祈りを抱えて、わたしは行く
わたしは王城の中庭にそっと視線を落とし、枯れ葉が冷たい風に舞う様子をじっと見つめていた。石の気配は乾いていて、足裏に残る冷えが薄く上がってくる。薄雲を透かした陽は白く、マントの繊維の奥まで冬の匂いが染みた。
その動きを感じるたび、胸の奥が少しずつ引き締まっていく。これから旅立つという実感が、肌をとおして静かに伝わる。
「メービス、用意はいいか?」
肩がひとつだけ小さく跳ね、呼吸が半拍ずれる。マントの留め金が鎖骨の上でひやりと触れた。反射的に振り向くと、夫にして王配――と周囲に呼ばれるヴォルフが立っている。とはいえ、その中身はヴィル・ブルフォードというまったくの別人だし、わたし──今のメービスもまた、未来から来たミツル・グロンダイルという別の存在なのだけれど。
「ええ、ヴォルフ……」
そう声を返しながら、わたしは首もとのマントを軽く払う。指先で払った埃が、風の返しにふわりと戻る。留め具の位置を確かめる指が二度目に迷い、こめかみに小さな汗が滲む――見られている役を落とせない、と皮膚が覚えている。この“緑髪の女王”の姿を装わねば、王宮の人々や重臣たちが安心しないから。
ヴォルフは本来「王国最強の騎士」と謳われ、魔族大戦でメービスが聖剣探索に出たとき、どんな苦境にも寄り添い、常にその背中を護り続けた英雄的存在だという。世間では「最強の騎士と姫巫女が結ばれた」というロマンスが大々的に語られ、それを証明するかのように、彼は“女王の王配”という立場を担っている。
けれど、今ここに立つわたしたちは、物語に語られる「本来のメービスとヴォルフ」ではない――その差分は、演じるたび静かに軋む。
それでも、わたしにはどうしても気になっていることがある。それは、メービスとヴォルフの真実の旅路の物語。
先王――父上の言葉によれば、メービスは物心つく前より白銀の塔に幽閉されて育ったという。
そこでは父や兄から差し入れられる書物だけが、世界への窓だった。話し相手は世話係の侍女くらい。彼女は精霊の言霊に耳を澄まし、古文書を読み漁り、救世のために聖剣探索を志した。
そして、父は偽装のウィッグを与え、随行の騎士を選抜戦で選び、ふたりを旅立たせた。
最初はお互い単なる主従関係だったのかもしれない。けれど魔族大戦という極限の状況下で、共に聖剣を探し求めながら、互いを尊敬し合い、いつしか恋を育んだのではないだろうか。
メービスは初めて見る外の世界の前で、無邪気に感情を爆発させてしまうこともあったのかもしれない。そんな彼女をヴォルフは呆れながらも微笑ましく見守り、いつの間にか惹かれていった……そんな想像が、わたしの胸に温かく広がる。
――やっぱり、以前のわたしたちと、どこか似ている気がする。歳の差とかいろいろ違いすぎるけど……。
「……どうした? ぼんやりしてると、周りに怪しまれるぞ」
まばたきの回数を数えてから、視線を現実へ戻す。中庭の空気は薄く乾き、遠くで革靴が石を軽く叩いた。
今のわたしたちは“メービスとヴォルフ”という仮初めの夫婦の姿を演じなければならない。周囲で見ている重臣や近衛が、いかにも“仲睦まじげな王配夫妻”と捉えるように振る舞う必要がある。
「ごめんなさい、少し考え事をしていたの。今回の視察については、少人数で行くように手配してあるわよね?」
わたしは若緑のウィッグの留め具をなぞって微調整する。ここで乱れてはずれるような失態は許されない。斜めから注がれる近衛の視線。わたしはヴィルの襟を整え、爪先で皺をならす――遠目にだけ、やわらかく見える角度で。
「もちろんだ。大規模な護衛を連れて行ったら“辺境視察”という名目に疑いを持たれる。宰相や重臣たちが詮索し出したら厄介だろう?」
ヴィルの落ち着いた声に、わたしは浅く息をついてうなずいた。宰相には「巫女女王が少人数での地方視察を望んでいる」と伝えてあるが、実際は“先王が余命いくばくもないうちに、ロゼリーヌとその子を王家へ迎える準備を進める”ため。そんな目的は、明かせるはずもない。
「……そっちはどう? 大丈夫?」
一応夫婦という建前だから、こうして短いやり取りを交わして“仲良しアピール”をしておく。わたしは微笑み、ヴィルのマントの襟をそっと整えた。遠目の近衛を意識した所作だ。
「俺のほうは問題ないさ。むしろ、お前――メービスはうわの空に見えるが?」
「ごめんなさい。実はロゼリーヌさんにどう切り出せばいいのか、どうすれば話を聞いてもらえるのか、そもそも嫌われてしまうのじゃないか、とか……考えるほどに頭がぐるぐるして、何もまとまらなくて……」
言い終えると、舌の裏に金属の味が乗る。握った指の節が白くなっていた。兵士の注意がこちらへうっすら集まり、わたしは声量を落として続ける。
「“仮の王”であるわたしが、彼女の息子を将来の王に迎えたいだなんて押しつけよね。母子を無理やり引き離す気なんてないけど……彼女にそう伝わるかどうか」
先王は病床にあり、余命が長くない。このままでは国が混乱するから、一刻も早く“次代の王”を用意しなければならない。だが、ロゼリーヌ母子から見れば、王家の都合で子を奪うのと紙一重の話。そこへの葛藤は、どうしても消せない。
「ま、悩みすぎても仕方ない。ギルク王子の遺志を実現するためにも、彼女に会いに行くしかない」
ヴィルがわたしの手元を見ながら言った瞬間、足もとで枯れ葉がぱきりと割れ、風が欠片をさらっていく。鼓動は、数えられる速さへと落ち着いた。
「……そうだね、行くしかない」
わたしはその微かな音を聞きながら、旅立つ前に先王から託された“ギルクの遺した手紙”を思い出す。あの手紙のインクの匂いが、いまも喉に薄く残る。紙の端を指でなぞった癖まで甦り、胸骨の内側がきゅっと縮む。
「……そういえば、ギルクがしたためた手紙を読んだとき、本当に胸が苦しくなったの。彼の味わった苦しみと、ロゼリーヌさんへの深い想いが痛いほど伝わってきたわ。それとは別に“わたし”宛のものまであって、正直驚いた」
吐露した途端、ウィッグを直す指先が微かに震える。わずかな仕草が、隠しきれない緊張を露わにする。
「メービス宛だと……? どういう?」
ヴィルが低く問い、わたしは小さく肩をすくめて頷いた。
「ええ。やはり血を分けた兄妹は特別、というか……ギルクはもし自分が戦死したら、わたしが王位を継がされるしかなくなるって予測してたの。髪の色を偽装して、都合のいい傀儡にされるだろう、とか……わたしの将来を案じるような文面があってね。最初は何を書いてるのか理解できなかったけれど」
「現に、今のお前がそうなっているわけだが」
ヴィルが苦く笑む。王子ギルクの死、先王の余命わずかという背景、そして“黒髪の巫女”であるメービスへ王位を渡すしかない事情……その文面は今のわたしの姿と痛いほど噛み合ってしまっていた。
「彼には正式なお妃がいたけれど、それはお互いに望んだ結婚じゃなかったの。もともと政略的意図で結ばれた関係で、性格も価値観も合わなかったらしいわ。それでいて、周囲からは『世継ぎを早く』と圧力が掛かる」
「まるで今の俺たちじゃないか」
「ええ……そうなるとお互いますます距離が離れていく。ギルクも居たたまれなくなったんでしょうね。だからこそ男爵家のロゼリーヌさんと出会い、深く愛してしまったのかもしれない。けれど、結局その愛を守りきることができなかった。彼はそれをひどく悔やんでいたわ……。
『息子が大きくなったら、王位に就かせてほしい』なんて言い分は、本当に勝手かもしれないけれど、それだけが国を救う唯一の手段だと信じていたのよ。
それに、リュシアンを都合の良い道具にしようなんていう、貴族連中の陰謀から守るためにもね。先王の絶対的な後ろ盾があれば誰も手出しできない――そう考えたんでしょう」
わたしは唇をぎゅっと噛む。思い出すだけで胸が痛む。彼が書き残した一文のなかに、『黒髪を隠し続けろ』『自分が死んだら一時でもいい、この国を頼む』『ロゼリーヌと子をどうか守ってくれ』という願いが詰め込まれていた。
「……だから、わたしにできるのは、彼の遺志を継いでリュシアン殿を迎えることだけ。だからといって、絶対に母子を引き裂いてはだめ。彼はそう強く訴えていたから。わたしは、二人を守り抜くことを最優先に考えたい」
自分でも驚くほど感情が高ぶる。視線を落とし、白くなるほど握った指に気づいたとき、ヴィルがそっと手を重ねてくれた。
胸がどきりと震えるが、外から見れば“夫婦の自然なボディタッチ”に見えるだろう。
「──ロゼリーヌ殿が王家を嫌うのは当然として、“黒髪の巫女”というお前の正体を含めて全部正直に話すつもりなのか?」
「そうよ。まず、こちらから腹を割って話す必要がある。頭ごなしに『息子を寄越せ』なんて言ったら最低でしょう? 何より強要なんてできない。
……最終的には“母子で選んでほしい”と伝えたいだけ。何より王宮の陰謀からリュシアンを護るにはどうすればいいか、一緒に考えたいの」
言い切って、深く息を吐く。黙っていれば嘘になる。嘘は母子の盾にはならない。
拒まれる不安は確かにある。けれど、動かなければ何も始まらない。ギルクの死を無駄にしないため、先王が生きているうちに説得しなければならない――躊躇してはいられない。
彼は浅く頷き、「それがお前の結論なら俺は協力するだけだ」と短く言ってくれた。安堵を噛みしめて後ろを振り返ると、遠くでコルデオが大きく手を振っている。鞍の革が低く鳴る。舞台袖はもう背後に消え、門前の馬車が口を開けていた。
「……じゃあ、行きましょうか。“辺境視察”がんばりましょう。時間は有限なのだから」
「ああ、宰相から三週間以内に戻れと言われているしな」
意図的に少し声を張り、近衛にも届くようにする。外見上はどう見ても「緑髪の女王」と「最強の騎士が夫婦として会話している」図そのものだ。
石畳を数歩進むと、馬丁が慌ただしく馬車の最終点検を終え、護衛の兵士が整列してわたしたちを迎える。列の先頭で革靴がきゅっと鳴り、空気の張りが肩に落ちる。わたしはウィッグの縁を一度だけ指で確かめた。
「では、失礼いたします、陛下、王配殿下……」
コルデオが形式ばった礼を見せ、馬車のドアを開く。奥の座席は豪奢ではないが、短い“視察”には充分。ヴィルが裾が絡まぬようさりげなく手を貸す。
「ありがとう、ヴォルフ」
周囲の視線を意識しながら“夫婦”の自然なやり取りを見せる。ドアが閉まり、わずかに馬車が揺れ、御者の掛け声とともに石畳をゆっくり進み始める。
「馬車が城門を出るまでは、大人しくしていよう。どこで見られているかわからない」
車輪の振動が座面から腰へと伝わる。革の匂いは温かく、窓枠の向こうで城門のざわめきが布越しに丸くなる。ウィッグの縁がときどき耳朶をかすめ、思考はそこに逃げ場を得た。わたしは小さく笑みを返す。すでに城門のあたりには人が集まり、話し声が交わる気配。不自然な台詞回しは、いらぬ噂を呼ぶ。
「わかった。……でも、この先長い道のりになるわね」
「そうだな。男爵領は北壁を越えた国境の僻地。途中、交通の要衝であるボコタを経由して、一週間はかかる」
「遠いわよね。道中、地方の代官とか貴族とか、いろんな人に会うこともあるかも。こちらは隠しごとが多すぎて、正直胃が痛いんだけど……」
そう漏らすわたしの手に、ヴィルがまたそっと触れる。今度は過剰に反応しないよう努める。外見上は堂に入った夫婦が密かに支え合っているように見えるだろうが、その実、二人とも“本物のメービスとヴォルフ”ではないという事実が胸を刺す。
「言いたいことを言えばいいさ。英雄たちの本当の旅路を知らないのはお互いさまじゃないか? むしろ、その埋まらない“空白”を演じながらでもやり遂げるのが、俺たちの役目だろう?」
「……そうね。言いたいことを言わなければ。少なくとも、ロゼリーヌさんには嘘をつきたくない。ギルクの彼女を大切に思っていた気持ちや、わたしのことを案じていた気持ちを知ってしまった今、黙っているほうが罪深いでしょう」
口にした途端、むしょうに切なくなる。
本来のメービスとヴォルフも、多くの秘密を抱えたまま、偽りと真実の狭間を行き来しながら互いを理解し、愛し合ったのだろう。事情は違っても、通じ合う苦悩がそこにあった気がしてならない。
馬車が城門を抜け、門番たちの敬礼を受けて外へ出る。遠くで「あれが女王陛下と王配殿下か」とささやく声。通りのざわめきが車輪の下でほどけ、誰かのため息が窓に薄く触れた。
ウィッグがずれないよう襟を直し、奥歯をそっと噛みしめる。
時間がない。この“黒髪の巫女”の仮の王位を保てるうちに、ロゼリーヌを説得し、リュシアン殿を次代の王として守り抜く策を固めなければ。先王が息を引き取る前に形を作れなければ、わたしの退位後、誰も彼らを守れなくなるかもしれない。
わたしの役が終われば、この身は王宮から追われるだけかもしれない。それでも――本来のメービスとヴォルフが望んだであろう自由へ続く道を作ることは、大切だ。いつか、ささやかな幸せへ辿り着けるように。
だからこそ、やらないで後悔するより、先王とギルクの願いを信じて一歩を踏み出す。
――ロゼリーヌさん……どうか、話を聞いてほしい。わたしはあなたの敵ではないから……。
祈りは胸の奥でひとつに沈む。掌には爪痕だけが残った。風が吹き込み、マントがふわりと煽られ、ヴィルがわずかに身体を寄せてくる。
「寒いか?」
「大丈夫よ、このくらい」
車窓の外へ目をやる。すれ違う商人や町人がこちらに頭を下げ、ひそひそと話す。
王家の行動は嫌でも目立つ。民は“緑髪の女王”と“最強の騎士の夫婦”にロマンを重ねるのだろう。
けれど、その裏には数え切れない嘘や秘密、そして切実な願いがあふれている。
わたしとヴィルだけでなく、ギルクや先王、ロゼリーヌ、リュシアン……みんなが立場を守るのに必死で、同時に愛を信じている。
本物のメービスとヴォルフがかき集めた幸せの欠片は、いまわたしたちの手元にはない。けれど、その二人が確かに愛し合い、国を救った物語を背負うわたしたちが、こうして“仮初めの夫婦”として旅に出るのも、何かの巡りあわせなのかもしれない。
膝の上の毛織りが指にざらりと触れ、脈がそこだけ早くなる。外は乾いた風、車内は彼の体温。
「わたし……やれるだけのことはやってみる。それが“本来のわたし”と同じ道かどうかは分からないし、あなたにも迷惑をかけるかもしれないけれど」
言葉の余白に、彼が肩をすこしだけ寄せてくる。視線が触れ、離れる。
「なにを今さら」
素っ気ない調子の奥に、笑いの温度が少しだけ滲んだ。
馬車が石畳を離れ、街道へと出る。遠ざかる王城を窓越しに振り返り、わたしはマントの端で指を握り合わせる。枯れた木々の並木を抜け、寒風吹きすさぶ辺境へと続く道のりは長い。その先で、ロゼリーヌが待っている。
ギルクの手紙をどう伝えるか。ロゼリーヌへどんな言葉をかけるか。もし拒絶されたらどうするのか――不安は尽きない。それでも、これがわたしの選んだ道だ。
母子を引き裂かずに王家へ迎え、その子を将来の王へと育てるために、たとえ押しつけがましいと言われても全力を尽くしたい。
それがミツル・グロンダイルとしてのわたしが、メービスの名を借りて挑める唯一の戦いだから。
こうして、王都をあとにする馬車の振動を身体いっぱいに受けながら、わたしは仮初めの夫・ヴォルフ――ヴィルと共に“辺境視察”へ出発した。
枯れ葉が揺れるのを車窓の隙間からちらと見つめ、指を握り合わせる。祈りを胸に、視線はただ前へ――揺れる車輪のリズムに合わせて。




