 本当なら、かつてのメービスは“旅をして自由になる”と夢見たのかもしれない。わたし――ミツル・グロンダイルもまた、息の合う風と地図の白地を愛していた。


 けれど今のわたしは、再興の策を起こし、貴族院と折衝を重ね、宰相の横槍を受け流しながら、それでも変えられる行を一つずつ進めている。女王として――それ以上に、一人の人間として、逃げずに立つために。


 先王の見せた書状には、兄ギルクとロゼリーヌ、そしてリュシアンの名があった。生まれてすぐ王家から遠ざけられた母子の存在を知った瞬間、胃の奥で静かな冷えが走る。


 「正しい血統」と「立場」が優先され、彼女は男爵家の陰に退かざるを得なかったのだろう。


 わたしは彼女たちを“王位継承の切り札”として扱うつもりはなかった。ただ少しでいい、彼女の母としての想いに触れ、幼いリュシアンに声をかけたかった――いつかわたしが母になる日の手本として……。


 なのに、レズンブール伯爵が私兵で男爵家を押さえ、宰相は“正統”の旗のもとにリュシアン擁立の地固めを進めていた。


 ロゼリーヌの手紙は遮られ、執事の言葉でやっと輪郭が掴めたとき、怒りと焦りが喉を焼いた。どうして――もっと早く、と。悔いが胸の内側を擦っていく。


 銀翼騎士団を即座に出した。だが到着したときには屋敷は伯爵の私兵が掌握。ほぼ同時に、宰相側はリュシアン擁立を声高に唱えはじめ、筋書きは“退位”へ傾いてゆく。


――もはや、戦うしかない。


 宰相の謀から幼いリュシアンを、そしてロゼリーヌの尊厳を守るために。わたしが“緑髪の偶像”でも構わない。苦しむ者を見過ごさないこと、それだけが確かだから。


 女王という鎧をまといながら、“黒髪のグロンダイル”として切りひらく道を選ぶ。肩甲骨の裏に、静かな熱が灯る。


 現実には、公務の山と宰相の視線。先王が願った「好きに生きよ」という言葉の上を、冷たい鎖が横切っている。


 もしただの冒険者なら、夜明けのうちに旅支度をし、行きたい場所へ向かえたのに――そんな想像が一瞬、視界を白くする。今のわたしは“象徴”で、王宮に留まる身体。戦線で働く仲間を信じるしかない。


 だからこそ、決めた。手元の権限を限界まで用い、企みを断つ。ロゼリーヌとリュシアンを守る。ギルクの遺した愛を、これ以上穢させない。女王の鎧の奥で、一人の女性として母子の手に触れたい。


 メービスの責務と、柚羽美鶴の心は時に衝突する。それでももう、戻らない。守りたい相手がいるのだから。


 羽ペンを走らせながら、わたしはその未来を胸に置く。終わりが見えなくても、“いつか必ず動ける日”のために。


◇◇◇


 肩が少し痛む。関節をそっと回すと、椅子の背が細く鳴る。冷えは肩布の縫い目に溜まり、皮膚は乾いていた。


――こんなところで音を上げてたら、わたしを支えてくれている皆に申し訳が立たない。


 息を一つのみ込み、ペンを握り直す。インクを含んだ穂先が、紙の繊維に音もなく沈んだ。


「あーあ、また無理をしてるな。――ちょっと失礼するぞ」


 寝静まった廊下の気配が近づく。革手袋の匂いがかすかにして、肩の冷えへ体温が触れる。皮膚が細かく粟立った。


 振り返らずとも分かる足音。灯りの少ない王宮を迷わずここへ運ぶ、いつもの歩幅。


 ヴォルフ――かつての旅の相棒で、今は王配。いちばん近い庇。


 手がためらいなく置かれ、固くなった筋を捉える。親指が骨際をゆっくり探り、息が肩甲骨の裏でほどけていく。


「また? 本当に好きね、そういうの」


「ふん、そろそろ、肩が凝ってるんじゃないかと思ってな。俺の手でも、少しは役に立つだろ?」


 圧は深さを変え、温もりが指の腹から移る。戻ってくる血の巡りに合わせて、首すじのこわばりが解けた。


「うん、役に立ってる………」


 瞼を伏せる。灯芯の匂いが濃くなり、呼吸は一段落ちて、胸は静かな波を描く。


「ふう……楽になるわ。ありがとう、ヴォルフ。……でも、肩まで揉ませて、ごめんなさい」


 机の角を指で揃える。紙束の端は冷たく、遠慮の気配が指先に宿る。


「気にするな。こういうのは昔から慣れてるんだ。……“あいつ”もお前みたいだったからな」


 “昔”という温度が耳朶に触れて、背中に薄い熱をつくる。


「それって、父さまのことかしら……?」


 彼は目尻だけで笑った。瞳の奥に、遠い火の明滅が宿る。


 ユベル・グロンダイル――わたしの父さまは未来、銀翼騎士団の右翼を率いた。わたしの知らない時代の父。


「あいつは、あれやこれやと人の分まで仕事を抱え込んで、しょっちゅうため息ついて、肩を凝らしてた。で、見るに見かねた俺が、こんなふうに揉んでやってたわけさ。俺は事務仕事は苦手で、なんの手助けにもなれなくて、それくらいしかしてやれなかったんだ」


 インク壺の蓋が小さく鳴る。灯の輪の縁に、名指されない面影が立ち上がる。


「そんなの、初めて聞いたわ」


 わたしの知る父は凛々しく、責任感が強くて、弱音を見せない人だった。けれど、母さまの前では不思議と無防備で――その記憶が頬をあたためる。


「それがまた厄介だったんだ。あいつは真面目すぎて融通が利かないから、自分のことは後回しにして、周りばっかり気にかける。それで一人で抱え込んでは悩み抜いて、ついには爆発寸前になる。つくづく面倒極まりない性格だった」


 棘の形をした言葉は、触れるとやさしい。愛情の癖が、その奥に見える。わたしは姿勢を少しだけ楽にし、彼の指先が深さを増すのを待つ。


「ほんとうに仲が良かったのね。ところで、わたしと父さまって、似てるところってあるのかな?」


「あいつはあいつ。お前はお前。だが、芯の強さというか、頑固さでは甲乙つけがたい気がするな。ほら、今のお前だって無茶してるだろ。自分の身を削って、みんなを助けようとする。そこが似てるってことさ。

 ……だからこそ、目が離せないんだ。まあ、そういうところが好きでもあるんだがな」


 机の脚がかすかに鳴り、彼の重心が寄る。頬に遅れて熱がのぼり、喉奥で小さな息が跳ねた。


「あなたって、あけすけない物言いをするのね?」


「図星だろ? こうでも言ってやらないと分からないだろ、おまえは。――はい、だいぶほぐれたんじゃないか?」


 首を回すと、筋がひとつ外れる音。肩の重みが、一枚分軽くなった。


「ありがとう、ヴォルフ。少し楽になったわ。これで……もう少し頑張れそう」


「もう少しで終わるっていうなら手伝うが。

 ……ん? そうだ、コルデオが言ってたんだが、レオンとクリスに何か妙なものを持たせたらしいな? いったい何だ? 気になるんだが」


 紙束を持ち上げるふりで視線を外す。ランプの影が手首に絡み、喉がひとつ鳴る。


「ああ……別に大したものじゃないのよ。わたしからの指示書や任務に必要な資料。あと、ダビド班との接触日時と場所、符丁とかね。読んだら燃やすように書き添えたし。まぁ、ありきたり。普通よ普通」


「あのコルデオが言葉を濁してたんだからな。他にもあるだろ?」


 視線が机の木目へ逃げる。


「あとは……裁縫道具や救急セット一式。雪の中を進むのは大変だから厚手のマフラーや手袋、身体を冷やすとまずいから温かい下着……もちろん、高価に見えないように気を遣ったわ」


「ふうん」


「それと……」


 声が一段落ちる。こめかみの裏に熱が灯り、鼓動が一拍遅れる。紙の角を指の腹でそっと探った。


「じつは……その、“避妊具”を……入れておいたの。少しね」


 ランプの炎が短く揺れ、胸の内で鼓動が一拍ずれる。


 袖口がかすかに鳴る。


「はあ? あいつらがいくら仲が良いからって、行商のフリをするだけの、あくまで任務なんだぞ、そういう展開は……」


 視線が机の木目へ逃げる。


「だから、万が一の話よ。もし何かあって、できちゃったら困るじゃない。彼らは一人前の騎士になる、って夢を追いかけてる最中なのに、子供を育てる責任を背負うことになったら……後悔するかもしれない。

 騎士を続けるにしても、たとえば乳母を雇うにはお金が入り用でしょ? それに、わたしが騎士団に託児所を作るなんて言い出したら、財務のラズロー公に煩く言われそうだし……いろいろ考えると、何か対策をしてあげたくなって……」


 言い切ると、肩の高さが半寸だけ下がる。羊皮紙のなめらかさが頬の熱を少し攫っていった。


「きっと誰も責めたりしない。でも……わたしだったら、自分を責めてしまうと思うの」


――前世のわたしは、そういうふうに生きてきたから。


 欄外に〈保育:仮設〉と走り書きしそうになり、指先が一瞬ためらう。


「お前ってやつは、本当にとんでもない心配性だな。そこまで気を回さなくても、あいつらは激戦地を生き抜いたつわものだし、ちゃんとわきまえていると思うが……まあ、持たせる分にはいいか。別におまえに罪はないさ」


 言葉はやわらかく置かれ、胸郭の張りがほどける。油の甘さが少し遠のき、呼吸が胸の浅いところで静かにそろった。


「それだけじゃない。わたしには、罪悪感しかないの……」


「なんでだ?」


「……結局、二人を囮のようにして送り出したのと同じなんだから。だってそうでしょ? 敵の目を引き付けて、あわよくば影の手をおびき出そうだなんて、ひどすぎるじゃない。もし彼らが危険な目に遭って傷ついたり、死んでしまったらと思うと……」


 声に自分の影が混じる。喉の奥が乾き、水差しの位置を無意識に探していた。


「あのな、あんまり責任を背負いすぎるなって。そもそも作戦を立案したのは俺じゃないか」


「けど、王宮に呼びつけたのはわたしよ。そのせいで、彼らのプライドを傷つけてしまったし、その上今度は人が足らないからって、危険な任務に送り出してしまった。自分勝手もいいところじゃない」


「考えすぎだ。それが一人前騎士の務めというものだろ。それに、あいつらはそんなにヤワじゃないぞ?」


 指先の白みがゆっくり戻る。握っていた紙の角は、音もなく丸みを失っていた。


「どうしてそう言い切れるの?」


「レオンはな、面白い奴だ」


「面白い? なんの冗談よ? たしかに血気盛んな若者って印象は強いけど、何の意味があるの?」


「まあ、聞け。俺が面接した時の質問で、いろいろ絶望的な状況設定を示してみたんだ。『こんな時、お前ならどうする?』ってな。そしたら、あいつどう答えたと思う?」


「最後まで諦めずに戦う、とか? 違う?」


「外れだ。あいつは『何があっても生き延びる、たとえ泥を啜ってでも』って言いやがった」


 彼の口元に苦笑が灯り、奥に誇らしさがのぞく。胸の緊張は、薄い膜一枚分しなった。


「生き延びる……?」


「そうだ。普通の騎士なら『正々堂々受けて立つ。ここを死に場所に決める』なんて言いだしそうなところだが、あいつは『やばいと思ったら逃げる』とまで言った。俺はそこが気に入ったんだよ。絶対に無駄死にはしない、っていうのは重要なことだろ?」


「それって、あなたの口癖だったわね……」


「クリスはもっと特別だ」


「彼女が? 穏やかで、それでいて芯が強いって感じはしたけど……」


「あいつの気配を読む能力は凄まじくてな。面接のときに試しに目を閉じてもらって近づいたんだが、あっという間に察知されて、斬られそうになったのさ」


 息が喉でひっかかり、声が幼く跳ねる。


「うそっ!? あなたが?」


 驚きに合わせてペン先が紙をかすめ、インクの点が小さく滲む。指先は素早く砂を散らし、照れくささを隠した。


「そうさ、凄いだろ?」


 目尻に薄い笑い皺が寄り、声の温度が半歩やわらぐ。


「大丈夫とは言い切れないけれど……あなたが認めたんだから、信じていいのよね……」


「もちろんだ」


「ねぇ、あなたから見て、わたしはどうなの?」


 問うた瞬間、呼気が胸の浅いところで揺れた。喉の向こうで小さな炎が揺れる。


「まあ、おまえはどちらかというと、直情タイプで切れると周りが見えなくなるのが玉にキズだな。どう見たって危険だと分かっている場所に、我先に突っ込むような大馬鹿だ」


「馬鹿って……ひどすぎない?」


「だが、極限状態に追い込まれた時のお前は何よりも強い。何度も打ち合った俺だからこそわかる。あれは本能みたいなものかな? いつもは頭でっかなくせに、急に別人みたいになる」


「たしかに、思い出してみると、思考が吹き飛んで、身体が勝手に動いている感じだったかも。生き延びたい、勝ちたい、って……」


「今や俺がそこそこ本気にならないとやばい相手なんて、お前くらいなもんだ。もっとも? それは一対一ならばの話だが?」


「認めるわ。わたしって視野が狭いから、気配を感じるのも苦手だし、死角を狙われたらどうしようもない。それで拐われちゃったこともあったからね」


「そこは俺がカバーすればいい。あいつらがどうするかは分からないが、似たような状況に置かれれば、自然と支え合うだろう。聞いた限り、そうやって戦い抜いてきたらしいからな。それに、この任務で芽生えるものがあれば、それもまたいいんじゃないか?」


 彼の声は、夜更けの部屋の温度に合った。わたしは小さく頷き、胸の高鳴りを指先でならす。


「そうかもね……レオンとクリスの旅に、何か素敵なものが芽生えるなら、見届けたい気もするわ。お節介かもしれないけれど、わたしも心のどこかで“あの子たち”を応援してるの」


「あの子たち、か……まるで母親みたいな口ぶりだな」


 ぽん、と落ちた手が髪を一拍揺らし、地肌にぬるい余韻が残る。瞳は自然と細くなる。


「しかし、お前は本当に面倒なやつだな。気苦労が多すぎて、いつか倒れるんじゃないかと心配になる。少しは自分をいたわってくれ。……俺でよければ、遠慮なく甘えていいんだぞ」


「ううん。そういうのは、必要になったらでいいわ」


「素直が一番だぞ」


 舌先が乾く。返事の前に息が細る。


「それって、わたしには一番縁遠い言葉かも」


「メービス……」


「思うんだけど……素直になりたいのに、冷ややかなわたしが袖を引くの。踏み出す足と引く手が、胸でからまる――簡単じゃないのよ……意外と。

 ま、今夜は揉んでくれて助かったわ。あとほんの少しだけ仕事を片付けて、休むことにする」


 胸の結び目は解けきらず、理屈に小さく笑う。椅子がやわらかく鳴り、紙の山はわずかに沈んだ。肩の軽さが胸へ伝わる。


「無茶だけはするなよ、メービス。俺も支えるから」


「……ええ、頼りにしてるわ」


 言葉の尾がかすれ、胸骨の裏で響きが丸く転がる。掌には静かな温かさが戻っていた。


◇◇◇


 扉が静かに閉まり、足音が遠のく。羽ペンを取り、未決から発送待ちへ束を送り、署名、砂、封、蝋、刻印――五つの段取りを寸分違えずなぞる。インクの匂いは低く、灯は背を丸める。


 蝋が落ちる。“お飾り”という呼び名は、押せば形になる刻印に似ている。

 刻む。黒髪が露見すれば退け、という手順書。

 砂を払う。後継を急げ、わたしは端へ。


 あの頃の旅支度も、夜通しの準備だった。ただ、役目の名前が変わっただけ。世間は夫婦と言うけれど、わたしたちはまだ“手を取らない”距離。肉体の年齢が近づいても、心の歩幅は慎重なまま。


 前世の美鶴は二十一、転生してミツルは十二、今のメービスは十八。彼は四十四の壮年から二十代の肉体へ。数字は寄っても、整理のつかない想いは残っている。


――でも……やっぱり何かしてあげたかったんだ。彼らがこの先後悔してほしくないもの。それにしても――まるで母親みたいね、わたし。


 シャッ、シャッ――ペンの音が揺れを均す。窓の外は闇が深く、灯はますます低い。


 報告書の間には、レオンとクリスの行路、宰相側の動き。目を走らせるたび、胸の内側に小さな痛みが点る。


 ――レオン、クリス。どうか無事で。わたしの余計な支度は、笑って捨ててくれて構わない。


 自嘲を息に混ぜ、次の束へ手を伸ばす。視界が霞み、時計を見ると夜明けが近い。限界の合図。三通に王印を押し、行き先印《北門・離宮・参内局》を順に置く。紙の角が爪に固く当たった。


「ヴォルフは……ああ、そういえば隣の控室で寝てるんだわ。よかった、また心配させて肩を揉ませることになったら大変」


 書類を端へ揃え、深く息をつく。朝の会議まで、わずかでも眠ろう。廊下には薄い朝の匂いが混ざり始めている。


 寝室へ戻ると、身体は少しふらつき、頭だけが騒がしい。衣を解き、ベッドの冷たい布へ身を沈める。布の冷えが膝裏を奪い、吐く息だけが重く残る。瞳を閉じる。


『無茶はするなよ、メービス。俺も支えるから』


 その声が、切なくもやさしい。いつか本当に恋へ辿り着けるのだろうか――と考えた瞬間、胸の奥が微かに疼いた。


「……ごめんなさい、ヴォルフ。わたし、まだ踏み出す勇気がないの」


 静かな呟きのあと、まどろみが降りてくる。重い身体と、少し温かい心のまま、闇へ沈んだ。

 本話では、王宮での深夜の執務と、女王である前に「一人の女性」であるメービスの、静かな罪悪感や責任感を丁寧に描いてみました。


 その中でひとつ、やや異質に見える小道具――「避妊具」について、補足しておきます。


 本作の世界観は、中世〜近世程度の文明レベルを基盤にしていますが、いわゆるゴムや薬剤ではなく、羊腸やオイル加工された避妊具(歴史的には15世紀のヨーロッパでも記録あり)を想定しており、広くは使われていないものです。


 ただ、今回この話題を取り上げたのは、物語上の“設定”というよりも、「夢や職責を追う者にとって、妊娠・育児が何を意味するか」という、現代にも通じる問題を描きたかったからです。


 女性だけが責任を負わされる状況。

 夢を諦めざるを得なくなる不安。

 託児所を求めたら「財政負担」として跳ね除けられる理不尽。


 そうしたものを、ファンタジーの中に仄かに滲ませることで、「わたしだったら、自分を責めてしまうと思うの」というメービスの心の癖――つまり“自己罰的なやさしさ”の根にあるものを、読者に感じ取っていただけたらと思います。


 それは、前世で失敗と後悔を重ねてきた彼女だからこそ生まれる優しさであり、同時に、「女王」という鎧の下で、いまだ葛藤を抱え続ける女性の姿でもあります。


 そして何より、メービス――柚羽美鶴という少女は、換算すれば二十一歳の魂を持ちながら、異性との恋愛を一度も経験したことのない、少し不器用で、まだ恋を知らない子でもあります。だからこそ、ヴォルフとの距離の取り方、踏み出せない背中、そのすべてが“真剣”で“ぎこちなくて、いとしい”のです。


 恋というものが、強さではなく、勇気のゆらぎから始まるのだとしたら――彼女は今、その入り口に、そっと手を伸ばしたところなのかもしれません。


 この回で描いたメービスの姿は、じつは「誰かのためにがんばりすぎてしまう子」にこそ届いてほしいと願って書きました。


「わたしって、気を遣いすぎ?」

「誰かを助けたい。でもそれって、お節介?」

「好きってなに? 言えたら楽なのに……」


 といった“自他の境界が揺らぐ”時期。本作のメービスは、まさにその揺らぎの化身です。

大人のようにふるまっても、恋に関してはまったくの初心。責任を背負いすぎていることにすら、気づかない。


「わたしには素直って言葉がいちばん縁遠い」


 10代の頃って、自分の本当の気持ちを言うのが恥ずかしかったり、優しくしたいのに、うまく伝えられなかったりすることがあると思うんです。メービスも、「好き」を言葉にできずに、でも一生懸命なまま揺れています。

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