朱に沈む夜、わたしはまだ間に合うのか
「……あれから三週間、か」
夜の帳が落ちはじめ、王宮の奥で人目を避けるように先王の寝所の前に立つ。廊下の空気はひやりと冷えて、魔道ランプの光が壁の金具を白く撫でていく。天井の緋の垂れ幕がゆるく揺れ、細い影が床を横切っては消えていった。
「わたしは――何もできていない、のかな」
昼も夜も公務に追われ、それでも合間を縫って見舞いを続けてきたのに、父の衰えは緩やかに深まり、侍医司の「もって二ヶ月……」という吐息がみぞおちに重く残る。書類と会議に押し流されて、肝心の“次代”は一歩も進まない。焦りが喉の奥を乾かしていく。
このままでは、父が逝く前に何も手を打てず、ギルク兄の忘れ形見――リュシアンのことも宙に浮いたまま終わってしまう。そんな想像だけで、胃の底が重く沈んでいく。
◇◇◇
足元の石に落ちる光を見つめ、冷たい空気を深く吸い込む。扉の向こうで“父”が小康を保っているという事実は変わらないのに、刻限だけが近づいてくる気配が、首筋をひやりと撫でていく。
「陛下、いらっしゃいましたか……。侍医が『少しお眠りになられている』と申しておりますが……」
声をかけてきたのは、先王付きの侍女セラ。よく気がつく人で、瞳の底に不安が渦を巻いている。視線を返すと、彼女は息を呑んで一歩退いた。
いま入れば眠りを妨げるかもしれない。それでも確かめたい。眠れていることを、自分の目で見るだけでも、いまは必要だ。何より、このままでは自分を保てない。
「大丈夫、そっと見守るだけだから……」
胸の奥で筋が軋む。セラへ微笑を返すと、彼女は唇を震わせ、きゅっと頷いた。
みなが先王を案じながら、どうにもならない無力さに立ち尽くしている――その重さは、わたしにもよく分かる。扉へ向き直ると、胸郭の内側がきゅっと縮む。まだ息をしているだろうか。指先で金具を静かに取る。
冷たさが指腹に吸い付き、古い木の匂いが浅い呼吸に混じる。蝋の甘さが細く漂い、喉の奥で息がいったん浅くなった。
扉を押し開ける。ひんやりした空気といっしょに、静けさが胸の内へ沈んで、肩の力がすっと抜けていく。
厚いカーテンが光を遮る寝所には、魔道ランプの明かりがゆらぎ、長い天蓋の影が壁をゆっくり滑っていく。遠目に先王の寝台だけが淡く浮き、侍医司の医官が壁際に息をひそめて立っていた。
煎じ薬の辛い香りが残り、布ずれの音が息の隙間に触れていく。
「今はあまりお話は……」
足音を殺して近づくと、医官が申し訳なさそうに唇を動かす。そこで、寝台の上の身体が身じろいだ。やせ衰えた先王が、弱く首を振る。話したい、という意志が伝わる。
「父上。わたくし、メービスでございます。失礼いたします……」
できるだけ声を落として名乗り、絨毯を確かめるように進む。先王のまぶたが動いた。首筋のこわばりがほどけ、思わず膝が床を探す。頬はこけ、唇は血の気を失い、言葉が喉で止まる。
「……メービス……来てくれたか……すまぬな……いそがしいというのに……」
掠れた声音が脊柱の奥へ落ちていく。布越しに手をやさしく包む。薄氷のような冷たさの奥に、わずかな温度が残っていた。
奇妙なことだ。メービスにとって確かに“父”でも、“本来のわたし”には違うはずなのに――この時代で父娘として過ごした短い時間が、いつの間にか情を刻んでいる。
「いいえ、父上……そのように仰られては、わたくしのほうが申し訳なく存じます。ご容体はいかがでございますか……少しはお楽になられましたでしょうか?」
声をかけながら、頬の削げた影に胸が詰まる。光が弱く見える。それでも、父は咳をこらえ、わたしの顔を探してくる。
息が浅くなる。耳を寄せると、喉をわずかに震わせて、掠れた声がこぼれた。
「その後……ギルクの……子……どう……なった……」
侍医司の医官が「陛下、今は安静に」と制しかけるが、父はもう一度首を振った。削られていく命の端で、それでも気がかりはただ一つだということ。分かっていても、何度も繰り返されるたび、肋の内側が締めつけられる。
奥歯を噛むのをこらえ、わたしは微笑を作ってうつむいた。
「実は、いまだロゼリーヌさんからお返事を頂戴できず……兄ギルクの手紙も、お読みくださったのかどうかすら定かではございません。焦りはございますが、先方をお急き立てするのは得策ではないと考えております……それでも、手をこまねいているのはもどかしくて」
声が上ずる。三週間の停滞が、宰相の圧と重臣の蠢きに拍を合わせ、胸郭の内側がざわつく。急かせば離れる――その恐れも、同じだけ強い。
「……そうか……まだ……か。そなたも……心配であろう……。……わしには……もう……時間が……残されていないが……母子を……追い込むこと……わしは……望まぬ……」
弱い声でも、言葉の底ははっきりしている。兄を守り切れずに国の闇を許した王として、もう誰かを縛りたくないのだろう。わたしも、同じところへ立っている。
手をぎゅっと握り、息を深く落とす。
「ええ、わたくしも同じ思いにございます。お二人を力ずくでお引き離しするような真似だけは、決して致したくございません……。ただ、時が乏しいのも事実です。――父上、わたくし、務めてみせます。必ずや、事態をよき方へと動かしてみせます」
浅い呼吸の中で、父は小さく頷いた気がする。それだけで咳に変わり、侍医司の医官が「そろそろ……」と声を上ずらせる。
「どうか、ゆるりとお休みくださいませ。――なにとぞ、少しでも長く……ご存命でいてくださいませ」
額に手を当てる。微かな熱が指へ移り、そこに“まだ”が確かに触れている。父はその温度に気づいたのか、消え入りそうな表情でまぶたを閉じた。
布団を整えて寝所を出ると、廊下の冷えが肌に刺さる。
――春まで、もつかどうか。
そんな余命の中で、ロゼリーヌとリュシアンをどう救うのか。考えるほど、こめかみが重く疼く。
「陛下……いかがでしたか。先王陛下のご容態は」
「あまりよろしくないわ。気力だけでなんとか持ちこたえているようで……」
扉の前のセラは、肩をこわばらせて目を伏せた。
「この先、どうなるのでしょう。宰相様や重臣たちが、ずいぶんと“次代を決めよ”と騒いでいると聞きます」
細い声が神経に触れる。三週間、返事はないのに、圧だけ強まっていく。父の命の線が続くかぎり、なんとか保ちたいが――
「……何とかしなくちゃいけないとは思うのだけど、ね……」
曖昧にしか言えず、舌に金属の味が薄く乗る。セラの表情にも憂いがさして、わたしは歩幅を早めた。次の公務へ、執務室へ。
――もし、ロゼリーヌさんがわたしを頼ってくれるなら。どうして返事がないの……? ギルクの手紙を、どう受け止めたの?
◇◇◇
部屋に戻り、書類を片付け終えたころには、刻はもう深夜に近かった。公務の波に揉まれ、父への思いに胸を抉られ、体も心も底をつきかけている。寝台に横たわっても、思考が渦を巻いて眠りの縁が遠い。
侍医司の「もって二ヶ月」。ロゼリーヌの沈黙。宰相の思惑。どれも重なり合って、息の出口を細くしていく。
うつらうつらと沈みかけたとき、廊下を駆ける足音がどたどたと近づいた。扉を乱暴に叩く音。心臓が跳ね、夜着のまま開け放つと、コルデオが蒼白な顔で立っている。
「メービス陛下、失礼いたします! 緊急でお耳に入れたきことがございます」
「どうしたの、コルデオ……こんな夜更けに、一体何が起きたの……?」
先王の件が脳裏をかすめ、手がふるえる。コルデオは胸を押さえ、息を整えてから言葉を絞った。
「たった今報せが参りました。昨夜、王都近くの街道においてモンヴェール男爵家の執事が……何者かに襲われて重傷を負ったとのことです」
視界が一瞬、遠のく。
「なんですって!? それで執事は無事なの?」
「はい。偶然非番の銀翼騎士団員が居合わせ、瀕死のところを救護いたしました。しかしながら、犯人は闇夜に乗じて逃走を……。執事が申すには、持っていた“陛下宛ての書状”を奪われたとのことです」
わたし宛ての書状――ロゼリーヌさんの意向か。
「誰が、どうして……? いや、これはただの賊じゃない可能性が高いわね……」
唇を噛む。指先にじっとり汗がにじみ、紙と蝋の匂いが胸の奥へ沈む。廊下の金具が小さく鳴り、隣室からヴォルフ――ヴィルが現れた。わたしとは対照的に、落ち着いた声。
「それについては、こちらで把握済みだ」
「どういうこと?」
「メービス、まあ落ち着け。執事は深手を負ったが、命が危ぶまれるほどじゃない。俺が前から息抜き目的のため、と確保していた隠れ家に運んで、治療を受けさせている」
「……そうだったの。でも、どうしてわたしに教えてくれなかったの? こんな一大事なのに、黙っていただなんて」
詰問の調子になる。冷静な彼に比べ、わたしだけ空回りしている気がして、胸の中で熱が跳ねた。
「そうは言うが、ここのところろくに寝てないだろうが。なのに、こんな話を聞かせたら、きっとおまえのことだ、夜通しでも走り回りかねんだろ?」
図星で、言葉が出ない。頭で動くつもりが、感情で走ってしまう癖を、彼はよく知っている。
「……それは……」
「安心しろ……隠れ家は信頼のおける連中に警護させているから。いったん落ち着いて、夜が明けてから会いに行こう」
理屈では頷けても、踵が落ち着かない。
「あなたの言うことは、もっともね。……ありがとう。でも、今夜会いに行きたいの。どんな状況か、わたしの目と耳で確かめないと、落ち着けそうにないし眠れもしない。――そういうわけで、よろしく」
彼は苦笑を浮かべ、少し呆れたように肩をゆるめた。
「やれやれ……まったく、お前は本当に“昔”から変わらんな。一度決めたらブレーキが利かない。とんだじゃじゃ馬だ」
「そんなの自分でもよくわかってるわ。けど、一刻も早く事態を把握したいの」
「じゃあ、行くか? コルデオに馬車を手配させて、裏手から静かに抜ければ、気づかれない程度には動けるだろう」
「ええ、行きましょう。……ごめんなさいね、ヴォルフ。あなたにはいつも迷惑かけてばかりで」
「気にするな。そんなお前をカバーするのが俺の役割だ。――んじゃ、準備しよう。俺も少しばかり荷をまとめる。コルデオ、頼めるか?」
コルデオが苦笑し、足早に去っていく。わたしはナイトドレスの上に厚手のガウンを重ね、深夜の王宮を静かに後にする支度をはじめた。
男爵家の執事が襲われ、書状が奪われた。もう陰の手が動きはじめている。それなのに、じっとしていられるはずがない。父の余命が短いとわかっているからこそ、ロゼリーヌの意向を確かめ、母子を守る道を探さなければ。まずは執事から聞く――それが先だ。
夜気に沈む王都を、ヴィルの手配した馬車で抜けることになる。宰相に見とがめられずに門を出るには細心の注意がいるが、彼の導きがあれば、抜けられるかもしれない。
眠気と緊張が混じり、奥歯が重く噛み合う。指先の皮膚だけ先に熱を帯びる。三週間を空白のままにはしない。父上が息のあるうちに、ロゼリーヌとの糸を手繰り寄せる――それが、いまのわたしの唯一の望みだ。
階下から、車輪の支度の気配が静かに立ち上がる。ガウンの裾を指にからめ、暗い廊下を足早に抜ける。足音の間隔を数え、胸の内で呼吸をひとつずつ浅く整えた。
踏み石の結露が靴底の下で小さく鳴り、歩幅がわずかに伸びた。脇戸の金具が一度だけ鳴り、毛布の粗い目が手の甲へざらりと乗る。革手袋の中で指が一度きゅっと握られ、わたしは石段を降りた。




