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受け継がれし剣とふたりの旅路

 城内の訓練場は、ちょうど今日の稽古を終えた兵士たちが次々に引き上げるところだった。

 金属音が遠のき、鉄と油の匂いが薄く残る。重い武器を抱えた足音が砂をさっと鳴らし、広い敷地を横切っていく。片づけられた木人の焦げ跡には、昼の熱がわずかに残っていた。


 ふと視線を上げると、空の端をかすめる雲が夕陽を浴びてうっすら紅に染まる。日中の熱がさめきらぬままに、夜のとばりが近づく移ろい。肩の力が一枚剝がれ、胸の前の空気がひんやりしていく。


 私はその光景を横目に捉え、足を止めた。すぐ近くに立つ“王配”――ヴォルフの気配を確かめるようにちらりと見ると、彼もまた視線を遠くへ投げている。

 城内の訓練場は、ちょうど今日の稽古を終えた兵士たちが次々に引き上げるところだった。

 金属音が遠のき、鉄と油の匂いが薄く残る。重い武器を抱えた足音が砂をさっと鳴らし、広い敷地を横切っていく。片づけられた木人の焦げ跡には、昼の熱がわずかに残っていた。


 ふと視線を上げると、空の端をかすめる雲が夕陽を浴びてうっすら紅に染まる。日中の熱がさめきらぬままに、夜のとばりが近づく移ろい。肩の力が一枚剝がれ、胸の前の空気がひんやりしていく。


 私はその光景を横目に捉え、足を止めた。すぐ近くに立つ“王配”――ヴォルフの気配を確かめるようにちらりと見ると、彼もまた視線を遠くへ投げている。


 二十代に見える若々しい姿の本質は、“ヴォルフ”とは異なる“ヴィル”。かつては四十代の男性で、いまは過去のヴォルフに憑依し、“王配”としての地位を担っている――複雑で不思議な運命を抱えた人。


 柄木の艶が夕陽を返し、掌の古いマメの記憶がうずく。そんな彼の横顔を見ているうち、先ほど目にした“ある場面”が頭をよぎった。


「ねえ、ヴィル。さっきステファンと剣を交えていたとき……あなた、わたしの父さまの剣技を真似ていたように見えたんだけど。どうして?」


 私は声をかけ、隣の彼を見やる。夕陽がその頬の輪郭をうっすら際立たせ、微妙な陰影を作っていた。ヴィルは少し気まずそうに目をそらし、言い淀むように唇を開く。


「……いや、すまん。気を悪くしたか?」


 その言葉がどこか申し訳なさそうで、私は慌てて首を振る。嫌どころか、むしろ嬉しい。父――ユベル・グロンダイルの剣技は、もうこの世界にはないと思っていたから。


「そんなことないわ。ただ、わざわざ父さまの技を持ち出した理由が知りたかったの」


 素直にそう答えると、ヴィルは観念したように軽く息をつき、しっかりとした声音で口を開いた。


「俺の剣は、どうにも荒っぽいんだ。邪道って言われても仕方ないくらい品の欠片もない。だがステファンの剣筋は正統派そのもので、真正面からぶつかれば“俺がヴォルフじゃない”って露呈しかねないと思ってな。

 そこで、咄嗟に“お前の親父”――ユベルの剣を思い出して使ってみた。ま、所詮は上っ面の真似事にすぎないが……まったくあれは、見てて惚れ惚れするくらいだったからな」


 その声に、一瞬の憧憬がにじむ。父の名を聞いて、みぞおちに温い灯がともり、指先のこわばりがほどけた。


「……惚れるって、それは父さまの剣筋? それとも?」


 自分でも少しわざとらしいと思いながら、ちょっとだけ悪戯心が顔を覗かせる。

 もちろん、本気で尋ねたわけではなく、ほんの軽い冗談ジャブにすぎない。


 ヴィルはあっけらかんと肩をすくめた。


「何か言いたいんだお前は? 剣を志す男なら剣に決まってるだろが」


「そりゃそうだね。私も父さまの剣が大好きだった。ほんとにきれいで、だから憧れた」


「そうだろう。ユベルの太刀筋には、“芯のある優雅さ”があった。流れるように優雅で……俺はそこに魅了されたんだ」


 その率直さに、胸の内側で安堵が広がる。父はもういないけれど、こうして“美しい”と讃える人がいる。それが誇らしい。


「そう……たしかに、あの舞うような剣筋は見る者を引き込む力があるわよね。騎士団の人たちも納得してくれたみたいだし」


 私が微笑むと、ヴィルは少し照れたように苦笑し、まっすぐ私を見る。その瞳には、かつての“おとなの余裕”よりも、今の若い肉体に似合う率直さがのぞく。


「同感だ。もっとも、おまえが目指す“剣舞”だって負けちゃいない。ユベルの剣技と精霊魔術を融合させようっていうんだ。変幻自在の機動に、軌道の読みを外す瞬間的な加減速。あれには俺も大いに期待してるぞ」


 言葉に頬がほんのり温かくなる。無謀な挑戦が上手くいくかは定かでない。でも、期待されると、不思議と前へ進みたくなる。


「そうはいっても、まだまだ手探りだし、いつ完成するかどうかも分からないわ。でも、そう言ってくれるとうれしいかも。

 あなたも、模倣っていうけどなかなか様になっていたし、すごくかっこよかったわよ」


 そう呟く声は、いつもより少し柔らかかったのかもしれない。父の思い出を語れる相手がいる――それだけで救われる。


 ヴィルは一瞬、戸惑ったように視線を外すと、そっと袖口を指でつまむ。まだ言葉にならない照れが、頬のあたりに淡くにじんでいる。


「娘のお前にそう言われると照れるが……光栄だ。

 あいつは繊細で、だからこそ美しい剣を振るえたんだろう。まったく手こずらされたけどな。思い出すと、また稽古したくなってくる」


「ふふ、さんざんこてんぱんにのされたのを思い出して?」


「おまえな……少しは言い方ってものがあるだろうが」


 顔を見合わせ、喉のひっかかりがとれて息が長く抜ける。兵の足音は夕焼けに溶けるように遠ざかり、訓練場の鋭さがやわらいでいった。


 こんな何気ない会話が、とても大事だ。女王としての責務に追われる私と、王配として軍務に携わるヴィル。こうして短い時間を共有するだけで、張り詰めた心がほどけていく。


「そういえば、こっちに来てからあなた、ずいぶん元気よね。身体が若いと、そんなに違うものかしら?」


 何気なく投げると、ヴィルはどこか誇らしげに胸を張る。


「まあな。四十過ぎの身体より、ずっと動きやすいのは間違いない。関節も柔らかいし、疲労の回復だって格段に早い。……もっとも、俺は癖が強いから、ときどき変なズレを感じるが」


「それ、わかる。わたしだって、いきなり大人の身体に変わってしまって、正直とまどうことばかりよ」


 自嘲めいて言うと、ヴィルがふっと息をつき、優しい面差しを見せる。膝の可動が軽すぎて、歩幅のリズムがときどきずれる――そんな“若さの違和感”が自分にもある。


「そうか?  俺の場合はまったくの別人の身体だから、厄介な気もするが……。お前は“元から成長”したそのままの、自然な見た目だし。――それに……」


 そこで言葉を切り、困ったように目を伏せる。私は首をかしげて促すが、彼はわざとらしい咳払いではぐらかした。


「それに……?」


「な、なんでもない」


「何よそれ。はっきりしないなんて、あなたらしくないわよ」


 少し意地悪く言うと、彼はさらに視線をそらす。夕闇が迫り、風がそよぐだけの静けさ。石壁と木々がやわらかな色に染まり、影が長く伸びていく。


 空気を破るまいとするように、ヴィルが小さな声で言った。


「ま、ぼちぼちやっていこう。あんまり悩んでも仕方ない。急いで頭を抱えても変わらないことが多いだろう?」


「……そうね。わかってる」


 目を重ね、歩を進める。遠く王都のほうに灯りがともり始めた。女王メービスと王配ヴォルフ――実際は“ミツル”と“ヴィル”という偽装の関係のまま、多忙な日々へ戻っていく。


 それでも、今日は父の剣技の話を彼から聞けた。それがやけに嬉しくて、胸の辺りに温かさがじんわりと残った。


◇◇◇


 それからの日々、私は国土再興の要として、王都港湾や街区の整備に奔走した。蝋と墨の匂いのなか、羊皮紙の縁が指腹にざらりと残る。開いた港湾図の蝋印に指を添え、護岸の継ぎ目へ朱を打つ位置を確かめる。


 魔族大戦後の疲弊を抜けるには、まず海洋交易の拡大が必要だ。荒廃した農地が回復するまで時間がかかる以上、国外からの穀物や物資の輸入が不可欠。

 未来で見た王都の繁栄――大港と外洋交易、魔石資源を活かした富――をモデルにすれば、この時代にも活路はあるはずだ。そこへ侍従が書簡を携えてきた。


「女王陛下、新たにまとめました港湾設備の修繕費用についての報告書です。前回よりも費用が増加しておりますが、護岸と桟橋の拡張が必要なため……」


「ええ。まあ想定の範囲だし、それで通しましょう。とにかく今は備蓄した魔石を輸出して食糧の緊急輸入が最優先。まずは港湾機能を拡張し、大型船の出入りを増やすのが急務なの。交易こそ我が国の生命線よ」


 書簡をめくる。こめかみに拍が集まり、ペン先が紙を小刻みに掠めた。

 国内の有力貴族や重臣の中には「伝統的農業を最優先に」と反対もあるが、現状の厳しさと未来像は揺らがない。説得を続けるしかない。


 一方で、ヴィル――表向きは“ヴォルフ殿下”――は銀翼騎士団を編成し、新しい軍制改革に取り掛かった。

 大規模から高機動へ、編成を見直し、魔獣討伐と治安維持を強化。最初は半信半疑でも、成果が出ると認める声が増えていく。


 とくに、彼は“かつてのヴォルフ”を尊敬するステファンを直属の武官として召し抱えた。

 周囲からは、あれほど衝突していた者を取り立てるとは、と驚かれたが、ステファンは「殿下の行いに少しでも倣いたい」と熱心だ。彼は“中身がヴィル”だなど夢にも思わない。騙しているようで胸が痛む一方、国のために力を合わせる必要もある。


 互いの分野で全力を尽くし、私たちは少しずつ重臣たちの信頼を勝ち得ていった。眠りが深く、朝の足取りが半歩軽い日が増えるほどに、国が良い方向へ動き出しているのを肌で感じる。


 もっとも、その忙しさの陰で、ひとつ大きな不安があった。


 先王が病に伏せ、長くはないと噂されている。胃の底が冷え、脈がひと拍だけ速くなる。

 彼が私たちに何を望むのかは直感でわかる。だがその“愛ゆえの願い”が、いずれ私たちを苦しめるかもしれないと、静かな寒気が胸に落ちた。


 二十代に見える若々しい姿の本質は、“ヴォルフ”とは異なる“ヴィル”。かつては四十代の男性で、いまは過去のヴォルフに憑依し、“王配”としての地位を担っている――複雑で不思議な運命を抱えた人。


 柄木の艶が夕陽を返し、掌の古いマメの記憶がうずく。そんな彼の横顔を見ているうち、先ほど目にした“ある場面”が頭をよぎった。


「ねえ、ヴィル。さっきステファンと剣を交えていたとき……あなた、わたしの父さまの剣技を真似ていたように見えたんだけど。どうして?」


 私は声をかけ、隣の彼を見やる。夕陽がその頬の輪郭をうっすら際立たせ、微妙な陰影を作っていた。ヴィルは少し気まずそうに目をそらし、言い淀むように唇を開く。


「……いや、すまん。気を悪くしたか?」


 その言葉がどこか申し訳なさそうで、私は慌てて首を振る。嫌どころか、むしろ嬉しい。父――ユベル・グロンダイルの剣技は、もうこの世界にはないと思っていたから。


「そんなことないわ。ただ、わざわざ父さまの技を持ち出した理由が知りたかったの」


 素直にそう答えると、ヴィルは観念したように軽く息をつき、しっかりとした声音で口を開いた。


「俺の剣は、どうにも荒っぽいんだ。邪道って言われても仕方ないくらい品の欠片もない。だがステファンの剣筋は正統派そのもので、真正面からぶつかれば“俺がヴォルフじゃない”って露呈しかねないと思ってな。

 そこで、咄嗟に“お前の親父”――ユベルの剣を思い出して使ってみた。ま、所詮は上っ面の真似事にすぎないが……まったくあれは、見てて惚れ惚れするくらいだったからな」


 その声に、一瞬の憧憬がにじむ。父の名を聞いて、みぞおちに温い灯がともり、指先のこわばりがほどけた。


「……惚れるって、それは父さまの剣筋? それとも?」


 自分でも少しわざとらしいと思いながら、ちょっとだけ悪戯心が顔を覗かせる。もちろん、本気で尋ねたわけではない。ほんの軽い冗談のつもりだった。


 ヴィルはあっけらかんと肩をすくめた。


「何か言いたいんだお前は? 剣を志す男なら剣に決まってるだろが」


「そりゃそうだね。私も父さまの剣が大好きだった。ほんとにきれいで、だから憧れた」


「そうだろう。ユベルの太刀筋には、“芯のある優雅さ”があった。流れるように優雅で……俺はそこに魅了されたんだ」


 その率直さに、胸の内側で安堵が広がる。父はもういないけれど、こうして“美しい”と讃える人がいる。それが誇らしい。


「そう……たしかに、あの舞うような剣筋は見る者を引き込む力があるわよね。騎士団の人たちも納得してくれたみたいだし」


 私が微笑むと、ヴィルは少し照れたように苦笑し、まっすぐ私を見る。その瞳には、かつての“おとなの余裕”よりも、今の若い肉体に似合う率直さがのぞく。


「同感だ。もっとも、おまえが目指す“剣舞”だって負けちゃいない。ユベルの剣技と精霊魔術を融合させようっていうんだ。変幻自在の機動に、軌道の読みを外す瞬間的な加減速。あれには俺も大いに期待してるぞ」


 言葉に頬がほんのり温かくなる。無謀な挑戦が上手くいくかは定かでない。でも、期待されると、不思議と前へ進みたくなる。


「そうはいっても、まだまだ手探りだし、いつ完成するかどうかも分からないわ。でも、そう言ってくれるとうれしいかも。

 あなたも、模倣っていうけどなかなか様になっていたし、すごくかっこよかったわよ」


 そう呟く声は、いつもより少し柔らかかったのかもしれない。父の思い出を語れる相手がいる――それだけで救われる。


 ヴィルは一瞬、戸惑ったように視線を外すと、そっと袖口を指でつまむ。まだ言葉にならない照れが、頬のあたりに淡くにじんでいる。


「娘のお前にそう言われると照れるが……光栄だ。

 あいつは繊細で、だからこそ美しい剣を振るえたんだろう。まったく手こずらされたけどな。思い出すと、また稽古したくなってくる」


「ふふ、さんざんこてんぱんにのされたのを思い出して?」


「おまえな……少しは言い方ってものがあるだろうが」


 顔を見合わせ、喉のひっかかりがとれて息が長く抜ける。兵の足音は夕焼けに溶けるように遠ざかり、訓練場の鋭さがやわらいでいった。


 こんな何気ない会話が、とても大事だ。女王としての責務に追われる私と、王配として軍務に携わるヴィル。こうして短い時間を共有するだけで、張り詰めた心がほどけていく。


「そういえば、こっちに来てからあなた、ずいぶん元気よね。身体が若いと、そんなに違うものかしら?」


 何気なく投げると、ヴィルはどこか誇らしげに胸を張る。


「まあな。四十過ぎの身体より、ずっと動きやすいのは間違いない。関節も柔らかいし、疲労の回復だって格段に早い。……もっとも、俺は癖が強いから、ときどき変なズレを感じるが」


「それ、わかる。わたしだって、いきなり大人の身体に変わってしまって、正直とまどうことばかりよ」


 自嘲めいて言うと、ヴィルがふっと息をつき、優しい面差しを見せる。膝の可動が軽すぎて、歩幅のリズムがときどきずれる――そんな“若さの違和感”が自分にもある。


「そうか?  俺の場合はまったくの別人の身体だから、厄介な気もするが……。お前は“元から成長”したそのままの、自然な見た目だし。――それに……」


 そこで言葉を切り、困ったように目を伏せる。私は首をかしげて促すが、彼はわざとらしい咳払いではぐらかした。


「それに……?」


「な、なんでもない」


「何よそれ。はっきりしないなんて、あなたらしくないわよ」


 少し意地悪く言うと、彼はさらに視線をそらす。夕闇が迫り、風がそよぐだけの静けさ。石壁と木々がやわらかな色に染まり、影が長く伸びていく。


 空気を破るまいとするように、ヴィルが小さな声で言った。


「ま、ぼちぼちやっていこう。あんまり悩んでも仕方ない。急いで頭を抱えても変わらないことが多いだろう?」


「……そうね。わかってる」


 目を重ね、歩を進める。遠く王都のほうに灯りがともり始めた。女王メービスと王配ヴォルフ――実際は“ミツル”と“ヴィル”という偽装の関係のまま、多忙な日々へ戻っていく。


 それでも、今日は父の剣技の話を彼から聞けた。それがやけに嬉しくて、胸の辺りに温かさがじんわりと残った。


◇◇◇


 それからの日々、私は国土再興の要として、王都港湾や街区の整備に奔走した。蝋と墨の匂いのなか、羊皮紙の縁が指腹にざらりと残る。開いた港湾図の蝋印に指を添え、護岸の継ぎ目へ朱を打つ位置を確かめる。


 魔族大戦後の疲弊を抜けるには、まず海洋交易の拡大が必要だ。荒廃した農地が回復するまで時間がかかる以上、国外からの穀物や物資の輸入が不可欠。

 未来で見た王都の繁栄――大港と外洋交易、魔石資源を活かした富――をモデルにすれば、この時代にも活路はあるはずだ。そこへ侍従が書簡を携えてきた。


「女王陛下、新たにまとめました港湾設備の修繕費用についての報告書です。前回よりも費用が増加しておりますが、護岸と桟橋の拡張が必要なため……」


「ええ。まあ想定の範囲だし、それで通しましょう。とにかく今は備蓄した魔石を輸出して食糧の緊急輸入が最優先。まずは港湾機能を拡張し、大型船の出入りを増やすのが急務なの。交易こそ我が国の生命線よ」


 書簡をめくる。こめかみに拍が集まり、ペン先が紙を小刻みに掠めた。

 国内の有力貴族や重臣の中には「伝統的農業を最優先に」と反対もあるが、現状の厳しさと未来像は揺らがない。説得を続けるしかない。


 一方で、ヴィル――表向きは“ヴォルフ殿下”――は銀翼騎士団を編成し、新しい軍制改革に取り掛かった。

 大規模から高機動へ、編成を見直し、魔獣討伐と治安維持を強化。最初は半信半疑でも、成果が出ると認める声が増えていく。


 とくに、彼は“かつてのヴォルフ”を尊敬するステファンを直属の武官として召し抱えた。

 周囲からは、あれほど衝突していた者を取り立てるとは、と驚かれたが、ステファンは「殿下の行いに少しでも倣いたい」と熱心だ。彼は“中身がヴィル”だなど夢にも思わない。騙しているようで胸が痛む一方、国のために力を合わせる必要もある。


 互いの分野で全力を尽くし、私たちは少しずつ重臣たちの信頼を勝ち得ていった。眠りが深く、朝の足取りが半歩軽い日が増えるほどに、国が良い方向へ動き出しているのを肌で感じる。


 もっとも、その忙しさの陰で、ひとつ大きな不安があった。


 先王が病に伏せ、長くはないと噂されている。胃の底が冷え、脈がひと拍だけ速くなる。

 彼が私たちに何を望むのかは直感でわかる。だがその“愛ゆえの願い”が、いずれ私たちを苦しめるかもしれないと、静かな寒気が胸に落ちた。


本話では、訓練場で交わされた剣と剣の記憶、そして“現在”を生きるふたりの対話が描かれました。


ヴィル(中身は未来から来たヴィル・ブルフォード)が披露した“ユベルの剣技”は、実はミツルの父への敬意と、“ヴォルフとしての身分を守るための擬態”の合わせ技。けれど、その動機に滲んでいたのは――やっぱり「あなたが笑わないのが辛いから」という、あまりにも個人的でラブラドール全開な理由でした(笑)。


剣士として、王配として、何より一番近くにいる存在として、彼はただ“彼女がまた笑える日”のために今日も隣にいます。


また、王国再建の描写では、女王ミツルによる港湾政策と、王配ヴィルによる騎士団改革という、まったく違うアプローチが「結果的に連携」して国を動かし始めます。ふたりが言葉にせずとも“夫婦のように”協力してしまう構図が、静かに胸を打つパートでもありました。


そして最後に提示される“先王の病”と「愛ゆえの願い」の予感。

未来を知るがゆえに、嘘を抱えながらも国を支えるふたりが、次に何を選ぶのか――。


“過去の父と、現在の彼と、未来の私”

剣と想いが交差した本話は、ふたりがもう一度「並び立つ」ための、優しい再出発でした。

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