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偽りの宵、真実の瞳

 夜の帳が降りる王宮。蝋の甘さに乾いた墨の匂いが薄く残り、執務を終えた机から体温だけが遅れて離れていく。侍女が手際よく書類や道具を片づけてくれたあと、部屋を出る時刻はいつも遅い。私は大きく息を吐いて歩を進めた。


 夜気がほんの少しだけ肌を撫でるこの時間帯が、いちばん心が落ち着く。それでも、寝所へ向かう足取りはどうしても重くなる。


 廊下の石は昼の熱を失い、足裏に薄い冷えが移った。衣擦れが回廊に吸い込まれ、遠くで魔導ランプが低く唸る。


 寝室の戸を閉めると空気が一段やわらぎ、魔導ランプの小さな揺れが壁紙に呼吸を映す。天蓋の紐がかすかに鳴り、マットの縁に腰を落とすと、綿の沈みが太腿の裏へと静かに広がった。


 部屋へ入ると、照明の落ちた静かな空間が広がっている。壁紙の模様に灯が浅く這い、寝具の縁はきちんと直線を保っていた。


 その柔らかさが、かえって喉の奥の硬い塊を意識させる。そこには、本来なら“夫婦”として夜をともに過ごすべき場所があるのだから。


 しかし、私とヴィルはその“夫婦の営み”から程遠い。というより、お互いに意識的に避けていると言っていい。形だけの夫婦――そう思われても仕方ないほど、私たちは同じベッドを使っても端と端で距離を取りあい、肌を重ねることなど一度もない。


 儀式として夜をともに過ごすのが当然だし、どんな侍女でも察するだろう。気づかないはずがない。とっくに見抜かれている気配はあったけれど、最近、その空気はよりいっそう顕著になってきた。


 もしかしたら、もう“あの二人は仮面夫婦では?”と、囁かれる寸前なのかもしれない。


 形式だけの夫婦生活――と、きっと誰もがもう知っている。シーツは端正なまま、枕は片側だけ浅く沈む。夜更けの香油も朝の薬草も混じらない寝具は、口のない証言台のように沈黙している。


 ベッドサイドの小さな魔導ランプだけが柔らかく揺れる寝室で、私はナイトドレスの裾を整えて腰掛ける。生地がしんとした空気のなかで、かすかな衣擦れの音を立てた。


 その向かいで椅子に腰を落とし、書簡を読んでいたヴィルが顔を上げる。いつになく私が深刻な表情をしていることに気づいたのだろう、首を傾げながら問いかけた。


「どうした? ずいぶんと暗い顔をしてるな。何かあったのか?」


「うん……。あのね、“私たちが偽装夫婦――つまり本当の夫婦じゃない”ってこと、侍女たちには薄々ばれてるかも。いや、もう確信してるんじゃないかなって」


 言葉を吐き出すと、ヴィルの瞳が一瞬強張る。その動揺が、わずかな面差しの変化として現れただけだったけれど、それだけで彼の危機感が伝わってくる。


「……誰に? そんな話が?」


 少し息を呑んだようなヴィルに、私は慎重に言葉を続けた。ひとつひとつゆっくりと、それでも隠しきれない焦りが声に滲む。


「誰かに言われたってわけじゃない。ただ、侍女長の雰囲気がね……。

 そりゃ寝所に出入りする子たちなら、“夫婦なら当然”なことをまるで“してない”ことくらい、簡単に察するでしょう? ベッドリネンが全然乱れないし、汚れることもない。男女が肌を重ねれば、いろいろと……痕跡が残るものだもの。」


 侍女長は横顔のまま、整えた襟元へ指を二度滑らせ、それきり視線を落とした。


 ヴィルは眉を寄せ、苦笑を浮かべる。


「確かにな。適当にシーツを乱して、それでごまかせている気でいたが……相手がプロじゃ、そりゃ無理だ」


 私もまた、隠せていると思っていたわけではなかった。どこかで近いうちに限界が来ると薄々わかっていたのだ。


「少し考えれば当たり前よね。私たちからしたら演技なんて到底できるわけないのに。周囲の目は厳しいわ。どうしよう……」


 ヴィルは少し間を置いて、視線を私に固定する。その目が、静かに問いかけてくるようだった。


「……お前はどうしたい?」


「どうしたいって……」


 言葉が喉で詰まる。私は視線を落とし、シーツの端を指先でなぞった。


 そもそも、私には“恋愛”そのものの経験がほとんどない。“恋”の肌触りを知らないまま大人の形だけを渡されて、いま、どんな熱を“好き”に重ねればいいのかがわからない――それが現状なのだ。


「侍女長の様子がおかしいのも納得なの。表向きは何も言わないけど、明らかに憐れむような、それでいて不可解そうに私を見るのよね……」


 ヴィルは深く頷き、言葉を拾い上げる。


「だろうな……。あるべきものがなく、その気配すらないっていうのは、まわりからすれば疑いの元だ」


「“触れ合いもしないのに、どうして同じ寝室を使っているの?”って思われるのは当然でしょうね。そんなの押し切れるわけない」


 そう言葉を落とすだけで、胸の奥がずんと重くなる。


 私が深いため息をついたそのとき、ヴィルが書簡を脇へ置き、椅子を立った。そして、私の隣まで来ると、ベッドの端に腰を下ろす。


 わずかにきしむシーツの揺れが、意識するなと言われても意識させられてしまう距離感だった。


「そのうち、侍女たちに“仮面夫婦”だって断定されるかもな」


 彼の低い声に混じる諦観めいた響きが、妙に胸に刺さる。

 私たちが“本当に夫婦らしく”振る舞えていないことなど、当の侍女たちにはすでに見透かされているのだろう――でも、それをはっきり噂にされるとなると、別の重苦しさが迫ってくる。


「そうなったら、噂はあっという間に広がるでしょうね」


 口にした言葉が自分で思う以上に冷ややかに響き、思わずぞくりとする。

 王宮は狭い水盤だ。廊下の奥で巡回の靴音が一度だけ止み、革と金具の細い擦過音が夜気にほどけた。小石ひとつで波紋は壁に当たり、何度も跳ね返って形を変える。


「困ったもんだ」


 簡潔に言い切るヴィルの声には、ある種の腹立たしさすら潜んでいるようだった。拳が一度だけ膝の上で固まり、指の甲が薄く白む。すぐほどけた。否定も肯定もせず、重さだけを受け止めるみたいに。


 ヴィルはちらりと天井を見上げ、深いため息をつく。その仕草に微かな苛立ちや自嘲を感じ、と同時に、私もやりきれない気持ちを覚えた。


 いずれ宰相や重臣たちの耳にも届くはず。彼らも表立っては口にしないでしょうけど、後継者問題がより避けられないものになってくるのは確かね。私たちへの圧力も増すでしょうし、下手をすれば貴族間の混乱に発展しかねない。

 明朝の小閣議で『半年以内に世継ぎ指針を提出』――守らねば王配費の一部凍結と私的警護の縮小。そう書かれた草案が、いま机の上にある気がする。胃の底だけが、先に冷えていく。


 もし噂が広まれば、王位継承者の不在を理由に、“なぜ子をなさないのか”と周囲からさらに厳しい目を向けられるのは目に見えている。どれほど建前を並べても、宰相や重臣が頷くはずがない。


 そして、彼らの後ろには策略に長けた貴族たちが控えており、もし私たちが“真の夫婦でない”と決めつけられたら、“では別の後継を探すしかない”という動きが活発化するのは明白だ。


 そんな将来図を思い描くだけで、胸が息苦しくなる。もし本当に後継者争いが始まったら、取り返しのつかない混沌が王宮を覆いつくすに違いない。

 私とヴィルが、どれほど後悔や苦しみを抱えようと、周囲はお構いなしに国の“安定”と“後継者”を求めるのだろう。


 彼の側を見やれば、暗い瞳がほんの一瞬だけ私を見つめる。そこに宿るのは、きっと私と同じ焦燥感だ。彼もまた、同じ鎖に絡め取られている。彼の瞳が、私の不安を映す鏡のように揺れている。


 どうにもならない運命の綱に絡め取られていて、出口がないとわかっていながら、それでも王家を放り出すことなんて許されない。噂という小さなほつれから始まったものが、ゆっくりと――だけど確実に――私たちを締めつけ、やがて国中を巻き込んでいく。

 その暗い予感だけが、寝所の静寂をじわじわと浸食してくる。


 そんな未来を想像してしまい、私は思わず息をつめてしまった。結局、何も答えが出せないまま、重い静寂だけがこの空間を支配しているのだから。


「いっそ俺が男として不能だと告白すれば、まだ言い訳が立つのかもしれないが……」


 言葉の端が夜気に触れて、灯がわずかに揺れた。


「やめて。それはだめよ。そんな話が広まったら、せっかくあなたが築き上げた立場に影響が出るでしょう? 変な陰口叩かれたり、蔑むような視線を向けられたりしたら嫌じゃない?」


「そんなの、別に俺は気にしないさ」


「やめてよ……そんなの私だって辛くなるじゃない」


 私は思わず声を荒げそうになるのをこらえ、枕元の小さな魔導ランプへ視線を落とす。柔らかな灯が揺れ、壁へ私たちの影を映し出した。

 隣り合って腰掛ける姿だけ見れば、誰が見ても“仲睦まじい若夫婦”に映るかもしれない。だけど、その実態はまるで違う。


「……どうにもならないなら、侍女たちには“ご内密に”とだけ頼んでおくしかないか。たとえば『今は国家再建が急務だ。世継ぎどころではない』とか。宰相や重臣どもに余計な憶測を呼ばないためにも、それがいいんじゃないか?」


「それでも所詮、時間の問題よ」


 ヴィルが私の肩にそっと手を置く。その温もりが、胸の奥の冷えを少し溶かすようだった。


「すまん。こんな時、俺にはどうすることもできなくて……。」


「ううん、私だって今の状況じゃ、あなたに余計な負担を強いるだけ。そんなの嫌だし……」


 せめて恋人同士として相手を想い合い、互いが心から求め合っているなら、こんな苦しみは感じないのかもしれない。だけど、私はヴィルをどう思っているのか、自分でもはっきりとしない。

 彼に対して、深い安心感や憧れはある。いつの日か……そんなときが来れば、なんてことも考えていた。でも、いきなり“男女の愛”にまで踏み込めるかと問われれば、答えは見つからないまま浮遊している。


 私の意識は、前世の二十一歳と、十二歳の純真無垢な今世が折り重なっている。それを無視したまま、急に成長したメービスの身体になり、“夫婦”という関係になれと言われても、怖くてとても踏み出せないのだ。


 ヴィルだって、本来四十四歳の男性の精神を持つのに、二十代の若い別人の肉体で生きている。きっと複雑な思いをしているはずだ。


 それに、彼にとって私は……親友ユベル・グロンダイルが遺した娘でしかない。その前提は変わることはない。たとえ表面上は同年代に見えたとしても、私たちの中身はかつてあった年齢差と時間の隔たりを拭えない。


――彼は私の前世など知らない。


 たとえ十八歳のメービスの体になっても、彼からしたら私は十二歳の子どものまま。外見が変わったところで、何も変わらない。そうに決まっている。


 なのに周囲は「年頃の夫婦なのだから、おかしくないでしょう?」と、勝手に思う。そこに齟齬が生じるのは当然の結果だ。


 幸せになるためには、私を取り巻く運命と、メービスが望んでいたであろう未来、そのすべてを知ったうえで選択する必要があるのかもしれない。けれど、ただ義務感に押し流されて子を作るなど、とても受け入れられない。


 もし私が本当にメービスとして子を産むなら、この身は王家に囚われ、もう二度と自由にはなれないかもしれない。

 こんな私の手で、彼女の未来を勝手に決めていいわけがない。彼女のために、私はいったいどこまで背負うべきなのか……。言葉にすればするほど、肋骨の内側で息が浅くなる。胸郭の縁が、内側からわずかに軋んだ。


 薄い寝具越しに、見えない鎖の冷えが足首へ絡むようだった。

 隣に座るヴィルは、しばらく言葉を発さなかった。けれど、かすかに肩が揺れた気がした。背筋をわずかに伸ばし、両手を膝の上で組み直す仕草。深く息を吐く音が、夜気のなかで微かに混じる。


 目の端でそっと確かめると、彼の瞳は伏せられたまま。膝の上で組まれた指が、静脈の線まで浮かせて力を逃がす。光の揺れがまつ毛の影を長く落とし、頬の輪郭を少し硬く見せている。


 何かを、飲み込んでいる。この沈黙の裏にあるものが、私には読めなかった。ただ、膝の上で握られた彼の手の甲が、わずかに白んでいた。指先に力が入っている――そんな些細なところでしか、彼の心の波を感じとることはできなかった。


 十二歳の身体で鼓動の速さが合わなかった夜を思い出す。あのズレが、いまも胸骨の裏に薄い痛みとして残っている。一歩踏み出すごとに、深い迷いが私の足元をすくいそうになる。


 そうしてわずかな距離で並んで座るヴィルの存在は、頼もしくもあり、また違う意味で私を揺さぶってくる。

 いつだって傍にいてくれて、私を守ってくれる、とても大切な人。けれど、いまの私たちは夫婦として永遠を誓い合うには、あまりに“想い”という根本が欠けている気がするのだ。


 義務も建前も、“王配”と“女王”という立場も、ぜんぶまやかし。もしそこに“本当の愛”が生まれることがあるのなら、それは奇跡のような幸運かもしれない。だけど、それを無理やりに育むことなんてできない。


 だから、今夜も同じ寝室で、私はベッドの片隅に身を置き、ヴィルは少し離れた場所へ腰を下ろす。


 はた目には、まるですれ違う夫婦のように見えるだろう。あるいは、そこにあたたかい愛情があると勝手に想像されるかもしれない。でも、私たちの実情は、“偽装夫婦”という苦い枷を外せないでいるだけだ。


 それでも、隣にヴィルがいることはやけに落ち着く。何もかもが歪んだままだけど、彼となら私はこわばった気持ちをほんの少しだけ下ろすことができる。


 背を向けて横になる前に、彼の横顔がちらりと見えた。そこには、同じように言葉にならない想いを抱えた苦渋が宿っているような気がした。


 せめて今だけは、静かに眠りたい。先王の願いに応えられない申し訳なさと、侍女たちの不審の目から逃れたいという弱さを抱えて、私はそっと瞼を閉じる。


 いつかほんの少しでも、私たちが同じ方向を向き、心から微笑み合える日が来るのだろうか――そんな一抹の希望と不安を、胸の奥でかすかな灯にして。


 そうして訪れる夜は、あまりにも長く、そして切ない。けれど私は、いつかこの苦しみも通り過ぎると信じたくて、隣で静かに息づくヴィルの存在を感じながら、眠りに落ちていく。


 魔導ランプの低い唸りが遠のき、芯だけがかすかに震える。硝子が短く鳴った。

 壁に映る二つの影が重なっては離れ、やがて同じ速さでゆっくりと薄れた。



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