辺境に降る星と、二通の手紙
ふと、会話の合間に思考がめぐる。
湯気が薄い膜となって縁を曇らせ、冷えた取っ手の温度が指へゆっくり移る。
窓外の白がテーブルクロスの皺を撫で、指腹で触れたように光が移ろった。
わたしは、元の時代の祖父であるグレイハワード先王陛下の、メービス伝説に関する研究資料を思い浮かべていた。それらとメービスの父親の証言を手繰り、わたしなりに彼女の立場となって過去を想像する。
◇◇◇
わたしは閉じ込められていた“白銀の塔”のことを、ありありと思い出していた。
遠ざけられていた幼少期の記憶。母は姿さえ見せず、侍女たちはどこかよそよそしい。巫女として生まれた子どもは“厄災を呼ぶ”と囁かれ、扉の外のひそひそ声が薄い壁を震わせる夜があった。
父である王と、兄だけが秘密裏に塔を訪れ、わたしにたくさんの書物を与えてくれた。
古い言い伝え、歴史書、精霊伝承、魔術理論、紀行文や料理本まで――紙の粉っぽい匂いと乾いた革のざらつきが、狭い空気に沁みる。活字の海に身を沈めるたび、黒髪である孤独は、ほんの少しだけ温度を落とした。
冬の風が石の目地で細く鳴り、梯子段の一段がきしむ。小さな音が胸腔の奥で長く残った。
いつか外へ出られるなら、知識はきっと役に立つ。そう信じた。実際、魔族大戦で聖剣探索の旅に出たとき、古文書の読解は骨身に馴染む道具になったのだから、どこか皮肉でもある。
けれど、外へ出ても王家の都合は変わらなかった。ウィッグで“緑髪の王女”を装う。縫い目がこめかみを締め、香油の匂いだけが笑みを形にした。
魔族との戦いに勝利したとき、人々は“救世の巫女”と熱狂したが、胸の中心は空洞のまま。兄は戦死し、父は病床。玉座へ進む以外の道が、どこにも見当たらない現実だけが残る。
――もし兄ギルクが生きて、正妃との離縁が成立し、ロゼリーヌを正式に妃として迎えられていたなら。彼女は王家に居場所を得て、リュシアン殿も安定を得られたのかもしれない。そう思うほど、肋骨の内側がきゅっと縮み、舌の裏に薄い鉄の味が滲んだ。
いま目の前にいるロゼリーヌは、まさにその“もしも”を叶えられなかった痛みを抱いている。彼女の厳しさは当然なのだと、わたしは静かに頷くしかない。
◇◇◇
気づけば、湯気は消え、杯の底が陶の白を戻していた。
ロゼリーヌはためらいがちに侍女を呼ぶ。新たなお茶や菓子を勧める声――けれど、彼女は小さく首を振る。
「結構よ。それよりお部屋を用意してちょうだい」
「かしこまりました」
銀のトングが茶菓の皿に触れ、細い影がクロス目地を斜めに渡った。ロゼリーヌは、窓の外を見やって小さく息を吐き、続けた。
「……日も沈みかけております。街までは距離がありますし、陛下には当家にてお泊りいただくのがよろしいかと」
取っ手の金具がわずかに触れ、茶の表面に張った薄い膜が、灯の揺れに合わせてほどけた。
わたしは予定表を何度も頭にめくり、苦笑を押しこめる。ここは北方辺境の地。話も収束しない。一晩腰を据えるほかないだろう。
「ご配慮痛み入ります。まだお話したいことが、たくさんございますので」
「――失礼ながら申し上げますが、あなたを手放しで歓迎できる状態ではないことは、どうかご理解ください。リュシアンを危険にさらさないと証明されるまで、信用はいたしかねます」
彼女は細く息を吐き、紅がカップの縁にひと筆だけ残った。廊下の方で鍵の舌がこつりと触れ合い、足音は一歩ぶんだけ遠のいた。炎は樹脂の甘さを薄く残した。
「ご懸念は当然のことと受け止めます」
わたしは小さく頭を下げた。
侍女が一礼して下がろうとしたとき、ロゼリーヌが小声で添える。
「それと、侍女たちには最低限の接触だけで済ますように、と告げております」
侍女の眉がわずかに寄り、裾が絨毯をかすめる音が消える。気配はそこで解けた。
侍女が去り、応接間にはふたたび二人だけ。弱い炎が蜜っぽい残り香を滲ませ、窓辺の霜がじわじわと広がっていく。空気がわずかに硬くなる。
暖炉の木肌が乾いた音で小さくはぜ、ロゼリーヌの視線は扉の蝶番へ一度だけ斜めに落ちた。
「……ところで、リュシアン殿はいまどちらに?」
問うと、彼女の表情の険がほんの少しだけゆるむ。
「書斎で勉強をしているはずです。まだ子どもですし、こんな話し合いに巻き込みたくはありませんので。――もし、彼に会いたいとおっしゃるのであれば、必ず私を通してください」
彼女は指でカップの縁を一度だけ拭い、その指先を自分の胸元へ戻した。守る場所を確認するように。
「もちろんです。あなたの許可なくリュシアン殿に近づくつもりはございません。
ただ……あの、あまりにもぶしつけであると承知の上でお尋ねいたします。――ギルク兄とは、どんな風に出会って、どんなふうに……お付き合いをされたのですか?」
王宮では「第一王子は正妃クラリッサとの間に子を持たなかった」「宮廷外に愛する女性がいたらしい」とだけ囁かれていた。踏みにじられた物語の手触りを想像するたび、胸のうちで紙が裂ける音がする。
「……ギルクは、わたしが王立魔術大学に通っていたころに出会いました。彼が王子であることも、正妃としてクラリッサ様がおられることも、存じ上げていました。そんな彼は、いつも寂しそうに笑う人でした……」
視線が宙をさまよう。
それから、ロゼリーヌは思い出の欠片を少しだけ語ってくれた。
夜の研究室で、油燈の芯を短く切り、乾いた羊皮紙の匂いを吸いながら行頭を指でたどった。夜更けには厨房の隅で、粉砂糖の落ちた端切れのパンを二人で割った。
笑うときだけ、頬のえくぼが片側に深く寄って、目の光が半歩だけ遅れて追いついた。
その一片ごとに、唇を噛む。ギルクにそんな穏やかな時間があったこと。遠い世界の話のようで、くすぐったく、少し切ない。
「彼はその話題について触れることはありませんでしたが、噂話は誰もが知るところでした。クラリッサ様との結婚は政略でしかなくて、お互いに望んだものではなかったようです。私との関係を隠していたのは、もちろん王家の圧力やスキャンダルを恐れたためだと理解しています。
子を身ごもってしまったとき、彼に知られれば迷惑をかけるとわかっていました。だから逃げるように大学を去るしかなかった。たった一言、理由も告げない置き書きだけを残して……。それが正しいのだと。彼を守るにはそれしかないのだと。その時は思っていました」
ギルクがロゼリーヌに惹かれた理由を、理屈ではなく体の奥で理解してしまう。
――わたしも同じだった。
あのときの茉凜が、彼の“逃げ場”に重なる。だからギルクもロゼリーヌも、責める気にはなれない。ふたりの気持ちが、痛いほどわかるから。
「……ありがとう。話してくださって。――兄も、あなたとのお付き合いを本当に大切に思っていたはずです。わたくしは、彼が最後に残した手紙に書かれている内容で、それを確信しましたから」
「ギルクの手紙……。あなたは先ほど、それを読んでほしいと仰っていましたね」
「はい。焦らず、でも近いうちにお渡ししたい。彼がどんな思いであなたとリュシアン殿の未来を考えていたかを、その目で見ていただきたいのです」
彼女は唇を軽く噛み、視線を落とす。小指がカップの取っ手に触れて、薄い磁器の冷えが指先へ移った。傷を開く行為だと、よく知っている。けれど、その先にだけ届く言葉がある。
「……興味がないわけではありません。でも、もう少し心を整えさせてください。正直、あなたが何を企んでいるのか半信半疑な面もあって……」
「もちろんです。わたくしも無理やり押しつける気はありません。あなたに何かを強制できる立場ではありませんから」
小さな苦笑が、湯気の上でほどける。ふたり分の呼気が白く揺れ、卓上の影がわずかに寄り添った。王家に縛られた二人が、いまはこうして向き合っているという事実だけが、妙に静かだ。
窓の霜が角度を変える夕光を返し、暖炉の炎がわずかに強まる。遠い風が窓を鳴らし、外気のしめりが肌へ触れてくる。席を立つと椅子脚が絨毯を浅く押し、弾力が靴裏に残る。侍女を呼び、夕刻の支度に移った。
“宴は張らない”方針どおり、用意は質素。薄いスープの湯気と焼いた麦の匂いが静かに満ちる。いまのところは、それで足りている。
◇◇◇
夕刻から夜へ。廊下を客室へ向かう途中、小さな足音が背後で跳ねた。
振り返ると、小さな男の子――リュシアンが立っていた。
まだ十歳の華奢な体つきで、柔らかなライトブラウンの髪が灯の下でふわりと揺れる。その瞳は、亡き王子――ギルクの面影を宿す青みがかった銀。幼さの中にも気品があり、胸の奥で一瞬、時間がきしむ。
リュシアンがちらりとこちらを見やり、言いたげな眼をする。すぐ後ろから追いついたロゼリーヌが目配せで制し、「今はだめよ」と唇だけ動かすと、小さく頷き、視線だけを一瞬残して去っていく。
去り際、灯が輪郭を細く縁取り、銀の瞳が一度だけこちらを掠めた。
――やっぱり……母親としては、王家の人間と不用意に接触させたくないわよね。
胸がきゅっと縮む。その厳しさは、守るための形でもある。
客室の手前で声をかけようとしたとき、ロゼリーヌが立ち止まり、小さく息をついた。
「……どうしても、まだあなたのことを信用しきれません。リュシアンには、これ以上つらい思いをさせたくありません。陛下が礼を尽くして下さることには感謝いたしますが、こればかりは……」
「ええ、今は敵だと思っていただいても構いません。でも、害がないとご理解いただけたなら、差し障りない程度に機会をいただければと願うばかりです……」
彼女は目を伏せ、マントの裾を握る。
「……私にとっての王家は憎むべき存在のままです。あなたがどんなに誠実に接してくださっても、恐怖は拭えないのです、申し訳ありません」
「いいえ、当然のことと受け止めます」
「今後あなたがどう動くのか、しっかり拝見させていただき、その上で判断させてください」
深く頭を下げる。廊下へ夜気が滑り込み、石の床に月の白さが静かに落ちる。これ以上言葉を重ねれば、彼女の疲れを増すだけだ。
「今夜は休ませていただきます。……また明日、お話しましょう」とだけ告げ、部屋へ入った。
◇◇◇
夜、侍女が夕食の準備を知らせに来る。先ほどロゼリーヌから言われたとおり、侍女はぎこちないほどに距離を保っていた。手袋の指で暖炉の火加減を確かめ、襟元の白い布が擦れる音をひとつ残し、踵を返そうとする。
「ありがとう」
声をかけても、侍女は浅く礼をするだけで何も言わない。袖口の糊の匂いと、硬い靴音が廊下へ細く伸びていく。
それは決して失礼ではない。むしろ「命令どおり余計なことは話さない」という徹底だ。接点を絞る方針が、本気の警戒として行き届いているのだと、火の赤より冷たい空気で改めて実感する。
食事のために案内された部屋は、応接間ほどの広さもなく、磨き傷の残る質素なテーブルが中心に据えられている。
ロゼリーヌとわたしの二人だけかと思いきや、しばらくしてリュシアンがドアのそばに姿を現した。灯の縁に髪が一瞬きらめき、銀の瞳がこちらをかすめる。
しかし、彼は母親の表情をうかがったあと、テーブルには着かず、小声で言う。
「あの……母上、勉強を少し見てほしい」
ロゼリーヌは迷うようにわたしとリュシアンを交互に見、わずかに口元をゆがめてから返事した。
「分かったわ。すぐ行くから」
親子そろって、わたしと一緒に食事をとるつもりはないらしい。まるで“二人きりを避ける”意志を、静かに置いていくようだった。
「……王都と違って質素な食卓しか用意できませんけれど、お召し上がりください。私はリュシアンの勉強を見てまいります。ごゆっくりどうぞ」
ロゼリーヌはすまなそうに微笑むが、その目の奥には「子どもをあなたに近づけたくない」という切実さが透ける。火の揺れが頬の影を浅くしては濃くし、言葉より確かに伝わってくる。
「ご配慮ありがとうございます。では、ありがたく頂戴いたします」
そう答えるほかない。リュシアンはちらちらとわたしの顔を見やりつつ、
「母上、急がなくてもいいよ。僕、待ってるから」
と小さく言ってから、先に廊下へと消えていく。足取りは急ぎながらも、振り返りはしない。その背中に、好奇心と警戒が細い糸のように絡んでいるのが見えた。
結局、わたしは一人で用意されたパンとスープ、塩漬け肉を軽く口にした。
固い表面のひびが歯に触れ、湯気が鼻腔を温める。ワインも少しだけ出されたが、結局ロゼリーヌは姿を見せなかった。
彼女自身はリュシアンの勉強を見ながら、別室で食事を取るのだろう。皿と皿が遠くで触れ合う薄い音が、壁越しににじんだ。
この徹底した距離――命じられた間合いに、胸郭の内側がじくりと疼いた。それでも今は受け入れるしかない。
――それでも、一方的に追い返されなかっただけ、まだマシかしら……。
深い夜になり、充てがわれた部屋へ入ろうとしたとき、侍女が盆を抱えて現れ、
「あの、これで暖炉の火は十分かと……あまり燃やしすぎると薪が足りなくなりますので」
と淡々と告げる。王宮ならいくらでも燃料があるのに、ここでは資源も限られている。薪の樹脂の甘い匂いがわずかに強まり、火床が乾いた音で崩れる。
「構いませんよ。少し寒いくらいがちょうどいいです。こう見えても、旅慣れていますから」
微笑んでも、侍女は会話を広げる気配を見せず、黙って小さく礼をするだけだった。裾が絨毯に触れてささやき、扉の向こうへ気配が薄れていく。
――そういえば塔で眠るときは、凍える空気しかなかった。暗闇と冷気が当たり前だったけれど、ここには弱いながらも暖炉の火がある。それだけで、こんなにも心強いと感じるなんて……。
けれど、ロゼリーヌの“冷ややかな目”を思い出し、背中が冷える。
どうすれば彼女の理解を得られるのか。その道筋はまだ見えてこない。滞在できるのは、明日までが精一杯だろう。閉塞感が胸を締め付ける。
――でも、わたしは、自分の意志でここに来た。守りたい人々がいるから。……勇気を持てなかったミツルとは違う。メービスは精霊の巫女であり、女王なのだから。強くあらねば。
扉が軽く叩かれ、侍女が茶を運ぶ。戻る気配ののち、鍵の落ちる微かな音が続いた。
「よし……」
半ば意地で机に向かい、紙とペンを出す。
辺境視察の名のもと、わたしが男爵家に接触していることは、王都の宰相や重臣たちにも嗅ぎつけられているはず。喉の奥が乾き、指先が紙の縁に細く張り付く。
今日、廊下の奥で「王都からの使者が……」という囁きを聞いた。父君である男爵が応対しているのだろうが、詳細は掴めない。だが、ここにわたしが来ている以上、先王の差し金ではないことは明白。
――急いで母子を守る段取りを整えないと。
先に手を打たれては手遅れになる。だが、ロゼリーヌの認可も得られていない現状では、下手に動けない。
そんな思考が頭の中で渦巻きながら、結局筆は進まない。指先にインクの冷え、紙の繊維のざらつき。硬さだけが、空転する時間を数えさせた。
胸に重くのしかかるのは、兄ギルクが遺したロゼリーヌ宛ての手紙。
ロゼリーヌが語った恋の記憶を踏まえて考えると、この手紙を手渡すのはあまりにも酷かもしれない。でも、きっと知りたいはずだ。兄が何を思い、彼女とリュシアンをどう守ろうとしていたのか。
ギルクは、出征する前に二通の手紙をしたためた。
一通は先王に、自分が戦死したあとのことを託す内容。もう一通はロゼリーヌへ、彼女と子どもに対する謝罪と愛情が滲むものだった。
わたしはその後者を、いずれロゼリーヌに手渡さねばならない。
きっと彼女は読むだろう。それが兄ギルクの最後の言葉だから。どれほど胸を抉られるとしても、愛した人の本音を知りたいと思うに違いない。ただ、そのタイミングは慎重に選ぶ必要がある。
ここには暖炉の光があるのに、少しも安らげない。樹脂の甘い匂いが微かに漂い、火床が小さく弾けるたび、胸の奥のこわばりだけが強くなる。いまは“この家でどう信用を得るか”を考えるだけで精一杯。
メービスが夢見た“自由”は、胸に重さを載せる現実と背中合わせだった。
王都に戻れば、「黒髪の巫女」がどう扱われるか分からないし、玉座にしがみつくしか母子を守る術はない――。
「人生は自分の意志で掴むべきものよ」
生まれの宿命に翻弄され続けた前世を思う。少なくともわたしは後悔はしていない。自分の犠牲が血族の呪いを解くことに繋がると信じることができたから。
けれどリュシアンは違う。何も知らないまま、誰かの思惑のままに流されて生きるなど、はたして生きているといえるのだろうか。
「リュシアンを都合の良い傀儡になどさせてなるものか……」
つぶやきが薄暗い室内に響く。窓の隙間から忍び込む冷気が足首を撫で、火の赤が机上の影を長くする。寒さを凌ぐための暖炉はあるが、塔で過ごした頃の孤独がよみがえってくるような、寂しさが胸を締めつける。
思わずベッドに深く腰を下ろし、膝を抱える。毛布の縁が指に触れ、乾いた布の温度がじんわり移った。
目を閉じると、わたしの黒髪が頬に当たる感覚がくすぐったい。
忌み嫌われてきたこの髪が、いま、ロゼリーヌに少しだけ“わたしは騙す気がない”と示す材料になったとしたら、少しは報われるのだろうか。
メービスも塔に閉じ込められたまま外を夢見ていたころは、まさかこんな形で黒髪を公にする日が来るとは想像もしなかったに違いない。でも、それをしてでも守りたいものがある。それが、兄の残した母子であり、父が愛した国でもある。
――このわたし――ミツル・グロンダイルが成り代わり護る。必ず。
「……わたしは王家なんて大嫌い。それでも――いまは女王でいるしかない」
小さくつぶやいて、魔道ランプの接続スイッチを落とす。芯のかすかな焼ける匂いが消え、暗さがゆっくりと部屋に満ちる。
寝台に身を横たえても、なかなか眠れそうにない。ロゼリーヌのあの瞳が脳裏に焼きついて、どんなに体勢を変えても消えてはくれない。
廊下のほうで、人の気配がわずかに動き、誰かが扉の前まで来たような気がするが――取っ手は静かなまま、足音だけが薄く遠ざかっていく。ひょっとしてロゼリーヌか、それともリュシアンなのかもしれない。
そのことが一層、孤独感を大きくする。胸の内側がひやりと沈み、喉奥に硬い塊が残った。
彼女に、嫌われてもいい。怒りや悲しみをぶつけられてもいい。わたしはそのすべてを受け止める覚悟でここへ来た。
仮初めの王として、黒髪の巫女として、どれほど呪われようと、あの母子が再び失われるのは見過ごせない。
……明日、ロゼリーヌが胸の内を少しずつでも明かしてくれれば、それだけ前へ進めるはず。
祈るように目を閉じ、額で硝子を受ける。微かな冷えが皮膚の内側へ沈んでいった。辺境の夜空には王都よりもはるかに多くの星が瞬いているだろう。塔にいた頃、あれほど憧れた外の世界は、苦しみの絶えない場所だった――けれど、もう逃げるわけにはいかないのだ。




