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静寂に閉ざされる山あいの屋敷――ロゼリーヌの苦悩

 山あいを渡る風が石壁に触れ、冷えが窓枠の金具へ薄く移っていく。朝だというのに、燭台の小さな炎は紙面の端だけをおぼつかなく照らし、壁の石目に落ちる影が細く震える。窓の桟には夜の結露が残り、指で拭うと冷たい水筋が爪の間へ滑り込んだ。


 ここ数日の男爵家は、息を潜める場所になってしまったのだと、ロゼリーヌは思う。

 表向きは「護衛」。けれど廊下を歩けば、革と油の匂いが濃く、私兵の靴音が使用人の足取りを上書きしていく。カーペットの縁には泥の跡が複数の方向へ伸び、曲がり角には粗い麻縄で作られた“見張り線”が張られている。誰かが鍵束を指で弄ぶ小さな金属音が、一定の間隔で反復し、聞くほどに胸の内側を締めつけていく。


「どこへ行く、言え。使用人が勝手に動くんじゃない!」


 角の陰で空気が固まり、麻縄がわずかに軋んだ。


 遠くの角で鋭い声が刺さり、若い執事見習いが足を止める。別の方向から槍の穂先が石壁へ軽く当たり、乾いた金属音が跳ねた。


 ロゼリーヌは目を伏せ、手袋の内側で指を寄せ合う。

 伯爵の命令を受けた私兵は、屋敷を自分たちのもののように扱いはじめている――その実感だけが、体温の隙間に居座って離れない。


 当主のモンヴェール男爵は怒りのまま伯爵領へ向かったが、三週間以上、便りがない。玄関脇の掲示板には“外出制限”の張り紙が増え、封蝋の割れ目に触れれば粉が指腹へこびりつく。男爵夫人は心労で床に伏し、暖炉の灰は薄く冷え、屋敷の空気はひたすら沈んでいく。


 ロゼリーヌは自室のカーテンを閉め、机に頬を寄せる。布地の陰は浅く揺れ、木机の縁が額にひやりと触れた。砂時計の細い流れが耳朶の奥でかすれ、時間さえ細く削られていくようだ。


「ロゼリーヌ様……失礼いたします。お昼のご用意ができました」


 湯気の薄明かりが卓上に落ち、扉の蝶番が息を吸うように鳴った。


 扉がきしみ、若い侍女が身を小さくして入ってくる。盆の湯気は弱く、薄いスープの匂いに金属のような寒さが混じる。麦パンは乾いて角が固く、皿に触れるたび粒子がぱらりとこぼれた。


「……そこへ置いてちょうだい」


 湯気がほどけ、金縁の皿が微かに触れ合った。


 唇の震えを押さえるように、声だけを出す。侍女が盆を卓へ置くと、陶器が触れる乾いた音が室内に落ちた。


「申し訳ございません……屋敷じゅう伯爵の私兵に見張られ、私どもも身動きがとれません。外へも出られず、市場にも。……食事も、このような粗末な仕度しか」


 言葉の影が床へ落ち、手元の布が指にまとわりつく。


「あなたのせいじゃないわ。悪いのは――伯爵のやり口よ」


 声の温度が一段下がり、唇の裏に苦さが滲む。


 かすかに笑みを作ろうとして、頬の内側が乾く。侍女は言葉を足しかけて、視線だけで謝り、深く頭を下げた。


「どうか……お心を折られませぬよう。きっと、どこかに道が」


 小さな励ましが卓上に灯り、スープの湯気が細った。


 扉が閉まると、静けさが戻る。紙片の角が指腹に食い込み、胸が早くなる。食器の縁に触れてみると、ぬるい湯気がすぐに薄れ、空腹より先に喉の渇きだけが残った。


――活路なんて、いったいどこにあるというの?


 半月前、執事に託した王宮宛の書簡は戻らない。返事もない。途中で奪われたのだとしたら、望みは細るだけだ。

 宰相と伯爵が結べば、彼女の声は紙の上で潰されるだろう。机の抽斗を開ければ、未送の手紙が数行で途切れ、インク壺の口に乾いた膜が張っていた。


「書簡が届かなかったら……わたしたちはもう……」


 舌の裏が乾き、砂時計の音が耳の奥で強まった。


 机に落ちる自分の声が、ひどく遠く聞こえた。窓の桟から入る隙間風が、襟元の細い産毛を撫で、背中へ冷えを滑り込ませていく。


◇◇◇


 昼下がり。格子越しの光が廊下の石を細く刻む。角を曲がる手前で、鎧金具の触れ合う音が増え、道の中央に数人が立った。

 彼らの背後では、壁の飾り金具に私兵のマントがかかり、左右の窓は内側から閂で固められている。巡回の笛が遠くで短く鳴り、廊下の空気が音に合わせて強張った。


「ロゼリーヌお嬢様、少々お時間をいいですかな?」


 呼気に革の匂いが混じり、廊下の冷えが足首へ絡む。


 息を整え、歩幅は変えない。脂の匂いが鼻にのぼり、手袋の縫い目が白く立つ。鍵束がひと揺れして、金属音が小さく跳ねた。


「……なんでしょう。ご用なら手短に」


 襟元の糸がわずかに張り、喉が浅く動いた。


 先頭の壮年兵は、頬の古い傷跡が硬く沈んでいた。わざと腕を組み、低い声で続ける。槍の影が床の石目に沿って伸び、足首に冷気が触れる。


「伯爵さまからの新たな指示でね。近々『殿下』をお迎えにあがるそうだ」


 呼吸が短くなる。


「それは本当ですか?」


 喉の奥に冷たさが落ちた。


「貴族院の話も動いてるって話だ。じきに決まるさ。――リュシアン坊ちゃまの王都行きは、避けられんだろうな。もっともあんたが頷けば、今すぐにでもだが?」


 槍の影が敷石を渡り、空気が一つ狭くなる。


 喉の奥がきゅっと狭くなる。用意していた言葉を、舌の先で整える。足先が石の冷えへ沈み、体重の置き場が少しずれる。


「……わたくしは認めません。そんな勝手は通しません」


 握った指の関節が白み、布越しに脈が触れた。


 嘲りの笑いが短く弾む。別の兵が、茶化す調子で肩をすくめた。汗と革の混ざった匂いが近づき、距離の狭さが皮膚へ乗ってくる。


「宰相閣下も“リュシアン殿の王太子擁立”で押してる。賛成はすぐ集まるさ。――男爵家にとっても悪くない話だろ? なんたって正統な血筋を育てたんだ。報奨だってたんまり貰えるさ。喜ばしいじゃないか」


 笑いの熱が近づき、脂の匂いが喉に張りつく。


 皮膚の下に言葉が刺さる。視線を伏せ、拳を握ると、手袋の布が爪先にきしんだ。兵たちは「抵抗したって苦しいだけですよ」と吐き捨て、靴音を残して去る。去り際、壁飾りに触れた金具が軽く揺れ、長い廊下の奥まで冷たい音を引いた。


◇◇◇


 部屋へ戻ると、リュシアンが小走りで胸元へ飛びつく。小さな体温が、冷えた指先にじわりと戻る。袖口の布が指にまとわり、息が一拍深くなる。


「母上、どうしたの? さっき兵隊さんと話してたよね……顔、こわかった」


 頬に温い息が触れ、胸の硬さがわずかに解ける。


 笑みの形だけが先に生まれ、声が少し掠れる。窓の隙間風が、子の髪に細い波を作った。


「だいじょうぶよ。……ちょっと嫌なことがあっただけ。リュシアンは心配しないで」


 声の端だけ笑みに寄り、指先はまだ冷たい。


 袖をつまむ指が細く震える。抱きしめたくて腕を上げるのに、肩にうまく力が入らない。背中の筋がこわばり、胸の前で空気だけが重なる。


「『王都へ行く』って言ってた。……母上と離れ離れになっちゃうの? ……やだよ」


 細い肩が震え、布が擦れる音が胸に痛い。


 喉が冷えて、返事の出だしが遅れる。胃の辺りが薄く痛み、息をひとつ置いてから言葉を探す。


「……ごめんね、リュシアン。いまは外に出られないの。わたしたちが動けば、すぐ追われるから……」


 言葉の影が窓辺へ落ち、風が紙片の端をめくった。


「じゃあ、ぼくが剣を持って、大きな声で追い返すよ……」


 小さな手の熱が掌へ移り、喉の渇きがほどける。


「だめ。いまは静かにして……様子を見ましょう」


 胸の奥で数える呼吸が、ひとつ深くなった。


 言いながら、自分の指の温度を確かめる。守るための手が、少しでも強くなるようにと、ゆっくり握り直した。

 部屋の梁の上で埃がうっすら光り、静けさは薄紙のように破れやすそうだった。


◇◇◇


 夜が深まる。扉の外では見回りの靴音が一定の間で止まり、笑い声が短く弾けてすぐに消える。廊下を過ぎる灯の影が敷居の下で細く揺れ、蝋の匂いは薄くなり、石の冷えが足裏から上ってくる。遠くで鐘が一度だけ鳴り、砂時計の流れがそれに合わせて遅くなる。


「母上……眠れないの?」


 寝台の布がわずかに動き、灯の影が壁を浅く渡った。


 寝台の縁で、リュシアンの声がほどける。額に触れると、温かい。まつ毛に乗った微かな息が手の甲へかかり、胸の奥の硬さが少しだけほどけた。


「いいえ、少し考えごとしてただけ。……あなたこそ、ちゃんと休まないと」


 囁きを落とすと、まつ毛の影が手の甲にそっと触れた。


 少年は浅い眠りへ戻り、寝息が規則正しくなる。ロゼリーヌはその手を包み、指先の震えが収まるのを待つ。

 窓辺の布が風にかすか鳴り、鍵穴の中で金属が小さく触れ合う音がして、誰かが通り過ぎる気配がした。


「……わたしは、どうすればいいの?」


 窓の金具が冷え、呼気が薄く白んだ。


 机にもたれて落ちる声は、夜気に吸われていく。

 答えは来ない。だからこそ、いまは耳を澄ます――寝息、遠い靴音、風。どの音も、この部屋の外側から押し寄せ、内側を狭めていく。


「……だいじょうぶ。きっと……だいじょうぶ……」


 自分の声が胸に返り、指先に少し温度が戻る。


 自分に向けた小さな言葉を置き、子の手をもう一度握る。

 連れてはいかせない。どんな手であっても、先回りする――その思いだけが、薄闇の中で微かな灯となる。夜半の風は壁の端を撫で、扉の閂がひとりでに軋んだように鳴った。


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