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巫女の決意──揺れる母子と王家の隠謀

 翌朝、わたしは早めに目を覚まし、窓から外を見やった。


 屋敷の敷地には薄い霧が立ちこめ、木々の枝には霜が白く降りていた。まばゆい朝日にかすかに照らされ、地面から蒸気が立ちのぼる。揺れる白が足元を包む。その一歩先で、記憶もまた淡く滲んだ。


 霜の白が陽にほどけ、窓枠の金具が冷たく指に触れる。胸の拍がゆっくり数を落とし、背中のこわばりが布に溶けた。――眠りの浅さは残っているのに、喉の渇きだけが静かに退く。


 やがて侍女が朝食を案内しに来る。わたしは黒髪のまま廊下を歩き、昨夜と同じ小食堂へ赴く。そこにロゼリーヌがいて、簡単なパンとスープと果物が用意されていた。気まずい沈黙が漂うなか、わたしたちは軽く会釈し合い、テーブルに着いた。


 椅子脚が石を擦る小さな音。湯気に混じってバターとハーブの匂いが立ちのぼり、指先の冷えがじわりと引いた。


「……リュシアンは、あなたに対して、『珍しい客人が来た』と興味があるようです。会いたいと言い出すかもしれませんが、面会については、私が適切なタイミングを見て判断します」


 言葉の前に小さな吸気があった。視線が一度だけ窓へ流れ、それから――告げられる。わたしは昨夜の会話を辿り、口角だけをわずかに上げた。


「お任せいたします。彼に無理させるつもりはありません。――ところで、もし差し支えなければ、わたくしから、あなたにしか話せないことをお話したいと思っているのですが……」


 茶の表面に浮かんだ泡が弾け、わたしの手の甲に熱が移る。音のない時間が、薄い紙のように折り重なる。


「なんでしょうか。たとえば?」


 スプーンが陶を小さく鳴らし、音の輪が湯気の上でほどけた。


「わたくし自身が経験してきたこと、わたくしが知りうる範囲のこと、できるだけなんでも。そしていま、密かに王宮で起こりつつある動き……もあります。あなたに知ってもらいたい半面、重い話もあるので、無理にとは言いませんけれど」


 ロゼリーヌは少し考え込むように瞳を伏せ、やがて「今日の午前中は特に予定がありませんから、お付き合いします」と答えた。表情は依然として硬いが、その奥にわずかな興味が灯る。


 わたしが立場上は女王なのに“王家を嫌う”と言い切ったこと、そして実は“黒髪の巫女”であったという事実――その二つが、彼女の好奇心の芯を刺激しているのだと、呼吸の深さで察する。


 こうして、わたしたちは再び応接間に腰を据え、昨日の続きを話すことになった。


◇◇◇


 暖炉に薪が追加され、侍女が朝の茶を淹れてくれる。


 周囲に聞き耳を立てられないよう、扉の外に見張りを立て、わたしは“黒髪の巫女”を公にしないための最低限の配慮を頼んだ。あくまでロゼリーヌが許容する範囲で、邸内の者にも口止めをしてくれるらしい。


 扉の金具がわずかに鳴り、香り立つ茶葉の蒸気が空気の層をやわらげる。


 これまでの一連の対応を見れば、彼女がどんなに王家を憎んでいても、わたしを故意に陥れようとしていないのが分かる。だからこそ、わたしも誠意をもって話そうと思えた。


 そこで、わたしは兄ギルクが先王へ宛てた遺書にも等しい書簡の内容や、王宮内でリュシアン殿を担ぎ上げようとする動きが察知されたことを説明し、さらに自身がその流れを抑え込もうとしている現状を包み隠さず語った。


 ロゼリーヌは時折、鋭く言葉をはさむ。

 たとえば「陰謀を抑える、本当に可能なのですか?」とか、「反感を買い、正体が暴かれるのでは?」とか「結局追放されてしまうのでは?」など、核心を突く問いが続く。

 そのたび胸の中央で拍がひとつ跳ねる。無関心よりずっとましだと、掌の温度で言い聞かせる。


 椅子の背を指でなぞる。暖炉の赤は低く、隣室の扉はぴたりと閉じていた。取っ手の金具がひやりと指先に触れるのを確かめ、息をひとつ落とす。


「わたくしの女王としての立場は、少なくとも五年は安泰でしょう」


 その宣言に、ロゼリーヌはわずかに眉をひそめる。


「随分と自信がおありなのですね。何か根拠があるのでしょうか?」


 彼女の声は落ち着いているが、瞳の奥には“あなたの計算を聞かせてちょうだい”という光。わたしは一度視線を下げ、小さく笑みを作ってから語り始めた。


「まず、一つ目の理由です。今のリーディス王国は、国家再建が始まったばかりであり、わたくしという“象徴”がいなければ成り立たないこと」


 言いながら、目の前の地図を軽く示す。焼け跡の印が鈍い色で点在し、その冷たさが紙越しに伝わる気がした。


「わたくしとヴォルフ殿下で進めている復興のための施策は、民衆だけではなく、貴族諸侯からも評価されはじめています。しかしながら、まだ軌道に乗り切ったとは言いがたい。そんな状況で、わたくしを排除したら、国全体が混乱して、復興自体が頓挫する可能性が高い」


 肋骨の奥で、わずかに拍が跳ねた。喉の裏に、言葉より早く緊張が溜まっていく。


「ですが、あなたには黒髪の巫女であるという弱みがある。この点についてはいかがお考えですか?」


「たしかに、仰る通りです。ですが、それは彼らにとって大きなリスクを伴います。

 考えてもみてください。先王の意向とはいえ、そもそも『救世の緑髪の巫女の正体が、実は隠されていた王女だった』という筋書きを作ったのは彼ら自身です。それを覆せば『民衆を謀った』と騒ぎになりましょう。

 当然王家の権威は失墜し、求心力も失われる。下手をすれば暴動から内乱に発展し、他国の介入を許す可能性すらあります」


 わたしはそこでひと呼吸置き、ロゼリーヌの反応を窺う。彼女は軽く茶をすすってから、視線だけで「続けて」と合図してきた。


「そして二つ目の理由。王家の直系で残っているのは、わたくしとリュシアン殿だけであること。

 リーディス王国は古来直系を重んじます。遠縁を探したところで、非常時の国を率いるだけのカリスマや求心力を備えた者はいない。

 つまり、わたくしという救世の英雄は、彼らにとって利用価値が極めて高いというわけです。政治的にも経済的にも大衆心理的にも、わたくしを性急にすげ替えるという道理はありません。」


 ロゼリーヌの視線が、カップから机へ、そしてわたしの指先へと滑った。


「なるほど……」


 湯気がカップの縁でほどけ、彼女の指が持ち手を一度だけ持ち直す。胸の内に、慎重な秤の皿が見える気がした。


「もちろん、“短期的に国を混乱させてでも王を追い落とし、他国へ領土を割譲しようとするような貴族がいれば”別です。そういう者たちが現れたら、わたくしは一瞬で排除の標的にされるでしょう」


 そう言い切ってから、わたしは椅子に腰を下ろし、声のトーンを少し落とす。


「ですが、大半の貴族にとっては領地・財産・名誉こそ最優先です。短期決戦で内戦を起こせば領地は荒れ、人は離反し、他国軍が入れば主導権は外部に移る。外から糸を引かれ、自分も使い捨てにされるリスクの方が遥かに大きい」


 ロゼリーヌが少しだけ目を伏せ、「たしかに……」と応じる。わたしは軽く手を広げる。


「『国を売ってでも自分だけ得をする』発想が成り立つのは、よほど狂信的な集団か、隣国から圧倒的な利権を約されている場合に限られます。

 ですが、そんな“教科書通りの成功譚”を、わたくしは聞いたことはない。たいてい最初に裏切った者から真っ先に切り捨てられ、混乱だけが残る――それが常です」


 ロゼリーヌはうっすらと微苦笑を漏らす。


「つまり、当面の情勢を考えれば、わたくしが失脚する恐れは低いと言えるでしょう。

 ……もちろん、理屈抜きで暴走する連中が皆無とは限りませんけれど、もしそういう手合いが動いたなら、逆に“大義名分”をもって粛清しやすいともいえます。そんな筋の悪いクーデターには、大半の貴族は協力しないでしょう。利益がまるでないのですから」


 喉の奥に乾いた空気が触れ、掌の熱がカップに移る。

 聖職や保守層の一部が“象徴の交換”を夢想するなら――その揺れは織り込む、と胸の内で線を引く。直系が二人しかいない脆さも、見ないふりはできない。だから、理屈だけでなく手を打つ。


 わたしは言い切ると、背もたれに軽くもたれかかった。ロゼリーヌはしばし沈黙を保ち、置かれたカップをゆっくりと両手で包む。


「……なるほど。理に適っています。――ただ、理は道筋を示すけれど、いつも真実に触れるとは限らない」


 その瞳には、まだ薄い警戒の膜があった。けれど、さっきよりも耳は開いている。わたしは肩の力を少し抜き、微笑みをひとつ置く。


「ええ、油断は禁物です。ですが、いたずらに不安を抱える必要は薄い。少なくとも“今”は、そう考えています」


 言い終えると、掌の熱がカップに移り、指の跡が白く曇った。部屋の空気は暖炉に馴染み、金具の冷えがわずかに和らぐ。

 

 ロゼリーヌは思案げな面持ちで、静かにカップを唇へ運ぶ。

 一方わたしは、彼女が何を思っているのかを推しはかりながら、胸の奥で息を整える。


 この国の行く末を左右するのは、いまどこまで彼女の協力を得られるか――そして、ギルクの子であるリュシアン殿がどのように未来を選ぶかに、確かにかかっている。


◇◇◇


 暖炉の火が一度、ふと小さく揺れた。あたたかいはずの部屋に、時間だけが静かに降り積もっていく。


 昼の光が少し傾いたころ、手帳の布地が爪先に柔らかく返った。

 紙は乾いて軽い。封蝋の縁はひんやりとして、冷えだけを指先に置いていく。蝋の香りが微かに立ち、紙のざらつきが肌に残る。


「ロゼリーヌさん……これは、兄ギルクがあなたに宛てた手紙です。もしお読みになる気持ちがあれば、どうぞ。――まだ心の準備がないのであれば、わたくしが責任を持って保管しておきますが」


 その瞬間、ロゼリーヌの瞳が大きく揺れた。

 亡くなった愛する人からの手紙。そこに宿る痛みの形を、彼女は知っている。読みたい気持ちと、読めば裂ける怖さとが、まぶたの奥で押し合う。


「……兄が最期まで守りたかったリュシアン殿の未来のこと、そしてどれほどあなたを愛していたか――それが書かれています。

 申し訳ありませんが、わたくしは先王の勧めで全文を拝見いたしました。わたくしが語れることはここまでですけれど、本来これはあなたが読むべきものです」


 彼女の喉がわずかに上下し、視線が封蝋と窓外の光を行き来する。その往復の速さが、迷いの長さを物語っていた。


 ロゼリーヌは一度、手紙に視線を注ぎ、わずかに手を伸ばしかけて止めた。そして、顔をそむけて浅く息を吐く。まぶたがかすかに震え、唇の端がわずかに強ばる。その一瞬の反応が、躊躇の深さを語っていた。


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