指し示す座標、揺れる心
茉凜の前に、そっと膝をつく。
視線が自然に合い、彼女の横のベッド端に腰を下ろす。吸い込む息は布の匂いをわずかに含み、胸の奥のざわめきが静かに整っていく。沈めていた言葉を拾い上げ、唇を開いた。
「茉凜、今はすごく混乱しているかもしれないが、どうか、これから話すことをちゃんと聞いてほしい」
自分でも驚くほど穏やかな声だったが、芯は揺れなかった。喉の渇きだけが本音を示す。
「お前は、俺がずっと……ずっと探し続けていた存在だったんだ。導き手と呼ばれるもの……それが、お前だ」
「わたしが?」
水面のように瞳が揺れ、まつ毛の影が頬へ薄く落ちる。
「ああ……そうだ」
頷いた瞬間、胸の内側で小さく音が鳴る。言葉にしようとするほど、切なさは輪郭を増した。
姉の日記と、いまのメモが私を決意へ押し出したこと。だが導き手の手がかりはどこにもなく、暗闇のなかで手だけを伸ばし続けた時間――その乾いた手触りが掌に残っている。
「しかし、ある時から、俺は不思議な夢を見るようになった」
茉凜の視線が、静かに受け止める。
「夢?」
「ああ」
瞼の裏に、色が立ち上がる。
「現実よりも鮮やかな光景が、毎晩のように繰り返された。いまも焼き付いて離れない」
「どんな景色だったの?」
答えを待つ眼差しに、胸の拍が少し速くなる。
「高台から見下ろす海沿いの町が、静かに広がっていた。果てしない海の先、左手には白い灯台。夕暮れで、空と海が紅と紫に溶け合っていく、静かな光景だった……」
茉凜の表情が強張り、呼吸が浅くなる。描写が、彼女の内側で像を結ぶのがわかった。
「ちょっと待って……それって……」
言葉の先を飲み込む気配。熱がうっすら頬へ差す。
「その場所とは、あの石御台公園の展望台のことなんだ」
唇がわずかに開いたまま、時間が止まる。
「弓鶴くん、もしかして……わたしと同じ夢を見ていたの?」
「そういうことになるな」
目をまっすぐ結び直す。胸の奥が、じんわり痛む。
「だから、毎日のようにあそこで夕日を眺めていたんだ。導き手につながる何かだと、一縷の望みにすがって……」
短い沈黙。空気の温度だけがわずかに動く。
「でも……」
茉凜の小さな声が、静けさをほどく。
「わたしと最初に会った時、“夢なんてくだらない理由で”って言ってたし、そんなこと全然気づかなかったよ……」
あの日の言葉が胸へ返り、胃の底が焼ける。
「茉凜……本当にすまない」
声はかすれ、指先が冷える。
深く頭を下げる。逃げる口実にすがった臆病さが、舌裏に苦く残る。
くすり、と小さな笑いが落ちた。春先の風みたいに、凍った心へ触れていく。
「……なぜ笑う?」
問いに、茉凜は手を口元から離し、目を細めた。潤んだ瞳がやわらかい。
「ごめんね、ただ、弓鶴くんがそんなに気に病んでいたなんて思わなくて……」
その表情の温かさに、胸の強張りがほどける。
「たしかに、あの時は“なんてひどいこと言うんだろう”って、思ったけどね。でも、次の日に私の話をちゃんと聞いてくれたし、今こうして謝ってくれて、それが本当に嬉しいの。だから、もうそんなに気にしなくていいよ」
言葉が、陽の光みたいに真っ直ぐ届く。罪悪感が、雪解けのように静かに薄れていく。
「すまない……」
もう一度、短く頭を下げる。彼女は変わらず微笑んでいた。
「大丈夫、ぜんぜん大丈夫だよ。というか、同じような夢を見てあの場所に導かれたなんて、まるで“運命”みたいだね」
“運命”が胸に刺さり、甘い痛みが広がる。脇で腕を組むアキラの小さなため息が、室内の静けさをわずかに揺らした。
私は胸の痛みを押し返し、前へ進む。
「話は変わるが、茉凜。確認しておきたいことがある。お前が雷の事故に遭った日付と時刻を教えてくれないか?」
努めて平らな声で訊く。空気がひとつ緊張する。
「なに、いきなり。どうして、そんな話?」
眉根が寄り、警戒の温度が混じる。
「解呪に関連があるかもしれないんだ」
言葉を絞り、息を繋ぐ。
「辛いことかもしれないが、頼む。どうしても知っておかなければならないんだ」
躊躇ののち、瞳が揺れを鎮めて頷く。
「わかった……あなたがそこまで言うなら……。あれは三月の、二日……。時間はたぶん、夕方の三時半くらいだったと思う……」
冷たい楔のように、その時刻が記憶を打つ。
「三月二日、午後三時半……」
反芻し、顔を上げる。
「その時間帯は……」
閃光。焼ける匂い。開いた門、届かなかった根源。全身の震えが、遠い痛みを呼び戻す。
器は精霊子で満たされ、根源の欠片は再生された。門は開いたが、根源は潜らず、試みは崩れ落ちた――その瞬間。
「そうか……これではっきりした」
「なにが?」
「茉凜の落雷事故には、姉上の解呪失敗が関わっている可能性が高い」
「意味がよくわからないんだけど」
「姉上は導き手を探せず、上帳に追い詰められて儀式を強行した。叔父様の話では、三月二日のその時刻あたりで、柚羽の家が燃えた……」
「ええっ!?」
「それって、本当のことなの!?」
驚きが室内の張りを一段高める。
「すべて事実だ。そして、同じ日、同じ時刻に起きた二つの出来事が、ただの偶然とは思えない。姉上の失敗が、茉凜に影響を及ぼしたんだ」
「え……」
息が薄くほどける。
「そして、茉凜を襲った雷は、普通の雷ではない」
言葉を区切り、続ける。
「裏付けはある。新城先生は言った――『この雷は茉凜の身体を駆け抜けていない』と。直撃なら火傷や電紋が必ず残る。だがお前の身体には、左額の小さな傷痕しかない」
茉凜は額へ指を添える。冷たい指先が、複雑に歪む表情をなぞった。
「それは、どうして……」
「どうして私にはその痕跡がないの?」
「それが問題だ」
呼気がわずかに荒む。
「もしかすると、その雷は単なる自然現象ではなく、何らかの意図を帯びた、特殊な存在だったのかもしれない」
顔色から血の気が引き、指先が細かく震える。
「だけど、わたしはあの瞬間のこと、ほとんど覚えてないんだ。それと……雷に打たれたって分かった瞬間、何かが私を包み込んだような……気がして……」
「包み込んだ?」
アキラの困惑が空気へ混じる。
「つまり、美鶴さんの解呪の失敗が、茉凜の不可思議な落雷事故に関係しているってこと?」
「そうだ。そして、茉凜に直撃した雷そのものが普通のものではなかった可能性が極めて高い。何か別の異質なものが、茉凜の中に入り込んだんだとしか考えられない」
うつむく肩が、毛布の下で小さく震えた。
「でも、わたしは……普通の人間だよ。どうしてそんなことが……」
信じたくない現実の温度が、声を細くしていく。空調の微かな風がカーテンを揺らし、白い布の端で光がほどけた。
◇◇◇
私の行いが、茉凜のそれまで光を帯びていた日々を壊したのは、疑いようがない。
デルワーズが意図した結果で、私と彼女が出会う原因にもなった。そして私は、明日さえ定かでない危険の渦中へ、彼女を巻き込んだ。責は、すべて私にある。
茉凜の身体に落ちたもの――それは雷ではなかった。胸の奥が冷えながら、私はその事実へと掘り進む。
「茉凜には、多くの特異性がある。それについては、アキラも理解していると思う」
アキラは無言で頷いた。
「茉凜が持つ予知にも等しい能力。それがこれまで彼女を守ってきた。
アキラほどの達人の剣が掠りもしないなんて、普通に考えてあり得ない。昨日の出来事でそれが明らかになった。
そして、俺の黒鶴の安全装置として機能していた点も、今まで根拠がなかったが、これも器と対になり、完成させるために必要な欠片と考えれば合点がいく。
さらに、もっと多くの事柄がある。血族でないにもかかわらず、場裏の存在を認識できること。そして、俺やアキラ、洸人とさえも、直接的な接触を通して精神的な感応やイメージ伝達ができることも……」
証拠を並べる私の声は乾いていて、痛みを隠しきれない。言葉の端々に、自分の苦悩が滲む。
アキラの眉間は険しく寄り、茉凜は両手で顔を覆った。力の抜けた左手が微かに震え、動揺が皮膚の下で脈を打つ。
私は、なお彼女を傷つけていると知りながら、ここで美鶴の名に由来する原因を曖昧にはできなかった。
「それでも、茉凜は間違いなく、普通の人間だ」
「だったらどうして……。わたし、こわいよ……」
震えに触れて、私は呼吸を整える。残酷であっても、それが彼女の“力”であり、私を守ってくれた事実を伝えたい。
「落ち着いて聞いてくれ、茉凜。お前の中に宿った力の正体は、解呪の成就に必要な最後の欠片、“マウザーグレイル”……根源が至るべき場所と時を指し示す羅針盤、すなわち導き手なんだ」
「ええっ!?」
茉凜は蒼ざめ、口元を両手で覆う。震える指が驚きを語る。アキラは目を見開き、拳をきつく握った。
「わたしが……? 導き手って……」
理解が追いつかないのは当然だった。
私は言葉を選ぶ。
「姉上が失敗したのは、根源を元の世界へ導く“手”がなかったからだ。だが、無駄ではなかった。その存在は異なる世界からこちらの世界に呼ばれ、雷の形を借りて茉凜の中に入った……俺はそう捉えている」
「あの雷が、うそでしょ……?」
「それ以外の説明がつかない。茉凜の、未来の時間と場所を覗くような特異な力も、その一点で整合がとれる」
アキラが低く呟く。
「そうだね……状況証拠の積み重ねでしかないけれど、弓鶴くんの言うことは正しいと思う。そうじゃなければ、なにもかも説明がつかないわ」
「俺は、茉凜と出会ったとき、導き手の可能性に半信半疑だった。出来すぎていたからな。まるで、根源が意図していたかのように、俺たちは───」
「じゃあ、わたしたちって……」
「俺たちの出会いは、黒鶴の器と導き手の出会いは、最初からそうなるように決まっていた……」
沈黙の重みが、罪悪感をさらに沈める。
私は吐き出すように言った。
「結局のところ、姉上の行いが、茉凜の人生を破壊してしまった、ということになる」
「……そんなこと、ないよ……」
「えっ……」
「そんなことない」
平手を覚悟していたのに、彼女は穏やかに微笑んだ。どうして――と胸が痛む。
「たしかに、弓鶴くんの言う通りなのかもしれないね。でも、わたしは悔やむとか怒ったりなんかしないよ。というより、嬉しいかな。だって、そのお陰で弓鶴くんと会えたんだから」
「茉凜……」
――私はあなたのそれまでの人生を、そのすべてを台無しにしてしまったのよ。なんでそんなふうに笑えるの?
優しさは時に刃より痛い。私の逃げ道――自己責罵――を、彼女は静かに外していく。
「それと、またお姉さんのことを悪く言ってる。それは良くないよ。あなたのためを思って、命をかけてまでしてくれたことなんだから」
言葉が、温い茶のように胸へ沁みる。期待していた救いに縋りたくなる自分と、その自分を情けなく思う声が交差する。
「そう言ってくれると、姉上も報われるかもしれない……。ありがとう、茉凜」
「うん、わたしからもお礼が言いたい。弓鶴くん、ありがとう。こうして話をしてくれて、いままでわからなかったことが、いろいろすっきりした気がするよ」
「そうか……」
「物事に無駄なことなんて、きっとないんだよ。いろんなことが繋がって、今のわたしたちがいるんだ。これが運命だっていうなら、私はそれを受け入れる。
……だって、新しいわたしになれたんだから。それに、わたしがみんなのために役立つなら、がんばらなきゃね」
茉凜の瞳は、枷が外れたみたいに静かに輝く。
私はまた彼女に救われた。そして同時に、私たちの結末がもう定まってしまった予感が、冷たい底を作る。終わりは、きっとひとつ――そこにしかないと、胸の奥で音がした。




