言えない重さ、言わねばならないこと
腕の中の茉凜の重さだけが、確かな現実だった。夜気は針のようで、服越しの震えがそれより冷たい。
――茉凜、大丈夫だから……私はここにいるよ。ちゃんと生きているよ。
声は喉で固まり、出ない。細い指が私の服を掴み、幼い呼び名が途切れ途切れに胸へ刺さる。私は抱く腕に力を込めた。
「安心しろ、俺はここにいる」
濡れた髪が肩に張りつく。温もりは心許なく、消え入りそうで、私はさらに強く抱きしめた。
◇◇
屋敷。消毒液の匂い、器具のかすかな触れ音。医療班が走り、指先から熱が抜けていく。
ベッドの上の彼女は、灯を絞った人形のように静かだ。頬に乾いた軌跡、浅い呼吸。点滴の滴が、命の拍に重なる。
かかりつけ医である新城医師は、私の肩に手を置いて言った。
「安心しろ、彼女は大丈夫だ」
「本当ですか? 本当に、茉凜は……大丈夫なんですか?」
「ああ、血圧が一時的に極端に下がっていただけで、命に別状はない。ただ、精神的なショックが大きすぎたようだな。事故の内容は聞いていたが、どんな状況だったのか、もう少し詳しく教えてくれないか?」
私は簡潔に経緯を述べる。空調の一定の風が白いカーテンを冷たく撫でた。
「……俺としては理解に苦しむ。どう考えても説明がつかん」
「どういう意味ですか?」
「彼女は、事故が発生するその前に、異常を訴えたんだろう?」
「はい、そうです」
「そして、『つぶされちゃった』と言った」
「はい……確かにそう言いました」
「だが、実際には君は潰されていない。じゃあ、彼女が見ていたものとは何だ? 何も起きていないはずなのに、どうにも辻褄が合わんだろう?」
「それって……幻覚ではないでしょうか?」
「俺は精神科の専門家じゃない。ただ、事実だけが重要だ。彼女が声を上げたおかげで君は立ち止まり、その直後に鉄骨が落ちてきた。これが真実で、実際に起きた事だ」
「私はその時車を回していて、直接は見ていませんでしたが、メンバーからの報告ではその通りでした。監視カメラの映像でも確認済みです」
「……茉凜はこれから起こることを『見ていた』。つまり、そうおっしゃりたいのですか?」
「ああ、予知とでも言うべきかもしれん。だが正直、オカルトじみていて馬鹿馬鹿しい。くだらんことだ」
「俺はこういうのが大嫌いだ。だが、弓鶴くんの件でもそうだったが、この『深淵』という力には、未知の領域が多すぎる。俺の知識じゃ到底理解できんことばかりだ。腹立たしいが、これが現実だ」
私は俯き、思考の糸だけを握る。黒鶴を鎮めたあの感応、死地でだけ立つ回避――どれも彼女が私を救ってきた証だ。
《《……それは導きの羅針盤。欠けし“時の欠片”を覗くもの。弟と共にそれを見出すならば、汝の望みもいずれ果たされよう》》
稲光の残像のように、文言が脳裏に走る。
「座標を指し示し、時間を覗く存在……それが導き手……」
「どうしたんだ?」
「いえ、なんでもありません」
「彼女が未来を見たのか、別の何かで察知したのかは分からん。ただ、彼女が君を守った。その事実は確かだ。忘れるなよ」
「はい……」
確信は痛みを連れてくる。私は先延ばしの免罪符を手放す。弓鶴の身体は限界だ。
窓の隙間から夜気が差し、白い布がわずかに持ち上がる。胸の底へ、冷たい鉛が静かに沈んでいく。
◇◇◇
新城医師が去り、佐藤さんと並んで茉凜の寝顔を見守った。消毒液の匂いが薄く残り、点滴の滴りに合わせて頬へ血の気が戻っていく。浅かった呼吸が、少しずつ深く、私の肩もゆるむ。
一晩中そばにいたかった。彼女のためであり、私の心の避難所でもあった。寝息が静けさへ溶け、衣擦れの微音とともに、肩へ温い手が置かれる。
「少しは身体を休めてください」
張り詰めた糸がふつりと切れ、頷く。佐藤さんは幼い頃から私を見てきた人だ。成長も弱さも、美鶴としての痛みも知っている。その事実だけが、足元を支える。
自室に戻る。眠れない。引き出しの鍵を外すと、四冊の日記。書きかけを取ると、胸の澱が指先へ重く乗る。
これは【深淵の巫女】として歩いた証で、解呪の手前に叔父へ託すはずだった。あの火の夜、佐藤さんが三冊を抱えて逃げてくれた、と聞いている。
解呪の記録と、私の小さな祈り。いつか弓鶴が読んだなら、姉だった女の歩幅が少しでも伝わるように――そう願って重ねてきたのに、私は彼を遠ざけ、会うことも、手紙すらしなかった。
彼の部屋に過去は置かれていない。叔父は「何も語らなかった」と言った。失望は、どれほど深かったのだろう。唇へ歯を沈める。彼には何も背負わず、ただ普通に生きてほしかった。私はこの身体を一日でも早く返す、と胸の奥で固く結ぶ。
風が窓を鳴らす。今年からの新しい日記を開く。乾いた紙縁をなぞる指に、夜気が触れた。
眉がふっと緩み、口元がわずかに上がる。安堵の裏で、思考は渦を巻く。茉凜が【導き手】だという確信。弓鶴の身体に残るわずかな時間。握ったペンに力がこもり、視線は机の木目へ沈んだ。
茉凜と出会って、日々は色を取り戻した。戸惑いから始まった感情は、目を逸らすほど輪郭を持って、胸に居座る。彼女のいない未来は描けない。ひまわりの笑顔、揺れる瞳、不安げな仕草――そのひとつずつが、静かに根を張る。
それなのに学園祭の翌日から、手は止まった。書こうとすれば指が固まり、灯が揺れて胸が強張る。使命と願い、抑えきれない想いが渦を巻く。見つめ返されるたび告げたくなり、失望の影を恐れて飲み込む。
何度も名を呼び、心で謝る。触れたい。守りたい。愛したい。握った指が白くなる。
決める。ペンを走らせる。インクの匂いが立ち、紙を擦る乾いた音だけが部屋を満たす。これは消えゆく私の、迷いを断つ儀式。静かな吐息、机に揺れる影。鍵が永遠に開かれないなら、この想いはここに封じられる。
茉凜と過ごした時間、笑顔、そして応えられるようになった私。胸の奥で、知らなかった色がひそやかに灯る。頬を夜気が撫でた。
「ありがとう、茉凜。あなたが私にくれたたくさんのものが、私に生きることの本当の意味を教えてくれた。あなたの存在がどれほど私に力をくれたか、言葉では表しきれないくらい。
ほんの短い間だったけれど、その一瞬一瞬が、私にとってかけがえのない宝物になった。心の底から感謝しているわ。私は……あなたのことが……」
◇◇◇
気づけば、朝が滲みはじめていた。薄い白が部屋の角をほどき、紙面のインクがわずかに鈍る。いつ眠ったのか、一睡もしていないのかも曖昧で、冷えたペン先だけが小さく震えていた。
枕元のスマートフォンが震え、『佐藤さん』の名が浮かぶ。心臓が一度強く跳ね、息が詰まる。――茉凜が目を覚ました、と直感した。
期待が喉を焼き、不安が腹を冷やす。姿見に映るまぶたは熱を含み、頬には塩の線が乾いている。指でなぞると皮膚がきゅっと鳴り、弓鶴の仮面の下から「美鶴」の輪郭が透ける気がした。この顔では、会えない。
『少し時間を置いてから伺います』
震える指で短く打ち込み、送信する。ほんとうは一秒でも早く駆けつけるべきだと知りながら、足が竦む。乱れた心のままでは、彼女と正対できない。
衣服を脱ぎ、冷水の落ちる下へ身を滑らせた。肩へ当たる冷たさに肺が跳ね、吐息が細く切れる。思考は静まるのに、胸だけがきゅっと縮む。すぐに温水へ捻ると湯気が壁を曇らせ、見慣れた弟の輪郭だけがぼんやり立つ。
内側の呼吸は別の調子で鳴り――ここにいるのは美鶴。どれほど「男の子」を演じても、呼吸の名は変わらない。
茉凜の前では弓鶴でいなければならない。けれど、彼女へ惹かれているのは、この身体の奥の女の子の私だ。関節にかすかな強張りが走り、喉が乾く。重さは彼女へ落とせない。言葉にすれば重さになる。だから沈黙で包む。握った拳に爪が食い込んだ。
温い水は肌を滑るが、心の芯までは届かない。
◇
深く息を吸い、ドアをノックする。指の関節が白くなる。無感動な表情をそっと貼り付け、佐藤さんの案内で中へ。元ゲストルームの広さは落ち着かず、簡素な調度は清潔で、少し冷たい。
奥のベッドルームはやわらかな温みを抱いていた。淡いカバー、小さなぬいぐるみたち、整えられたドレッサー。洗い立ての布と浅い紅茶の匂いが空気の皺を撫でる。驚かせないよう足音を殺し、視線の先へ顔を寄せる。瞳は開いているのに、輝きは薄く、焦点は遠い。
「茉凜……」
囁くように名を呼ぶ。声だけで繋ぎ止めたい。
「……ゆづる、くん……」
胸が前へ傾く。
「茉凜、俺だ。わかるか……?」
彼女ははっと目を見開き、深い痛みを滲ませる。
「あれ、ゆづるくん……つぶされちゃった、のに……」
時間は異常な空間で止まったままだ。
「しっかりしろ。俺は潰されてない。こうして、ちゃんと生きてる。ほら」
彼女の右手を取り、頬へ触れさせる。掌の震えがこちらの脈に同調し、胸の奥が遅れてひゅっと縮む。
「……温かい、ね……」
「ああ……。お前の手は、ちょっと冷たいな」
体温を確かめ合うあいだに、彼女の目へ少しずつ光が戻る。
「生きてる……ちゃんと、生きてる」
「ああ……生きてるぞ」
ふわりと笑みがゆるみ、私は長く詰めていた息を吐く。
「もう、大丈夫だよ」
身を起こそうとする仕草には、どこか逃れたい焦りが残る。
「待てって、無理をするな」
手を取り、静かに制す。温かいソイラテを淹れて渡すと、カップを包む指が微かに震えた。
「ごめんね。なんか……ひどいことになっちゃって……」
「いや。何より、お前が無事でよかった」
声は硬く冷えていた。優しさの言い回しを、弓鶴の仮面がはじく。拳の内側で爪が刺さる。
「わたしね、あの時……変になっちゃったんだ……」
「変に……? 無理に話さなくていい」
促したい衝動を、胸の内で押し留める。
「あのね、こんな話、信じてもらえないと思って、誰にも言わなかったんだけど……わたし、時々、物の見え方がおかしくなるの」
「見え方?」
「うん……。目を閉じてないのに、急に世界が真っ暗になるの。でも、すぐにその中に、白い靄みたいなものに包まれた何かが、ゆらゆら浮かんで見えるの」
「……それは幻か?」
「ううん、違うと思う。今まで、何度もあったから」
「以前から? それは、いつだ」
「弓鶴くんと最初に会った時……。アキラちゃんと向き合った時……。あと、曽良木っていう人が、現れた時……」
「今回も、そう見えていたのか?」
彼女は頷く。
「真っ白にぼやけた弓鶴くんが、どんどん遠ざかって……そこに、上から大きな白い塊が……」
手が強く震え、ラテが零れかけるのを支える。冷たさが掌を刺し、震えが胸へ移る。
「茉凜、もういい……」
「だめって叫びたいのに、声が出なくて、身体が動かなくて……見えてるのに、何もできなくて……弓鶴くんが、下敷きになるのが……」
荒い呼吸に合わせ、焦点が宙へほどける。
――違う、落ち着け。思考を繋げろ。デルワーズの言葉を。
異なる時間と場所を指し示す導き。白い靄の像は、近傍世界の不確定な未来の断片――この世界の少し先の薄明かり、彼女はそれを覗いたのかもしれない。
「怖かっただろう」
声を落とす。
「それでも……お前を守った力がある。それは、お前だけのものだ」
空気がやわらかく沈み、喉が細く鳴る。
「とくべつな……ちから……?」
「ああ。それこそが、茉凜の中に宿る力だ」
「なんなの、それ……? どうして、わたしに……」
信じられない表情の奥で、微かな光が点る。彼女はまだ、その意味を知らない。視線を伏せ、指先へ力が入る。
逃げ道のない廊下に、静かな灯がひとつ続いていた。そこを辿るしかない――と、胸の内で頷いた。
◇◇◇
導き手とは何か。
その意味を茉凜に伝えるため、アキラにも席についてもらう必要があった。解呪を願う者同士、情報は等しくあるべきだ。なにより、全員が同じ場所に立っていなければ、次の一歩は踏み出せない。
この機会が、学園祭以来ふたりの間に横たわる氷を溶かすきっかけになれば――そんな淡い期待もあった。希望を語ることが、彼女たちの架け橋になるのなら。
案の定、呼び出した私へのアキラの応対は、ひどく事務的だった。だが、電話口で切々と訴えると、諦めたような短い息遣いののち、「……わかったわ」とだけ呟いて通話は切れた。空気の抜けた、乾いた声だった。
彼女が来る前に、一度自室へ戻る。引き出しの奥から、見せなければならない“あれ”を取り出した。
紙の冷たく乾いた感触が、指腹へ吸い付く。これからの対話に不可欠だと頭ではわかっていても、胃の腑に静かな冷えが降りていく。強く握りしめ、ひとつ息を吸って茉凜の部屋へ向かった。
◇◇
やがて、ドアが静かに開く。
現れたアキラの目の下には深い影が落ち、唇は色を失っていた。見た瞬間、その消耗が自分のせいだと、喉に苦いものがこみ上がる。
「では、お茶をご用意いたしますね」
佐藤さんの気配が遠ざかると、空気がすとんと落ちた。窓の夕陽が床を斜めに切り取り、舞い上がった埃を金色に照らす。音のない空間で、ただ立ち尽くす三人。沈黙それ自体が重さを帯びていく。
この空気を作ったのは、私だ。
何かを言わなければ。乾いた唇を湿らせ、震えそうな声を押し出す。
「アキラ、来てくれてありがとう――」
ぎこちなく口角を上げるが、頬の筋肉は強張ったままだ。
「実は、今後の方針について、伝えておきたいことがあるんだ」
その言葉に、アキラの視線がこちらを向く。
ガラス玉のように冷たい瞳。かつての熱も光もなく、ただ私という物体だけを映す空虚な眼差し。その射抜く感触に、息が詰まった。
「ふーん……。それで?」
温度のない声。他人行儀な響きが、距離をくっきり描き出す。
高鳴る鼓動を押さえ込むように、深く息を吸う。
懐から折り畳んだ紙片を取り出す。指先の汗で、端がわずかに湿っていた。
「まずは、これを読んでみてもらえないか?」
アキラの瞳が、はじめてかすかに揺れる。私の手元――小さな紙へ。訝しむように、視線が細まる。
「これって?」
投げやりな問いに答えず、ただまっすぐ見返す。
「姉上の……柚羽美鶴が遺した、次に繋がるだろう者たちへ向けた、最後のメッセージだ……」
その名に、アキラの瞳へ険しい光が宿る。
安堵と同時に、胸の奥が鈍く疼いた。
このメッセージは、私が解呪に敗れ、弓鶴の中で目覚めた直後、デルワーズに告げられた言葉を書き殴ったもの。あの時の私には、希望ではなく、昏い絶望の始まりだった。
ここには「導き手」の要点だけを記した。弓鶴の意識と記憶を人質に取られている――触れたくない真実は、伏せたまま。
『たとえ根源を再生して門が開かれたとしても、それだけでは儀式は不完全に終わってしまう。なんとしても、根源の半身であるマウザーグレイルと呼ばれる存在を探し出さなければならない。
それは根源が至るべき場所と時を指し示す羅針盤。それを宿した者こそが“導き手”。解呪を成し遂げるために、どうしても欠かせない最後の欠片。その人物を探し出し、器を整えた上で連れ行かなければならない。そうすれば願いは叶えられる。
だが、私はそれを手に入れることができなかった。どこかにいるはずなのに、探す糸口すら見つからない』
紙に食い込むほど歪んだ文字。
冷静を装う文面に反して、インクの掠れや滲み、右へ流れる筆勢が書き手の激情を露わにする。ところどころの乾いた涙痕が、紙面を細かく波立たせていた。
紙を受け取ったアキラの呼吸が、浅く速くなる。青ざめた顔で見開いた目が大きく見え、やがて小さく息を呑む。
静寂が、その動揺を際立たせる。
私と紙とを往復する視線。わずかに震える唇。
「なによ、これ。そんなものが必要だなんて、あたし聞いたことないわ」
「だろうな。だが、これが解呪の真実だ」
私の言葉が落ちると、アキラは震える手でメモを茉凜へ差し出した。
茉凜はおそるおそる受け取り、一文字ずつたどたどしく視線を滑らせる。息を吸うたびに、小さな肩が微かに上下した。
「これが……弓鶴くんのお姉さんが遺したものなの?」
「ああ、そうだ」
冷静を装っていても、心臓は軋む。
私――柚羽 美鶴は、もう死んだ。ここにいるのは、弟の身体を借りた亡霊にすぎない。
「わたしにはわからない部分もあるけど……読んでいて、すごく悲しくなった。だって、この字の滲み……泣いてるもの……」
その声が震え、記憶の蓋がたわむ。
「とても辛かったんだろうね……」
「ああ……。姉上は、たった一人で何年も、血族の呪いを解こうと孤独に戦い続けていた」
「そっか……」
茉凜は一度目を伏せ、それから慈しむように言葉を紡ぐ。
「わたしにはわかるよ。お姉さんは、弓鶴くんのことを本当に大切に思っていたんだね……」
喉の奥が熱くなる。過去の痛みから目を背けたくて、無意識に奥歯を噛む。優しさは、ときに傷口へ触れる。
「そうだ。姉上は禁忌の色である黒を持った俺を守ろうと、自らを犠牲にして解呪に挑んだ。だが……その結果は失敗だった。本物の適格者でないにもかかわらず、愚かな事をしたものだ」
「弓鶴くん、そんな言い方はやめて!」
鋭い声が飛ぶ。普段の彼女からは想像できない、痛みを帯びた強い響き。
驚いて顔を上げると、茉凜の頬を涙がつうっと伝う。その一筋が刃のように胸を切り裂いた。
「お姉さんは、あなたのために必死だったんだよ。この字を見たら、涙の痕を見たら、それくらいわかるでしょ。願いは叶わなかったのかもしれないけれど、その気持ちまで否定したらダメだよ。
……ほんとうに、大切な人がいたからこそ、何かをしようとしたんだ。それを、愚かだなんて言わないで……」
言葉が罪悪感の芯を抉る。握りしめた拳の爪が、掌へ食い込む。
「……茉凜の言う通りだ。すまなかった」
「うん……」
小さく頭を下げると、茉凜は涙を拭い、いつもの柔らかな笑みを見せる。その表情に、胸の強張りが少しだけほどけた。
「ごほん、えーと……」
アキラが咳払いで沈黙を破る。
「それで、このメモの内容は確かなの? 筆跡がかなり乱れてるし、本当に美鶴さんが書いたものなの?」
疑念はもっともだ。我ながら、綺麗な字とは言えない。
平静を装い、用意していた嘘を置く。
「ああ、それは間違いない。姉上が密かに付き人に託して、叔父様に届けさせたものだ」
落ち着いた声を選ぶ。
「本来、姉上の筆跡は見事なもので、こんな乱れはまずありえない。だが、この状況では相当な焦りがあったんだろう。叔父様が集めた情報では、姉上の動向はすでに察知され、上帳に身柄を押さえられる寸前だったらしい」
アキラは黙って聞き、やがて小さく頷いて核心を突く。
「それで、ここに書かれている、“絶対不可欠な最後の欠片”って、もう見つかったの?」
部屋の空気が凍る。
心臓が大きく跳ね、掌に汗が滲む。
詰まる呼吸ののち、私はゆっくり頷いた。
「それはもう、確保済みだ」
アキラの目が剃刀のように細まる。
視線が、覚悟を試すように突き刺さる。
「それって、どこに?」
背へ冷たい汗が伝う。これを告げた時の彼女の心、茉凜の運命――すべてが、後戻りできない。
それでも、言わなければ。
視線を動かし、ベッドの端で固唾を呑む茉凜を見つめる。
「それは、茉凜だ……」
「ええっ!?」
空気が裂け、アキラの顔から血の気が引く。唇がわなないて、指先が小刻みに震える。
茉凜の瞳には、困惑と得体の知れない怯えが重なっていた。
「わたしが? わたしって、そんな大事なものだったの?」
か細い声。
喉の奥の支えを押し殺し、一言ずつ宣告する。
「そうだ、茉凜……お前こそが、解呪の儀式に必要な最後の欠片。再生された根源が進むべき道を指し示す羅針盤なんだ」
言葉は重さを持って落ちていく。
茉凜の指がシーツを強く握り、白くなる。
「……でも、どうしてわたしが?」
声はかすれ、信じられない響きと、役割を押し付けられる戸惑いが混じる。
「わたし、そんなの何も知らないし。どうしてわたしなんかが……」
その問いに、私は何も答えられない。
冷たい霧のような沈黙が、重く三人を包み込んだ。




