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繰り返せない選択の果てに

 そして、私はもう一方で別の可能性について思考を巡らせていた。


――並行世界パラレル・ワールドの概念。


 それは「物語の仕掛け」として知っている程度にすぎなかった。


 ミツルとしてこの世界に生まれ変わる前、私は柚羽美鶴という名で、世間から切り離された山奥に暮らしていた。


 幼いころから読書ばかりしていたのは、家がひどい僻地にあり、娯楽に手が届かなかったからだ。母とお手伝いの佐藤さんが教えてくれる勉強だけが、私にとっての「学校」。そこは深淵の血族の生まれた地――“始まりの回廊”を守護することが、柚羽家に課せられた使命でもあった。


 けれど並行世界は、所詮は紙の上の空想だった。たとえば「もし別の選択をしていたら」という筋書きは、ページをめくって楽しむための道具にすぎない――はずだった。ところが今の私は、その只中に立っている。自分のことなのに、まだ信じ切れない。


 考えを深めるほど、目の前の状況そのものが分岐を生み出す原因だと、胸骨の奥で冷たく固まっていく。


 私の白きマウザーグレイルと、ヴィルが持つ王家所蔵の名も知れぬ聖剣。二本が共鳴し、精霊子が暴走し、私の意識と記憶だけが“メービス”へ上書きされた――その瞬間、歴史にない「ミツル」という異物が紛れ込んだ。


 その時点で、この世界は本来の流れから外れてしまったのかもしれない。


 彼女の記憶を持たない私が一歩動けば、行き先は変わる。選択は命運を左右し、結末を別物にしてしまう。しかも――元の未来を“欠いたまま”進ませてしまう現実でもあると気づいたとき、背筋が氷のように痺れた。


 私が過去へ遡った瞬間、あの未来も止まらない。けれどそこには、もう“私”の不在が空洞になって残り、茉凛も皆も、欠けたまま別の時間を生きているかもしれない。


 分岐は広がる。もし帰れたとしても、そこは「知っていた日常」ではない。“私”の抜けた場所を埋めようとして歩き続けた、別系統の世界だ。

 昔の私なら「並行世界に飛ぶなんてロマンチック」と胸を躍らせただろう。だが、いざ“もしも”を背負う側になると、肺が浅くなる。


 息が、耳元で細く擦れる音を立てる。窓の向こうの風が、かすかにガラスを震わせるのを、ただ聞くしかなかった。


――見てしまったものは、なかったことにできない。


 この時代には、重い因習が根を張り、厄災のたび黒髪の巫女が犠牲になる。血筋や伝承を理由に人生を奪う理不尽を、「歴史の必然」として飲み込むことは――もう、できない。


 しかも今の私は「女王」。変えうる立場であり、変えない理由も問われ続ける立場でもある。

 従来の歴史をなぞり、“本来のメービス”の到達点で足を止める――それはもうできない。私が拒めば、次の巫女たちが同じ痛みを負い続ける。


 半ば強引に「どちらを選ぶ?」と迫られている感覚。変えれば変えるほど、この世界の結末は別の色を帯び、同時に元の未来は“私の不在”を抱えたまま別座標で進む。こちらで一歩進むたび、“同じ場所”には戻れないという冷たさが、皮膚の裏で薄く広がる――かすかな湿気が、汗のようにまとわりつくのを、感じながら。


 救いようがない話に見えるだろうか。それでも、止まれない。


 窓枠の金具に指先が触れる。ひやりとした金属の温度が、爪の白さを際立たせる。胸の奥で脈が跳ね、浅い呼吸の音だけが耳の内側で膨らむ。


 目の前で涙を流す人を見過ごす想像に、喉が強張る。いったん見てしまえば、もう知らなかった頃へは戻れない。たとえ「元いた世界と自分」を手放すことになっても、この世界で為すべきを諦められない。


 開き直りに聞こえても構わない。私は望む形で、この世界を変える――冒険ではなく、覚悟として。


 もし茉凛や元の世界の友人たちが知れば、「また妄想が暴走してる」と笑うだろう。けれど、もう余裕はない。中途半端では立っていられない。


 だから、私は覚悟を固めようとした。「もう戻れない」という恐怖を、きちんと正面から認めようと。認めることは殻を割ること。どこかで、決めなくてはならなかった。


 その結果、私はいっそう無防備になった。ヴィルの想いを受け止める余白がなく、「もう無理だよ」と不器用に言い切ってしまった。彼の胸をどれほど刺すか、知りながら。


 頭では理解しているのに、心が追いつかない。私は自分に手一杯で、恐怖の糸に絡め取られていた。


 彼の気持ちを受け止められず、喉までこみ上げた「どうしてわかってくれないの?」を必死に飲み込む。実のところ、わかっていないのは私自身なのに。情けなさだけが、足どりを重くする。


 どれだけ泣いても、この立場からは逃げられない。女王として明日も会議がある。“黒髪の巫女”の因習を断ち切りたいなら、まず国を治める責務から逃げられない。メービスの姿でここにいる以上、避けられない道だ。


 「元の私」を残すなら改革は抑えるべきだと知りつつ、苦しむ人を解き放ちたい気持ちが膨らむほど、“元の未来”との距離は確かに広がる。あの世界は私の不在を抱えたまま流れ、こちらで踏み出す一歩ごとに、同じ場所から遠ざかる予感が静かに積もる。


 なんて皮肉。わかっていてもやめられない。そのこと自体が怖く、ヴィルへの想いまで揺らぎ、胸は何度も軋んだ。


 どこから間違えたのか。どうやり直せばいいのか。もし並行世界がいくつもあるなら、もっと楽な道を選ぶ「私」もいるのだろうか。

 けれど今ここにいる私は、この道を選んだ。泣き言で何も変わらないと知りながら、行き場のない不安が全身を締めつける。窓枠の冷たさだけが、私の立っている場所を指先で示す。


――……私、どうしたらいいんだろう。悲劇のヒロインなんて気取るつもりはないのに。


 物語の悪意に絡め取られているようで、ときどき絶望的になる。


 それでも、王家やこの国の人々の未来を少しでも明るい方へ変えられる可能性があるなら、踏みとどまりたい。たとえ先で、私自身が消える運命を引き受けることになっても。


 ヴィルの姿が浮かぶ。


 何度も手を伸ばしてくれたのに、私は焦りに囚われ、その手を振りほどいた。素直に甘えられたら、どれほど救われただろう。けれど、怖い。大きな分岐が起き、彼と決定的にすれ違う未来まで想像してしまう。


 そして、また同じ問いへ戻る。


――歴史を変えようなんて考えなければよかった?


 ……でも、もう遅い。読書家だった私はヒロインを他人事として応援できたが、今は自分が中心に立っている。


 自問自答を繰り返す自分に腹が立つ。無責任に逃げ出したいのに、それすらできない。


――ほんとうに、ばかみたい。


 ヴィルの気持ちを置き去りにして、どこまでいけば満足するのだろう。独白を重ねても状況は変わらないのに、心の奥の絶望は呼吸のたび滲み出て止まらない。


 それでも――多分私は、この道を行くと決めたのだ。足元が崩れるとしても、立ち止まるほうが怖い。


 今の私には守りたい人がいる。彼らが私の失敗を呪わずに済む未来を作りたい。それが、私に残されたわずかな希望だ。


 本当は、ただ「帰りたい」だけなのに。もう戻れない道を選んだ以上、後戻りは許されない。泣き叫びたくなっても、前に進むしかない。


 私はきっとこの世界を大きく変えてしまう。そして、その強さに比例して、「元の私」を壊していくのだろう。


 覚悟の足りなさは、もう認める。誰かが救われるなら、弱いままでも歩く。嘲笑はむしろ都合がいい。立ち止まる理由は多すぎて、どれも捨てられない。


 明日もまた、女王としての仕事は山積みだ。


 分岐の先で私は何を見つけ、どんな犠牲を抱えるのだろう。それでも「知ってしまったからには変えたい」――この想いだけは揺るがない。たとえ、それが私の望んだ未来を壊すとしても。


――はあ、本当にどうしたらいいのだろう。私は賢くない。大それた覚悟もない。もう誰かに丸投げしたい。


 それでも、私はきっと立ち上がる。空想ではない物語の中に身を置いてしまった私は、もうひとりの自分に笑われるくらい愚かでいい。そうでも思わなければ動けない。いっそ限界まで未来をかき乱して、駄目なら笑えばいい――そう言い聞かせた。


――だめ、本当にわけがわからなくなってきた。でもこれが、今の正直な気持ち。


 この“並行世界”という歪みのなかで、私の心はもうぐちゃぐちゃだ。


 たとえば茉凛が、「それも選択肢のひとつだよ」と優しく諭してくれたら、どれほど救われるだろう。けれど世界は甘くない。私は私の意志で、この道を踏みしめるしかない。


◇◇◇


 夕刻。宵闇には早い淡い光のなか、私は王宮の広い廊下をひとり歩く。


 高い天井を支える柱が規則正しく並び、白い石畳が足音を薄く返す。反響がしずむたび、抱えた孤独が少しずつ大きくなる。胸の内側に冷えが降りていく。


 足を止める。


 大きな窓ガラスの向こうに黄昏。雲が夕色を吸い、街に柔らかな光が落ちる――けれどその端に、かすかな灰色の靄が混じるように、雲の縁が一瞬、淡い赤みを帯びて消える。


 いつ見ても儚く美しいはずの景色なのに、今はどこか冷たい。


 あのとき、素直に泣けていたらよかったのかもしれない。ヴィルの腕の中で、不安や恐怖を吐き出せていれば――でも“女王”という立場が喉を締める。泣きわめく女王の噂が広まれば、国は容易に揺らぐ。


「……ヴィル。あなたは今、“どこに”いるの?」


 胸の奥で何度も呼びかけるのに、彼は義務に追われ続ける。強く結ばれていたはずの心はすれ違い、自分の不器用さが嫌になる。


 窓ガラスに映るのは、若緑のウィッグをきちんと整えた“女王様”。同時に、今にも泣き出しそうな顔を噛み殺す一人の人間でもある。“メービス”の運命から逃げられない私と、自由に旅を望む“ミツル”が、ぎくしゃくと同居している。


「……それでも、頑張らなくちゃならないんだよね」


 小さな呟きは静寂に吸い込まれ、戻らない。ねじれた未来と現在を同時に抱えながら、私はこの国を導かなくてはならない。


 ヴィルの気持ちを思えば帰還の道も探りたい。けれど“メービス”として果たすべき務めも重い。どちらも捨てられず、両立できるかもわからないまま、もがき続ける。


 吐息が白くほどける。錬石の壁に取りつけられた魔導ランプが、オレンジの灯を点し始めた。昼と夜の狭間――昔は好きだった時間帯が、今は頼りない。


「……ミツル。しっかりしなさい」


 胸の鼓動を抑えるように言い聞かせても、心は従わない。


 こんなとき、茉凛の声があれば。


《《そうやって独りよがりで抱え込むから、つらいんだよ? あなたは考えすぎるせいで我慢できなくなったときが危ないの。――少しは素直になりなさいな》》


 脳裏の声は、空気まで胸に引き入れるほど鮮やかだ。もしそばにいたなら、苦笑しながら叱ってくれただろう。


「茉凛……会いたい。あなたがいれば、もう少し臆病にならずにいられたのに」


 不安を吐き出す術を、私は彼女から教わった。けれど今はいない。扉の前で立ち尽くすだけでは、何も変わらない。


 伸ばした手がわずかに震える。この扉を自分で開くことが、一歩を踏み出す勇気そのもの。稀代の巫女メービスがここで尻込みする姿は、似合わない。あの人は、いつも正面から挑んだ。


「……大丈夫。いまは使命を果たそう。やれるだけのことを、一つずつ」


 言い聞かせ、扉へ手を伸ばす。灯りが揺れる廊下に、夜の気配がじわじわと満ちていく。


 扉の重みを押し返しながら、ゆっくり開く。


 室内にはすでに数名の重臣。私の到着に軽いざわめきが起こる。彼らの目に映るのは、王冠を戴く“女王”だけ。私の迷いは知られない。


 テーブルへ歩を進め、深呼吸ひとつ。紙の縁のざらりとした感触が指に残り、インクの淡い匂いが鼻先をかすめる。肩の力だけが遅れて抜け、代わりに胸の奥がわずかに緩む。


「諸卿、今日はお忙しいなかお集まりいただき感謝いたします。……さっそくですが、皆さまが用意してくださった案件について、詳細なご説明を伺いたいと思います」


 丁寧な口調と所作に、重臣たちは慌ただしく書類を揃える。先ほどの孤独は誰にも映らない。だが、それでいい。王が揺らげば、国が揺らぐ。


 椅子に腰を下ろし、木の背もたれが背中に冷たく寄り添う。整えられた書簡へ視線を落とすと、活字の黒が、余計な感情を静かに塗りつぶしていく――紙束の重みが、膝の上に淡く沈むのを、ただ受け止める。


 会議が始まる。意見が飛び交い、空気が熱を帯びていく。


 かつてメービスが命をかけて護った国。荒れた暮らしを変えるには、地道で着実な行動がいる。たとえ今はお飾りに見えたとしても、書簡を読み合わせ、どうすれば国を豊かにし不安を退けられるかを考え続けるのは、確かに私の務めだ。


――ヴィル。あなた、いまどこで、何をしているの?


 彼もまた重苦しさを抱えながら、“ヴォルフ殿下”として役割を果たしているに違いない。その想像だけで、胸の奥がちくりと痛む。肝心なことを解決できぬまま、時間に流されているのだから。


 窓外が薄紫に染まり、誰かが「そろそろ休憩を……」と申し出るまで、協議は続いた。


 視線を巡らすと、全員が紙束を抱えて充血した目で瞬いている。思わず笑いがこぼれそうになるほど、みな疲れていた。


 それでも喉は乾き、湯気のない空気だけが出入りする。


 私は口元を押さえて苦笑し、席を立つ。痺れた足をさすり、薬草茶が恋しくなる。けれど先に浮かぶのは、やはりヴィルの名だ。


――ヴィル……。


 少しだけ席を離れ、肩を回す。夜まで仕事が延びれば、また顔を合わせる時間が削れる。このままでは、ずっとすれ違いのままかもしれない。そう思うだけで胸が締めつけられる。


 でも、いまはこの場を離れられない。課題は山ほどある。小休止ののち、すぐ人々は戻ってくる。この慌ただしさの隙間を縫って、どうやって本音を交わせばいいのだろう。


 “この場にしがみついて自分を殺す”ことが、もし最短の解だとして――私は本当にそれを選ぶのか。


 国を安定させ、因習を断ち切る契機にはなる。けれどそのとき、元の未来を捨てる決断は、ヴィルをどれほど傷つけるだろう。私は耐えられるのだろうか。


 思考が堂々巡りを始め、目眩のような息苦しさが胸にたまる。瞼を閉じ、長く息を吐く。投げ出したい弱い声を、握った拳で追い払う。


 逃げない。メービスとしての道を投げ出さず、できる限り帰る方法も探す。

 彼の「諦めるな」という言葉を思い出すたび、胸は痛む。同時に、かすかな灯が消えずにいることを知る。


 メービスとしての運命と、ミツルとしての自由――どちらかを選ばされる時が来るのかもしれない。けれど私は、まだ両方を抱えたまま、苦しみながらもがいてみたい。


 遠い旅の夜空の下、私は何を見て、どんな夢を抱いたのか。その記憶に触れるだけで、足元が崩れ切る前に、もう少し踏ん張れる。


 廊下のざわめきが戻ってくる中、遠くの魔導ランプの揺らめきが、ほのかな橙の温もりを投げかけ――かすかな振動を、石畳に伝える。


 私は唇を引き結び、まだ逢えない彼の名を、声にならないまま心で呼んだ――息の余波が、かすかに唇を震わせるのを、抑えながら。


 どうか、一緒に笑い合えたあの日々が、儚い幻で終わりませんように――その願いを抱えたまま、私は再び“女王”の顔を整え、会議室へ戻る準備をした。

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