小さな騎士と黒髪の巫女
わたしが男爵家の客室へ戻ったのは、午前中の話し合いがひと区切りついた後のことだった。質素とはいえ温かい昼食を済ませ、ロゼリーヌは「予定がある」と先に席を外している。
あまりにも慌ただしい半日だったせいか、椅子に腰を下ろすと大きく息が漏れた。
まるで王宮から遠く離れた別世界のように感じられた邸内――にもかかわらず、わたしの頭のなかでは、この数日で起こった出来事や、先ほどまでの会話が絶えず反芻されていた。
そんな頭の整理をするために、わたしは手帳を開き、さらさらと文字を記していった。
ペン先の黒が紙に吸い込み、インクの匂いが薄く立つ。――なのに扉の向こうで布が一度擦れ、床板が爪で弾いたみたいに、かすかに鳴った。
前世で美鶴だった幼少期から、書くという行為は“自分を落ち着ける儀式”のようなものだった。そして、王宮で公的な文書に署名するときとは違う、内面的な想いをあふれさせる作業。
ペン先が紙を走るたび、心のなかが少しずつ整頓されていく――はずだった。けれども今日は、どうにも落ち着かない。先ほどから扉の向こうに人の気配を感じるのだ。
「どなた……?」
わたしが少し警戒しつつ声をかけると、高い声がはじけるように響き、小さな足音が遠ざかっていくのがわかる。
「あれ……?」と不思議に思い、しばし耳を澄ませるが、足音はすぐに廊下の向こうへ消えてしまった。
「……もしかして、いまのはリュシアン?」
口に出してみると、なんだか胸が弾む。
頭のなかに小さな影が羽音のように掠める。
こちらをこっそり覗いてみたものの、見つかってしまって、ぱたぱた逃げていった――そんな微笑ましい想像につながって、つい頬がゆるんだ。
「会ってみたいな……彼に」
そう小さく呟いた瞬間、ロゼリーヌの言葉が胸をよぎる。
『……面会については、私が適切なタイミングをみて判断します』
もし勝手にリュシアンと接触すれば、ロゼリーヌの意思を踏みにじることになるかもしれない。ここで信用を失うわけにはいかないし、何より彼女を怒らせたくはない。
喉がからりと鳴り、拳の節が白む。理性がそう告げる一方で、いま胸の奥には、名前のない熱が小さな居場所を作っていた。
もしわたしが彼と向き合えば、どんな話をして、どんな表情で笑ってくれるのだろう――。そんな些細な空想が、やけに胸を弾ませる。
「……少しでいいから、会ってみたい」
高ぶる気持ちに背を押されるまま、わたしは部屋を出る。
石の目地から冷えが吸い上がり、靴裏にじかに染みる。吐いた息が白くほどけ、喉の奥にわずかな金属の味が残った。
北方の山岳地帯からの吹き下ろしが強いためか、王都の寒さより一段と厳しく感じられた。それでも、胸の内側の熱が薄い外套の下で静かに広がっていく。
男爵家の奥にある書斎。前日にロゼリーヌから「そこで勉強している」と聞いたことを思い出し、わたしは薄暗い廊下を進む。
扉の隙間から漏れるかすかな魔道ランプの灯り。そっと扉を開け、中を覗くと、思いがけず“雑然とした書斎”が飛び込んでくる。
高い天井まで詰まった書棚、羊皮紙の古い装丁、色褪せた背表紙の本。机や椅子にも書物が山積みになっている――革表紙と古い紙の甘い匂い。斜光の帯に舞い上がった埃が、金色の細い列になって揺れている。
――こんなに大量の蔵書があったのね……。地味な領地だと聞いていたけれど、こういう知的な文化が息づく家だからこそ、ロゼリーヌのような人が育ったのだろう。
そんな感想が浮かぶと同時に、「ん……?」というか細い声が耳に届いた。
見ると、積み上げられた書物の向こうから、まだ幼さの残る少年の姿が現れる。
ライトブラウンの髪、青みがかったグレーの瞳――。目が合った瞬間、少年は小動物のようにびくりと身体をすくませた。
「……あ、あなたは……」
高めの声が少し震えているけれど、同時に興味深そうにも聞こえる。
廊下の冷気が入り込まないよう、そっと背後で扉を閉める。呼びかける前、息を整えるつもりが半拍だけ遅れ、胸の奥で鼓動がひとつ跳ねた。
扉の蝶番が乾いた金属音をひとつ残し、部屋の気配が半歩だけ静まった。
木の匂いが一段濃くなり、埃の粒が斜めの光で細く揺れた。
「こんにちは、リュシアン殿。わたしはメービスといいます。……ええと、あなたのお母さまと少しお話しさせてもらっていたのだけれど、ここ、入ってもいいかしら?」
そう言うと、リュシアンは照れくさそうな笑みを浮かべながら、こくりとうなずく。
まだあどけない面差しの奥には「いまの状況をどう受け止めればいいんだろう」という戸惑いも含まれているように見えた。
そんな彼の姿に、わたしはやけに胸が高鳴るのを感じる。
王宮では“陛下”だの“女王”だのと呼ばれているわたしだけれど、ここでは“普通の人”として彼に向き合いたい、そんな思いが強くこみ上げるのだ。
いま、彼の手元にはかなりの分厚い本。めくる指先にはインクが付着しているところを見ると、何かを書き写していたのかもしれない。
「ぼくは……はい、リュシアンです。母上から『大事なお客さまがいらしているから、失礼のないように』って言われたけど……どうしたらいいのかわからなくて。それで……」
「部屋を覗いていた、というわけね?」
「はい」
リュシアンは肩をすくめながら恥ずかしそうに笑い、積まれている本の山をそっと撫で下ろす。「待ちきれずに本を読んでいた」気配が伝わってきて、わたしも自然と笑みを浮かべてしまう。
ロゼリーヌからは「読書好きな息子」と聞いていたが、こうして実際に見ると、まるで本の虫そのものだ。しかも手にしているタイトルをちらりと見れば、子どもには難解そうなものばかり。好奇心の強さがうかがえて、感心してしまう。
「あなたは読書好きなのね。今はどんな本を読んでいるの?」
わたしがそう尋ねると、リュシアンは目を輝かせ、少し誇らしげに表紙を見せてくれた。そこには「辺境の信仰と伝承と魔術的儀式について」とあり、どう考えても子ども向けではない内容だ。
彼の話によると、モンヴェール領にも古い儀式やお祭りが残っていて、その由来を探るために王都の図書館から本を取り寄せたらしい。
わたしは素直に感嘆してしまう。大人でも難しい文献なのに、こうして手を伸ばし、自分なりに理解しようとしているなんて。どこか兄ギルクやメービスに通じる、“深い学問への意欲”がにじんでいるように思える。
「それはすごいわね。こんなものを読み解くなんて、大人でも根気が要るでしょうに……偉いわね」
そんなわたしの称賛に、リュシアンは照れながらもうれしそうに笑う。
血のつながりを意識するのは不思議な感覚だけれど、「ギルクの子だ」と考えると胸に熱が込み上げる。わたしは王家の責務とはまた違う、一人の女性としての感性を揺さぶられる思いだった。
するとリュシアンは、机の端に置かれていた木製のおもちゃの剣に目を向け、ふっと照れを含んだ笑みを浮かべる。
「でも、勉強ばかりじゃつまらないから……ぼく、騎士ごっこが大好きなんだ。外で走り回って剣を振り回してるほうが楽しいよ」
木剣を振る腕に子どもの力みが走り、踵が床を擦って小さな音が尾を引いた。その瞳には、どこか真剣さも宿っている。
「あらあら」
ふっと笑みが漏れる。
応接間でロゼリーヌが嘆いていた――「息子は本が好きなくせに、最近は騎士ごっこに夢中で……」。
わたしは勝手に“物静かな本の虫”を想像していたが、実際にはこんなにも元気な一面を持っている。なんと微笑ましいのだろう。
「そうなのね。……なんだか意外。お母さまはてっきり、あなたを“文系タイプ”だと思っていたみたいだけど」
「母上は『もう少し落ち着いて』って言うんだ。ぼくが剣を振り回していると、危ないからって……でも、ぼくはこういうのが好きなんだよね」
リュシアンは、いかにも男の子らしく胸を張る。わたしは彼の自信たっぷりな表情を眺め、微笑をこぼす。
ロゼリーヌとしてはもう少しおとなしく机に向かってほしいのかもしれないが、子どもには子どもの希望や夢があるのだろう。その小さなズレを想像するだけで、愛おしさと楽しさがないまぜになる。
「確かに危ないところもあるから……ほどほどに、ね。でも、騎士ごっこってそんなに楽しいの?」
わたしが問いかけると、リュシアンの瞳が一段ときらめく。まるで、「これからたくさん語っていいの?」と聞こえてきそうな勢いだ。
それでもわたしは耳を傾けてあげようと思った。彼の夢を嬉々として語る姿は、まるで一条の光が差しこむようで、王家の重い空気などどこにもないように感じられた。
こんなに小さな子をめぐって、政治的な陰謀が渦巻いているなんて、本当にやり切れない。だからこそ、この子の無邪気さと大きな夢をどうか守りたい、と思うのだ。
「うん、楽しいよ! 周りの友達にも、“将来は騎士になるんだ”って言ってる子が多いし。ぼく、本で剣の構え方を読んだりするんだけど、やっぱり真似してみてもなんだか違って……。この前なんて母上に“もう少し静かに”って怒られた。机とか椅子に傷がついちゃうって……」
「そりゃあ、お母さまも困るわね。……わたしも剣なら少し心得があるから、どこか広い場所で相手になれたらいいんだけど」
少し冗談めかして言うと、リュシアンは「ほんとに?」と期待をこめた表情を浮かべかけ、すぐに口をつぐんだ。「でも、あなたは……ええと……」と、遠慮するように目を伏せる。
――“事情ありげなお客さま”に、騎士ごっこを頼むのは無作法じゃないか? そんな配慮が、幼い胸に渦巻いているのかも。
ロゼリーヌが王家と距離を置こうとしていることはリュシアンにも伝わっているのか、彼なりに母親の苦しみや立場を察しているようで、心が締めつけられる思いがした。
「いいのよ、遠慮しなくても。わたしの小さいころって自由がなかったの。だから、あなたみたいに元気いっぱい動き回れる子が、正直うらやましいくらい」
「そっか……」
リュシアンは「自由がなかったって、どういうこと?」と尋ねたそうな表情を浮かべたが、深くは聞いてこない。
わたしを気遣ってくれているのか、それとも余計な話をするべきではないと感じ取っているのか。子どもにしてはずいぶん空気を読むな……と、改めて感心してしまう。
そんなふうに、二人きりで会話を交わしていると、机の端に広げられた紙切れが目に留まった。「辺境地域の祭礼――冬至と春迎えの風習」とある幼いメモ書きが、いかにも彼が書き写したふうを醸している。
「すごいわね。こんな難しそうなことを調べてるの? お母さまに言われてるの?」
尋ねると、リュシアンは満面の笑みを浮かべ、「ううん、興味があるからやってるんだ」と言った。
将来は騎士になって各地を巡ってみたい、あるいは王都や北の山岳、港町まで旅して、各地のお祭りや文化を学びたい――そんな夢を語り出す彼の表情は、眩しすぎるほど輝いている。
王都に行くなんてことになったら一大事だろうに、それを恐れず目をキラキラさせる。
ロゼリーヌの不安をよそに、こんなにも広い世界を見たいと願う子が、わたしの心を激しく動かすのだ。
「……とても素敵ね。旅をしながら地方の文化やお祭りを学ぶって、騎士だけじゃなく、学者や探検家の道も開けるかもしれないんじゃないかしら」
「うん! 母上は危険なところへ行くのを嫌がるかもしれないけど、でも国の外にはどんな場所があるのかなって考えると、わくわくしてくるんだ。でも……母上が聞いたらあきれちゃうかな」
そう言って、リュシアンは少し照れたように笑う。子どもらしいあどけなさと、自分の夢をまっすぐ語る瞳――そんな姿が愛おしくてたまらない。
いつも人を遠ざけてきたわたしの王家での暮らしとはまるで違う、家族のぬくもりが、こんな小さな書斎にまでも行き届いているように感じられる。
――ああ、なんて尊いの……。
胸の奥がきゅっと締まり、言葉を失う。
拳をぎゅっと握ると指の節が白む。――奪わせない。いま目の前の、あのまっすぐな光だけは。
もし、自分が本当に子を持ったら、きっともっと深く、もっと強烈に心を揺さぶられるのだろう。
王宮で「子を産め」と急かされたときには、そんな感情はまったく芽生えなかったのに、いまこの瞬間は違う。わたしは何かに目覚めてしまったような気がする。
「ねえ、メービスさま。……あれ? 呼び方はこれでいいのかな……?」
リュシアンが遠慮がちに首を傾げる。
その遠慮深い仕草まで愛おしく見える。わたしは笑みを浮かべ、「うん、呼びやすいように呼んでね」と答えると、少年は少し安心したように微笑み返す。
「あの、ぼく、騎士ごっこをするとき、よかったら見に来てくれない? 母上はいつも忙しいから……たまには誰かに見てもらいたくて……」
その無邪気な誘いに、わたしは内心くすぐったさを覚えた。けれど同時に、ロゼリーヌの存在が頭をかすめる。
彼女の意思を無視するわけにはいかないし、勝手に約束したらまずいかもしれない。
それでも、彼の純粋な期待をいきなり突き放すことなんてできなかった。わたしはできるだけやわらかい声で応える。
「ええ、機会があったらぜひ。――でも、お母さまがお許しになったら、ね」
リュシアンは「あ……そっか」と苦笑して、もう一度照れたように笑う。その横顔には兄ギルクの面影が宿る気がして、胸の内側に、甘い痛みが細く走った。
ギルクはもういないけれど、こんなふうに元気な子が将来を夢見ているなんて、わたしには奇跡のように感じられる。
そのとき、書斎の扉がそっと叩かれる音がした。
木肌を二度、ためらうように叩く音。扉の隙から冷たい空気が細く滑り込み、紙の匂いをゆっくり薄めていった。
「……リュシアン、騒がせていない? 変なことを言っていないでしょうね」
振り返ると、扉の向こうから現れたのはロゼリーヌ。先ほど応接間でわたしと話していたときより、表情が少し硬い気がする。
指先で裾をつまむ仕草が一瞬止まり、香の淡い気配だけが遅れて届く。さすがに、彼女の許可なくリュシアンと会っていることが気に入らないのかもしれない――と思ったが、彼女は何も咎める言葉を口にしなかった。
ロゼリーヌは目を伏せながら、わたしの表情を探るようにしている。
そこには「勝手に息子に接触しないで」という警戒感と、「どんな話をしていたのか知りたい」という好奇心が混在しているのがわかる。視線がわたしの指、膝、顔へと順に走り、まなざしが暖かな灯りに一瞬だけ細くなった。
「リュシアンから、楽しいお話をたくさん聞かせてもらいました。あんなに本を読んでいるのに、騎士ごっこまで好きだなんて、すごいお子さんですね」
わたしが微笑むと、ロゼリーヌはリュシアンにちらりと視線をやり、短く息を吐いた。
「はあ……そうです。よく言えば多才、悪く言えば落ち着きがないんです。――リュシアン、あなたまで急にメービスさんを引き留めていないでしょうね」
「う、ううん! そんなつもりないって……」
リュシアンは慌てて両手を振る。その焦った仕草があまりにも微笑ましくて、思わず笑みをこらえきれない。
読書家なのに動きまわる、というギャップが可愛らしさを際立たせているのだろう。
しかし、ロゼリーヌはそんなわたしの反応をちらりと見て、複雑そうな顔をした。
王家と自分の息子が打ち解けるのを避けたい気持ちと、実際にこうして和やかに話しているのは決して悪いことではないという安堵がせめぎ合っているのだろう。
とはいえ、まだわたしを信用しているわけではないというのも伝わってくる。だからこそ、わたしは刺激しないように、穏やかな笑顔のまま何も言わずにやり過ごす。いつか、彼女が心を開いてくれたら――それだけを願っている。
「……“メービスさん”、そろそろ応接間に戻りませんか? 母上が少しお話ししたいそうです。王家の客人をおもてなしできる機会なんて、滅多にありませんから」
そう切り出すロゼリーヌに、わたしは素直に「ええ」と頷いた。
もちろん、まだ名残惜しい気持ちはある。リュシアンと話していると、わたしが今まで知らなかった温かい感情が胸を満たしていく――まるで母性をくすぐられるような、不思議な気持ち。
そんな気配を抱えつつ、わたしは書斎から出ていく。
去り際、ふと振り返ると、リュシアンが木の剣を握ったままこちらを見つめていたので、にこりと微笑むと、彼は赤面しながら小さく会釈した。
廊下へ出た途端、胸がじんわりと熱くなっているのを感じる。できるだけそれが表に出ないよう息を整えた。
「……リュシアン殿は、騎士になりたいのかしら?」
わたしは並んで歩くロゼリーヌにそう尋ねる。彼女は少しだけ顔をしかめたが、真剣な声音で答えてくれた。
「息子はそう言っていますが、騎士の道は危険がつきまとうし、正直遠ざけたい気持ちが大きいです。――それでも、もしあの子が本気で望むなら、止めるのも酷でしょう?」
ロゼリーヌの瞳の奥には、母親ならではの葛藤が色濃く滲んでいた。
愛する子どもを危険に晒したくない。でも、本人の意志を無下にすることはしたくない――そんなジレンマ。
わたしは彼女の横顔を見つめ、胸がぎゅっとなる。ほんの少し勇気を出して言葉を絞り出す。
「子どもが夢を抱くのは自然なこと……。でも、心配も尽きませんよね。……ロゼリーヌさんも、ギルク兄が出征したと聞いたとき、本当は止めたかったのではないですか?」
ほんのさりげない問いかけ。けれど彼女は足を止め、うつむいてしまう。廊下はほの暗く、奥では侍女たちの足音がわずかに響いているだけだ。
ロゼリーヌは小さく息を吐いて、少しかすれた声で答えた。
「……ええ。心のどこかでは必死に止めたかった。でも、彼には国を守る義務があったし、足を引っ張るのが怖かった。もしあの時、勇気を出せていればと……」
わたしが何か言葉を探そうとするより先に、ロゼリーヌはまた歩き出す。涙を見せることもなく、ただ必死に前を向こうとしている。その姿があまりにも痛々しく、わたしも胸を締めつけられる思いだった。
もしギルクが生き延びていたら、彼女を守るためにどんな道を選んでいただろうと想像して、やるせない思いになる。
「……子どもって、親の思惑通りには育たないものです。リュシアンは私には理解できないくらい色々な夢を語ってくるけれど、親としては心配も多くて。それでも、あの子が自らの足で歩いていくのを見守ってあげるしかないんでしょうね」
その言葉には、一抹の寂しさがにじんでいた。でも同時に、「子を見守るのが母の務め」という静かな決意も感じられる。
わたしは短く相槌を打ちながら考える。子どもを産み、育てるというのは、こういう迷いとの長い戦いなんだろうか、と。
石の冷えが足首に触れ、外套の内側で脈がひとつ深く打った。
前世を通じて、わたしにとっては未知の領域。子どもを持つなど、思いもよらなかった。
けれど、リュシアンが見せてくれた無邪気な笑顔や、生き生きとした瞳を思い出すだけで、わたしの心は強く揺さぶられる。「守りたい」「助けたい」という衝動が抑えきれなくなるのだ。
――母親になるって、こんなにも大変なことなんだ……。
あふれてくるのは、自分でも説明のつかない情感。王宮で“世継ぎを産め”と押しつけられたときには湧かなかったものが、リュシアンと接したわずかな時間で芽生えてしまった。
あの笑顔を奪われたくない。純粋な夢を踏みにじられたくない。もし、自分が母親になれば、彼女のように必死で子を守ろうと思うのだろうか――そんな問いが、頭をもたげる。
やがて二人で応接間の近くまで歩いた頃、ロゼリーヌが小さく息をつき、わたしのほうへ視線を向けた。淡い光に浮かび上がる彼女の横顔には、入り混じった複雑な感情がにじんでいて、その微妙な陰りがわたしの胸をチクリと刺す。
「……メービスさん。いえ、女王陛下」
「はい」
「あなたはリュシアンを見て、どう思われましたか?」
その問いにわたしは少しだけ言葉を探したが、結局は素直な思いを口にするしかない。
「リュシアン殿と話して、とても温かい気持ちになりました。今まで経験したことのない感覚というか……。だからこそ、あなたの気持ちも、わたくしなりに少し想像できるようになった気がするのです。――どんなことがあっても、わが子だけは守りたい……そんな思いを」
ロゼリーヌはふいと視線を伏せ、かすかに唇を震わせたように見えた。
遠くで侍女たちの足音が聞こえる気配があるが、この場にはわたしと彼女の息遣いだけが静かに漂っている。
ややあって、彼女はかすかな苦笑を浮かべ、低く呟くように言葉を続けた。
「そうですか……たしかに、私には“守らなければならない子”がいます。ですから、たとえ相手が“女王陛下”であろうとも、決して退くことはないのです。
この気持ち、あなたが本当にリュシアンの味方でいてくれるのであれば……いずれわかるでしょう」
それは決して完全な拒絶ではなく、かといって無条件の受容というわけでもない。あくまで彼女は“母”として慎重に一線を守りつつ、“あなたを見極める”という意志を表明している。
わたしは胸の奥でそっと息をのみ、「はい、必ず証明してみせます」とだけ答えた。
自分の中にこれほどの情が芽生えるなんて、まったく想像していなかった。
前世――深淵の血族として生まれ、両親を上層部に殺され、解呪の鍵である自らを呪い、その身を精霊子の器として捧げるしかなかった。一度は命を落とし、弟の弓鶴に取り付く亡霊として、ただ両親が遺した願いを叶えたくて、弟の魂を取り戻したくて、暗い道を歩み続けた。
あの頃のわたしは、“母子の絆”など遠い別世界の話だと思っていた。けれど今、この身に感じるのは、かつてないほど強い熱。なんと呼んでいいのかは分からないが、“この母子を守りたい”という思いが、鼓動のたびに募っていくのを感じる。
――いつかわたしも、こうして子を愛し、苦悩しながらも喜び合う日がくるのだろうか……?
そう思うと、胸が甘く切なくなる。もし本当にそんな未来があるなら、王家の血筋や“黒髪の巫女”という重荷を、どうやって乗り越えればいいのか――まだ皆目見当がつかない。
それでも、リュシアンの笑顔や、ロゼリーヌが見せる“母としての顔”を目にできたことで、わたしの心は不思議な勇気を得ている気がした。
きっと“母になる”というのは、恐れだけで済ませてはもったいない、圧倒的な喜びと覚悟が混在する大きな道なのだろう……。
そんな予感が、わたしの中で静かに芽生えつつあった。
前世との対比
深淵の血族としての過酷な宿命 vs. いま芽生えはじめた母性的感情
メービス(ミツル/美鶴)が「黒髪の巫女」として王宮に生きるいまの人生では、リュシアンの存在を通じて“子どもを愛し、守りたい”という温かい感情が芽生えつつあります。けれど、それは彼女自身にとってまったく新しい体験だといえます。なぜなら、前世では“深淵の血族”として生まれ、血塗られた過去を背負ってきたからです。
前世の環境 家族の喪失と“深淵の宿命”
幼少期の家族崩壊(柚羽家襲撃事件)
●わずか十一歳のころに家族が襲撃され、両親が命を落とす。
●弟・弓鶴は“自己防衛本能”から危険な流儀「黒」(デルワーズを再生させるに足る精霊器としての潜在能力。ただし暴走と背中合わせ)に目覚め、犯人を皆殺しにしてしまう。
●これにより、“普通の家族”としての幸せが一気に崩壊し、両親の愛情を十分に感じる間もなく生き別れるような形に。
虎洞寺氏(母方の伯父)による保護
●襲撃事件後、“深淵の血族”三家の娘であると知らされ、深淵の宿命と両親の死の真相を知る。
●両親は“解呪”を目指していたが、血族内の反対派によって暗殺された――自らが素質をもつ存在ゆえ、宿命的な争いに巻きこまれたと痛感する。
解呪の捧げ物としての日々
●弟を守るため、自身が“柚羽家の後継者”として名乗りを上げる。
●“深淵の巫女”という名ばかりの務めや、精霊子の器を拡大するための苛酷な修行・生き地獄(変質増殖する受容結晶体により内側から身体を破壊される)を味わいながら、解呪の儀式の準備を進めざるを得ない。
●結果的に肉体が限界を超えて死亡し、“デルワーズ”により魂・記憶を弟の身体へ落とし込まれるなど、普通の家族愛や自己実現とは程遠い、血塗られた運命を辿る。
“家族”を取り戻したい一心
●この暗い過去には、何より「弟を救いたい」「両親が遺した願いを叶えたい」という行動原理があるものの、“母子の絆”や“穏やかな家庭”といった概念はほとんど育まれなかった。
●“深淵の血族”が抱える陰謀と使命感によって、自分自身を犠牲にし続ける日々。
現在のメービス:温かな家庭と“母性”の芽生え
まったく異なる世界観
●王宮で“黒髪の巫女”として忌み嫌われた過去はあるが、モンヴェール男爵家でリュシアンと触れ合ううちに、“普通の家族”や“母と子”の温もりを垣間見る。
●前世のように殺伐とした陰謀だけでなく、「家庭で育まれる愛情」や「子どもの将来を見守る喜び」に対して、強い関心と憧れを抱きはじめている。
リュシアンとの出会いがくすぐる母性
●リュシアンの無邪気な夢や好奇心が、前世では得られなかった“普通の子どもらしさ”を体現しており、それがメービス(ミツル/美鶴)の心を強く揺さぶる。
●「もしわたしが母になったら……」「こんな小さな命を守り抜くって、どんな気持ちだろう」といった思いが強烈に芽生え、“黒髪の巫女”の苦しみや政治的責務を一時忘れるほどの衝動を感じている。
“守りたい”という感情の変化
●前世では“弟を救うための犠牲”として動いていた面が強いが、いまのメービスは“子どもの夢や成長を守る”という優しい動機を抱きはじめている。
●別の人生(メービスの人生)を歩むことで初めて、“母としての愛情”の可能性を見出している。
二つの人生を比較するポイント
愛情の質
●前世:深淵の血族の闇、両親の宿願と弟の救済、“解呪”という悲壮な目的が中心。愛情はあっても常に血塗られた宿命に縛られていた。
●現在:ロゼリーヌ母子との交流で初めて触れる、普通の家族の息づかい。そこに生まれる穏やかで優しい感情が、前世の「守らねばならない」という義務感とは異なる暖かさを伴う。
自己犠牲と自己実現
●前世:弟の体に魂が落とし込まれたり、宿願のために精霊子の器として命を使い潰されるなど、ほぼ自己犠牲一色。
●現在:リュシアンを守りたいという思いがあるものの、それは“王家の政治”ではなく、“わたし自身が守りたい”という能動的な感情。自己実現(母親になる/母性を育む)につながる要素が見えはじめている。
希望と未来への視野
●前世:過酷な運命に翻弄されており、“自分の未来”を思い描く余地が少なかった。
●現在:リュシアンの“将来”を思うことで、「もしわたしが母になったら……」というビジョンを初めて持ち始める。これはメービスにとって大きな成長であり、前世にはなかった選択肢だといえる。
物語全体への影響
●母性への目覚めにより、メービスの行動基準が“国や政治”だけではなく“守るべき人の幸福”にシフトしていく可能性が高い。
●前世での経験から“血にまみれた宿命”や“孤独な戦い”に慣れていた彼女が、今生では“あたたかい家庭”という新たな世界観に目を向けられるようになった。
●とはいえ、深淵の血族の因縁や王宮の政治問題は残っており、メービスの母性・ロゼリーヌ母子の愛情が、今後どのように試されるかが大きな軸になる。
最後に
前世の「愛する存在(弟)を救うため、自らを犠牲にする道」から、今世では「子どもを守りたい、母になることへの憧れ」が生まれつつある。
この“自分の犠牲”から“共に生きる喜び”へという変化が、心境に大きな転換をもたらしているわけです。




