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黒髪のグロンダイル 〜巫女と騎士、ふたつでひとつのツバサ〜  作者: ひさち
第八章 時間遡行編②遺されし光と守護の翼
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危なっかしいわたしを、“好き”だと言うあなた

 執務室の空気は水の底のように重く、わたしはあえて顔色を曇らせ、コルデオたちに向き直った。


「申し訳ないけれど、宰相から何か催促されたら『今はひどく疲れているから、詳しい話は昼以降改めて』、と伝えてちょうだい」


 喉の奥で拍がひとつ転び、舌裏に金属の渋みが薄く残る。胸骨の裏が固くなり、息が浅く返ってきては、肺の底で引っかかった。

 女王でありながら、自由に使える時間は紙片ほどもない。だからこそ、その余白を確保したくて、そう告げるしかなかった。


 コルデオは「仰せのままに」と頭を下げ、護衛や侍従たちとともに退室する。扉が閉まる音、続く足音が石の廊下に溶け、静けさが戻るまで、わたしは肋骨の間をゆっくり撫でるように呼吸を落とした。


 額を机へそっと預ける。冷えた木目が皮膚に移り、眉間が自然と寄る。蝋の甘い匂いに、乾いた墨の酸がうすく混じる。


「はぁ……。時間稼ぎのための言い訳、と言いたいところだけど、ほんとうに疲れたわ……けど、こっちが寝込んでいる間に何をされるか分かったもんじゃないし」


 暖炉の灰がひと粒、音だけ落ちた。夜明け前からの移動、続く応対。肩甲骨のあたりが強張ったままで、袖口の縫い目が手首に少し当たって痛む。


 背後から、彼――ヴィルが歩み寄ってくる気配。革靴が絨毯の端でやわらかく止まり、低い声が落ちる。


「今はそれでいい。“無力で無策な女王陛下は疲れきっていて、強く出られない。すべて目論見通りだ”と思わせることが肝要だ」


 ぶっきらぼうな調子に、口の端がわずかに上がる。安易な慰めより、事実を差し出す彼のやり方が、いちばん体に合う。


 窓の金具が薄い風に小さく鳴った。


「……そうね。ステファンたちの配置が整うまで、もう少し時間が必要だし、こちらも何とか引き延ばさないと……」


 早朝の王宮は薄闇を抱き、音が細い。冷えが踝からせり上がってくるのを、踵でそっと受け流す。


 わたしたちの作戦は単純に見えて複層だ。囮はわたし――疲れ果てて身動きの取れない女王という姿を、向こうに信じさせる。

 銀翼は分隊ごとに“視察”名目で間引く。連絡は封蝋の色を隊ごとに変え、往還の線を見えにくくしていく。地図上の針の頭が、蝋燭の熱で少し傾いた。

 同時に、ダビドが金の道を追う。賭場のツケ帳や、香辛料商の薄い両替証文――紙の端の脂の匂いが、金の出入口を示す。宰相や伯爵の裏金が注がれる先を見つければ、その口こそが手綱になる。


「ただ、それまでの間に宰相が『リュシアンを王都へ招く』って正式に決定してしまったらどうしよう……。わたしの引き延ばし工作なんて無視して、強引に貴族院を通しちゃうかもしれないわよ」


 言葉にしてしまうと、肘の下に鳥肌が立つ。紙の匂いが急に遠くなる。


「そこが問題だな……。ただ、先王がご存命なうちは、そう簡単に“王位継承会議”など強行できはしないだろうが……」


 召集権は宰相、裁可は先王、定足数は三分の二――陛下が沈黙を解かないかぎり、会議は紙の上で止まる。


 その猶予が、いつまで続くかは分からない。扉の影が揺れ、すぐ静まる。


「……とりあえずは、“先王のご回復を心から祈る女王”として、健気に振る舞うしかなさそうね。

 逆に、“リュシアン殿は認めない”なんて大きな声を上げたら、わたしが一気に標的にされる。“玉座に固執する哀れな女王”って、きっとそう扱われかねないし……」


 吟遊詩の結語だけが同じ文言で街に降りる――誰かが風向きをつくっている。


 声の奥がかすかに震えた。喉が乾き、舌が上顎に張りつく。否定の言葉は容易いけれど、今は刃になる。


「だが、苦しい立場であることが、かえって“囮”になるには都合がいい。

 周りから見れば、疲れ果てて身動きできない女王――一方で、盤面を支配しているのは伯爵や宰相。この図式が続けば、いずれあいつらは『今こそ男爵家を取り込む機会だ』と、調子に乗って動くはずだ。

 ……むしろ、こっちとしては助かるんじゃないか?」


 含み笑いが空気をぬるませた。頼もしさが肩の表面を撫でていく。


「……それはそうなんだけど、完全に何もしないでいると『女王など不要だ』と一蹴されてしまうリスクもあるんじゃないかしら? だから、わたしはわたしで伯爵に一矢報いる準備をしておきたいの」


 椅子を押し、窓際へ移る。高台からの王都は藍と灰の境い目に沈み、硝子に移ったわたしの指紋が曇りをひとつ残した。鳥のさえずりが硝子で細り、部屋に入るころには線のような音になる。


「わたしは“国家存亡の危機を救うために即位した、強い意志を持つ女王”――そう印象付けなければならない。

 あまりに弱々しいばかりだと、男爵家はもちろん、わたし自身さえ守れないかもしれない。できるかどうかわからないけれど、やるしかないわ」


 自分に言い聞かせるように息を整える。胸の前で指を握り、熱を確かめた。


 その肩に、ヴィルの掌がそっと置かれる。布越しの体温が肩甲骨の結び目をほどき、背筋から余分な力が落ちた。


 あの時代の面影が、今の青年の骨格にふっと重なる。左胸の奥に古い痛みが浮き、すぐ沈む。


「やれるだけやってみせろ。なにせ、おまえは“ミツル・グロンダイル”なんだからな」


 小さく息が跳ねる。


「何を言ってるの、今のわたしはメービスなのよ? 精霊魔術だって、本当に使えるかどうかも怪しいし、昔ほどの潜在能力だって……ないと思う」


「そういうことじゃない。おまえは、一度決めたら絶対諦めないやつだってことだ。その面倒くささは、俺が嫌ってほど見せつけられてきた。

 ……まあ、危なっかしいところはあるし、そこが放っておけないんだけどな」


 肩をすくめ、口を尖らせる。胸の奥の拍が、ひとつ速くなった。


「ひどいこと言うわね……褒めてるんだか貶してるんだか、さっぱりわからないじゃない」


「褒めてるのさ。俺はおまえのそういうところが、好きだ」


 その言葉と同時に、ヴィルは机に戻り、書類の束を半分、無言でこちらへ寄せた。羽根ペンの先を軽く試し、インクの点が白紙にひとつ滲む。


「す、好きって……!?」


 胸の内側が熱を持ち、視線が泳ぐ。頬の内側を歯でそっと押さえ、浮いた熱を沈めた。


「だって面白すぎるだろう。周りの目なんてお構いなしで突っ走るし、危なっかし過ぎて目離せないし、見ていてどこまでも飽きることがない。

 ――まあ、安心しろ。思い上がった連中ってのは、意外と脆いもんだ。俺は王配の立場もあって派手には動けないが、おまえの隣でしっかり支えるさ」


 言葉の芯が、からだの芯に届く。胸の内側にぬるい温度が広がり、指先の震えが引いていく。


「ま、まぁ……頼りにしてるわ。……あなたがいてくれると、安心できるのは確かだし」


 照れを隠すように、わたしも机へ戻る。紙の手触りが指腹にざらりと触れ、インク壺の縁に松脂の匂いが立った。封蝋の色が分隊ごとに違って、束が虹のように並ぶ。


「まずは、伯爵から送られてきた連絡書簡や、宰相派の動きが反映された報告書を洗いざらい確認しよう。どこかに突破口があるかもしれないし。

 そうだ……ねぇ、ヴォルフ。あなたも手伝ってくれない?」


 ヴィルは少しばつの悪い笑みで肩をすくめ、束をさらに二つに割った。紙縁が親指をかすめ、白い筋が一瞬だけ走る。


「書類仕事は得意じゃないんだがな……。ま、おまえ一人にさせるわけにもいかない。いいだろう、やるか」


 隣からふっと流れる呼気。頁を送るたび、重みは変わらないのに、指だけが軽くなる。不意に、指の腹へ小さな温度が戻ってきた。


 恐らくこの先は、宰相と伯爵との苛烈な駆け引きが待っている。国の行く末も、男爵家の明日も、その紙束の中でうごく。


 それでも、諦めないかぎり道は途切れない――そう信じる拍を胸に置き、わたしは一枚目の角を丁寧に起こしていく。


 硝子が微かに震え、遠い鳥声が細い線のまま、朝の光へ解けていった。


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