雪の朝、肩寄せ合う――レオンとクリスの偽装任務
雪深い小さな街の宿屋は、夜明け前から、薄い乳白の光にゆっくり包まれ始めていた。硝子の面に朝の白が差し、室内の静寂は、凍った湖がほんの少し解け出すみたいに、端からほどけていく。
外にはまだ冷え切った空気が通りを覆い、夜風の名残がときどき硝子窓をうすく鳴らす。寒気は遠いのに、部屋の芯には、布団と体温が育てた微かな温もりがじわりと滲んでいた。
ここは王都から少し離れた山間の小さな街。石畳は雪に埋もれ、ところどころ、氷の皮膜が朝の光を鈍く弾く。
冬季は旅人も減りがちだというのに、この部屋だけは若い男女がひとつの寝台を分けていた。
レオンとクリスは、同じ寝台の両端に体を預けて眠っていた。
目が覚めると、まず互いの存在を認めて、ぎこちなく身を起こす。掛布の擦れる音が、遠慮がちな呼吸の間に混じった。
いつもの仲間として過ごしていた頃とは違う気配――視線が微妙に交わりきらない、そんな朝のぎこちなさ。クリスは静かにまぶたを開き、背中越しに感じるもうひとつの呼吸のリズムを自覚する。
野営の雑魚寝とは違う、二人きりの同衾。枕の匂いと綿の温度が、かえって自分の体温を意識させる。
胸の奥がそわりと落ち着かず、眠りの浅い意識に小さな波紋が広がった。
――わたし、どうしてこんなにドキドキしてるんだろう? だってレオンなんだよ……。
鼓動が布団越しに重なる気がして、胸骨の内側がくすぐったく鳴る。指先は温もりを逃がすまいと掛布をつまみ、ほどけた前髪が頬へそっと触れた。
自問を胸の底に沈め、冷たい朝気をひとつ吸う。羽毛布団のぬくもりが皮膚に残り、頬の内側へゆっくり熱が上がる。
喉の奥で小さく鳴った音を飲み込み、彼は声を整える。
「……おはよう、クリス。寝冷えしてないか? 眠れた?」
布団をたたむレオンの声は、夜の残響を連れて穏やかに落ちる。彼自身も視線の置き場を何度か探し、この距離にまだ慣れきれていない気配をこぼした。
レオンが手際よく掛布を折り、クリスはローブの前をきゅっと合わせる。言葉の端に、まだ眠気の余韻がひと筋残る。
レオンは自分の鼓動がわずかに速いのを意識し、「照れてどうする?」と内心で苦笑する。任務のため、と理屈で包もうとしても、女の子と同じ寝台――意識しないほうが無理だ。仲間の輪の中では生まれなかった甘さと不安が、狭い朝の空気に溶けている。
「大丈夫よ。この布団思っていたより暖かいし、雪の音が子守唄みたいだった。レオンのほうこそ、眠れた?」
吐息が耳殻にかすりそうで、思わず肩がすくむ。微かな寝癖に薄明かりが触れて、彼の横顔がほんの少しやわらぐ。
ローブを胸側へ引き寄せる仕草に、布の擦れる音が小さく鳴り、頬へ薄紅がさす。声の高さがほんのわずか上ずった。
レオンの頬にも薄い色が差し、そのまま布団を手早く片づける指先が忙しく動く。
「昨日色々動き回ったから、ぐっすりだったよ。ただ……やっぱり同じベッドで寝るってのは、まだ慣れそうにないな」
布団の端と端が擦れ、指先同士が一瞬だけ触れ合う。反射で離す仕草が、かえって意識を濃くした。
素直な吐露に、クリスは「わたしもだよ」と頷いて視線を落とす。大勢での野営なら平気でも、“夫婦部屋”で迎える朝は、気恥ずかしさの層が違う。
部屋の空気には、微妙な緊張と、一歩先への戸惑いが混ざっている。ローブの紐を結び直しながら、クリスは胸の奥で「もう少し近づいても――」という衝動を照れで押さえ込み、深く息をついた。
若い二人が「新婚夫婦」として旅を続ける以上、宿でも夫婦部屋を取るのが自然。
騎士としての常識を一段越える“ごっこ”は、ざわつく心を連れてくるが、任務達成のためには必要な偽装であり、女王メービスの期待に応える道でもある。
王宮を出る朝、女王メービスは「あなたたちにしか頼めない任務がある」と言って、変装の衣装や商材まで用意してくれた。
その瞳は真剣で、どこか申し訳なさも滲んでいた。騎士団を大きく動かせない事情、伯爵の失踪、宰相の画策――困難のあいだで、初々しい二人が「新婚夫婦」に適うと判断されたのだ。
心配性の陛下の細かな気遣いを思い出すと、胸に暖かい針が一本、そっと刺さるようだった。
「さて、行こうか。宿の主人が朝食を用意してくれてるって言ってたよ。うかうかしてると、また雪が積もって出発が遅れそうだし」
レオンは寝台の脇でぐっと伸び、肩のこわばりをほどく。クリスも立ち上がり、足裏で床板の冷たさを確かめる。
襟元を互いに指で整え合う。触れた指先の軌跡だけ、さっきより少し温かい。
「うん。まずは朝食で温もろう。それで……今日の行動、どうする?」
帯を整えながらの問いに、レオンは真面目な面持ちで頷く。
「まずは、午前中に市場をうろついてもう少し情報を集めたい。もしそれで何も出てこなければ、出発して次の宿場町へ向かおう。……北へ向かうほど危険なのはわかってるけど、進むしかない」
守らねばならないものがある――その言葉を心中で噛み、吹雪の予感や、宰相の私兵という影の想像が背筋へ細い冷えを走らせる。
「わかった。わたしもどんどん動くよ。ただ、あくまで行商夫婦なんだから、聞き込みしてると思われないように、気をつけないとね」
結んだ拳の中で、掌の熱が小さく脈打つ。若さと未熟さを自覚しているからこそ、二人で補い合わなければ――クリスはそう言い聞かせた。
「そうだな。じゃあ、まずは腹ごしらえだ」
「うん」
小さな微笑みを交換し、きしむ木の階段へ足を向ける。手すりに添えた彼の手の甲に、そっと自分の指先が重なって、すぐ離れる。
触れた場所だけ、朝より温かい。板の鳴るたび、“夫婦”としての一日が幕を開けた。
◇◇◇
階段を下りると、炭火の香りがふわりと漂う。囲炉裏端で主人が湯気の立つスープをかき回している。卓には黒パンと素朴なおかず。朝の慌ただしさをやわらげる温かさが、低い天井にたまっていた。
外の風は刃のようでも、ここには背を押す柔らかさがある。早起きの行商人や旅人が「寒いね」と声を掛け合い、湯気に顔をほころばせていた。
席に着き、湯気の椀を手に取る。薄く立つ香りが鼻腔を温め、指先のこわばりがほどけていく。
「さっき窓を見たら、夜の間にずいぶん積もったみたいだな」
言葉と一緒に吐息がほどける。レオンはパンをちぎり、湯気の白と外の白を重ねるように、視線を一度だけ窓へ流した。
――いや、違う。彼が見ているのは、銀翼騎士団本隊だ。今ごろ王都を発ち、深い雪を胸で割りながら、北へ北へと行軍しているに違いない。
革の匂い、蹄の鈍い衝突音、短く合図する号笛の低さまで、耳の奥が勝手に思い出す。
――みんな頑張ってる。俺も俺の役目を果たす。
一瞬、クリスと視線が交わる。椀の湯気がふたりの間で薄く揺れ、同じ熱が胸に灯っているのが、言葉より先に分かった。
主人が「今日は寒いから、スープをたっぷり飲むといいよ」と声をかけ、二人は素直に甘える。
「いただきます。……ああ、温まる」
煮込まれた根菜とスパイスの香りが喉を滑り、冷えの芯がほどけていく。何気ない食事が、今は貴重な避難所だ。
膝が卓の下でかすり、布越しの体温が一瞬だけ移る。逃げ場を探しては行き止まり、またそっと寄り戻る。その往復に合わせて、頬の内側へ細い熱が差し込む。椀の湯気が浅く揺れ、喉の奥で息がひと拍だけ滞る。
つま先が触れては退き、また寄る。引けば追い、追えば逃げる――木天板の影で交わされる小さな駆け引き。椅子がごく微かに鳴り、指先のような温度が、足先から心臓へと遅れて届く。
顔を寄せ、小声で打ち合わせる。その距離は初々しい夫婦の演出にも見え、同時にクリスの胸の鼓動をひと拍早めた。体温と息遣いが近く、しかし乱してはならない。
「いまのところ、北方の危険な噂が聞けただけ。肝心の伯爵の足取りには繋がってないね」
眉がわずかに下がる。確証へ届かない手触りに、焦りの棘が小さく刺さる。
レオンは肩をすくめる。
「まあ、こればかりは仕方ないさ。俺たちは大っぴらに捜査できる立場じゃないし、宰相だってわざわざ足取りをバラすような真似はしないだろう。……ただ、北へ向かえば何か掴めるかもな」
「そうだね。でも、わたしたちだけじゃ危険だと思うけど……」
「そこは慎重にやるしかない。こっちのルートはダビドの兄貴に把握してもらってるし、俺たちは予定通りに進めばいい。下手に無理して失敗すれば、陛下の苦労が水の泡になる。何しろ俺たち、一応行商夫婦なわけだし、慎重に、自然にいこう」
「うん……わかった。自然に、ね」
隣の卓からは「こんな時期に夫婦で旅とはねえ」と半ば呆れ、半ば微笑ましい視線。――ちゃんと夫婦に見えている。そう思えただけで、胸の糸が少し緩んだ。
「よし、朝食が済んだら、街をもう少し回ろう」
「わかった。……今日も夫婦一緒に、元気にがんばろう」
口にしてみると、耳が熱を持つ。レオンは照れ笑いを浮かべた。
「宿の主人のご厚意もあるし、出る前に馬車の点検もしっかりしておかないと。ここから先の雪道は侮れない」
食事を終え、腰を上げると主人が「気をつけてね、行商さん」と声をかける。礼を述べて扉を開けば、冬の冷気が一気に流れ込み、肺の奥まで澄んだ刃が届いた。
彼の襟元を指で整えると、白い息が重なって薄く揺れ、目が合った瞬間、ふたりとも視線を落とした。
石畳はしっかりと白く覆われている。
「馬車は……ああ、ちゃんと屋根の下に置いてくれてたんだな。助かる」
厩舎脇の屋根下で雪を免れた馬車に、安堵の息。クリスは革鞄の口を開け、売り物と騎士装備の配置を指で確かめる。万一のとき、迷わず取り出せるように。
「じゃあ、行こうか。今日も雪との闘いだけど、頼むわね、旦那さん」
手綱を渡す一瞬、手袋越しの温度が伝わる。厚手の革の下でも、脈はちゃんと届くのだと知る。
馬の額へ手を置けば、温い息が指先をくすぐる。レオンは少し照れながら、しっかり手綱を握った。
鬣の向こうで視線が合う。雪明かりに揺れた瞳が、一瞬だけ同じ温度になった。
◇◇◇
街の中心部は雪で滑りやすくなっていたが、午前のうちはまだ人の気配があった。屋台を出す商人、日用品を買いに出た住民。吐く息が白く交じり合い、すれ違いざまに「寒いねえ」と声がこぼれる。
淡い日差しが石畳に落ちてはいるが、厚い雲がすぐに覆い隠す。明暗が交互に揺れ、光はいつも途中で途切れる。人々は毛皮のコートやマフラーをまとい、手袋も分厚い。むき出しの指はほとんど見えない。
道端に馬車を寄せ、挨拶を交わしつつ、視線の先で人の気配を探る。
「こんな寒い時期に行商とは珍しい。しかも新婚ときた。いやぁ、初々しくていいねぇ」
年配の男性がにこやかに声をかける。レオンは帽子の庇を押さえ、「いやあ、俺たち商売っていってもまだ勉強中でして」と笑いで受ける。
隣の女性が「ハーブならあっちの店が安いよ。見てきなよ」と親切に指さす。
「ありがとうございます。……わたしたちも染物とか革小物とか売ってるんですけど、よかったら見ていただけませんか?」
営業の言葉を選ぶ舌先の緊張を、微笑の曲線で包む。剣の稽古で鍛えた筋肉とは別の筋肉が、今日も新しく疲れていく。
昨日も立ち寄ったハーブの屋台。乾いた香りが風に乗って鼻腔をくすぐる。
「おや、また来てくれたのかい。夫婦で行商って言ってたね。売れ行きはどう?」
「そうですね、雪が多いとみんな家にこもっちゃうみたいで……」
レオンは香りを確かめるように小さく鼻を鳴らし、「そちらのハーブは香り高いですね。これ、王都では高値で売れそうだけど……」。
女主人は満足げに頷く。
「そうだろうとも。雪国のハーブは香りが濃くなるって言われてるんだ。だけど、今年はさすがに雪が多すぎだろ? 流通が途絶えがちだから、なかなか外へは出回らないんだよ」
「なるほど。お客さんも少なそうですし、大変でしょうね。……あの、最近なにか物騒な話とか面白い噂とかありませんか? わたしたち、旅の予定を決めかねてて」
女主人は肩をすくめ、思い出すように顔を上げた。
「物騒というか、宰相様の紋章をつけた兵隊さんたちが大勢北へ行ったって話はちらほら。何しに行ったのかまでは知らないけど。……他には、妙に高価そうな毛皮を買い占めている商人がいたとか、その程度の話かな」
宰相の印が北へ――背中に薄い寒気が走る。影の手が先回りしている光景が、想像の中で形を持つ。
「……そうなんですか。ありがとうございます、助かりました。もしよかったら、うちの革小物も見ていってくださいね」
「夫婦二人でやってるんで、どうかご贔屓に」
「雪に負けないようにね」と女主人に励まされ、二人は馬車へ戻る。伯爵の直結情報はなく、宰相の動きが北へ寄っている事実だけが、またひとつ重なった。
「やっぱり同じだな。でも、これが本当なら宰相は何か企んでる可能性が高い。目的地はたぶん男爵領だろう」
「でも、男爵家はもう伯爵の私兵が固めてるんでしょ? なんでいまさら……」
「まさか増援を送ったとか? こちらの本隊の動きを悟られたとしたらやばいな」
「資料にあった陛下の推測だと、伯爵の失踪の裏には宰相の思惑があるみたい。王都に来られると都合が悪いとかなんとか。いつでもトカゲの尻尾みたいに捨てる気だったとか」
「なんで都合が悪いんだって話だ。宰相と伯爵は裏で結託してたんだろ? なんでここにきて裏切る必要があるんだ?」
「それはわからないけど。ただ、陛下が伯爵と謁見するって噂はわたしたちの耳にも入ってたでしょ? それも呼びつけるってわけじゃなく、歓迎するって話だったし。それって貴族にとって名誉なことだし、ふつうは喜んで行くよね」
「ようするに、宰相は伯爵に手柄を立てられるのが癪に障ったから邪魔をした、とか?」
「さすがにそれは子供じみてない? たとえば伯爵が宰相の弱みを握っていて、陛下に訴えたりしたら? それを怖れて拉致したか、殺したか……」
「つまり、リシュアン殿の擁立の功績を巡って綱引きしてるみたいな?」
「まあ、陛下のくれた資料とさっきの噂話を合わせての、わたしなりの推理よ。ほんとのところはさっぱり。きっと、ダビド班が動向を掴んでるはずだし、陛下にも報告が入ってるはず。けど……」
「けど?」
「決定的な証拠にならないから、どうしようもないってこと。いくら陛下でも推測だけで宰相を糾弾するわけにはいかないでしょ? だから、王宮で大人しくみせてないといけない」
「けどさ、伯爵がもう殺されてたらどうするんだ?」
「……陛下は伯爵がまだ生きているって信じているんだと思う。じゃなかったら、わたしたちにこんな任務を命じたりしない。とにかく、宰相に決め打ちされる前に、なんとしても伯爵の行方を突き止めないと」
「ってことは、俺たちの責任は重大だな。よし、疑われない範囲で、もう少し聞き込んでみよう。ただ、行商夫婦がいつまでもしつこく聞き回ってたら怪しまれるから、昼までな」
「そうね。あくまで行商の夫婦でないとね」
熱を帯びた声を、馬車の陰で低くやり取りする。騎士の言葉遣いを素のまま零さないよう、互いに呼吸を合図にして、雪の通りへふたたび溶け込んだ。




