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雪の行商夫婦 ~騎士が紡ぐもうひとつの誓い~

このレオン・クリス編は書いていて楽しい展開です。

 冷たい風が肌を刺し、冬空には灰色の雲が重く垂れ込めていた。その下を、馬車が一台、ゆっくりと雪道を進んでいる。

 馬の足取りに合わせて車輪がぎしりと音を立て、泥と半ば凍った雪がぬかるみを作り、車体は小刻みに震えた。革の匂いと湿った毛皮の冷えが、鼻腔と指先に薄く残る。


 その馬車には地味な雑貨や染物の端切れ、干し肉や調味料などの“それらしく見える商品”が積まれ、見たところ平凡な行商人の荷物にしか見えない。

 けれど、底には布でくるまれた騎士装備が眠り、そのさらに下には女王メービスから託された書状や、万が一のための不思議な品々がひそんでいる。


 それは、若い騎士レオンとクリスが、“新婚夫婦”として偽装任務を帯びている証でもあった。


「風が刺すように冷たい。手袋をしていても、指先が痛いぐらい……」


 白い息がふわりとほどけ、フードの端を押さえたクリスの睫に淡い雪片がとまる。マフラーの端をレオンがそっと直す。結び目の近くで指先が触れかけ、ふたりとも息をひと拍だけのみ込んだ。


 舗装されていない道は雪に覆われ、轍の溝に氷と泥がこびりついて、馬車の進みを鈍らせる。そろそろ馬の足元を確認しなければと、レオンは前方へ目を細め、手綱を軽く引き直した。


「うん。ずいぶん長い距離を進んできたよな……」


 吐息に白が混じり、言葉の最後だけが凍みに呑まれる。彼はちらと隣を見やり、彼女の頬に降りた雪を指先で払ってやる。クリスは瞬間、肩を小さく震わせて目を伏せた。


 幾つもの小集落を抜けるうち、二人は少しずつ「行商人夫婦」としての手つきを覚えていった。

 商品の並べ方、値段の付け方、雑談の入り口。どれも騎士の訓練とは別の筋肉で、最初は戸惑いがつきまとったが、誠実に応じれば笑顔は返ってくると知る。


「……こうして実際に売り歩いてみると、どこも雪が深くてさ。人通りも少ないし、あんまりお客さんがいない……」


 車輪がきしむたび、腰に冷えが差しこむ。空は低く、小雪が舞い落ちては肩に溶けた。


「そうだね。冬場は外に出ない人も多いし、行商には辛い時期かもしれない。それでも頑張るしかないんだけど……。大丈夫? 手綱、凍えそうになってない?」


 クリスの声は柔らかい温度を含み、レオンは手袋越しに指を握り開きしてみせる。すると、彼女はそっと自分の両手でその手を包んだ。冷たい革越しでも、脈の鼓動が確かに伝わる。


「まあ、何とか。手袋があるだけましかな。でも、気を抜くと手先が凍えそうだ」


 互いに目を合わせてすぐ、照れたように視線が逸れた。“夫婦”という設定の薄い膜が、ふだんの呼吸をかすかに乱す。


「もう少し先に行けば、そこそこ大きい街があるって聞いた。そこなら宿も商店もあるだろうから、噂話が聞けるかもしれない」


 噛んだ唇に冷気がしみて、レオンは一瞬だけ肩をすくめる。その横顔を見つめるクリスの指先が、マントの裾をそっとつまんだ。


「うん。あまりゆっくりしてはいられないね。よし、がんばろう」


 促す声に応えて、馬が小さく鼻を鳴らした。歩みがわずかに上がり、雪の粒が車体の下でさざめく。正午前、白い吐息を抱えたまま、小さな街の輪郭が見えてきた。


◇◇◇


 雪がちらちらと舞う小さな門をくぐる。門番の姿はなく、風化した石柱だけが入り口を示す。冬の間は人影も薄いのだろう、窓は固く閉ざされ、通りの足音は途切れがちだ。


 レオンは馬を止め、車輪にへばりついた泥氷を軽く蹴り落とす。唇がわずかに震えるのを、顎を引いて堪えた。クリスはそんな彼にマフラーを直してやり、軽く笑う。


「……とにかく、今日はこの町に泊まるとして、日が暮れるまでにいろいろ探ってみよう。あまり先まで行って、夜道を進むのは危険だし、ほどほどにな」


 雪を払った手に温度が戻る気がして、クリスはこくりと頷く。


「うん、そうだね。まずは宿屋を探そう。街の中心に行けば、人が集まってそうだし、そこで聞けばわかるでしょ」


 頬を軽く叩いて気合を入れると、冷えた皮膚に血が差した。レオンはその頬の赤みをちらと見て、思わず目を逸らした。


 木造の軒と石造りの壁が交互に続く。薄雪が隙間なく広がる通りを、毛皮帽の人々が足早に横切っていく。


 二人は手頃な相手として、荷物を抱えた金髪の少年に声をかける。


 白い息がほどけ、声が一拍だけ遅れて空気に乗った。


「すみませーん」


「何か用? 見かけてない人だけど」


 少年の笑顔は陽だまりのようで、袖口には泥と雪がちらつく。レオンは慣れない笑みを作り、問いを重ねた。


「あの、この街に泊まれる宿って、どこにあるか知らないかな?」


「宿なら、広場を左に曲がったところに看板があるよ。『かじかみ亭』っていうんだけど。そこなら歓迎してくれると思うよ」


「ありがとう。助かったな、奥さん」


 “奥さん”の一語に、胸の奥がこそばゆく跳ねる。レオンは横目でクリスを見やった。視線がかすめただけで、耳殻の内側まで熱が走る。唇の形だけで、こっそり笑い合った。


「これ、お礼だよ。よかったら使って」


 小さな革細工が少年の手に渡る。弾む声が雪空へ抜けた。


「わたしたち、行商をしているの。宣伝とは言わないけど、よかったら友達にも見せてくれると嬉しいな」


「わかった! ありがとう、お姉さん! お兄さんも、商売頑張ってね!」


 駆け去る足音が遠のくにつれ、肩の力が少し抜ける。こうしたやり取りが、旅の疲れをやわらげるのだと二人は知った。


「こういうのって、なんだか嬉しいよね」


「おう、今のはいい感じだった。俺も負けてられない。あとは夫婦らしく――いや、まぁ、自然に馴染んでいければいいか」


「そう、自然にね。変に肩に力入れないこと。剣と一緒だよ」


 息に笑いが混じり、胸のあたりがほんのり温かい。雪の匂いと人の気配が混ざる広場へ、馬車は音を立てて入っていった。


◇◇◇


 広場はこぢんまりとして、中央に古い井戸、端に看板を掲げた店が数軒。白い吐息が点々と立ちのぼり、石畳の隙間に薄い泥水が光る。

 手を差し出して彼女を支えると、クリスの手袋越しの温もりがじんと残った。


「ここが、さっき言われた宿なのかな? 『かじかみ亭』……看板が雪で半分隠れちゃってる」


 指さす先、木の板に手書きの屋号。薄い煙が煙突から上がり、囲炉裏の温かさを想像させる。レオンは彼女の横顔を見て微笑む。


「一応やってるみたいだね。……とりあえず行ってみようか。馬車はこの道沿いの隅に停めていいのかな……」


「うん、宿の主人に聞いてみよう。荷物も多いし、長居できるかわからないけど、とにかく一晩くらい休みたい」


 道の隅へ注意深く寄せ、最低限の荷を抱えて扉を押す。炭の香りが鼻をくすぐり、頬のこわばりがほどけた。

 囲炉裏端の長椅子に腰を下ろすと、布の裾が触れて離れる。膝がそっと重なり、すぐに退いて、また寄った。


 囲炉裏端で客が数名、炭火を囲んで談笑している。中年の主人が顔を上げ、目を細めた。


「泊まりかい? 見たところ……ご夫婦みたいだね」


 囲炉裏がぱち、と弾け、返事の足場ができる。


 返事の端がたどたどしくなるのを、レオンは肩をすくめてごまかす。


「そうなんです。行商の旅をしてまして、夫婦で」


 クリスの控えめな笑みに、主人は「寒い中、珍しいねえ」と懐かしげに頷いた。二人は互いに目を合わせ、息を整える。


「部屋は……丁度一部屋空いてるよ。馬車は店先の空き地に停めてくれれば大丈夫。夜になる前に荷物を納屋に移すといいよ。門を閉めたら開けるのが面倒だしね」


 客が自然に席を詰め、荷物はすぐ屋内へ。囲炉裏の赤が指先に沁み、喉の奥の冷えがほどける。


「よし、馬を繋いでくるから、クリス、先に宿の人に詳細を聞いておいてくれ。料金とか食事のこととかも」


「わかった。わたしも後でそっちに合流するね……“あなた”」


 最後の一語に、鼓膜裏がくすぐったく鳴る。周囲の「新婚さんか」の視線に、頬の内側がじんわり熱くなった。


 手続きと段取りが整い、二階の小部屋を案内される。主人は「夫婦ならちょうどいい」と笑って、鍵を渡した。


◇◇◇


 まずは囲炉裏端で体を温める。手をかざせば、失われていた感覚が指の腹から戻ってきた。


「助かる……」


 レオンの息がほどけ、クリスも微笑で応じる。


 隣の旅人風の男が話しかけてきた。人懐っこい目つきに、過度の警戒は要らなそうだ。


「行商始めてまだ間もなくて、さっきまで小さな村を回っていたんですが、冬はどこも閑散としていて……売り上げは正直、寂しいです」


 レオンの苦笑に、男は「だろうなあ」と肩をすくめた。クリスは明るさで冷えを追い払いながら言葉を添える。


「まあ、わたしたちは夫婦なので、二人で乗り越えようと思ってます」


「初々しくていいねえ」


 湯気の向こうで褒められて、笑みが互いに零れる。


「うちのシチューは、ちょっとした名物だよ。夕方になったら出すからね」


 主人の声に、ふたりは顔を見合わせた。


「やった。おいしいご飯、楽しみだね――ね、あなた?」


「ああ、楽しみだ。朝から走り回ったし、しっかり食べて、今夜はゆっくり休もう」


 言葉の裏に、小さな緊張の芯だけが残る。安堵と任務は同居する。


◇◇◇


 荷を部屋に置いて落ち着く頃、雪は小降りになっていた。二人は「周囲を回って噂を聞こう」と相談し、通りへ出る。

 足跡はまばら、店じまいの気配がせわしなく過ぎる。灯りの乏しい路地は、黄昏の底に沈んでいった。


「暗くなる前に戻ったほうがいい、ってさっき宿の人が言ってたけど……少しでも手がかりになる情報を集めたいね」


「そうだな。慌てずに、さりげなく世間話の中でそれとなく探ろう。男爵領や伯爵関係の話題とか……」


 小さな雑貨屋では、冬の嘆きが先に立ち、成果は薄い。二軒目、薄灯りの喫茶の扉を押すと、ハーブの香りが温かい蒸気になって喉を撫でた。


 初老の女性は、少し掠れた声で二人を座へ誘う。


「いらっしゃい。焚き火があるから暖まっていきな。お茶くらいしか出せないけど……」


 差し出された素朴なカップの縁が、指に心地よい熱を伝える。


「ここの人たちは夜になると家にこもるんですか? あまり人が歩いてないようですが……」


 問いに、女性は頷いた。


「今年の冬は特別寒いからねぇ。大戦のせいか知らないけどさ、さすがに異常だよ。それに、あんまり夜中まで出歩くと変な連中に絡まれることもあるしね」


 具体的な噂は持っていないようだが、治安が悪いという空気は感じているらしい。カウンターの奥で風鈴が、ごく弱い風にかすかに触れて鳴った。


「そうですか。……俺たち、新婚で行商旅の途中なんです。北のほうを目指してるけど、そこも危ないって噂があるみたいで」


 カップを置く音が小さく響く。クリスは両手で器を包み、指の節に戻る血の温みを確かめた。


「北方かい? 傭兵崩れの連中が暴れてるって聞いたことはあるね。街道沿いで通行人を襲うとか、“荷物を片っ端から改められる”とか……まあ、本当かどうか分からないけど。王都に文句言っても、対応してくれないらしいよ」


 女性は肩をすくめ、「あんたたち夫婦なら、気をつけるに越したことはない。まだ若いでしょ?」と言う。言いながら、火床に薪を一本足した。樹脂の甘い匂いがふっと強まる。


 クリスは「そうですね、そうします」と小さく笑い、レオンと一緒にお茶を飲む。甘いハーブの香りが喉を潤し、胸の奥に温かな膜が一枚張られる。


 やがて日が沈み始め、店内の明かりだけが心細く浮かび上がる。

 二人は礼を言って店を出たが、外はさらに気温が下がり、建物の屋根から垂れる水滴が凍りかけている。

 粉雪が絶え間なく肩を白く染め、路地は暗さを増していた。吐く息がすぐ形を失い、足音だけが規則正しく残る。


「北方は物騒……か。やっぱり、同じ話だね。これ、伯爵の失踪とも関連あるかもしれない」


 レオンは歩みを緩め、周囲の影を一度だけ確認する。革の匂いに、遠くの煙の気配が薄く混じる。


「そう思う。早く先行してるダビド班と合流して、探りを入れたい。でも、今日は無理しちゃだめだ。暗い雪道は危険だし、陛下にも無理はするな、って言われてるんだから」


 クリスは外套の前を合わせ、顎先をうつむける。耳殻に触れた冷気が、言葉の熱をさっと盗んでいく。


「焦って失敗したら、せっかく任務を与えてくれた陛下に、申し訳が立たないもんね」


 レオンが提案し、クリスもうなずく。視線を交わす短い間が、方針の一致を確かめる合図になった。二人は急ぎ足で宿へ戻った。


 宿の主人が「おかえり。あったかい夕飯を用意したよ」と迎えてくれ、囲炉裏端にはすでにシチューの鍋がぐつぐつ煮えている。パンの焼ける香りが鼻をくすぐり、レオンもクリスも思わず気持ちがほぐれる。外套に積もった粉雪が、炉の熱で音もなく溶け落ちた。


「寒かっただろう? あとで交代で風呂に入っておいで。小さいけど、身体は温まるさ」


「助かります……!」


 二人はほっと息をつき、椅子に腰を下ろして湯気の立つシチューをいただく。

 匙が器に触れるたび、柔らかな音が続く。人の温かさを感じられるだけで、こんなにも体が解ける気がするのが、不思議だった。指先の強張りがひとつずつ外れ、胸の拍が静かに深まっていく。


◇◇◇


 食事を終え、交代で風呂を済ませると、夜はもう深かった。二人は細い階段をきしませ、廊下の冷えに肩をすくめながら、宿の二階の小部屋へ戻る。


 扉を閉めると、古い寝台が一つ。薄い藁のきしみ、その上に畳まれた毛布と布団。寝る支度はすでに整っている。湿った木の匂いがほのかに立ち、窓の桟には白い気配が張りついていた。


 レオンもクリスも視線を落とし、声の置きどころを探す。


 ふたりは、騎士団の野営で同じ天幕に寝たことはある。だが、“夫婦”として一つの寝台に入る――その近さは、別の熱を連れてくる。


「ええと……俺は床で寝るからな。クリスはベッドを使ってくれ」


「え……!? それはだめじゃない?」


「あのな、いくら夫婦って設定でも、さすがに一緒に寝るのはまずいだろ。俺のことなら気にしなくていい。野営には慣れてるし……」


 クリスはまっすぐレオンを見る。濡れた髪先から落ちた雫が、首筋を小さく冷やした。


「そういうことを言ってるんじゃないの。わたしがベッドであなたが床じゃ不公平だし、もし風邪引いたらどうするの? 作戦が台無しになっちゃうでしょ」


「お前の言う事はもっともだけど、俺だって男だ……嫌じゃないのか?」


「べ、べつに嫌じゃないよ。戦地では、毛布を分け合って寝てたことだってあったじゃない。だいたい“万が一”なんてことあったら本末転倒だし、それより仲間の体調の方を気遣うのが第一でしょ?」


「そ、そうか……そういうことなら、一緒に、寝るよ」


「うん、そうしよう。わたしはレオンを信じてるからね。変なことにならないって思うし――何より、あなたが無理するほうが心配だよ」


 言葉を重ねるほど、クリスの頬に熱がさす。それでも背筋は崩さない。レオンは気恥ずかしさに目を逸らし、「わかった」と肩で息をついた。


 タンス脇に荷をおろし、王宮から託された書類や品をポーチの底へ戻す。あの“万が一の品”が視界の端に触れた瞬間、ふたりともほんのわずか動きを早め、蓋を静かに閉じた。

 空気に残った気まずさを、クリスは小さく咳で整える。


「……さて。じゃあ、寝るか」


「うん。……寒いし、早めに休んだほうがいいよね。これも任務のうち」


 ランプを卓上に置くと、蝋の炎が低く揺れ、二人の影が壁で重なる。窓の外では雪の匂いが濃く、木壁を叩く風が細く鳴った。


「それにしても……ホントに“同じベッド”でいいのかって。俺……、一応気をつけるつもりだけど」


 レオンは苦笑しつつ布団を軽く整える。布の擦れる音が、静けさに薄く重なる。クリスはくすりと笑い、首を横に振った。


「もう、“夫婦”って設定なんだから、堂々としてればいいの。逆に意識しすぎるほうが不自然だと思うよ?」


「ま、まあ……それもそうか。けど、慣れてないんだよな、こういうの」


 レオンが視線をそらすと、クリスは頬に淡い色をのせたまま、布団の端をぽん、と指先で叩く。


「ほら、寒いから早く布団に潜ろう。……冷えると大変だし。大丈夫、何も変なことにはならないって」


「そっちこそ……悪いな」


「何が悪いの? わたしたち仲間でしょ? 助け合うのが当たり前じゃない」


 毅然とした声の底に、微かな戸惑いが混じる。レオンを安心させる言葉が自然に口をついたことに、自分で驚きつつも――今は支え合うほうが正しい、とクリスは息を整える。


 二人はローブと上着を脱ぎ、厚手の下着のまま布団に身を滑らせる。寝台が狭い分、肩と腕の距離はたちまち縮まった。

 クリスは背を向けて端へ寄り、レオンも反対側に体を伸ばす。


「やっぱりベッドは温かいな。それに……いや、ありがとう、クリス」


「いいの。わたしもこうしたほうが安心できるし。それに、あなたが近くにいると……ううん、なんでもない……」


 布団を鼻先まで引き上げ、丸く横たわる。背中越しに届くレオンの呼吸が、胸の拍をそっと速める。――“仲間”。心の中で合図のように繰り返し、深く息を吐く。


 一方のレオンも、胸の奥に小さな熱を抱えながら、呼吸を静かに均す。


「……それにしても、陛下の過保護には困ったよな……。さすがにあれはないよな……」


 低い独白に、クリスは笑いを含ませて「聞こえてるよ」と返す。


「でも、お気持ちはありがたいじゃない。メービス様って、ほんとにお優しい方なのよ。ふつうに考えたら、下っ端のわたしたちにここまで気を回すなんてこと、ありえないじゃない?」


「まあ、確かに。でもなぁ、いろいろ心配してくれたのはありがたいけど、やっぱり恥ずかしいだけだよ。うう、考えるだけで冷や汗が出る」


 寝台の縁で肩をすくめる。ポーチの底の“あれ”を思い出しただけで、頬が固くなる。


 クリスは隣に腰を寄せ、ランプの炎を見つめて微笑む。


「ふふ……でも、わたしたちを守ろうっていう陛下のお気持ちに、素直に感謝しておこうよ。ちょっと笑えるけどさ」


「笑えるどころか、恥ずかしくてたまらないよ……」


 ため息ののち、レオンは窓の闇へ視線を投げる。雪の白が、暗さの奥でうっすらと呼吸している。


「それにしてもさ、陛下は俺たちより年下なのに、世界を救うため必死に戦ったんだろ? そのせいで記憶まで曖昧になっちまったって聞いた」


「辛いよね。わたし、そんなことになったら、とても耐えられない」


「それなのに、国を守るために女王になって、敵だらけの王宮で宰相たちとやり合って、男爵家の母子を救おうとしてるんだ。考えたらなんだかおかしいよな……」


 言いながら、眉間がわずかに寄る。体温の位置が、決意の方へ重なる。


 クリスは深く頷いた。若さの上に積まれた重荷を思うと、胸が締めつけられる。


「本当だよ……。陛下こそ、いちばん幸せになる権利があるのに、周りがそれを許してくれないんだもん。今だって人々のために頑張り続けてる。どんなに辛いだろうって思う。でも、あの方は優しすぎるくらいの人だから、自分の幸せなんて後回しになっちゃうんだろうね……」


「そうだな。だからこそ、俺たちは恩返ししなきゃならないんだ。陛下がヴォルフ殿下とほんとうに幸せになれるように、少しでも力にならないと」


 拳が布団の上で小さく握られる。クリスも同じ熱で頷く。


「うん、そうだね。あの二人にわたしたちが救われたように、今度はわたしたちががんばらなきゃ……」


 胸の内に、小さな光がともる。――恥ずかしさは小さなものだ。けれど、小さなものほど頬を熱くする、とふたりは苦笑いを分け合う。


 ランプの灯りがしだいに短くなり、夜は深くなる。風と雪が木壁を撫で、静けさを縁取った。レオンは耳を澄ませ、わずかに笑う。


「……クリス、もう休もう」


「そうだね。体力を温存しておかないと」


 布団の端を整え合い、照れを胸の奥に隠して身を沈める。外では、粉雪が音もなく降り続いている。


 思考は「明日こそ女王のために前へ」という一点へ集まっていく。寒さを忘れるほどの気合いと、ほんの少しのくすぐったさ。寝息はやがて、静かに重なった。


「明日またこの街で噂を集めて、次にどうするか決める。男爵領行きは慎重にいこう……」


「うん。同感」


 クリスは小さく身じろいで、レオンの方へわずかに振り返る。視線が触れかけ、彼はぎこちなく布団を引き上げた。


「じゃあ、おやすみ……俺の奥さん」


「ふふっ……おやすみ、わたしの旦那さま。ああ……やっぱり、変な気分」


 くすぐったい笑みを交わし、クリスが指先で炎を吹き消す。小さな煙が上がり、部屋は闇に沈んだ。


 窓を揺らす雪風の音だけが、遠くで続く。背中越しの気配に耳を澄ませ、呼吸を合わせる。並んだ鼓動が、眠りの縁で速度を落としていく。


 騎士としての信頼に、“夫婦”という設定が静かな膜を重ねる夜――その奇妙なやすらぎが、緊張の縁をほどいていく。


 レオンは夢の手前で、クリスの背の温もりを薄く意識し、「もし本当に夫婦だったら」と一瞬だけ思う。だが、その像はすぐ淡くほどけた。


 クリスはクリスで、隣の気配を肌の奥で受け止めながら、「見せかけ」の居心地の良さに驚いていた。


 深い眠りに落ちる直前、ふたりの心に同じ言葉だけが残る――明日も、前へ。


 雪は静かに積もり続ける。外の吹雪が遠ざかるほど、布団の中の体温は確かさを増す。小さな宿の小さな部屋で、初めての“夫婦の寝床”を分かち合いながら、二人はやわらかな闇へ沈んでいった。


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