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黒髪のグロンダイル 〜巫女と騎士、ふたつでひとつのツバサ〜  作者: ひさち
第七章 時間遡行編①時渡りの女王と偽りの王配
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王宮の嘘と、封じられた恋心

 まだ陽の光が柔らかな時間帯――格子越しの光が机上の羊皮紙を薄く撫で、乾いた墨の匂いに蝋の甘さが混じる。宰相の使いが置いていった封書の切り口は冷たく、指先にざらりとした感触だけを残した。胸の奥で小さな波が立ち、落ち着くはずの呼吸が浅くなる。息を吸うたび肺の底へ鉛が沈み、吐き出す空気が震える。


「王家に早く後継ぎを」

「先王が存命のうちに朗報を」


 文言はどれも似通い、焦りの温度だけが日ごとに上がっていく。もともと、私が“女王メービス”として王宮に戻れたのは、崩れかけの均衡に板を渡しただけの綱渡りだった。


 窓格子の影が机に細い縞を敷き、光はわずかに青みを増す。喉の奥で金属の渋みが薄く残り、その波紋が遅れて胸に広がった――それは静かな予感のように、ゆっくりと心を蝕む。


 市へ降りる風は、もっと無邪気だ。「女王が子を授かれば国は安定する」――朝のパンを割る手つきの軽さで広まる噂に、腹の底へ重い塊が沈む。

 私と王配ヴィルの体が、復興の歯車を噛み合わせる“装置”として数えられる感触が、肌の内側へ冷たく触れた。指先が無意識に羊皮紙を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みだけが、かろうじて現実味を連れ戻す――その痛みが、遠い自由の記憶を、かすかに呼び起こす。


 扉の蝶番がほとんど鳴らず、侍女長が音もなく姿を見せる。香草の清い匂いが空気をわずかに温め、整えられた口元だけが穏やかだ。だが、その瞳の奥に、庇護と詮索の狭間が、細い光で揺れた――忠誠の仮面の下に潜む、静かな渇望のように。


「陛下と殿下はお忙しく、夜もあまり休まれていないのではありませんか? わたくしどもは心配でございます」


 その言い回しの薄い膜の下で、別の問いが静かに光る――“お二人は、本当に夫婦として?”。


 机の端を持つ指先から力が一瞬ほどけ、心臓の鼓動が耳元で響く。視界の端がかすかに揺れ、胸の内に波が静かに立つ。


「……お互い執務が忙しいだけよ。寝所でのことは……あまり詮索しないでちょうだい」


 自分でも驚くほど平坦な声だった。言葉を吐き出した喉に、砂のような乾きが残る。


 侍女長は頭を深く下げ、「陛下のご健康も大事でございますゆえ」とやわらかく添えて、裾の気配だけを残して退室する。


 扉の向こうで、遠い鐘が一打だけ落ちる。時が、こちらの都合を待たない音だ。議場の朝は、もうすぐそこだ。

 中庭の鳩が一斉に羽ばたき、薄い羽音だけが窓硝子を震わせた。軽い噂ほど、よく飛ぶ。


 閉じられた扉の向こうで、気遣いと詮索の境界線が細く揺れる――それは、私の心の糸のように、いつ切れるかわからない。

 完全に感づかれている――確信が背筋へ薄い冷えとなって降りてくる。もし宰相や重臣たちに“私たちが本当の夫婦ではない”と知られたら? どんな名目で、どんな手順で“王家の未来”が整理されるのだろう。


 奥歯が軋み、紙の端が指に貼りついた。想像するだけで、胸の奥に黒い渦が巻く。息苦しさが広がる。私に求められているのは、愛ではなく、安心という名の印――印にして、鎖。心の底で、その鎖の重みが静かに体を締め上げる。


◇◇◇


 その夜も、私はいつも通り署名と会議を終え、墨の匂いを背中に貼りつけたまま寝所へ戻る。

 回廊の石は昼の熱を薄く残し、靴の底へぬるい温度を移した。足音が虚しく響き、疲労が骨の髄まで染み込む――毎日の繰り返しが、神経の細線を少しずつ擦り減らす。


 扉を押すと、先に戻っていたヴィルがベッドの端に腰掛けていた。鎧の革と油の匂いが淡く、眼差しには一日の疲労が沈んでいる。

 侍女の手は借りず、衣を手早く脱いで部屋着に替え、彼の隣に腰を落とす。シーツの白は指先にひやりと硬く触れ――その感触が、内側の空虚を鏡のように映す。


「……侍女長に匂わせられたわ。“本当に夫婦の営みがあるのか”って。完全にばれてるわね」


 ヴィルの横顔に苦い影が落ちる。肩がかすかに固くなり、吐く息の音が小さく響いた。瞳の奥に苛立ちと諦めが混じり、指先が膝の上で軽く拳を握る――その仕草に、彼の内なる葛藤が静かに滲む。


「だろうな……。いつか来ると思っていた。くそ、こんなところで足元をすくわれるなんてな」


 彼の声に、苛立ちが混じる。私は視線を落とし、シーツの端を指でなぞった。


「ごめん。あなたを責めるつもりはないの。ただ、打開策が見えないままなのが辛い。このままどんどん追い詰められていくみたいで、心が折れそう」


 うなずきながら、彼はさらに視線を落とした。短い沈黙の重みが、私の肩にも移ってくる。指先がシーツを無意識に握り、布の繊維が掌へ食い込む。やがて、伏せていた瞳がまっすぐこちらを捉える――その視線に、静かな覚悟とかすかな痛みが宿る。声が低く、喉の奥から絞り出すように、しかし優しさを湛えて。


「ミツル、正直に聞きたい。お前は……俺に対して“愛している”って言えるか? ……いや、言えるかじゃなくて、言いたいと思えるか?」


 肺の奥で空気が跳ねた。喉が一瞬だけ閉じ、心臓の鼓動が速くなる。耳元でざわめく音をやり過ごしながら、視線を逸らしたくなる衝動をおさえ、胸の奥の渦を抱える――それは、恐れと期待が絡みつくような、甘い苦痛。


「そんなの、わからない。急にそんなこと聞かれても……心臓が、止まりそうなくらい、びっくりしたわ」


 正直に置いた言葉に、彼は視線を伏せ、小さく息を吐いた。肩がわずかに落ち、疲れた笑みの端が浮かぶが、瞳の奥に影が残る。声に、自己嫌悪の棘が混じり、かすかな震えが加わる。


「そりゃあ、そうだ……。すまん、変なことを訊いた。無理に答えなくていい。俺も、好きでもないのに言えるわけがないってわかってる。

 ただ、気になってな……この状況で、俺がお前に何も感じさせてないんじゃないかって、少し怖くなったんだ。それに、俺のせいでお前が苦しんでるんじゃないかって……それが、一番耐えられない」


 言葉の終わりに、彼の声が少しだけかすれる。肩の筋が強張り、拳を膝の上で握りしめるのが見えた。


「ちょ、ちょっと待って。あなたのこと、なんとも思ってないわけじゃないわ。誤解しないで……そんなふうに自分を責めるの、やめてよ」


 思わず前に身を乗り出していた。指先が膝の上で揺れ、息が浅くなる。彼の沈黙に、胸の奥が熱く疼いた。



 その声音は低く、しかしどこか切実で、逃げ場を与えない。瞳の奥に、ためらいと希望がせめぎ合っている。


 胸の奥で小さく弾けたものが、言葉の形になる前に零れ落ちていく。


「それは……あなたが傍にいると、ほっとするの。

 一緒にご飯を食べたり、お酒を飲む時間が楽しくて、気軽に話もできるし……剣を交える時なんて――これ以上ないってくらい、楽しい。

 とにかく、あなたといると……息が楽で、心が落ち着くの。今、こんな状況でも、それは変わらないわ。

 ……でも、それが“好き”って言葉と同じなのかは……正直、自分でもよくわからない」


 彼の呼吸が、かすかに揺れた。そのわずかな震えが、空気を通して胸の奥に触れる。


「もっと、熱い何か……胸の奥が、きゅっとなるような感覚がないと……確かめられないのかもしれない。

 それでも……あなたのことを考えると、温かくて、どこか切なくて……それが“愛”なのか、“信頼”なのか……もう、区別がつかないの。失いたくないって、そう思う自分が――時々、怖くなるくらいに」


 吐いた息が浅く途切れ、肩がわずかに跳ねる。


 なぜだろう。自分でも抑えきれず、全部が口からこぼれてしまった。呼吸の拍が合わず、胸郭の内側で鼓動だけが先走る。これが、今の私だ。


 彼はその場で身じろぎもせず、喉仏が小さく上下する。握っていた拳がほどけ、膝の上で手の甲が仄かに上向く。


「……そうか。少なくとも、嫌われてるわけじゃないんだな。それだけでも……安心した。

 ……正直に言ってくれて、ありがとう。俺も――お前がいてくれると、心強い。守りたいって、自然と思うんだ。でも、それ以上を望むのは……違うよな。無理に気持ちを変えさせたいわけじゃない。

 ……ただ、胸のざわつきが、どうしても収まらない。お前が、俺を……そんなふうに見てくれてるって、それだけで――……救われるのにな」


 最後の一語で、彼の声が少しだけ掠れる。肩の力が落ち、空気がやわらぐ。私は膝に置いた手をいったん握り、ゆっくりほどく。皮膚に残る自分の爪痕が熱い。喉を通る息がようやく深くなり、灯が瞳に細い輪を作る。


「……こちらこそ、ごめんね。困らせたくて言ったわけじゃないのに。

 でも……私は、あなたがそばにいてくれるから、どうにか立っていられるの。一人だったら、きっと流されて、自分が誰なのかもわからなくなってた。

 ただ――それがそのまま、“抱かれたい”とか“子どもが欲しい”とか、そういう気持ちに直結してるわけじゃないと思うの。うまく言えないけど……たぶん、違うのよ。

 ごめんなさい、曖昧で……。本当は、傷つけたくなかった。なのに……あなたが、そんなふうに寂しそうな顔をするのを見ると……胸が、ぎゅっと痛くなるの」


 彼の瞳の底に、飲み込まれない寂しさが淡く灯る――それは、私自身の鏡のように胸をざわつかせた。視線が絡み、部屋の空気がわずかに重くなる――その重みが、互いの想いの深さを、静かに語る。


「元の時代じゃ、お前は十二歳だったんだぞ。それがいきなり十八歳のメービスの身体にされて、周囲から世継ぎを作れだなんて言われる。理不尽にもほどがあるじゃないか。お前が無理に自分を変えなくちゃいけないなんて……お前の心を踏みにじっているみたいで、俺にはそれが許せないし、従いたくもない」


 低く押し殺した声。その端に滲む怒りよりも、痛みの方が強く響いた。膝の上で握られた彼の拳が、小さく震えている。


「そうね……。本当に、理不尽だわ。あなたに、そんな顔をさせたくなかったのに」


 思わず息が詰まる。私は彼の視線を捉え、言葉を続ける。胸の奥が熱く疼き、皮膚の下で心臓が不規則に跳ねた。


「いいか、ミツル。自分を見失うような真似だけは絶対にするな。きっと後悔することになる。俺は、そんなお前を見たくない……お前が笑ってる姿が、一番好きだから。お前の笑顔が、俺の支えなんだ」


 その“支え”という言葉が、体の奥まで響いてくる。私は唇を噛み、細く頷いた。


「うん……。ありがとう、ヴィル。あなたに、そう言ってもらえるだけで、心が少し軽くなる」


「義務で子どもを作るなんてまっぴらごめんだ。それに、俺はユベルの代わりとして、お前を守ると誓ったんだ。そんな傷つけるような真似だけは絶対にしたくない。お前の心を、俺の手で傷つけたくないんだ。お前が大切だからこそ、絶対に……」


 言葉の終わりが、静けさに溶けた。窓の隙間で夜気が細く鳴り、灯の芯がかすかに揺れる。


 手がそっと取られる。節立った硬さと体温が掌へ移り、皮膚の内側で走っていた震えが、波の端だけ静まる――はずなのに、その優しさが、逆に胸を締めつけた。

 守られる安堵と、まだ“恋”と呼べない曖昧の間に、首筋を撫でる冷たさだけが細く残る。指を絡め返す力がわずかに強まり、布越しの鼓動が合う。沈黙が積もり、シーツに新しい皺が一筋だけ延びた――その沈黙が、言葉の外側でふたりを包む。


「もし、本来のメービスとヴォルフだったなら……愛し合って子どもを作って、先王を安心させたのかもしれないね。私たちって、その可能性を奪ってしまってるんじゃないかしら……?」


 声にした途端、細い棘が喉を刺す。本来のふたりの未来へ、私たちが踏み入っている――その感覚は、どの言葉でも薄められない。視線を落とし、指先でシーツの皺をなぞる。失われた可能性の痕跡に見えた。


「そういうことに……なるのかもしれないな。あいつらが本来得るべきだったものを、俺たちが横取りしている。悪いとは思うが、記憶がない以上どうしようもない。俺たちにできるのは、今を生きることだけだ」


「うん……。だから、どこか申し訳ないの。私が彼女の人生を乗っ取っているのに、さらに愛や子どもまで手に入れるだなんて、許されるわけない、って……。

 それだけじゃない。私がメービスの体でいることで、ヴィルの想いまで汚してるみたいで、怖い。あなたを、巻き込んでしまってるのが、申し訳なくて……あなたを、傷つけたくないのに」


 掌に残る温もりが、かえって罪の重さを際立たせる。ヴィルの指がわずかに強く握り返し、爪の圧が薄く伝わる――その力が、言葉にならない赦しとして沁みた。


「……現実的に俺たちはこの身体で生きて、国を支えるために働いている。それ自体は悪いことじゃないはずだ。きっとメービスとヴォルフ本人たちも望んでくれるんじゃないかと、俺は勝手に思ってる。少なくとも、俺たちは全力でやっているんだから。それに、お前だけが悪いんじゃない……俺も同じ罪を背負っている」


「あなたは……そう思えるの? 本当は、もっと苦しいんじゃない? 私を見て、ヴォルフの影を感じて……辛くないの?」


「わからない。だが、何もせずに国を見捨てるよりはずっといいだろ? きっとあいつらも、同じように行動してたはずだ。それが俺とお前の意思で代わりにできるなら、悪いばかりじゃないさ……ただ、子どもの件は、また別問題だがな。

 そこは、いずれ俺たちで決めなきゃいけなくなる時がくるだろうが、まずはお前が、笑えるようになることが先決だ」


 布団の重みが脇腹に沈み、夜の湿りが呼吸の奥で丸く留まる。親になる責任の重さは理解している。愛も覚悟もない場所へ“義務”だけを置くことはできない――その空白が、闇の層を静かに増す。


 けれど彼の声音に混じる優しさと決意が、胸の奥をあたため、同時に痛ませた――その痛みは、目に見えない芽のように、静かに息づいた。


◇◇◇


 数日後の夜――回廊の灯は低く、石が冷えて声を吸い込む。歩調に合わせて侍女長の気配が近づき、囁きが織物の縁のように控えめに触れた。心臓が一拍早く鳴り、背筋に予感の冷えが走る。


「陛下、夜分に申し訳ございません。少々……お耳に入れたいことが……」


 努めて穏やかな笑みを保ち、足を止める――唇の端がわずかに震えるのを抑え、呼吸を整える。


「こんな時間に何かしら? ……大事な話? 顔色が、いつもより優しくないわ」


 侍女長は一瞬視線を落とし、言葉を選ぶように息を吐く。瞳に、忠誠と苦悩が混じり、声がわずかに低くなる。


「恐れながら、わたくしどもは陛下と殿下のご様子を案じております。寝所をお世話申し上げている侍女たちからも、“おふたりの仲は如何か”と不安がる声が増えておりまして……。

 わたくし自身も、陛下のご心労が案じられます。近頃はその御笑顔が少し曇って見え、胸が痛むのでございます」


「私たちは、それぞれ王国の再建のために日々尽力している最中です。忙しくて、そうした時間も余裕も持てないのが現状なの。決して仲が悪いわけではないわ。心配は無用よ」


「はい。それは侍女たちにも伝えておりますが……『お二人は互いを拒んでおられるのでは』と邪推する声も上がっておりまして。――どうかお許しくださいませ。噂が広がりきる前に、“形”だけでも兆しをお見せいただければと……」


 “形”だけ――頭痛が鋭く灯り、胃の底がねじれる。視界が一瞬ぼやけ、吸い込んだ息を静かに押し出す。


「ありがとう。考えておくわ。……でも、どうか、あまり深く詮索しないでちょうだい。私たちにも私たちなりの事情があるの。本当に、大丈夫だから。あなたに、そんな顔をさせるのは心苦しいわ」


 侍女長は最後まで礼を崩さず、「お体も大事に……」と消えるように下がる。


 残された回廊の冷えが脛を細く撫で、壁に手をついて息を整えるのに時間がかかった。彼女の忠誠は重い感謝であり、同時に逃れられない枷でもある――その枷が、心の糸をさらに細く引き伸ばす。


 愛のない形だけの行為――それは、私もヴィルも壊してしまう。わかっているのに、扉はその方向にしか開いていないように見える夜が、もっとも重い。

 心の底で、拒絶の叫びが静かに反響する――しかし、その反響に、かすかな諦めの調べが混じる。


 寝所の扉に指をかける。金具はよく磨かれ、冷えた光で指先を細く照らした――その光が、わずかな希望のように、掌を温めようとする。


◇◇◇


 部屋に入ると、ヴィルが振り向く。鋭い視線に、心配の熱が混じる。眉がわずかに寄り、立ち上がりかけた膝が止まった。空気が浅く揺れ、革靴の底が床をかすめる音だけが残る。


「どうした? ……顔色が悪いぞ。おい、大丈夫か?」


 肩の力がほどけ、苦笑めいた息がこぼれた。経緯を一つずつ机上に置くように話すと、彼の眉間に影が落ちる。拳が膝の上で固まり、深呼吸が胸郭の奥で低く鳴った。瞳の底に、怒りと無力の火がかすかに明滅する。


「……やっぱりか。侍女長も、相当追い詰められてるんだな。くそ、俺たちが原因で、世話になってる人たちまで巻き込んじまってる……情けない、本当に」


 ベッドの端に腰を下ろし、侍女長の“提案”を伝える。彼の横顔はさらに険しく、声は抑えた熱で低くなる。指が布団の縁をゆっくり撫で、皺が一筋増えた。


「……無理なものは無理だ。義務で“儀礼だけを取り繕う”なんて、お前も俺も納得できないだろ? 結局、あとで自己嫌悪するだけじゃないか。

 俺は、そんなお前を見たくない……お前の心を、踏みにじりたくない。お前が、そんな苦しみを抱える姿を、想像しただけで胸が張り裂けそうだ」


「私もそう思う。でも、侍女長は私たちを守るために言ってくれてる。周囲の噂を鎮めるには、それがいちばん手っ取り早いってことなんでしょう。彼女だって、立場上苦しいのよ」


「どんな理由があるにせよ、結局そんなものただの“政治的パフォーマンス”じゃないか。身体を交えるなんて、愛があってこそのものだろ。義務感だけでやるなんて正気の沙汰じゃないぞ。俺は……お前を、そんな目で見たくない。お前を、汚したくないんだ」


「私だって、本当に好きになって、愛を確かめ合い、共に生きる覚悟をして初めて踏み出すものだって思う。義務で寝るなんて絶対に嫌よ……。想像しただけで、吐き気がするわ。あなたと、そんな理由だけで触れ合うなんて、あなたまで傷つけてしまいそうで……」


 思いは一致しているのに、状況は動かない。先王の時間は容赦なく削れ、期待の声は日ごとに濃くなる。

 瞼を固く閉じると、内側に天蓋の縁が淡く浮かんだ。布の影が心の輪郭をなぞり、蝋の匂いが薄く鼻に残る。


「……本当に、どうすればいいんだろう。逃げ場がないみたいで、怖い。あなたまで、失いそうで……この体が、私のものじゃないみたいで」


 こぼれた声は乾いていた。


 二十一の美鶴の理性、十二のミツルの感情、十八のメービスの体。その段差に足を取られ続け、毎夜、夢の中で転ぶ感覚だけが胸に沈殿する。

 ヴィルの手が肩にそっと触れ、体温がじんわりと広がった。淡い灯が揺れ、その光が肌の上で小さな円を描く。


「……眠ろう。考えても答えは出ないし、明日も早いからな。俺はそっちの椅子で寝てもいい」


「でも……」


「いいから少しは休め。お前が、そんな顔してるのを見るのが辛いんだ。お前の痛みが、俺の痛みになっちまうんだよ」


「一応、同じ寝室を使ってるのに、椅子で寝られても侍女がまた不信感を抱くわ。ベッドでいいの。私は端っこに寄るから……ね?」


「ミツル……」


「がんばろう。あなたがいると、心強いから。一緒にいてくれるだけで、それだけで……」


「ああ、わかった。一緒にがんばろう。お前がいるから、俺もがんばれる。こんなことで負けてたまるかってんだ」


 彼はそれ以上言わず、反対側へまわって布を整える。シーツが乾いた音で微かに鳴り、二つの体温が遠い距離で並んだ。

 指先は無意識に布の端をつまみ、細い皺が手の中で増える。皺の筋が、私たちの関係の微かな隙間を可視にする。


◇◇◇


 外から見れば、ただのすれ違い。実際には、仲が悪いわけじゃない。けれど“夫婦の愛”と言い切れるのか、私自身にも断言できない。その曖昧さが、胸の底で甘く苦い霧となって渦を巻く。


 子を作るという行為は、愛と覚悟の重なりへ静かに手を伸ばすこと。今の私たちは、その敷居にさえつま先が触れていない。


 前世で魂ごと救い合った茉凛との絆があまりに清く、軽々しく「愛している」を置くことへの抵抗が胸に根を張る。彼女に背を向ける――その恐れが足首を冷やし、記憶は優しい棘として静かに刺す。


 本来のメービスとヴォルフの未来は、もっと自然で穏やかだったのかもしれない。そこへ踏み入ってしまった私たちは、背を退くことも、形だけを受け入れることもできず、残る道は張りつめた弦のように細い。張り弦の軋みを、指先が覚える。


 灯がわずかに揺れ、天蓋の影が静かに伸びる。


「……いつか、本当に、好きになれる日が来るのかな……」


 吐息より小さな声は布に吸われて消えた。


 伸ばした指先は空気しか掴めず、夜気のざらつきが掌に貼りつく。その冷たさだけが確かな輪郭を持つ――それでも、向こう側から布のわずかな擦れと呼吸の音が寄り、温もりが、遅れて滲んできた。


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